交遊録: ヴェトナム戦争時 反戦米兵をかくまう

5月9日。
ヴェトナム戦争時、反戦脱走兵を匿った、
ベ平連(ヴェトナムに平和を!市民連合)の取組みを支えた市民の一人、米兵を自宅に匿った小山氏(元日放労)の秘蔵フィルム公開と講演(クレオ大阪西:西九条)に参加した。
48年前、1967年、空母インピレピッド四水兵脱走。
鶴見俊輔氏は、「(匿うことは)平和憲法を持つ国民の権利であり、義務だ」と語り、のべ1000人が自宅提供・転々と場所を変えた移動などに協力したが、密告・口外、ゼロ。

反戦米兵
ヴェトナム戦争には、日本は沖縄米軍基地からの出撃など「関与」があり、全国民的反戦運動が展開されてもいた。
会場で不勉強な若者が言った「冷戦構造下の米ソ代理戦争だ」と。そうではなく、仏領インドシナ~日本の短期占領~戦後仏の再介入~ディエンビエンフーでの仏軍敗北撤退~米介入という、アジアへの欧米(+日本)の侵略に対する「民族解放闘争」であり、それへの共感と支援だった。
今日、秘密保護法・集団的自衛権行使・壊憲の世、この反戦米兵を匿って第三国に脱出させた事件は大きい。その深い意味を噛み締めたい。

小山氏は、後年だが、ワシらの争議(1977~)組合と日放労が同じ旧東区ということもあり旧知の仲。数々のご助言をいただいた6歳年長の先輩です。

交遊録: 4/2~4/5 初めての済州島

3月29日 集会

3月29日(日)14:00~
講演と証言の集い『語り継ぐ済州島四・三事件』(聖公会生野センター:KCC会館)に参加。

証言者:高春子(コ・チュンジャ)さん(8歳のとき帰国して「四・三事件」を経験。渡日して後年夜間中学で文字を学び2013年「部落解放文学賞記録部入賞」)の発言に圧倒され、言葉もありません。

4/2~4/5「済州四・三事件犠牲者慰霊祭」に参加させていただきます。済州島は初めてです。半端に知っただけの身が、四・三渦中から脱出渡日した青年がKey人物として登場する駄小説(『祭りの海峡』2006年)を書いたのだが、それは軽挙妄動の類だという自覚が、ぼくにはある。行こうと考えていたところ、金文男さんに声を掛けてもらい参加させていただくことに・・・。

【参加者交流会で】                                                       写真は、交流会でぼくの駄作(『祭りの海峡』)に触れて皆さんに告げて下さった(素人はそれだけで大感激)金時鐘さんと、今回ぼくを済州へ連れて行ってくれる呉光現さん・梁優子さん。

 

 

 

済州島と沖縄

4月2日から5日まで知人の案内で 『済州四・三事件犠牲者慰霊祭』 に参加させてもらう。。
今、21世紀沖縄と1948年済州四・三事件との、時代・事態の違い個別性と同時に、その類似性を思わずにおれない。済州は、戦後一地域での最大・未曾有のジェノサイドだった(犠牲者3~6万と言われている)。
東アジアの地政・アメリカの意志・本土政府の野望・本土と島・宗主国と植民地・島内の民意・軍政/暴虐・「祖国統一選挙実施」「南単独選挙阻止」という原初の希い・普天間返還は決して辺野古新基地ではないという大儀・島内民衆間分断・・・多くの共通項を想う。
21世紀沖縄は、(辛うじて)拷問殺戮なき「1948年の済州島」という潜在要素を含みもって進んでいる。アメリカの軍事、日本政府の軍事国家構想は、その思想的原理においてジェノサイドを内包している。
21世紀日本、日本政府の立位置は、曲がりなりに存在(?)する先進国的擬制民主主義が無くば、反対派島ぐるみ殲滅なのだ。
そういう東アジアを俯瞰しつつ、島民間・親族間の悲嘆を想い、先日聞いた「大きな済州」「小さな済州」その両方への入口(の欠片)を掴みたいと想う。

Wikipedia:

済州島四・三事件(さいしゅうとうよんさんじけん)は、1948年4月3日在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊韓国軍韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す[2]。アメリカと韓国軍政府による「南単独選挙」に対し「祖国統一選挙」を求める南労党済州は4月3日、旧日本軍の銃火器と、農具を改良した粗末な武器と、500名という少数で武装蜂起する。

韓国政府側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。

済州と沖縄

 

 

 

 

 

 

たそがれ映画談義: 『みんなの学校』見た日に、中原辞任!

昨日、十三「第七芸術劇場」で『みんなの学校』を観た。
子どもたちの肉声と生身を捉えた監督・カメラ・スタッフに感心します。
映画には、「学校が変われば、地域が変わる。そして、社会が変わっていく。」という(一見お題目かもの)標語も、子どもたちの「自分がされていやなことを人にしない、言わない」という「一つの約束」も、それが白々しい教育論には全く聞こえない説得力があった。みんなの学校FB
パンフに阿久沢悦子さんが書いている「人がいやがることはしない」という一般の標語と、「自分がされていやなこと」に在る「自分」との間の、落差・相違こそがこの小学校の核心だ(要旨)、と。自分が・・・・、、、。
初等「公」教育は、地域に密着(土着)してこそ、その後の生涯に亘る人間観の基礎が培われるのであって、決して学校選択制・飛び級・英才クラスなどの選別・競争・効率によってそれが育つのではない、という「大空小学校」校長以下教員たちに思わず拍手した。
現場では、カメラに写らない、見せる訳にも行かない現実もあるかも知れないが、公立学校の教員をしている二人の息子と一人のその妻に嫌われない方法で観てもらおうと思う。

帰路、十三名物『風まかせ』に立ち寄り独りで呑んだ。ママ寛子さんと『みんなの学校』談義をしていると、彼女のスマホに情報。君が代起立斉唱口元チェック・女性教育委員へのパワハラ・多くの部下への日常的暴言の男、中原教育長が追い詰められ「辞任」とのニュース。
遅すぎたし、罷免があるべき姿だが、取り敢えず二人で乾杯した ♪♪。
『みんなの学校』こそは、中原教育長(彼を引き入れた橋下が主犯)の
正反対の場所に立つ教育だと心底想う!

彼らのような大人を作り出さないのが、真の「公」教育だ。

エッセイ: 啄木の妻‐節子の「初恋のいたみ」

3月7日

【今日は何の日】

103年前の今日、1912年3月7日、石川啄木の母、カツが亡くなった。

明治という時代、極貧、息子の妻:節子との積年の確執・・・

「不遜と失意」「虚勢と矜持」「極貧と不遇」「放蕩と不安」を繰り返した息子を、市井の明治女性の識域から、信じ続ける以外に道は無かった。

続いて翌4月13日、息子:啄木が、身重の妻:節子と育ち盛りの幼い娘:京子を遺して逝く。享年26歳。

2コーラ坊ちゃんの時代

 

ソプラノ版で知っていた、歌曲「初恋」

(詞:啄木、作曲:越谷達之助)を、先日テノール版で耳にしたとき、「この歌はソプラノこそ似つかわしい」と強く思った。何故そう思ったのかをずっと考えていた。いま、その理由が分かった。

啄木の初恋の相手、堀合セツ(節子)が唱っていると思えたからに違いない。

砂山の砂に腹這ひ

初恋の

いたみを遠くおもひ出づる日

(『一握の砂』啄木 より)

 https://www.youtube.com/watch?v=QwR2PeUZPb4

作曲:越谷達之助 歌唱:鮫島有美子

【初恋】

砂山の砂に

砂に腹這い

初恋のいたみを

遠くおもひ出づる日

初恋のいたみを

遠く遠く

ああ ああ

おもひ出づる日

砂山の砂に

砂に腹這い

初恋のいたみを

遠くおもひ出づる日

啄木の初恋の相手とは才媛と謳われた堀合セツ(節子)である。

岩手県立盛岡中学校二年の時で、当時啄木十三歳。少年の初恋だ。

セツへの恋は、啄木が短歌に本格的に取り組み始めた15歳の頃から、相互の恋となって育って行ったと言う。セツは、啄木の下宿へ、詩作を学ぶとして入りびたり、街に噂が立ち、セツの父は妹の同行を条件にしたり、次に交際を全面に禁じたりしたが、セツの巧みな戦術で突破される。父は心配し、一途な娘の姿にその前途を案じた。

1902年(明治35)10月、十六歳の啄木は苦手科目のカンニングが発覚し、退学勧告を受け已む無く退学。それを機に念願の上京(東京に出て、文士になる?)を敢行。同じく十六歳の節子はこう言葉を贈って激励する。

「理想の国は詩の国にして理想の民は詩人なり、狭きアジアの道を越え、立たん曠世の詩才、君ならずして誰が手にかあらんや。」と……。

啄木は、結核を患い、翌1903年(明治36)2月父に迎えられるカタチで故郷に戻る。

節子との恋愛は続き、節子の父は本気度に負け、かつ節子姉の説得を受け、1904年(明治37)1月、ついに堀合家が折れ婚約に同意する。

10月、十八歳啄木は、詩集刊行を目的に東京へ向かう。啄木の才能を100%信じていた節子は、滝沢村篠木尋常小学校の代用教員となって、啄木の成功を待つ。

1905年(明治38)5月、第一詩集『あこがれ』刊行。啄木の父、宝徳寺住職罷免。

啄木への無理な仕送りによって曹洞宗宗費上納が滞ったため「公費を私した」と責められたと言われている。父が婚姻届を出し結婚。妻・父母・妹……一家を支えなければならぬ(つまり定収入なき若造には無理な)立場が始まった。結婚式の日、いくら待っても啄木の行方がわからず、花婿不在のまま披露宴が行われた。時に啄木十九歳。

一人花嫁の座にあった節子は堂々としていたと言われている。啄木の友人たちは節子に結婚を思いとどまるよう話すが、節子の返信には、「吾はあく迄愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候」とあった。

6月になって、啄木が盛岡に帰り、父母・妹との同居の新婚生活が始まる。盛岡市内の二間の借家。四畳半の一室を夫婦が使い、八畳間に父一禎と母カツ、妹が住んだ。

その新生活は……

(下記年表:各種資料から作成)

1906年(明治39)

函館駅長の義兄を訪ね一家の窮状打開を相談。失敗。

節子と母を伴い渋民村に戻る。節子父の尽力で渋民村尋常小学校代用教員となる。堀田秀子に同僚以上の思慕つのる。啄木の中では渋民と秀子は同じ観念のものとなっており「自分が渋民を去つてから、故郷と秀子さんとは同じものになつて頭の中に宿つてゐた。渋民を思出して此人を思出さなかつた事はない」(日記)。

「かの家のかの窓にこそ春の夜を 秀子とともにかわず聴きけれ」

12月、長女:京子生まれる。

1907年(明治40)

ストライキ騒ぎで退職。5月、単身函館に移る。節子・京子を節子の実家に、妹を駅長の義兄に託す。6月、函館弥生尋常小学校の代用教員に。同僚の橘智恵子に恋する。

「かの時に言ひそびれたる大切の 言葉は今も胸にのこれど」

「君に似し姿を街に見る時の こころ躍りをあはれと思へ」

7月、函館に節子・京子・母を呼ぶ。

8月「函館日日新聞」の社外記者に。函館大火に遭う。

「函館の青柳町こそ悲しけれ 友の恋歌矢ぐるまの花」

9月、札幌で「北門新報」の校正係、9月末、小樽に移り「小樽日報」の記者ともなる。12月退社。小樽では同僚に野口雨情がいた。

1908年(明治41)

正月、家族を小樽に残し、釧路新聞社に勤務する。釧路往きの小樽駅はさすがに啄木の心を締め付けたのか、その場面をこう詠んでいる。

「子を背負い 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」

辿り着いた釧路の街も詠んでいる。

「さいはての駅に下り立ち 雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき」

釧路では仕事をこなしたようだが、独りの冬に耐えかね下記の有り様。

「よりそいて 深夜の雪の中に立つ 女の右手のあたたかさかな」

「小奴といひし女のやはらかき 耳たぶなども忘れがたかり」

3月には東京での創作活動へのあこがれが募り、釧路を離れる。

4月より東京、千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在。5月、与謝野鉄幹に連れられ 森鴎外宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は、他に伊藤左千夫、北原白秋、佐々木信綱、平野万里、吉井勇等8名)。

5月、中学で一学年上であった金田一京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館に止宿、生計のため小説を売り込むが成功せず。

逼迫する生活の中、6月23日から25日にかけ「東海の小島の磯の……」「たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く知れ渡る歌を作り、続いて作った246首とともに翌月の『明星』に発表する。金田一は、  自身が結婚するまで、友人として啄木に金銭を含む見返りを求めない献身的な支援をしている。金田一は常々「君には天賦の才がある」「ぼくに文学を諦めさせ、進むべき道を考えさせてくれたのは君だ」と心底言っていた。

9月6日、下宿先を本郷区森川町蓋平館に移す。

11月『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。『明星』は終刊するも、続けて『スバル』の創刊準備にあたる。

1909年(明治42)

就職活動が実り、3月1日に『東京朝日新聞』の校正係となる。

1970年代になって公刊された「ローマ字日記」には、浅草に通っての娼妓との遊行が赤裸々に描写されていた。彼の借金のほとんどはこうした遊興に費やされたようで、それが為の貧困であったと思われる。

一方節子は、前年4月の啄木の上京後、函館で啄木の母・カツと娘京子と暮らしていたが、啄木から送金もなく、小学校の代用教員をしてやっと生活をしていた。

6月16日、節子はついに意を決して、京子・カツとともに函館から上京する。本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移る。長女京子はわずか二歳半であった。10月、節子の体調不調、結核に蝕まれ始める。こうした苦境の中で、節子とカツとの積年の関係が爆発。頼みとした啄木の冷淡な態度に絶望し将来を悲観した節子は、10月2日置き手紙を残し、三歳前の長女京子を連れて盛岡の実家に向かうも、金田一の尽力で暫く後に戻る。

12月には、父も同居するようになる。

1910年(明治43)

3月、『二葉亭全集』の校正を終え、引き続き刊行事務全般を受け持つ。

5月末宮下太吉ら4名逮捕の「爆裂弾事件」を口実に数百人の社会主義者・無政府主義者の理由無き大量逮捕が行なわれ、幸徳秋水・菅野須賀子ら26人が明治天皇暗殺計画容疑として起訴され、翌年1月24名に死

刑判決。(12名無期に減刑)。大逆事件である。

5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆。

7月1日、社用も兼ね、入院中の夏目漱石を見舞う。

8月下旬には評論「時代閉塞の現状」を執筆するが

「われは知る、テロリストのかなしき心を――

言葉とおこなひとを分ちがたき ただひとつの心を、

奪はれたる言葉のかはりに おこなひをもて語らんとする心を」

『朝日新聞』には掲載されていない。

同時期の作歌:

「何もかも行末の事見ゆるごとき このかなしみは拭ひあへずも」

「秋の風我等明治の青年の 危機をかなしむ顔撫でて吹く」

9月15日、『朝日新聞』紙上に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。

朝鮮併合後の作「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」があるが、歌集には収録しなかった。

10月4日、長男真一が誕生したが、27日に病死。鉄幹、葬儀に来る。

12月、第一歌集『一握の砂』を東雲堂より刊行。啄木満24歳。

1911年(明治44)

友人の平出修弁護士と会い、幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用する。

啄木は、「大逆事件」の拘引以前から社会主義思想にひかれていたが、幸徳の「陳弁書」を読み、より深く社会主義を研究し始める。

啄木の幸徳事件への思いは尋常ではなく、膨大な公判記録を読み込み、裁判全体は政府がフレームアップしたものと確信していた。

1912年(明治45)

啄木が亡くなる数カ月前の日記は、無残ともいえる二人の関係を伝えている。「髪も梳らず、古袷の上に寝巻きを不恰好に着」て「時々烈しく咳をする」妻を、啄木は「醜悪な姿」といい、それを見るたびに「暗い怒りと自棄の念に捉へられずには」おれない、と書いている。

3月7日、母カツ死去。4月9日、土岐は第二歌集刊行を啄木に伝える。

4月13日、啄木、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。妻、娘、父、友人の若山牧水にみとられている。享年26歳。皮肉にも、カツ死去からの一ヶ月間が、節子にとって「邪魔」されない初めての啄木との二人の時間となった。

4月15日、浅草等光寺で葬儀、夏目漱石も参列する

啄木亡き後、幼い娘をかかえた節子は孤立無援の8ヶ月の身重。肺結核もすすんでいた。金になりそうな物は、啄木愛用の机や火鉢まですべて売り払った。育ち盛りの京子を抱え、出産を控えているのだ。

すべてを売り払い寒々とした部屋に残された、自分と京子のわずかばかりの衣類を、留守にした隙に空き巣に盗まれる。

節子は啄木が絶縁を申し渡していた実家に戻ることを避け、千葉館山のキリスト教宣教師カルバン夫妻の、極貧層結核患者への福音医療=施療院を頼ることになる。千葉房総で、長女京子とともに孤絶した生活をおくる節子を支えたのは、夫の残した原稿や日記など作品が散逸しないようまとめる作業だった。出産をひかえた体に肺結核という病。しかし、出産までの日々、夫の残した遺稿の調書をまとめ上げる作業の中で、結婚前に熱く交わした言葉、自身が吐いた言葉をひとつひとつ抱きしめ、「砂山の砂に……」を「これは私のことだ」と強く思ったに違いない。

6月14日、節子、次女房江を出産。

6月20日、第二歌集『悲しき玩具』刊行。

7月30日、天皇睦仁崩御。明治は終った。

夢を追い、夢を食った啄木らの、青年明治は破綻し、軍国昭和への道を築き拓いた天皇睦仁は、命を終えたのである。

大正となった9月、節子はやっと二児を連れ実家のある函館へ戻る。

1913年(大正2)

正月、病状は悪化し節子 二人の娘を実家に預けて入院する。

東京、函館の2ヶ所で行われた啄木一周忌の集にも出席できず。

節子実母トキが京子と房江を育てることを約束。節子は、哀しみの中にも病院の中で遊ぶ京子(6歳になっていた)を見ることができた。

節子が入院中に残した短歌

「六号の婦人室にて今日一人死にし人在り 南無あみだぶつ」

「わが娘 今日も一日外科室に 遊ぶと言ふが悲しき一つ」

5月5日、節子死亡(27歳)。遺児二人は節子の実父母が養育。

1930年(昭和5)

長女京子 次女房江、相次いで死亡。京子(24歳)には幼い二児あり。

かつて、堀合家から節子との婚約の承諾を得た時(1904年、明治37年1月)、十七歳の啄木は手放しの歓びを表明している。

「余がせつ子と結婚の一件また確定の由報じ来る。

待ちにまちたる吉報にして、しかも亦忽然の思あり。

ほゝゑみ自ら禁ぜず。友と二人して希望の年は来りぬと絶叫す。」

明治にあっては、結婚し、家庭と生活を維持するということのその根本に於いて男の生業の確立・収入の確保は前提条件だった。若すぎた婚姻だった。男が家族を食わすのだという黙契、幼子を抱えて女性が働く場とて無い社会……明治という時代の制約に翻弄され、時代の黙契にやはり囚われていた啄木。「早すぎた」芸術カップルは時代の重圧と己たちの限界に追い詰められて行った。

もし、父が住職罷免となっていなければ、もし啄木が妻が働くことを認めないという「常識」の壁を越えていたら、もし病魔を上手く撃退できていたら……とは思う。思うが、であれば啄木全巻は日の目を見ていないに違いない。

「砂山の砂に……」は、1910年(明治43)発行『一握の砂』所収だが、冒頭に「明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。」とあり、仕事や生活、貧困や家庭内事情の蹉跌のただ中の作歌だ。

同じ『一握の砂』に探すと、妻節子への想いを告白している。それが垣間見える。

「わが妻のむかしの願ひ 音楽のことにかかりき 今はうたはず」

盛岡女学校に通っていた節子は、当時としては珍しくバイオリンを習い歌も上手かったという。父、盛岡上田の士族堀合忠操は後年啄木との結婚を渋々(節子の頑なさや、姉の脅しはあったが)認めたのだが、女性の向学心や社会性に「理解」ある人物だったのだろうか……。いずれにせよ、周囲の子女より知的世界情操世界に触れて育った節子は「音楽のこと」への夢を持っていた。それを含む節子の希いと可能性を自分は潰したのだという自戒ではある。そこに偽りは無い。

「何がなしにさびしくなれば出てあるく 男となりて三月にもなれり」

これは、未公開だった啄木の「ローマ字日記」(1970年代に公刊)に登場するという、啄木の娼妓放蕩三昧のことだろう。むしゃくしゃしては、なけなしの金を持ち出し、色街に出歩いていたのだろか、……ったく。

社会的評価・肩書・収入に報われず、悶々としていた啄木はこう詠む。

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て妻としたしむ」

こう出られては妻への深い理解・感謝・労わり・謝罪であり、自身への自省・自戒・相対化「のようなもの」だろうと思いもする。だが、実は繰り返しては謝り・甘え・抱擁さえする、DV夫のように始末に悪い。節子は義母との確執を抱える日常の中に在って、ここに詠まれた妻像を果たしたのだ。お互い相手から離れられなかったある「絆」を感じると同時に、そこにこの男女の相互依存と「宿業」、節子の哀れを思う。

節子が恋人啄木に求めたものは、処世としての成功・経済力ではなかった。「理想の国は詩の国にして理想の民は詩人なり」……・。少女が描いた「詩人」こそが彼女の理想だったのである。生きて行く為に必要な現実的な条件を考慮の外に置けるほど、節子の幼い「信頼」は濃いものだった。ある意味では、啄木もそれに応えようとしたのだ。「初恋」の罪ではある。

節子は、「初恋」のときの少女的信頼「狭きアジアの道を越え、立たん曠世の詩才、君ならずして誰が手にかあらんや」から決して降りないところに自身を据え、その「いたみ」を生きることの核とし矜持とし、それをもって、云わば恋愛に於ける「非転向」を貫いたのか。「愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候」との宣言が必然的に、全ての退路の遮断であったと言えはしまいか……。

啄木が無謀な選択をするたびに、結局それを受け容れた節子。東京で名を遂げるはずの啄木を待ち続けた節子。未熟(社会生活的に)で早熟(表現領域での)な、そして名を上げることばかり夢見ている青年の、「爪先立」った「背伸び」のように持続困難な姿勢の「無理」が、成就し(てしまっ)た「初恋」の「病理」として巣食っていた。人が「初恋は成就しない」あるいは「してはならない」と言うのには理由があるのだ。

最後の日、節子は病院にあつまった実家の人々に「みなさん、さようなら」とあいさつしたという。二人の娘を実家に託し、夫の遺稿を友人に託し、節子は静かに夫の後を追って逝った。

いま、唐澤まゆこのソプラノの歌声が、「初恋」を「信じたく候」と訴えた節子の声となって迫ってくるのだ。劇画『「坊ちゃん」の時代』(全五巻、双葉社)第三巻『かの蒼空に』は「啄木篇」なのだが、そのラストシーンの上野駅が浮かぶ。

明治42年6月16日。たまりかね、函館から幼い京子と姑カツを伴い上京、ホームに降り立つ節子。金田一を伴って迎えに来た啄木。小樽駅の別離れを経て釧路へ、釧路から東京へ、東京での蹉跌……しばらく振りの再会の、ぎこちなくどこか白々しい感じを、劇画は活写していた。

ふと、「初恋のいたみを……」の一首は啄木の歌である以上に、95年前、函館の病院で、二十七歳で亡くなる時、節子の脳裏に去来した「十五の春」への想いであるに違いないと思えた。「いたみを遠くおもひ出づる日」が、さながら、啄木の上の句「砂山の砂に腹這ひ初恋の」に続く節子の下の句だと思え、不覚にも込み上げてしまった。

あの歌は、期せずして節子の独白だ。節子のものだ。彼女の「生」の証しだ。

啄木ではなく、節子こそが「初恋のいたみ」に殉じたのだと思えて来る。合掌。

★プロフィール★

筆者:1947年、兵庫県生まれ。1970年、関西大学社会学部除籍。1977年、労働争議の末、勤務会社倒産。5年間社屋バリケード占拠の中、仲間と自主管理企業設立。1998年、20年余の経営を経て、同企業及び個人、自己破産。2002年、『祭りの笛』出版(文芸社)。フリーター生活開始。2006年、『祭りの海峡』出版(アットワークス)。現在、東京単身出稼ぎ業務中。

つぶやき:武器

武器:ハンガリー動乱の逸話。  
迫り来る革命

 

 

1956年10月、ブタペストに侵攻したソ連軍に逮捕された老紳士。KGB役人が言う「もう武器は無いか?あれば出せ、もし、再検査で発見されれば・・」。老紳士が内ポケットに手をやる。役人が息を呑んで見守る。そっと出されたその手には、一本のペンが固く握られていた。

この老紳士こそ、71歳になる、反官僚主義・反教条主義・反スターリン主義を貫く老マルクス主義思想家、ジョルジュ・ルカーチ(ハンガリー読みジェルジ)その人である。もしそのペンが武器だったとすれば、レーニンは一九一七年に、同じペンを持っていたとジジェクは書いている。 
(岩波書店:スラヴィオ・ジジェク著、長原豊訳:『迫りくる革命』序文より)

交遊録: 2015済州四三事件犠牲者慰霊祭「慰霊の旅」

3月2日FBより

食事会参加者顔合せ食事会。
団長:呉光現さん(犠牲者遺族会会長)はじめ12名、いい集まりでした。
4/2~4/4 短期間ですが、ご遺族の想い・1948年という時代・島内親族内事態の悲嘆・本土⇔島という地政・・・少しでもそれを噛み締め、東アジアの構造的闇に迫りそれを開いて行く想いへと育めたら…‥と話しました。団長から少し事前レクチャーを受け、あとは楽しい食事会。いい旅になりそうです。ー この写真に写っている友達: 福井 正敏金 文男呉 光現Makiko Hashimoto浅井 敏嗣李 信恵栗原 佳子松浦茂岸野 令子

つぶやき: 太宰・吉本 生涯一度の対面

FB投稿に、下の画像があった。棄てられた子猫を育てる雄犬の画像だ。

観ていて、ふと焼跡・闇市時代の三鷹駅近くの呑み屋での、流行作家:太宰と青年吉本隆明の出会いの情景が浮かんだ。

マザーシップ

 

太宰と吉本隆明、生涯一度の出遭い。
(雑誌『東京人』:08年11月。吉本へのインタヴュー記事より)
『男の本質に母性。不意をつかれた』
吉本は戦後間もなくの焼跡・闇市の時代、学生芝居仲間で太宰の戯曲『春の枯葉』を上演しようとなり、仲間を代表して三鷹の太宰宅を訪ねる。
太宰は不在だったが、幸い太宰家のお手伝いさんから聞き出し、三鷹駅近くの屋台で呑んでいた彼を探し出す。当時の人気作家と無名の貧乏学生:のちの詩人・思想家の出会いだ。そこでの会話だ。

『「おまえ、男の本質はなんだか知ってるか?」と問われ、「いや、わかりません」と答えると、「それは、マザー・シップってことだよ」って。母性性や女性性ということだと思うのですが、男の本質に母性。不意をつかれた。』

たそがれTVドラマ談義: 愛しのエリー

憎しみの相対化、哀しみの普遍化、怒りの浄化、[境界]を超える[民]の自立

【ヘイトスピーチに与する若者よ、2チャンネルで絶叫する君よ】

事情で大阪滞留が続いて、お蔭で年末からNHK朝ドラ『マッサン』を観ている。
物語は、第3コーナーを曲ったのか佳境に入っているのか、売れないウィスキー作りは戦時下を迷走している。やがて皮肉にも海軍指定工場となることで、経済的な難を脱しつつある。
世(第二次世界大戦下)は、鬼畜米英・一億火の玉一色、主人公エリーが街でガキに石をぶつけられたり、養娘が学校でノートに「鬼畜の娘」と落書きされたり、特高がスパイ容疑で家宅捜査に来たり・・・エリーの出身地スコットランド(イギリス)は日本の[敵]なのだ。

ヘイトスピーチに同意したり、その行動に参加している若者よ。『マッサン』を観て、もし、少しでも心を動かすなら、国・民族・戦争と「民」とは「違う」ということの欠片を理解するなら、どうかその気持ちを、アジアにも、隣国にも、戦火に散った自国の人々にも向けてくれ。日本だけが「美しい国」だなどということの「幼児性」「恣意性」「排外性」、、、「南京大虐殺」はなかった・沖縄の「集団強制死」はなかった・あの戦争は「侵略戦争」でなない、などの歴史修正主義が受け入れられる世の、人々に棲む心性の根っこを凝視してくれ。
エリーには心を寄せる、だが[中・韓は憎い]と言う君、どうか自立してくれ。マッサン

交遊通信録: 「関大校友連絡会」第10回 反戦・反格差 市民セミナー

「関大校友連絡会」よりお知らせ 【乞! 拡散】

第10回反戦・反格差市民セミナー
〈グローバル競争国家への転換を撃つ〉
(テーマ)「国民と社会の動員ー戦前の歴史と今日の動きから
―権力によるマスコミ支配の企て―」
(講師)矢野宏さん(「新聞うずみ火」代表。関西大学社会学部講師)
(主催)関大校友連絡会
(会場)大阪市立西区民センター第4会議室(定員60名)。入場無料。
(地下鉄千日前線/鶴見緑地線「西大橋」下車3分。大阪市立中央図書館北側)。
( 日時)2015年3月22日(日)14:00~17:00 (受付13:30~)。

講師紹介
矢野宏さん 1959年12月生まれ
読売新聞大阪本社元記者黒田清さんが市民ジャーナリズムを目指して主宰した「黒田ジャーナル」の元記者。その意思を受け継いだ月間ミニコミ誌「うずみ火」の代表として活動。現在「うずみ火講座」、「ジャーナリスト養成講座」等、市民ジャーナリズムとして多彩な活動を行っている。関大社会学部講師。著書「大阪大空襲訴訟を知っていますか」「在日挑戦」他。
国民の目線で権力を監視するのはジャーナリズムの不可欠な使命です。「秘密法」を先駆けに進行する情報統制社会化の流れはマスメディアの萎縮を射程にしており、NHK、朝日問題も合わせてマスメディアの分断・取り込みの企図がうかがえます。国民と社会の動員は先ず言論・報道機関が狙われるのです。
国民が主権者としての権利を行使する為には正しい情報が不可欠であり、その為には情報の消費者に留まるのではなく、ジャーナリズムへの権力や外部の圧力・介入に対してジャーナリズムを孤立させず共に立ち向かう姿勢が求められます。今回の市民セミナーでは、進行する安倍政権の国民と社会の動員に対抗する為「権力によるマスコミ支配の企て」について歴史に学び、今を考える機会となることを願っています。
「改憲国民運動」の影が迫りつつある予感の中で・・・

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交遊通信録: 22年前の『ワンワールドフェスティヴァル』

2月8日 ワンワールド・フェスティヴァル に『シャプラニール』が出店したようで、
バングラデシュ物産の販売係をして帰宅した家の主との笑い話・・・。

幼かった末息子が、帰宅したワシらに「売れた?」と訊く。食べたいのだと思い、「ごめん、ぜ~んぶ売れて、もう無いねん」と言うと、深い息を「フーッ」と吐いてニッコリして「そうか」と言う。ん?
前夜から大騒ぎして、大きな寸胴を持ち出し150~200食作り、早朝からワッセワッセと出かける両親の「生業」を、彼はたぶん「露天商のカレー屋かな」と思っていたようだ。「食べたい」よりも、売上げを優先しての、「安心」の「フーッ」だったのだと知った。いつも完売して大喜びした日々が昨日のようだ。末息子は屋台のテキヤ親父のような風貌と人格の父を、正確に見てはいたようだ。高校教師となった末息子は現在、娘三人の父親だ。
よ~し、来年は**年振りに作るか(笑)!
(Photoは1993年の同フェスティヴァル)

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