通信録: ゴミ屋敷回避作戦 Ⅱ
1月10日午後3時、年末からどこにも遊びに行けず取組んだ悪戦(?)を、ようやく一応片付けた。いや~、クタクタや。多くのゴミに囲まれ暮らして来たことだけが明らかになったが、この年末~正月の持久戦(?)で、意外な「行方不明」物にも遇ったのだ。
ご褒美は、18:00からの茨木駅前「ゆんたく」さんの新年ライブ。苦節15年の店を体力などの事情で閉められる。ワシも、自身の経験や身内が飲食を営むので、その労苦を知らないわけではない。ホントによくやったと思う。ご苦労様でした。
年末に見つけた画像左下ビラの集会(1989)に隣街から来て語ってくれた若い女性教師が、後年(2000)オープンしたのがこの店で、彼女はここのオーナー・ママという訳だ。奮戦には頭が下がる。彼女が上記ビラの集会=連続講座の第一回目『ゆんたんざ沖縄・上映会』で上映前に語ってくれた場面を鮮やかに思い出す(意志を持って設定した開催日は、2月11日だった)。15年間、お店にはそのハートが絶えることは無かった。
通信録: ゴミ屋敷回避作戦
年末から、6年ぶり(つまり2009年末にこの借家に転居して以来)に自称「書斎」の片付けが始まっている。年末・年始はアレコレ野暮用があり、子や孫に振り回され「年内はとうてい無理やなぁ、1月7日を期限とするか」とし、この月曜(4日)から追い込まれている。
ワシも同居人も、自ら設定した期限を再延長する訳にも行かず、今日はフル稼働。
元「書斎」:現「ゴミ置場(?)」のあまりの「捨てるべき物」の多さに、「まぁ、先は見えて来たな」と自己に甘い呟きを何度も繰り返しては、「ワシが東京滞在が多い間にこんなことにされた」「大阪滞在時は連日悪友と呑み歩いて深夜帰宅、片付けは放ったらかし」と応酬し合うのを辛うじて避けている。
笑ってしまうのは、同居人がハンディ・モップで埃を拭おうとしている棚板の上で皮肉な自己主張をしているのは、数年前発行の『すっきり片づく収納ワザ』なるハウツー本。
本人がそれに気付いてないのがご立派。
部屋の片面には、もう嵩張って困りものの「古い(それでもお宝の)ビデオ作品」、そのガラス戸から気合を入れてくれる南米のあのお方、サダ画伯渾身の「兼好法師:徒然草・第百五十段」、そして反対側では箪笥上の小引出のてっぺんから、6年前の引越にも付き合った猫が呆れ顔でアホダラ夫婦を見下ろしている。当時4歳・現在10歳だ、彼女とて若くはないのだ。
明日終わるだろうか? ん、終わるやろ。ン十年ぶりに映画の額に再会!
アジール 空堀:交遊録: 3月「フォルクローレの夕べ」 打合わせ
「アジール空堀」の3月度ライブは、
10日(木)のロス・チャンカスによる『フォルクローレの夕べ』だ。間に、たぶん味わい深いだろう「お話」が入る。
チャンカスの名の由来は、インカ族との戦に敗れたチャンカ族。演者のヘーゲルさんはその末裔。そのアイデンティティの核は「チャンカ族は滅びず」だという。
「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」の大阪駅前を覗いて、講演予定者:釜日労の三浦俊一さん(偶然にもワシと同年同月生まれ)と合流。仲間から、しばしば「似ている」と言われ続け、悪い気はしない御仁だ。
彼の構想を拝聴すべく堂山町行き付けへ。
ライブ2ステージの間にはお話を入れる予定だ。彼からは、「コンドルは飛んで行くは先住民の抵抗歌だ」と題して、「先住民の抵抗」「民衆と歌謡」「民族の魂」などについて時空を縦横に駆け巡って辿り、できれば沖縄にまで駆け抜ける話を、と聞いた。二人だけで呑むのは初めてだったが、実にいい酒だった。
19**年の〇月〇日、同じ場所に居たことが分かり、その場に居た者だけが知るエピーソードで大いに盛上った。目の前の*茶の*駅、聖橋を渡ると見せて急左折、数倍の***を実力突破・秋葉原へ猛進、あれはスゴかったなと言い合って、直後には苦く沈黙。互いに、その後のやや隔たっていて・やや重なっている悔悟の歳月が押し寄せているのか。
「どうすれば、失敗や間違いや無惨に辿り着けるのか?それだけは語れるかも」
「それが、爺にできることかも」と、言い合って杯を交わした。
数日後の三浦氏からの返信FBコメント:
三浦俊一: いやー美味な酒だった、勝手に喋り過ぎず時に沈黙があって、大人の酒を飲んだ気がします。
駄エッセイ: 「蛍の光」と沖縄
「蛍の光」と沖縄
先日、友人が「蛍の光の歌詞、最近3番4番を知ったんやけど、ありゃヒドイね。作詞時(明治10年代初頭)の国策のままで、領土拡張・富国強兵・国威高揚・排外主義・覇者の施し・銃後の少国民の覚悟を謳っているんやで。」「歌詞を変えろ」と怒っていた。
知ってる?と訊かれ頷いたが、記憶は曖昧。ちょっと、確認してみた。
①
蛍の光 窓の雪
書読む月日 重ねつつ
いつしか年も すぎの戸を(杉と過ぎるを掛けている?)
開けてぞ今朝は 別れゆく
②
止まるも行くも 限りとて
互みに思ふ 千万の(かたみに{互いに}おもふ、ちよろずの)
心の端を 一言に(想いの端々を一言にまとめ)
幸くと許り 歌うなり(さきくとばかり、「無事で」と歌うなり)
③
筑紫の極み 陸の奥(建国神話さながらに、九州の果ても東北の奥地も
海山遠く 隔つとも(帝国の津々浦々は、隔たった地であっても)
その真心は 隔て無く(拡張して得た地も含め大御心に隔てなく)
一つに尽くせ 国の為(汝ら一つになって国に尽くせ)
④
千島の奥も 沖縄も(異族の地・地と海の果てたる千島列島も琉球も)
八洲の内の 護りなり(皇国大八洲の内、防衛壁なんだ)
至らん国に 勲しく(いさおしく)(日本の支配が及ばない地域には勇敢に)
努めよ我が兄 恙無く(つとめよわがせ、つつがなく)
「ニッポンを取り戻す」派の人々が泣いて歓ぶ歌詞であるが、言外に、その真心に「分け隔て」や邪心が在ること、国の成立ちの古からの強奪の史実、文物歴史の剽窃、さらなる発展は「国を挙げて突き進め」と鼓舞し続けねば維持できないと、ゲロっているのだ。
原曲の地(スコットランド)の人、エリーさんが泣いているぞ!
Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne?
CHORUS:
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we’ll tak a cup o’ kindness yet,
for auld lang syne.
And surely ye’ll be your pint-stoup !
And surely I’ll be mine !
And we’ll tak a cup o’ kindness yet,
for auld lang syne.
(CHORUS)
We twa hae run about the braes,
and pou’d the gowans fine ;
But we’ve wander’d mony a weary fit,
sin’ auld lang syne.
(CHORUS)
We twa hae paidl’d in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar’d
sin’ auld lang syne.
(CHORUS)
And there’s a hand my trusty fiere !
And gies a hand o’ thine !
And we’ll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
(CHORUS)
旧友は忘れていくものなのだろうか、
古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。
コーラス:
友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。
我らは互いに杯を手にし、いままさに、
古き昔のため、親愛のこの一杯を飲まんとしている。
(コーラス)
我ら二人は丘を駈け、可憐な雛菊を折ったものだ。
だが古き昔より時は去り、我らはよろめくばかりの
距離を隔て彷徨っていた。
(コーラス)
我ら二人は日がら瀬に遊んだものだ。
だが古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。
(コーラス)
いまここに、我が親友の手がある。
いまここに、我らは手をとる。
いま我らは、良き友情の杯を飲み干すのだ。
古き昔のために。
(コーラス)
アジール 空堀: 趙博「声体文藝館」『飢餓海峡』 熱演
「アジール 空堀」第4回イヴェント
15:30~ 声体文藝館『飢餓海峡』(舞道ダンスシアター)参加者43名
18:00~ 懇話食事会(ビストロ ギャロ)参加者22名
パギの『飢餓海峡』は一段と磨きがかかっていた。
内田吐夢の作品のストーリーとセリフ(主演:三國連太郎・伴淳三郎・左幸子、助演:高倉健・加藤嘉・他)の(モノマネが見事!)をほぼ踏襲しつつ、どの主演者の視線で物語全体を俯瞰するのか?へのこだわりが一層明らかになっている。
杉戸八重(左幸子)が乗り移って演じるパギの語りと動きは、1947年という戦後間もない社会の、総体としての貧困・不安・混乱を超えた、極貧・報われることの無い善意・出口のない境遇を、背負い生きそして果てた一人の娼婦八重の側から描きながら、そこに立場や生業や社会的位置を超えて在る人間の、ある《誠実》を必死に描こうとしていた。
硬直したの女性論・人権論の向こう側に時に透けて見える建前に、理論や新しさで向かうのではなく、世情や処世に動じることの無い《情》や弱者のかたくなな《信》を対したいが、パギの主旋律は、例えばグローバリズム信奉連呼の中の、産業民主主義を唱え実践するオールド古風経営者のように、それは無効かもしれないが、そこに必ず、大げさに言えば人類史のある可能性が在るのだ、という信念の表れかもしれない。
伴淳刑事が語ったように、物語が「層雲丸事件」の裏面史だとしたら、パギ:声体文藝館「飢餓海峡」は、文字通り映画「飢餓海峡」の裏面譚なのだ。
演歌の採用には異論もあろうが、小説も詩もが表せない情感や肉声や想いの核心を、例えば優れた短歌が詠い遂げることがあるように、演歌にはそのような底力があるかもしれない。採用される石川さゆりの演歌「飢餓海峡」がそこに届いているかどうかワシには解らないし、ただちに却下する知恵を持たない。八重の真情・心情・信条を限られた条件の中で表す方法論を持ってはいない。
特筆したいのは、春間げんさんのピアノ、呉光雨さんのライティング!
最高でしたで。
写真上:八重を演ずる趙博
写真下:懇話食事会風景
つぶやき: 母卒寿祝誌に載せられた拙文
FB投稿にこう書いた。
「脚切断の母を見舞った時に去来した想いをヘタな歌に詠んだのは、切断の二年ほど後だが、目にした母から何か感謝めいたことを言われたのだが思い出せない。「エヘヘ…」と照れを返しただけで話していない。バカ息子だ。
母の遺品の中に、2010年に行なった「卒寿祝いの会」当日に発行した冊子があった。
孫(ぼくの子)の女房が会場で曾孫たちの手形を採ったり、ポラロイドカメラで即画像を用意したりして、「当日作、当日渡し」に拘り腐心して作った力作だ。その末尾にぼくの駄文を載せてくれている。
それを読むうち、その冊子がいつも特養の母自室のベッド横チャブ台に置かれていたのを思い出した。いつだったか、ぼくの一文を読んだ母が何か言ったと思うのだが、その言葉も思い出せない。
母が何を言ったか…と、弟などに訊き歩いている。
ブログやFBしている者は、アップすることで相手や社会に「言った」気になっている面がある。冗談ではない、一部以外の目には届いているはずもない。ましてや、脚切断後の母は、時に車椅子でいる時以外、紙媒体資料を視ることなど無かったはずだ。この記憶探し自体に、ぼくの無理解が在りそうだ。 写真下段は、子(と配偶者)・孫(と配偶者)・曾孫、総計三十数名に囲まれた卒寿祝宴席で。