アジール 空堀 9月スタート前の最終ミーティング
昨夜(8/25)、「アジール 空堀」の発起人たちでスタート前最終ミ-ティングを行なった。台風下のヤバイ天気予報にも拘わらず、韓国・与那国島への各種活動出張の一部メンバーを除き11名が集まった。本日は「アジール 空堀」の題字揮毫の今野和代さんも登場。
大型スクリーンのお披露目・宣伝パンフの分担分持ち帰り・ワンプレートの内容確認・新規企画の提案などあり盛上った。
9月17日(木)の 第一回イヴェント:趙博ライブ『パギ・コミューン』を皮切りに永く続く「おもしろ空間」を目指します。
現在決定しているイヴェント:
9月17日(木)趙博ライブ『パギ・コミューン』
10月15日(木)『熊沢誠 映画を語る』-労働コミュニティの動揺と再生…イギリス炭鉱労働者の周辺-
11月12日(木)ナオユキ『スタンダップ・コメディー・ショー』
以降 日程・タイトル 検討中
12月 教師漫才(発起人のお連れ合い他2グループ)
1月 今野和代『ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら―ポエトリー・リーディング 』
2月 金洪仙 お話『キム・ホンソンという生き方』
3月 ロス・チャンカス『フォルクローレの夕べ』お話「コンドルは飛んでいく-先住民族の抵抗歌を巡って」(三浦俊一)
4月 ニランジャン(マイケル・ステューバー)「タップダンスの歴史と実舞踏」
ブロートウェイ『コーラス・ライン』出演経験者
たそがれ映画談義: 『日本のいちばん長い日』
8月8日、映画『日本のいちばん長い日』が公開される。
原田真人監督、半藤一利原作。
ポツダム宣言受諾を巡る、軍強硬派・政権中枢・宮内庁の闇闘のノンフィクションだ。
かつて(1967年)、岡本喜八監督の手によって映画化された。確か、大宅壮一原作とあった。今回、原田が映画化した。
『さらば映画の友よ』(1979):
全共闘シンパの青二才(副主人公浪人生)のふと言ってしまった気分・グチ「(俺が恋する彼女=<若き日の浅野温子>をイロにしている)(あのヤクザを)殺してやりたい」を実践してしまう、元映画大部屋俳優・うなぎ屋職人(主人公:川谷拓三)の、ヤクザ親分刺殺。青二才との約束(?)に賭けた「思い込みの美学」「一匹狼の言行一致」。ヤクザ刺殺の現場には、何と「東大安田講堂攻防戦」の実況中継がTVかラジオから流れているのだ。青臭いボクへの痛烈な皮肉だと想えた。
『バウンズ ko GALS』(1997):
渋谷の街で「援交」を巡って、銭は奪うが体は許さないという荒稼ぎ。ヤクザを敵に回し動く、3人娘の痛快活劇。インテリヤクザが元全共闘(役所広司)で、その知的仲間らしい桃井かおり。自嘲気味にインターナショナルを唄ったりするのだが、桃井が出て来ると(『われに撃つ用意あり』もそうだった)、ホンマぽくってだから嘘くさいのだが、主人公の3人娘は、役所・桃井を超えて鮮やかだった。まぁ、寓話だが、ここでも全共闘の無惨を言っていた。
『クラーマーズ・ハイ』(2008):
地方紙記者の矜持と、読者獲得・全国紙への対抗心・言論内の政治的忖度との葛藤、などが重厚に描かれていて、好きな作品だ。これは原作の力か?
今回の映画化、役所広司のインタヴュー「一人責任負った阿南に共鳴」などから、阿南陸相を称え、アジアへの視線の欠落・対米戦争だけを特筆、また天皇の「積極関与言動」を免罪する映画なのかもと不安もあるが、「軍をなくして国を残す」と言ったとされる阿南陸相の言葉を引用した原田のコメント記事を読んで、観ようと思っている。
前天皇の、対中戦争~日米開戦前夜~真珠湾奇襲~ミッドウェイ海戦~サイパン陥落~沖縄戦~ポツダム宣言受諾、都度の言動は戦後いくつか明らかになっている。「ご聖断」の時期によっては、大空襲・沖縄・広島・長崎は避けられたのだという指摘や、戦後アメリカに沖縄を進んで差し出したという言動証言が、本木雅弘という端正なマスクの誠実青年の起用をもって歪められるのか? 気がかりだ。ポスターの各コピーにその傾向を観てしまふ。
ほろ酔い通信: 「百万本のバラ」と居酒屋に貼られていた新聞
本日夜、某行動の帰路、カラオケへ。 同行者がペレストロイカのテーマソングと称される『百万本のバラ』を唄った。いい歌だ。
ぼくの記憶では、この歌の原曲は、ラトビアの放送局が主催する歌謡コンテストに初出して高評価を得たラトビア語の歌謡曲だ。 歌詞の内容は、ヒットしたロシア語版やその内容を踏襲した日本語版とは全く異なり、大国にその運命を翻弄されてきたラトビアの人々・民族・社会の苦難の歴史を暗示するものだったという。いい曲だったし当地でのヒットもあって、目を付けた詩人や製作組織が、ロシア語版の絵描きの物語を付けて世に出した。ラトビアの作曲家が書いた曲に、ロシアの詩人がグルジアの画家のロマンスを元に詞をつけたという歌詞の内容は、グルジアの画家ニコ・ピロスマニがマルガリータという名の女優に恋したという逸話に基づいているらしい。 果たせるかな、大ヒット。
旅役者(女優)に恋する絵描きの歌詞も悪くはない、けれど本来、少数民族の永年の受難・悲哀・抵抗・希望を歌い上げた「願い」と、大国の横暴を糾す抗議の「意志」の歌であった。 ペレストロイカのテーマソングだと言われ、広く唄われた背景には、少数者の抗いへの共感という心情が脈打っていたのだ。と、ぼくはそう思う。 深夜ハシゴした居酒屋のトイレのタイル壁に、沖縄独立を願う「(仮想)新聞」が貼られていた。
ぼくは、『百万本のバラ』を想いながらその紙面に見入った。 その紙面の隣の鏡には、沖縄の歌をすぐには歌えはしないぼくが映って居る。
つぶやき: 母を見舞いて兄弟集う
数日前の夕刻、特養に居る母95歳が午前中から高熱だと連絡があった。
肺炎との見立てで入院勧告となったが、本人が入院を拒否とのこと。
で、夜にはなったが駆けつけた。熱は引いており、様子を見ましょうとのことで、会話や顔色からは「元気」に見えた。頻繁に看てくれている大阪在住の弟が、兄弟に連絡を入れていたので、翌々日息子四人がそろって見舞った。
齢から考えればみんなが駆けつけて当然。母の熱は下がり、安定。
医者曰く「オバアサンの勢いに押されて肺炎が逃げましたかな」とのこと。風邪だろうか。
一安心で一杯。兄弟だけで全員揃って呑むのはたぶん初めてだ。
右から、兄(1942年生まれ72歳) 兄(45年生69歳) ワシ(47年生67歳) 弟(50年生65歳)。
(撮影:遅れて参加の我が家の主)
駄エッセイ: 勝海舟と安重根 もうひとつの東アジア
6月13日「関大校友連絡会」 第11回反戦・反格差市民セミナー
「日韓条約締結から50年を振り返る」
(講演:元韓青同委員長:金光男<キム・クァンナム>氏、平野区民センター、13:50~)
1951年から1965年まで、実に14年に及ぶ長期交渉の果てに締結に至った日韓条約。
植民地と宗主国の関係を色濃く投影したその内容・問題点、国連決議「朝鮮にある唯一の合法的な政府である」との前提と米・韓・日軍事協力と北朝鮮排除の基本姿勢、韓国側の経済発展を急ぐ事情、条約締結後の日本の経済進出一貫した日本の貿易黒字、未解決事項、等々・・・・・・・を戦前の植民地支配と戦後東アジア史総体の中で解り易く語られた。
話は飛ぶが、校友連絡会のS氏とこの40数年の間に何度も次のような話をしたことがある。
『現代日本社会の根っ子の矛盾・難題を考えると、どうしても敗戦時の連合国の戦後構想・日本支配層の思惑・米ソを中心とした戦後世界秩序の出発地点に行き当たり、そのことは当然第二次世界大戦~大戦以前の世界構造に突き当たる。そして、それは明治維新、天皇制明治国家=擬制近代国民国家黎明期まで遡らざるを得ない。想うのだが、アジアが次々欧米の植民地になっている中、そのことを避けつつ、遅れて来た国民国家としての明治が発展を遂げ、先行する欧米に追い着くに、変形開発独裁(日本の場合、天皇を活用した軍事独裁)や、周辺国侵略・植民地化という方法以外の方法が、果たしてあり得ただろうか。明治日本が採用したカタチを肯定する文脈でも、昭和の本格侵略を免罪する文脈でもなく、いわば「もうひとつ」の明治、「アナザ・ウェイ」、オルタナティヴな在り方があり得ただろうか? そこのところを解き明かさないと、大東亜戦争肯定論や昨今の「昭和の戦争」賛美小説や映画はともかく、明治が国を成しよく生き延びるには、他の選択肢は無かったのではないか? という司馬遼太郎的「明治国家観」に対抗できない。あるいは、漱石や啄木の憂鬱・悲哀から、よく脱け出せはしないなぁ』 と。
本日、講演の金光男氏から素晴らしいヒントをもらった。
勝海舟は、日清戦争開戦に当たり猛烈に反対し「それでは欧米と同じことをすることになる」と看破したという。
また「朝鮮併合」にも反対した。
1909年10月26日、初代韓国統監:伊藤博文をハルピン駅頭で暗殺した安重根は、その未完の著書『東洋平和論』において、
①「日本と朝鮮と清」による経済共同体。
②共通通貨(円を想定していた)
③三国による共同軍の創設
を説いていたという。『大東亜共栄圏』が、日本の利害に基づくアジア強奪を柱にした対欧米構想だとしたら、安重根の『東洋平和論』は対等共同の対欧米を内在する東アジア版EU構想だった、のか。
目からウロコだ。欧米に遅れること150年(以上)の明治日本が、その後昭和の戦争・沖縄地上戦・二発の原爆から敗戦にいたる道程の、そのスタート地点で構想し得たはずの、有り得たはずの「もうひとつの明治」を、日本国初代総理大臣伊藤博文を暗殺した安重根が提示していた。
なんという歴史の皮肉。何という高説。
安倍が繰り出す「積極的平和主義」「集団的自衛権行使」という名の、戦争する国・海外派兵への道という総論に対抗する
東アジアの「民」の側の「総論」を、ぼくらは持たねばならない。
つぶやき: 母からの電話 83年前の記憶
去る5月15日、東京に居たぼくに、北摂の某特養に居る95歳の母からの電話が鳴った。何か急用か・体調の急変などのSOSか? とビビったのだが、枕元の命綱(実際、母は電話魔なのだが)を間違いで押してしまったとのことだった。
近況報告を聞いていると「今日は、何の日か知ってるか?」と来た。
この齢で時事問題など語る人なので、「安保法制と言う名の戦争法案が国会に上程された日と言いたいんやろ」と言ったが「そうかいな、違うねん」。
「1972年に、沖縄県が再び日本の一部になった日と言いたいんか?」「ちゃう、ちゃう。それもちゃう」。
答えは、「あのな、ワテが小学校6年の時に、ゴー・イチ・ゴー事件(1932年)というのがあってな、先生が、日本はこの先暴力と軍隊が牛耳る世の中になるかもわからん。みなさんは自分の眼でシッカリと社会を見るように。女の子は大人の言うことだけを聞いていてはいけません。自分で物事を判断できるように勉強しなさい。と言わはってん。」だった。
大阪ど真ん中、薬問屋が犇めく街の商家の娘だった母の記憶は鮮明で、「その話で、一番何を憶えてる?」には、こう答えた。
「日本はどないなるんやろうと、ムチャクチャ怖かった。ほんで、最後は空襲と原爆や。戦後想うたのは、あの時の先生偉かったなぁ、ちゅうこっちゃ。孫(ぼくの子)が先生してるやろ、ええ先生になってほしいなぁ、思うてな。それと、曾孫(ぼくの孫)が戦争に行く世の中はかんにんしてんか、や」
大正~昭和~戦争~戦後~平成 を生きた普通の民の、胸と脳裏に刻まれた
「記憶」の濃さを想うのだった。軍靴の響きが大きくなって行く世に在って、そう語ったその教師の言葉が、今なお老婆の肉声となって生きているのだ。その教師の覚悟と矜持が伝わって来る。
因みに、この母の唯一のささやかな矜持は、「大手前高女」卒と言うことらしいとその言から推察している。戦後の共学制「大手前高校」のぼくと同世代者には東大全共闘議長:山本義隆さん、1967年羽田で殺された山崎博昭さん、作家三田誠広さんらがいて、大阪の巷だは「アカ」の高校だと言われたりしていた。