ぼやき: 島尻の「歯舞」読めずの深淵
政府答弁書までウソをつくようでは安倍首相もおしまいだ
2016年2月20日 天木 直人
島尻安伊子沖縄・北方領土担当大臣が北方4島の一つである歯舞諸島を読めなかったことは、おもしろおかしく報道されて、もはや日本人で知らない者はいない。
テレビで流されるあの時の映像を見れば、島尻大臣が読めなかった事は明らかだ。
どう読むのか教えてくれと側近にささやいてる声まで流されていた。
それにもかかわらず、安倍内閣は19日の閣議で「読み方を知らないと言う事実はない」とする政府答弁書を決定したという。
いくら安倍首相が嘘つきだと言ってもこの嘘はない。
嘘をつくことはその場限りで終わってしまう。
国会答弁の修正はできる。
しかし閣議決定を経た上の政府答弁書は公文書として永久に残る。
政府答弁書を修正するなどということはあり得ない。
安倍首相の嘘もここに極まれりだ。あまりにも愚かだ。
読めませんでした、そんな政治家を担当に任命した私の責任です、と正直に認めれば国民は許したろうに。
正直になれない安倍首相はこれで終わりである(了)
旧唐書:『日本国は、倭国の別種なり。その国、日のヘリに在るが故に、日本を以って名と為す。あるいは曰く、倭国自らその名の雅びならざるをにくみ、改めて日本と為す、と。あるいは云う、日本はもと小国にして倭国の地をあわせたり、と。その人にして朝に入る者、多くは自ら大なるをほこり、実を以って対せず、故に中国はこれを疑へり。また云う、その国界は東西南北各数千里、西界と南界は大海にいたり、東界と北界には大山ありて限りとなす。山外はすなわち毛人の国なり。』 読み解けば、「日本」は倭国とは政権が別の国家で、倭国よりは日に近いすなわち東に存在し、しかも倭国がなんらかの理由で衰えたのを合併し、列島の統一王権を形成した国である、と言うことができる。 その国とは、紛れもなく「大和王権」であろう。
倭国が日本に併合され統一国家が生まれたのは、上の<倭国>記事の最後の年号・貞観22年すなわち648年と<日本>記事最初の年号・長安3年すなわち703年の間のことである。648年から703年の間に生起した九州倭国を揺るがせた大事件と言えば、663年の「白村江の戦い」の他にはない。したがって前の段落で「なんらかの理由で衰えた」原因こそがこの「白村江の戦い」でなければなるまい。戦いは海戦で、倭国の水軍400艘が海の藻屑になったと言われる消耗戦であった。これにより九州倭国は立ち直れないほどの痛手をこうむったのである。
そのために対外的には倭国として権力を振るってきた九州国家は勢いを失い、変わって畿内大和王権が「日本」という新国家体制(唐の制度にならった律令体制)を建設し、列島を統一したのであった。おおむね天武王朝から文武王朝の時代にかけてそれは完成したと見てよい。やがて、列島支配の大和覇権は、8世紀(700年代)末の蝦夷地への強奪戦(アテルイ vs 坂上田村麻呂軍)へと至る。島尻が蝦夷地「歯舞」を読めないことの深層は、文字通り「深い」。
アカデミズムがある種の「徒弟制」で成り立っており「ムラ」で論じた学績を教授になった途端「ゴメン、今までのは嘘です。実は…」とは絶対ならず、原子力ムラのように「古代史ムラ」なんです。「記紀」を相対化する道、列島を東アジア古代史・列島内覇権史の中へ解き放つ道は遠い。
たそがれ映画談義: 夏(7月19日)、原田芳雄5周忌
夏(7月19日)、俳優原田芳雄(1940~2011)が71歳で逝って早や5年になる。
原田が演じた「命」「輝き」「死」を巡っての二つの映画を想う。
夏前に、原田の5周忌として、「アジール 空堀」で『火の魚』上映会しようかな、と考えている。ご同意の方、通信下さい。
【われに撃つ用意あり】(1990年公開)
先日、CS放送が若松孝二監督:『われに撃つ用意あり』(原作:佐々木譲「真夜中の遠い彼方」)、を放映していた。映画公開から何年か経った1997年に観た。今回、約20年ぶりに観たことになる。
原田芳雄・桃井かおり・石橋蓮司・蟹江敬三・西岡徳馬・小倉一郎・齋藤洋介・佐野史郎・麿赤児・室田日出男など、「なるほど」(1970年前後を彷彿とさせる?)の面々が出ていた。1990年公開とある。
観た当時は、桃井には何の責任も無い彼女の「70年前後」っぽい(と世間が思っている)雰囲気と、彼女の態度やセリフが気恥ずかしく・白々しくて、好きな映画とはならなかった。云わば「当事者ではない者」による虚構臭がしたのだ。
全共闘として60年代末を闘い、仲間たちや元全共闘の群れから離れ歌舞伎町で飲み屋を営む主人公:郷田(原田)。世を棄てているのでも昔の仲間とは違うと力んでいるのでもない。云わば自分には、「あれ」以降を上手く生きることが出来なかった。ただ、それだけだ・・・、と思っている風だ。事実、今夜で閉店という店に、今日は昔の「仲間」が集って来ている。店に連れて来た教え子たちに嬉々としてかっての「68年武勇伝」を語る予備校教師、ベトナム難民救済運動に力を注ぐ事であの時代との接点を持ち続けようとする都議会議員、バンコクでの買春を自慢げに語る広告代理店社員、如才なく事業展開させている不動産屋、新聞配達で生計を立てている巨人ファンの男、そして、主人公のかっての同志で恋人だった雑誌編集者:桃井・・・。郷田は彼らを羨むことも蔑むことも無く、淡々と付き合っている。
その営業最終夜、追われて息咳切ってその店に飛び込んで来たのは、タイ領内の難民キャンプから来たベトナム人の少女。人身売買のヤクザを射殺し追われているという。郷田は彼女を助け匿う。
密入国・・・、警察への通報とは行かない。撃つ覚悟を持ってしか対峙できない相手は、新宿を牛耳る暴力団と香港マフィアだ。「あれ」以降、郷田が沈黙し行動停止して来た何かに炎が灯る。それぞれの対応に、それぞれの現在が映し出されるという「分かり易い」色分けだ。
68年10.21の映像が何度も流れる。これは、新左翼運動史を綴ったドキュメント映画「怒りをうたえ」からの引用だ。
「あの時代をどう総括し、どうオトシマエをつけたのか? 若気の至りとばかりに社会人として成功する者、拘り続けて取り残される者、いかにも、と思えるそのコントラストの描写が見事だ。」と映画解説チラシにあったが、当時「そうなのか?」と違和感を抱いた。勝ち組(俺たちは現象的には負けたとしても、その根本において、その精神性において「勝った」のだとして総てを見ている、ワシとは違う人々。)の匂いがした。
桃井の「それっぽい」風貌や語り口はともかく、仰々しいスジ立てや派手な立ち回りの物語に辟易したのだ。桃井が、仕事や立場や女性の現実的条件を顧みず、暴力現場の「道行き」に同行決行の姿は、活劇を超えマンガだ。物語のリアリティ(が在るとして)を損なわせている、と想った。
何故ここには、ある種の労働現場性・現業性・日常性の中で、なお「我らの隊列」を模索しようとする人物が不在なのか?
何故、このような「撃つ」用意だけが、我らに欠けていた・我らが確保すべき「用意」だと思うのか?
その非日常への過剰な傾斜・想い入れが、逆に「当事者でない者」による虚構臭の核心ではないのか?そう想って観ていた。
この作品を観た97年当時、ぼくは1977年に始めた労働争議の果ての職場バリケード占拠・労組自主経営企業の、経済的断末魔の中でこれらのクエスチョンを抱いていた。(1998年に労組自主経営企業は、20年強の悪戦の果てに破産する)
今回観て、ふと先年見た原田の準遺作『火の魚』を想った。
『われに撃つ用意あり』1990年、原田50歳時(1940年生まれ)、命のやり取り、ハードボイルド(?)。
『火の魚』2009年、原田69歳、死の2年前。若い編集部社員:尾野真千子とのやり取りが映し出す「いのち」「死」「輝き」・・・。
原田は自身の癌を知っていたと言われている。
【火の魚】(2009年初放映TVドラマNHK広島)(文は、2013年ブログより)
『大鹿村騒動記』(おおしかむらそうどうき)が、2011年7月16日公開され、
公開3日後の2011年7月19日に原田が死去したため、この「大鹿」が彼の遺作だ。
が、ぼくは2009年初放映のNHK広島局の『火の魚』が遺作と呼ぶにふさわしいように思っている。
2009年 NHK広島放送局制作。ギャラクシー賞・イタリア賞・放送文化基金賞など多数受賞。
広島の小さな島から届けられる物語。テーマは「命の輝き」。
先日、原田芳雄の二周忌だった。彼の最晩年のTVドラマ『火の魚』(2009年)の再放送を観た。クレジットに原作:室生犀星とあった。原作は1960年の作だというが、時代を現在に移したシナリオに違和感はない。違和感がなく今日の視聴者に届くというそのことに、何かの可能性と作者の「力」を観た想いがする。
初老の元人気作家:かつて直木賞も受賞した自称文豪村田省三(原田芳雄)は、故郷の島へ帰って単身で暮らし、奇行(?)から「変人」扱いされ嫌われ者として作家活動を続けている。ある日、出版社から原稿を取りに編集者:折見とち子(尾野真千子)がいつもの男性編集者と違っていたことを、出版社に軽んじられたなと激しく立腹する。若い女性編集者を、見下し小バカし、偉そうに命を語り、人生を説く。彼女がかつて子どもたちへの影絵人形劇に取り組んでいたと聞くと、島の子どもたちにしてやれと強引に指示する。折見の側も怯まず、村田の直木賞受賞前後以降の作品は「なまけている」し「売文」だと内角直球の辛辣批評。連載中の作品に対しても、作品に登場する「金魚娘」を酷評し、「描かれている女性はカラッポでいただけない。メイド喫茶のメイドのようだ」と抗議。メイド喫茶を知らず「冥土か?」とたじろぐ村田が「お前、俺の作品を読んではいないんだろう?お見通しだ。」と返すが、折見は村田の全作品すべてをキッチリ読み込んでいた。
次の連載分を受取りに来た折見は、「金魚娘」の死と連載終了を知らされる。村田は「お前のせいで金魚娘を殺したんだ」と嫌味を言う。彼女が「魚拓作りは得意なんです」と漏らすと、すかさず単行本化に備え表紙を作ろうと言い出し、表紙画に金魚の魚拓をと、執筆机の金魚鉢の金魚の魚拓を作らせてしまふ。歳を重ね「ふんべつ」盛りでもある(はずの)村田は、度重なる無理難題要求の末に、意地悪く明らかに筋違いの悪ガキの「好きな子虐め」のような、「金魚娘殺し」(?)への報復遊戯の挙に出るのだった。
金魚に薬品を注射し「いのち」を絶ち魚拓を作る、そのシーンの原田と尾野の息詰まる演技は圧巻だった(これは性的関係願望の代替行為だ、と某ブログにあった。が、そう言い切ってしまっては、ここの想波の屈折からは離れてしまふ)。 これは「師弟愛」なのだ。
尾野の頬をつたう涙…。
日が経っても表紙の完成の知らせが無いことに苛立つ村田は、出版社に催促の電話を入れ、意外なことを知らされる。女性編集者折見は入院中だった。しかも再発による再入院だ。
慣れない花束を抱えて、9年ぶりの上京を敢行して都内の病院へ見舞いに行く村田。抗癌剤の影響で脱髪して帽子を被った彼女との、病院中庭でのラストシーン、その遣り取りに凝縮する、初老男の悔悟・恋情、死に向かう若い女の誠実な「生」・その秘やかで毅然とした矜持……大作家を向こうに回して全く怯まない折身さん…。
尾野真千子さん、ホントに見事だった、素晴らしい。原田芳雄はいつも通り「ぼく好み」だった。
「先生がそんな大きな花束を持ってかれこれ2時間も座っておられるせいで、病院中の女が色めき立っております。」
「折見・・・悪かったな」
「何のことでしょう?」
「すべてだ。気の進まない人形劇をやらせ、年寄りの愚痴を聞かせ、金魚を殺させ…」
「先生。私、今、モテている気分でございます。」
「あながち、気のせいでもないぞ。」
若い者の癌。半年か、数年か…やがて折見は絶命するのだろう。
脚本:渡辺あやさん、素晴らしい!
『われに撃つ用意あり』(原田芳雄49歳、若松孝二53歳、佐々木譲40歳)の後半のある種の軽さや擬ハードボイルド調展開への違和感は拭えないのだが、『火の魚』を思い出したからか、「死生観」や自他の「いのち」に向き合う固有のハート・時代を生きるある誠実を思った。二つの映画を足して二で割れとか、その中間に答えが在るとか、そう言いたいのではない。異なった位相に棲む心の振幅を二つながらトータルに感得するところに、ぼくの「撃つ用意」を築きたい、そう思ったのだ・・・。
アジール 空堀: 二月、お話 『キム・ホンソンという生き方』
2月18日(木)19:00~ 「アジール 空堀」2月度集い(お話と食事の会):
『キム・ホンソンという生き方』
12歳の時兄上の家内工場での事故で両手の先を喪い中学通学を断念してから、孤独な読書とTV名画座に明け暮れた自宅内での苦闘の末、文字書き・食事・生活能力を獲得する。新聞広告で目にした大阪文学学校は、問合せ電話で伝えた「在日・障害・中学を出ていない」に「そんなんは関係ありません」と答えてくれた。姉上に付き添われ入学する(1970、18歳)。
「雨の降りそうな日はどうしよう」と思案し、植木等のCMで有名な「何である、アイデアル」からワンタッチ開きの折畳傘を知り、そうだこれだと思い付く。が、後日そのCMが何年か前から流れていたと知る。
金洪仙さんの語りの圧倒的な力強さの、その根拠を知るのはここからだ。
『自分は外に出よう・文学学校に行こうと思えてはいなかった日々に、このCMを何度も観ただろうに、その利便性と能力に気付かず見過ごしていた。自分の身に振りかかる困難があって、自分に切実な希いや要求が生まれそれを強く持てた時、人は見えなかったことに気付くのだ。』と自覚する。
そう思える知力・想像力・相対化力・俯瞰力、つまりは本源的「謙虚」こそが、彼女の力強さの根拠であり、お話や人柄から滲み出る「ポジティヴ」の震源地だ。それは、例えば「かつて子ども時代に乗ることが出来た自転車に乗ろう」と挑み成し遂げてしまう、「したい」から「できる」へと構想する考えの組み立ての根拠にもなっている。あゝ、お気楽に生きて来た我が身が丸見えだ。
大阪文学学校は彼女にとって「私の大学」なのだが、そこでの数々の珠玉の出会いと親交は書物でも紹介されている。
生涯の師と言える金時鐘さんが、彼女も聴いている場で「ミロのヴィーナスは、なぜ美しいか」と語る。その言葉に「あゝ、私のことを言ってくれている」と感じた感動と、生きる決意を確認するくだりは、震えるほど輝きを放っていた。金時鐘さんが続けて何と語られたのか、本をまだ読んでない方は、是非ご購入してお読み下さい。
品川塾誇大史: 蝦夷・アテルイ
大和朝廷を震撼させた雄:アテルイは蝦夷だ。
789年(延暦7年)桓武天皇の命を受けた征東大将紀古佐美に率いられた歩兵2万5千8百余人の大和朝廷の侵攻軍を、1500人ほどの軍勢で「衣川の戦い」において撃破。桓武帝の第一次蝦夷征服軍を解体に追い込む。792年(延暦11年)、征東大使大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂に率いられた十万余に及ぶ第二次征東軍の侵攻も跳ね返し、北上川以北の独立を守った。しかし20年近くに及ぶ戦争のため国土が疲弊し、801年(延暦20年)に征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂の採った各族長に対する「懐柔工作」によって組織自体が脆弱化し、対抗する力を失っていく。ついに802年(延暦21年)4月15日、盟友の磐具公母礼(いわぐのきみ もれ)等500余人と共に征東軍に降服する。田村麻呂が生命の保証をしたため、桓武天皇に拝謁すべく平安京へと上るが、裏切られ(騙し討ち)て捉えられ、803年(延暦22年)8月13日、母礼と共に河内国杜山で処刑された。一説によれば、坂上田村麻呂は朝廷にアテルイの「助命」を願い出ていたという。敵トップの武勇を称えてのことだとも、生命を保証した約束を破りたくなかったとも、全くの作り話だとも言われている。 朝廷の言い種『野生獣心、反復して定まりなし』
いいかげんに認めなさい。
この列島の多民族性、ノット単一性、元祖「合衆国」性、謀略と覇権強奪史を。
●会場国立民族学博物館 特別展示館
(大阪モノレール「万博記念公園駅」下車 国立民族学博物館)
●会期2016年2月25日(木)~5月10日(火)
●開館時間10:00~17:00(入館は16:30まで)
●休館日毎週水曜日(5月4日(水・祝)は開館)
※フランス・ブザンソン美術考古博物館所蔵の「夷酋列像」の展示は4月19日(火)までです。4月21日(木)からは、国立民族学博物館所蔵の「夷酋列像」を全面展開して、展示します。
つぶやき: 放送法に電波停止条項ありや?
放送法は、権力に電波停止の権能を与えてはいない。
例えば、『復讐するは吾に在り』というのは、「人間には復讐の権能を与えてはいない。それは吾の専権事項だ」とする「神」の言葉だ。
日本国憲法第97条:『この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。』
ここに言う「信託されたものである」の主体たる「信託主」は書かれていない。それは、憲法を含む法を超えて在るはずの、人類の永い歴史と智恵に育まれた、規範や人類倫理など天賦の価値云わば「神」的普遍性から「信託」されているのだ、と言っている。
放送法についていえば、第4条を根拠に、権力が報道機関に介入するなど、放送法の理念と全く反対のことなのだ。放送法における「放送の不偏不党」「政治的公平」とは、「放送による表現の自由を確保する」ためにあるのだ。
放送法における、「政治的公平」とは何か。同法4条には、次のように書かれている。
総務省は12日、衆院予算委員会理事懇談会で、放送法の「政治的公平性」の解釈に関する政府統一見解を示した。
見解は「『番組全体』は、国論を二分する政治課題で一方の見解だけを支持する内容を相当の時間、繰り返し放送する−−を挙げた。
市民団体「放送を語る会」と日本ジャーナリスト会議(JCJ)は12日、高市氏の発言に「憲法が保障する言論・表現の自由に対する許し難い攻撃だ」と抗議し、辞任を求める声明を発表した。【毎日新聞 2月12日20時】
ならば、国論が定着している事柄、(例えば「一内閣が憲法解釈を閣議決定だけで変更することは。立憲主義に反している」など)とは違う見解や行動を政権が強行すれば、それは国論の二分であり両論併記すべきだ、となりいわば政権のやり放題ではないか! 国論の二分を自作自演しているのは誰だ?
つぶやき: 『愚か者』(1987年)誕生譚。
昨年末、NHK「SONGS」伊集院静&近藤真彦対談より。
近藤のファンではないし伊集院の妙に「男の・大人の」美学云々連呼の言辞も、ワシが女々しい(これ差別的使用ではなく、ある親愛に根差した言葉)からか好きではない。
が、ここで伊集院が言った『背伸びして遠くを視なよ』には、最早背伸びするにも爪先立が3秒と続かないかもしれない身にもズシンと来た。かつてワシを含む周りがそうやって「遠くを」視ようとした日々と稚拙の先にあったはずの意味と価値を、例えば今、安倍政権を終わらせよう・安保法制を葬ろうと語り行動する若者と共有したい。
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(2015年12月11日 [NHK ONLINE] SONGS 367回 より)
近藤は80年のデビュー曲「スニーカーぶる~す」のカップリング曲「ホンモク・ラット」で初めて伊集院氏の歌詞に出会った。4枚目のシングル「ギンギラギンにさりげなく」で硬派な魅力でレコード大賞最優秀新人賞を獲得。この年の新人賞を総なめにすると、紅白歌合戦にも初出場した。近藤は「ギンギラギンを歌ったころから小学生、中学生、おじいさん、おばあさんから“マッチ”と呼ばれるようになった」と、この頃から国民的アイドルに成長したことを話した。
しかし、17歳で頂点に立った近藤は、20歳でアイドルとしてやっていけるのかと、さらに同時期に母親が交通事故にあい芸能人生に悩んでいた。そんな時に誕生したのが87年に発表した『愚か者』だったと話すと、「大人の酔っ払いの歌を歌わせてくれたのが嬉しかった」と当時の想いを打ち明けた。「(当時)22の僕には早いけど、『背伸びして遠くを視なよ』という(伊集院氏の)メッセージだったのですね」と納得していた。
アジール 空堀: 3月10日『フォルクローレの夕べ』 ハーフタイム・トーク
三浦さん、3月10日(木)『フォルクローレの夕べ』(アジール空堀イヴェント)用の
貴重で深い草稿拝読。知らないことがいっぱいで、南米の先住者の魂と、現代ラテンアメリカの心を読みました。ありがとうございました。
南米のいわば先史~スペイン支配~20世紀米国。キューバ革命・ゲバラ・ラテンアメリカ革命闘争・73年チリ軍事クーデター。
その全体像と脈々たる抵抗歌の歴史。
ピノチェト政権に虐殺された、チリの人気歌手:ビクトル・ハラ、死の直前に唄った『ベンセレーモス』(我々は勝利する)。
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貴メモにあった、ジュリエット・グレコさんに関する、天声人語。
一見「当事者」でない者が採り得る「当事者性」のひとつの極点だね。
『夜の森を思わせる深い声、語るような歌唱、黒ずくめの衣装、宙を舞う両の手。どれも22歳のデビュー当時からだ。自由を愛し、強者や権力を疑う生き方も変わらない。ナチス占領下のパリで、レジスタンス活動家の娘として秘密警察に拘束された体験が原点だろう。
すでに大御所だった1981年、チリのピノチェト独裁政権の招きをあえて受け入れた。軍幹部と家族が聴き入る御前コンサートの途中から、軍政が禁じた抵抗歌を続け、直ちに国外追放となる。いかつい兵士に囲まれ、空港へと連行される報道写真はフランス人を熱くした。本人は「生涯最大の勝利」と振り返った。』( 2007年天声人語)
たそがれ映画談義: 山田洋次新作『家族はつらいよ』
『男はつらいよ』の間に撮った1970年『家族』は秀逸だった。
以来、寅さんシリーズ最終作1995年『寅次郎 紅の花』までの25年間の9本を含め、寅さんシリーズ以外の作品もそれぞれ高く評価されている。
中でも『家族』『幸福の黄色いハンカチ』『ダウンタウン・ヒーローズ』は
ワシが大好きな映画だ。
小百合さんの圧倒的な神話的個性を超えられなかった『母べえ』『おとうと』以降は『小さいおうち』の松たか子が光ってはいたが・・・。
間もなく公開の『家族はつらいよ』、どうだろう?
4月、「アジール 空堀」で、熊沢誠先生が『山田洋次の軌跡』と題して鋭く語られるはずだが、実に楽しみだ。
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『家族』(1970年)『故郷』(1972年)『同胞』(1975年)
『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)『遙かなる山の呼び声』(1980年)
『キネマの天地』(1986年)『ダウンタウン・ヒーローズ』(1988年)
『息子』(1991年)『学校』(1993年)『学校II』(1996年)
『虹をつかむ男』(1996年)『虹をつかむ男 南国奮斗篇』(1997年)
『学校III』(1998年)『十五才 学校IV』(2000年)
『たそがれ清兵衛』(2002年)『隠し剣 鬼の爪』(2004年)
『武士の一分』(2006年)『母べえ』(2008年)
『おとうと』(2010年) 『東京家族』(2013年)
『小さいおうち』(2014年)『母と暮せば』(2015年)
『家族はつらいよ』(2016年)
因みに、寅さんでは『寅次郎 忘れな草』のリリーさん(浅丘ルリ子)は最高のマドンナでしたね。あれ一作で、あとは「行方知れず」でよかったんやけど。
つぶやき: もうひとつの 『あなたの行く朝』
「あなたの行く朝」
いつの間にか 夜が明ける 遠くの空に
窓を開けて朝の息吹を この胸に抱きしめる
あなたの行く朝の この風の冷たさ
私は忘れない いつまでも
もしもあなたが 見知らぬ国で 生きていくなら
その街の 風のにおいを 私に伝えておくれ
あなたのまなざしの 張りつめた想いを
私は忘れない いつまでも
(語り)
『海の色がかわり 肌の色が変わっても
生きていく人の姿に変わりはないと
あなたは言ったけれど
あの晩 好きな歌を次から次へと歌いながら
あなたが泣いていたのを 私は知っている
生まれた街を愛し、育った家を愛し
ちっぽけな酒場やほこりにまみれた部屋を
愛し 兄弟たちを愛したあなたを
私は知っている』
いつかあなたが 見知らぬ国を 愛しはじめて
この街の 風のにおいを 忘れていく日が来ても
あなたの行く朝の 別れのあたたかさ
私は忘れない いつまでも
登紀子さん自身が『歌い綴る自分史』(http://www.tokiko.com/jibunsi/jibunsi24.htm)で語っているように、後の夫:藤本敏夫氏がいよいよ収監される日が迫った1972年4月21日、「日比谷公園のパーラーで友人たちが集まり、ビールでにぎやかに乾杯。大勢の人の中ではいつだってそうだったように、私の方には一切の関心を見せない彼の姿を、勝手に自分の心の中で見送り、私は一人そこから飛行場にむかった。」
「ずっと後になって作詞作曲したのだけれど、『あなたの行く朝』はこの時の別れの心の中の風景だ。」そうだ。
それが事実だろう、ご本人が語っているのだから…。
だがぼくには、どこかで聞いたこの歌を巡る物語があって、誤情報だと言われてもそのほうが心に刻まれて来た。
この歌詞は、1971年2月遥か中東へ発つ親友女性Sさんに贈る、
翌1972年1月極寒の山岳地帯で命を終えることになる女性Tさんからの惜別の歌だと聞いていた。
「あなたのまなざしの 張りつめた想いを 私は忘れない いつまでも」という正に「張りつめた」歌詞が、
聞いて来た誤情報と結びつき像を成し、永くぼくにとって救いでもあった。
Sさんの親友Tさん、この歌詞…。ぼくはそれを、無惨な死の向こうに消え入るように儚く揺れる一条の弱光として無理設定し、見つめて来た。
彼女の瑞々しくも気高い精神性の証として・・・、原初の精神綱領として・・・。