つぶやき: 戦争法案の無茶。事態の連発=異常事態
異常事態だあ~!
トンキン湾事件(トンキンわんじけん、英: Gulf of Tonkin Incident, 越:Sự kiện Vịnh Bắc Bộ/事件灣北部)は、1964年8月5日、北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件である。これをきっかけに、アメリカ合衆国政府は本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した。アメリカ議会は上院で88対2、下院で416対0で大統領支持を決議をした。しかし、1971年6月『ニューヨーク・タイムズ』が、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手、事件はアメリカ合衆国が仕組んだ物だったことを暴露した。当時北ヴェトナムの哨戒艇に魚雷機能が無かったこと、大統領が出した議会決議案は事件の8月5日より前に作成されたこと、などが明らかになった。第二次大戦以降のアメリカの介入戦争は、ことごとくブラックだ。ムチャクチャだ! アメリカの戦争に、無条件で与するのではないというのなら、まず世界的に明らかになっているこれらの戦争への見解を、まず明らかにせよ! できない以上、何を語る資格もない!
ぼやき: 日本の巨大紙の異常と地方紙のガンバリ
全国の地方紙は叫んでいる。
ジャーナリズムの原点堅持。
地方紙のシェアはワシらの予想をはるかに凌いでいるが、
以前はもっと多く、例えば2004年には、沖縄二紙は合わせて90%(現在60%弱)を超えていたし、北海道新聞は65,4%(現在39%)、中日新聞は愛知県で70%(現在52%)を超えていた。ここ20年「読売」などの、なりふり構わぬ下品な「現物」攻勢に晒されシェアは縮小している。
地方紙を応援したい、支えたい。友人知人親戚に「地方紙を読もう」と声を掛けよう。
近藤 均さんより
安保法制閣議決定に地方紙39紙のうち38紙が警鐘!
ジャーナリズム精神を捨てた全国紙はもう必要ないような気がする。
(左記事は5月24日「東京新聞」より、右表は地域シェア1位紙一覧)
下表は日本の新聞の異常を示す発行部数
順位 新聞名 発行部数
1位 読売新聞(日本) 1000万部
2位 朝日新聞 (日本) 750万部
3位 The Times of India(インド) 380万部
4位 毎日新聞(日本) 350万部
5位 参考消息(中国) 310万部
6位 日本経済新聞(日本) 300万部
7位 The Sun(英国) 295万部
8位 Bild (ドイツ) 290万部
9位 中日新聞(日本) 280万部
10位 Daiinik Jagran (インド) 275万部
交遊録: サポートユニオン with YOU 総会
「サポートユニオンwith YOU」 第五回総会。(5月10日、茨木市:ロ―ズWAM)
大内裕和さん講演:
家計(親他)の状態→当然バイト+奨学金という名のローン(正に貧困ビジネス)→バイト先は正社員並みの拘束時間と違法と責任過多の<ブラックバイト>→勉学に費やす時間が現実的に無い(職場の要請から講義への出席を削る)→ひたすら正規雇用を目指す就活→にも拘らず非正規社員→(正規雇用となったところで)奨学金の返済→若年勤労者に高負担→結婚の断念・・・
知性を求め社会を構想する余裕も時間も無い。「反知性主義」に取り込まれて行くのも無理はない。親を含め正規雇用を目指す就活は『今だけ、金だけ、自分だけ』の内向き排他の人生哲学を育んでしまふ・・・。
この貧困状況の構造的連鎖、「関西学生アルバイトユニオン」の学生の発言と大内裕和氏の講演は、出口なき現況と、兵士リクルートまで展望した財界と「取り戻す派」政権の深謀を明らかにしてゆく。しかしある可能性を示していた。
50年前の学生と違い、彼らは労働社会・消費/生活現実の渦中に在って、頭でっかちではない「構想」へと辿れる地についた「論」を準備しつつある。そこに可能性を視たい。もちろん、多くは、連勤(連続勤務)自慢や連徹(連続徹夜)自慢をしながら、現実に順応し「ブラック」を前提として受容れ、そこを回避することを揶揄したりもする。が、この倒錯した「受容れ」が虚構だと心底では知っているに違いない。サポートユニオンwithYOU に限らずユニオン運動が、困難な事態に在る学生と繋がる道理と必然が見える。
これから学生になって行く子女を持つ若い母親父親に、現実を伝えたい。写真は、深夜一人シフトの現状。片付けに手が回らず、休憩など想定外、トイレもままならぬ地獄勤務。夜が白むころ、この巨大下げ物を一人で処理するのだ。
交友録・映画談議 自民改憲キャンペーンと映画『国際市場で逢いましょう』
汐留の現場の本日予定工事を終え、19:10からの『国際市場で逢いましょう』を観ようと「ヒューマントラストシネマ有楽町」へ向かった。17:45に有楽町に着くと、「イトシア」前広場で何やら街頭演説の様子。あの「八紘一宇」奨励発言で驚かされた自民党女性局長三原じゅん子女史がマイクを握って喋っている。隣には自民党憲法改正推進本部長:船田元、国家安全保障担当内閣総理大臣補佐官の磯崎陽輔が居る。「立憲主義なんていう言葉は聴いたことがない。昔からある学説なのでしょうか?」と語った東大法学部卒の元総務官僚だ。
容易ならざる陣容に「ハハ~ン、改憲キャンペーンやな」としばらく足を止めて様子を見ていいると、若手の運動員が自民党が用意した『憲法改正ってなあに?』という漫画仕立の冊子を配布している。スピーカーからは、例によって「押し付け憲法論」「日本人の、国民の手で憲法を」「他国が攻めて来たらどうするの?」「国力や技術力や経済力から言って、世界平和に貢献せず知らぬ存ぜぬでいいのか」等々のオンパレード。平和の為、日本の平和、世界の平和、が語られ住まいの防犯のような幼稚な例え話や転ばぬ先の杖モドキの「お話」と、現憲法に文言がない「環境権」「犯罪被害者の人権規定」など「改憲しなければならない必然」には届かない話ばかり。現憲法を基礎に法を整備すれば出来ることばかり。国のカタチの変更という一大転換という肝を語れない・語らないのだ。
幹事長:谷垣禎一が登壇してマイクを持ったので、旧宏池会なりの発言があるかと聞き耳を立てていたが、極右に乗っ取られた自民党、安倍主流を出る発言などある訳もない。
聴衆はどうかと言うと、前列に陣取った一群以外は待ち合わせのついでに聴いている風。盛り上がりも熱気もない。しかし、「今は」と但し書きを付けておこう。これを、全国で全領域で、職場や地域を挙げて、繰り返し繰り返し橋下的スターを揃えて打ち出せば、風景は一変するかもしれない。
改憲キャンペーンは18:30には終わって、不快感を抱えたまま映画館に向かった。
家族・生き別れ・危機一髪場面・貧困・海外出稼ぎ・恋物語・朝鮮戦争後の韓国経済発展史(漢江の奇蹟)・ヴェトナム戦争関与までが詰まっている上に、韓流TVドラマのホームドラマやビジネス物にありそうな仕立に嵌るかと構えながら、朝鮮戦争で引き裂かれた兄妹の「民族の受難」の物語に胸つまらせた。それへの、現代自動車の創業者をチョイ出しする韓国版経済発展賛美映画かい?といった皮肉や、韓国現代史を描きながら、軍事体制・社会問題・民衆の抗い(光州事件を含め)が出て来ないじゃないかという「無いものねだり」を鈍らせる。その韓流マジックと、この半島の現代史が持つ圧倒的な史的「重量」や民の悲嘆「総量」が、日本人のぼくの、映画への批評精神を曇らせる。三代の父と子のストーリーはそのまま現代韓国の、政治性や階層を捨象した「語り継ぐ」世代間物語だが、単純にそうはなっていない。なぜかと考えて、民族の受難の重低音を感じた。
日本では、都市大空襲・戦争現場・銃後の学童疎開・・・などを描く映画でさえ、社会や全体を扱いながら小さな箱絵にあり、私的世界を描いて先の社会に社会性にどうしても届かず、こじんまりまとまってしまいがちであることと無関係ではない、と見当を付けている。主論ではないが、例えば興南港のシーンなどの圧倒的な避難民の遠景は、CGなのかどうか知らないが社会総体が被る受難を観客に感受させるには有効で、そこら辺りも日本映画には乏しい。
沖縄がそこから免れているとすれば、それには「ゆえ」がありそうだ。改憲が叫ばれ、秘密保護法・集団的自衛権行使など戦後が解体されようとしている。改憲志向を根絶やしにするほどの闘いを国民的に体験するか、望みはしないが改憲の果てに「戦前型軍事弾圧国家」となるか・・・という国民的体験の中から、戦後日本には無い「重量」「総量」を獲得できるのかもしれない。だが、いずれの極点にも行かないのではないか。可能性としては、後者=軍事弾圧国家だろうか(繰り返すが、望みはしないしそれは絶対に阻止したいのだ)。「重量」「総量」を掴めぬ永遠の戦後日本というところだとしたら、その泥土からそれを掴む「知性」をこそ育みたい。政権は、戦後日本のその「生ぬるさ」を、逆方向から破壊してみせると迫っているのだ。
『国際市場で逢いましょう』で、主人公が妹=マクスンと生き別れるシーンで思い出されたのは、不思議と『火垂るの墓』の妹=節子だった。
映画館を出てエスカレーターに乗って想っていたのは、三原じゅん子、金八先生の生徒:三原じゅん子が成長する過程で、未消化に「八紘一宇」を語る女になるような出会いしか用意できなかった戦後という魔物のことだった。先に言った「重量」「総量」を共有する社会でなら、じゅん子は違う出会いを持てたかもしれない。
安保法制・秘密保護法・集団的自衛権の論争を仕掛けても、それに世界平和・積極的平和主義の稚拙な言い分で反論するだろうじゅん子に示せるのは、『火垂るの墓』の節子、『国際市場で逢いましょう』の妹=マクスンしか今のところ思い浮かばない。
だとすれば、マクスンと節子には、まだ「八紘一宇」に出会う前のじゅん子に届くものがあり、それを囲む「重量」「総量」があるに違いない。
交友録&映画談議:よき土曜日
いい土曜日でした。
中央区新富町の現場が昼一番に片付いたので、チョイ土曜散歩。午後から、
日本教育会館一ツ橋ホールの金城実氏個展「世界を彫る」を覗く。作品「大逆事件と安重根」を前に立ち尽くす。会報「大獅子通信」に某コープの茨木のオバチャン達(失礼!)の氏名を発見。昨夏のアトリエ襲撃時の大酒を思い出し、思わず氏に時間を割いてもらったことへの感謝のメール。
.北へとフラリ歩いて神保町古書店巡り。シナリオ等映画関係専門店で浦山桐郎作品を探す。無かったが、飢えた映画青年(?)気分を思い出す。
帰ろうと、地下鉄三田線神保町駅まで来ると、交差点の「岩波ホール」が、『パプーシャの黒い瞳』上映まであと10分だよと誘う。観たいと思っていた作品なので、当然入場券購入してエレヴェーターへ。大収穫だった。
1910年ジプシー(注a)のコミュニティーに生まれた女性パプーシャの人生を辿るストーリーは、ヨーロッパ現代を映し出し、社会主義国を含む「国家」を問い、民族・言語・アイデンティティとは何かを問い、主人公=女の根拠地を探る。
文字を持たないジプシー(ロマ)に在って、独学で文字を得た主人公の数奇な人生は、まるごと少数者・異端者・「異郷の言葉」「文字なき世界」に生きた女の歴史であった。美しいモノクロ映像に圧倒された。
(注a)【ウィキペディアより】
ロマ・ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオタイプは18世紀後半に作られたものであり[1]、ロマでない集団との関係は不明である。ロマの人種的分類については、現在でも定説が存在しないため、厳密にどの人種に分類できるかは、いまだに判明されていない。
歴史的経緯をたどると、ロマは西暦1000年頃に、インドのラージャスターン地方から放浪の旅に出て、北部アフリカ、ヨーロッパなどへとたどり着いたとされる。旅に出た理由は定かではないが、西方に理想郷を求めた、などの説がある。彼らがヨーロッパにおいて史料上の存在として確認できるようになるのは15世紀に入ってからで、ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受けることとなる。ただしユダヤ人ほどこの事実は強調されていない。
最新の遺伝子研究ではインド先住民のドラヴィダ人との類似性が示唆されてきている。
交遊録: ある「偲ぶ会」
ある「偲ぶ会」 。
某大学「全共闘」のAさんが逝って約1年。(享年67)
濃い仲間、やや濃い仲間が集まり、生前の彼を偲び、その出会いや触れ合いを語り合った。ご遺族には初めての逸話ばかり、ビックリの連続だったと思うが、ご遺族がそれを肯定的に受け止められ、いい会となった。
小企業の経営者として、労働運動や市民運動には収まり切らない、社会システムの改変を模索していた彼の「これから…」だっただろう構想、その実践への途半ばで逝った無念を想った。
ぼくの追悼文:
寡黙にしてシャイ、冷静にして勇猛、人が語る**さん像だ。
誰だってそうだが、**さんの友人・知人たちが語る**さん像は10人10様だ。
回り道をした挙句、1968年遅れて関西大学に来たぼくは、学年では二年先輩の**さんとの学生期の交点はあまりない。69年の学内某案件(写真参照)では、**さんは運転免許を持つ数少ない学生だったばかりに準武器運搬などヤバイ任務に駆り出され、それを断ることなく受け大いに活躍したと聞いている。だから、付和雷同組のぼくは会うことも少なく、実際よくは知らないということになる。
1975年、大阪の旧東区の中小企業で労組を結成しようともがいていた時期に「**氏が労組に詳しい」という噂を聞いて、ぼくは大正区の**さんの事務所を訪ねた。午後の忙しい時間帯を割いて、約二時間あれこれ参考意見を語ってくれた。当時、大阪の労働運動世界に全く無知だったぼくに、何故こんなに詳しいのだろうと思わせるほどの知識と情報で驚いた。今思えば、立場や行動を超えた、労働運動への尽きない共感や関心の持続の中に生きていたのだろうと思う。結果、**さんの紹介で東区の労働運動界の「猛者」と出会い、その後今日まで続くクサレ縁となる人物に出会うことになる。労働争議とそれに続く会社破産への対抗としての職場バリケード占拠闘争と、その後20年に及ぶ労組による自主経営のキッカケを**さんに作って貰ったと言えそうだ。
2007年、1969年の関大会館バリケード封鎖40周年を2年後(2009年)にひかえ、当時の仲間がそれぞれに生きてきた時間と現在と未来を考え、行動を考え始めたり・活動場所を新たに設定したり・駄小説を発表したりと動き始めていた。第一次安倍内閣が打ち出す「軍国路線」と「美しい国」に危機感を覚えた者どもが、出来ることをしようと秋に『関大校友連絡会』を結成する。
**さんとはそこでの諸取組でしばしば会うようになるのだが、実は**さんとはその数年前からお互い意外だろうところで何度か会っている。女房と「誰にも会わんやろな~」と出かけた各種講演会・上映会・絵画展・市民派(?)の催しなどだ。なにやら一種の恥かしさを押し殺すような表情で、互いに照れて「やあ」「おう」と言葉少なに過ごしたと思う。
最後は、2012年9月の趙博さん作の芝居、新宿梁山泊公演『百年 風の仲間たち』伊丹アイホールだった。いつも、長く会話を交わしはしない様に業を煮やした女房の勧めで、ホール横の喫茶ルームで「お茶」した。ご家族のことなどを含め、たぶん初めて色々聞かせてもらった。
「小企業の経営者という制約と、学生期から持続する信条、その交点を探すような人生だが、最近、貴君と出会うような場所に自分の考えていることの答えを求めて来てるのかなぁ~」と語られ、「労組が基になっているとはいえ、零細企業の社長もして来たぼく、そこはよ~く解かりまっせ」と返した。
その日の会話をきっかけに、高校の家庭科の教員をしているお嬢さんと、某生協に関わっている女房が、お会いすることになったのだったと思う。「食育」を巡って盛上り、いつか何かに一緒に取り組めたらいいのにね…と話し合ったと聞いている。
**氏が考え求めたイメージと思考が、これからカタチに結ばれるはずだったと思う。
そのプランを抱えたまま逝った無念と、寡黙にしてシャイな人柄が関大校友連絡会のひとりびとりの胸にいつまでも宿っているに違いないと思うのだ。 2015年3月31日、合掌。
余談ですが、数十年に亘り右翼暴力支配に連戦連敗(実際、エグイ裏話や精神的後遺で大学を去った学生も多数いた)だった左派学生が下の写真の攻防では、某大学史上初めて物理的にも勝ったのです。左派を暴力学生と非難する教授陣の中に、数少ないが我ら左派を支持なさった複数の教官が居たことを特筆したい。その後冷や飯を喰いながら「学」の孤塁を守られた。実に敬愛の念を禁じ得ない。今日「学」が瀕死の状況だ。「学」する者の矜持を発揮してもらいたい。断言する、「知性」は揺るがない。「反知性主義」、糞喰らえ!
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と、まぁ暴力支配に対する已むに已まれぬ防衛的実力行使が、やがて制御できない事態を呼び、ある「荒廃」へと至ったこともワシらは痛切に認めなければならないし、糾されなければならない。欠けていたのは言葉の本源的意味における「自治」なのだ。「自治」・・・、「自」らを「治」める。叛乱と自治。
交遊録: サポート・ユニオン with YOU 総会を傍聴する
「サポートユニオンwith YOU」 第五回総会。(五月10日、茨木市:ロ―ズWAM)
大内裕和さん講演:
家計(親他)の状態→当然バイト+奨学金という名のローン(正に貧困ビジネス)→バイト先は正社員並みの拘束時間と違法と責任過多の<ブラックバイト>→
勉学に費やす時間が現実的に無い(職場の要請から講義への出席を削る)→ひたすら正規雇用を目指す就活→にも拘らず非正規社員→(正規雇用となったところで)奨学金の返済→若年勤労者に高負担→結婚の断念・・・
(写真は深夜一人勤務バイトの過酷で悲惨な実情。片付け・休憩・トイレのいとまも無い。明け方一人でこの下げ物の山を処理するのだ。)
知性を求め社会を構想する余裕も時間も無い。「反知性主義」に取り込まれて行くのも無理はない。親を含め正規雇用を目指す就活は『今だけ、金だけ、自分だけ』の内向き排他の人生哲学を育んでしまふ・・・。
この貧困状況の構造的連鎖、「関西学生アルバイトユニオン」の学生の発言と大内裕和氏の講演は、出口なき現況と、兵士リクルートまで展望した財界と「取り戻す派」政権の深謀を明らかにしてゆく。しかしある可能性を示していた。
50年前の学生と違い、彼らは労働社会・消費/生活現実の渦中に在って、頭でっかちではない「構想」へと辿れる地についた「論」を準備しつつある。そこに可能性を視たい。もちろん、多くは、連勤(連続勤務)自慢や連徹(連続徹夜)自慢をしながら、現実に順応し「ブラック」を前提として受容れ、そこを回避することを揶揄したりもする。が、この倒錯した「受容れ」が虚構だと心底では知っているに違いない。サポートユニオンwithYOU に限らずユニオン運動が、困難な事態に在る学生と繋がる道理と必然が見える。
これから学生になって行く子女を持つ若い母親父親に、現実を伝えたい。