ほろ酔い交遊録: 道浦母都子 & 都はるみ・パギ & 高橋和己 『邪宗門』
今宵は、本邦初公開 都はるみ「邪宗門」(作詞:道浦母都子)パギ版の熱唱を聴きました。隣の席の道浦さんの目に光るものが…。
残照の光の海を 二人行く
ふたりゆく
花のごとかる罪を抱きて
花のごとかる罪を抱きて
新居 晴幸さんより フェイスブック友、趙博さんから拝借。道浦母都子の作歌。タイトルはあの高橋和己の「邪宗門」からひいたとか、そして、歌うは都はるみってんだから堪りません。
河出書房新社発行の高橋和己作品集の分厚い「邪宗門」を一気に読んだな、46年前、70年初春だ。長大(二段616頁、通常なら1232頁だ!)だった。 その一冊は、褪せて黄ばんで今も本棚に立ち尽くしている。 昭和全史への異論を、高橋創造の同時代教団=「ひのもと救霊会」の教えや原初の思想=教義を極限まで突き詰めて、天皇制イデオロギー・輸入西欧思想を含む昭和史全体・東西の思想総体と対峙させればどうなるか? という壮大な思想的実験でもあった。 個人的には、ユダヤ教主流・宗主国ローマ・ユダヤの傀儡秩序を全て敵に回して孤軍の悪戦を強いられた、異端の小教団=ユダヤ教ナザレ派=「邪宗」とされた原始キリスト教や創成期の某新興宗派を想い描いた。 「邪宗門」は、昭和の思想的経済的社会的「支配」に、天皇制や新興右翼よりも古い「教え」を根幹に、マルクス主義イデオロギーに依らずに立ち向かうという、ワシ好みの発想を縦軸した全体小説だった。 後半の武装蜂起や海外拠点への飛躍など、当時のワシが無縁ではなかった某組織の69年からの歴史と重なりもして、否応なく身に居座っている。 余談だが、ワシの駄小説『祭りの海峡』出版記念の会で倉橋健一さんが「水準は大いに違うが高橋和己の作品群に似ていると想う」と語って下さった場面の録画をお宝のように持っている。 趙博によれば「『邪宗門』のタイトルは高橋和巳の小説に由来していると道浦さんは言うてはりました。」なので、なるほど・・・だ。 小説『邪宗門』の内容に繋がるということではなく、そこに由来して表題着想を得た…と言うことだと思った。 本源的であるがゆえに、左右前後の一切の教義や秩序に容れられずそれらと非和解的な存在、それがこの歌の男女の「罪」とされる途=「邪宗」への「門」だ。 残照さす現在と未来だ。邪宗門!
残照の光の海を
二人行く
花のごとかる罪を抱きて
映画談義: 『鞄を持った女』、イタリアン・ネオ・レアリズモの黄昏
映画『鞄を持った女』のチラシ制作。
1964年東京オリムピックの年、ぼくは高校二年生だった。美術の時間に「レコード・ジャケットか映画チラシを作る」という課題があって、授業の直前に公開から数年遅れで名画座(大毎地下)で観た61年公開のある映画のチラシを作っていた。美術の授業は週に一度、二時間続きに行なわれていたと思う。
映画のタイトルは『鞄を持った女』、主演:クラウディア・カルディナ―レ、ジャック・ペラン、監督:ヴァレリオ・ズルリーニ。夫を喪って場末のクラブで働く女性歌手(カルディナーレ)が遊び人の男に棄てられる。男の弟(ペラン)とこの女性との「よくある話」なのだが、この弟に感情移入したぼくはこの映画にエラく入れ揚げていた。出来上がった映画チラシにクラスの女子がヒソヒソ会話をしていたが、その内容は知らない。聞けばよかった、作品を残しておけばよかったなぁ~、と後悔している。
この監督が『激しい季節』で世に出た人で、本作の後『家族日誌』 『国境は燃えている』などで有名だと知ったのは、後年のことだ。
主演女優:クラウディア・カルディナーレが『刑事』のラストシーンの「アモーレ、アモーレ、アモーレ、アモーレ・ミオ♪」のメロディーをバックに、逮捕された夫が載る警察車を追い駆け続ける女であることや、『若者のすべて』 『ビアンカ』 『ブーベの恋人』 『山猫』など大物監督の秀作で有名な女優だと知るのもその後の映画三昧の日々からだ。いずれも公開当時、日本でも評価され、彼女はCCの愛称で人気を博した。
ジャック・ペランの名を目にしたのは、コスタ=カヴラス監督の『Z』(69年)『戒厳令』(72年)での製作者としてのクレジットだった。そこで、彼が左翼映画人だと知り、89年には『ニュー・シネマ・パラダイス』の主人公の中年映画監督役で、『鞄を持った女』の弟のその後に再会したような気分に浸ったものだ。まるで、映画監督になった主人公がもう一人の主人公=クラブ歌手の画像を観ているようだった。
『鞄を持った女』 は、戦後イタリア映画(1945~50年代の『靴みがき』 『自転車泥棒』 『戦火のかなた』 『ローマで夜だった』 『にがい米』なども含めたイタリアン・ネオレアリズモ)の系譜の面影を辛うじて保持している最後の映画作品群の一つだったように思う。その系譜は消えて行き、ピンク喜劇・イタリアン史劇・イタリアンホラー・マカロニウェスタンに席巻され、アントニオーニ『情事』『太陽はひとりぼっち』、パゾリーニ『奇跡の丘』『アポロンの地獄』他の「芸術派」が気を吐いたが、イタリア映画産業は斜陽へ向かう。
カルディナーレに限らずヨーロッパの大物女優のハリウッド進出(?)が試みられたが、ヨーロッパ自国での美と刃と輝きとを、ことごとくハリウッド・ナイズによって損なわれ失意に在ったと思う。カルディナ―レも同じ道を辿ったと思う。
『鞄を持った女』 はぼくを映画好きに導いた作品だが、図らずも戦後イタリア映画DNAの名残りが消え去る画期に位置していた。『ニュー・シネマ・パラダイス』の主人公の中年映画監督が、ラスト・シーンで試写室のスクリーンに映し出される、遠い日に教会に検閲カットされたラヴシーン・フィルムの数々を観るが、それは帰っては来ない戦後イタリア映画への切情だったと想う。戦後が、戦後の経済と文化が、間違いなく米主導秩序に差配されて行く時間であったことへの異論であったと想う。
☆文中の映画作品
『激しい季節』(59年、ズルリーニ監督、エレオノラ・ロッシドラーゴ)
『鞄を持った女』(61年、ヴァレリオ・ズルリーニ監督、クラウディア・カルディナ―レ、ジャック・ペラン)
『家族日誌』(64年、ズルリーニ監督、マストロヤンニ、ジャック・ペラン)
『国境は燃えている』(66年、ズルリーニ監督、マリー・ラフォレ)
『刑事』(59年、ピエトロ・ジェルミ、カルディナーレ)
『若者のすべて』(60年、ルキノ・ヴィスコンティ監督、アラン・ドロン、カルディナーレ)
『ビアンカ』(63年、マウロ・ボロリーニ監督、ジャン=ポール・ベルモンド、カルディナーレ)
『ブーベの恋人』(63年、ルイジ・コメンチーニ監督、ジョージ・チャキリス、カルディナーレ)
『山猫』(64年、ヴィスコンティ監督、バート・ランカスター、カルディナーレ)
『靴みがき』(46年、ヴィットリオ・デ・シーカ監督)
『自転車泥棒』(48年、デ・シーカ監督)
『戦火のかなた』(46年、ロベルト・ロッセリーニ監督、)
『ローマで夜だった』(60年、ロッセリーニ監督、アンナ・マニャーニ)
『にがい米』(52年、シルヴァーナ・マンガーノ、ラフ・ヴァローネ)
『情事』(60年、ミケランジェロ・アントニオーニ監督、モニカ・ヴィッティ)
『太陽はひとりぼっち』(62年、アントニオーニ監督、マルチェロ・マストロヤンニ、モニカ・ヴィッティ)
『奇跡の丘』(64年、ピエル・バオロ・パゾリーニ監督)
『アポロンの地獄』(67年、パゾリーニ監督、シルヴァーナ・マンガーノ)
『Z』(69年、コスタ=カヴラス監督、イヴ・モンタン、イレーネ・パパス、ジャン・ルイ・トランティニアン)
『戒厳令』(72年、コスタ=カヴラス監督、イヴ・モンタン、レナート・サルヴァトーリ)
『ニュー・シネマ・パラダイス』(89年、ジュセッペ・トルナトーレ、フィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン)
映画談義: 下重暁子『家族という病』と、是枝裕和にとっての「家族」
熊沢先生が、ベストセラー下重暁子著『家族という病』に噛み付いた文章(http://kumazawa.main.jp/?p=379「家族という病」の耐えられない軽さ)を読んで思った。
戦後「家族」・現在「家族」への異論は、家族を避けるあるいはそれを「他人事」として扱う視座からは、総論としての異論たりえない。国家へと収斂される「お上」(オールド社会主義の党や国家を含む) 発の家族観からでも、個人主義の側からの「個家族」思考からでもない、ある展望を内包した家族に塗れることを通してしか見えて来ない「真正家族異論」=「家族~社会」への総論を築きたい。それは「病」ではなく「宿業」なのだ。
「病」は予防や治療や特効薬もあるかもしれない。晴らすこともできる。けれど「宿業」はそこに拘り溺れそれを背負いそして超えるしかない。朝鮮語がいう「恨(ハン)」のように。
その辺りの「業」に在って、下重とは違うアングルから「家族」を見つめ拘ったのが是枝裕和ですよね。
「幻の光」95 「誰も知らない」04 「歩いても 歩いても」08 「空気人形」09 「そして父になる」13 「海街diary」15
「海よりもまだ深く」(この5月21日公開)… 全部そうですね。
http://gaga.ne.jp/umiyorimo/
通信録: 友のFB投稿 ぼくのコメント
【兄ィと呼んでいる友の投稿】
沖縄の人からは「ミーちゃん早く来てくれ」「県議会の戦況がやばい」、、、私ににはそのような力はありません。でもテントで長い時を共にした人からの要請は嬉しいですね。
帰ってポストを見たら「10、8山崎プロジェクト」からの連絡が入っていました。
部屋に帰って読みました。心のどこに違和感を持って居ます。
大阪・大手前高校、京大、そして東大、キラ星のような世話人の方々。バンザ^-イ。
もうあの会合には二度と行きません。3流大学の兵士たちの68年、兵士たちの赤軍派、兵士たちのその後どこまでも続く大学ヒエラルキー。勘弁して欲しいですね。
知性や理性は現実変革の思想的武器なはずです。
ならば導いて下さいませ!!街頭命、所詮3流です。あの時に東大を!京大を完膚無きまでに粉砕しておけばよかった。
グレています。(笑)
【ぼくのコメント】
兄ィ、解かります。 今、94年に出た『全共闘白書』という本(73問もあるアンケートに答えたワシのコメントも載っている)を引きずり出して見ている。というのは、2014年の大井町での「10.8まであと3年」なる集会の呼びかけ文だったか何かのビラに、東大全共闘を筆頭に京大・早稲田と続く呼びかけ名義を見てムカッと来て、兄ィの云う「ヒエラルキー(?)」が「白書」はどうだったか確認したかったからだ。「白書」はアイウエオ順に「愛知大、青山学院大、大分大・・・・・・和光大、早稲田大」という順で各大学ごとにまとめてアンケートへの回答を並べていた。B5版で512頁の大著(?)だった。想えば、全共闘自体が戦後社会の煮詰まりの果ての学生群像が行なった事象であり、三浦雅士が言うように 『自動販売機に敗れ去るセールスマンの物語が「セールスマンの死」(アーサー・ミラー) だが、五〇年代からさらに加速される変化は、六〇年代の「大学=労働力商品の大量生産工場」を経て、 いまや大学は工場でさえなく、「大学自体が自動販売機化」している』(『青春の終焉』、2001年、講談社)事態の中での出来事だと想う。ヒエラルキーは、全共闘「白書」が、戦後社会の果て・大学・自販機というKEYワードで括られる若者群を対象にアンケートを求めること自体に潜む宿命で、ワシらはその一員だったことを認めるところに立つしかない。ワシは66年高卒68年に大学入学ですが、山崎さんが殺された67年10.8 を、札幌のパチンコ屋の住込従業員の大部屋で観た。ヒエラルキーは、大学と大学の外との関係にあっただろうか・・・? 深く考えもせず大阪へUターンして大学に入ったワシの原点かも・・・。 兄ィが釜に居る根拠を、ワシなりに(気分だけで?)理解しているつもりです。
兄ィ、ワシは例えば下記の歌に「作歌者はその時点でそうだったのだ」と想えるのです。それが、その時の等身大の本人だと。
後年、その歌に向き合い作者が赤面し・悔い・青いな驕慢だなと自戒するとしても、作者には「落日」だったのだ。この歌を詠った感性と世に出した並々ならぬ覚悟は見上げたものだ。そう想うのです。
作者:道浦母都子さんは、10.8プロジェクトの呼びかけ人だ。解かる気がする
「アジール 空堀」 : 映画上映会 『シャトーブリアンからの手紙』
「アジール 空堀」5月8日(日)、『シャトーブリアンからの手紙』上映会。
(著作権(有)ムヴィオラ様に上映料支払います。海賊上映会ではありません。)参加者32名。
シュレンドルフ監督インタヴュー:
彼らは善意を持った人間だった。完全な悪人はいなかった。しかし、それでもなお虐殺は行なわれた。それが重要です。
メッセージ性の強い物語は、時に、「劇的構成」・「劇的人物」・「強調を超えた誇張」、つまりは「神話」を必要として迷走する。この映画はそこから隔たっていたいという固い意志に貫かれていた。監督の上記の言葉とこの映画の作風と言うか作法には、いささかの齟齬も無い。観終わって時間が経てば経つほど、その想いが強くなるだろうと思う。
パンフにあった言葉を見て、ワシらは隣国を初めとしてアジアの国々との共同作業「アジア近現代史」を定着させる途に着かんとアカンとの想いを強くした。
『ドイツとフランスの和解がなければヨーロッパはない。監督の積年の想いにベルリンの観客は喝采を贈った』
アメリカの大統領候補者(サンダース氏)が「ヘイトクライム」への警鐘と自戒を説いている時代に、ワシらの国は何をしとるのだ!
画像は
上:「アジール空堀」映画科特任助教授:趙博トーク
下:上映会後の食事会。戦前パリの家庭料理をイメージしたメニュウ。
シェフが親戚の元*調教授にも相談して作ったポトフ(?)。もちろん戦時中は肉系などもっと質素だったろうし、シャトーブリアン郡:ショワゼル収容所の食事は想像だに出来ない。
列島覇権の暴虐: 民博で「アイヌ三大蜂起」を知る。
せっかく向かった4月27日にスカ喰ろうて(水曜日休館日を知りながら、その日が木曜だと思い込んでの無駄足)翌日リベンジに行くつもりが、
民博(国立民族学博物館):「夷酋列像-蝦夷地イメージを巡る人・物・世界」への訪問は本日5月1日(日)となった。
「アイヌ三大蜂起」を知り、最後の武装蜂起と言われている「クナシリ・メナシの戦い」(1789年、江戸時代寛政年間)の翌年、松前藩士によって描かれた「夷酋列像」は、松前藩の和解策に協力的した12人の有力者だという。9世紀初頭のアテルイの和睦の後の騙し討ちもそうだが、列島覇権の暴虐とその裏面の哀しみに「東アジア反*****」には理と大義があると想った。
民博からの帰り路、万博記念公園内に走る「汽車ポッポ」は四輌連結(電気自動車が引いている)で楽しそう。
ちょいしんどいのでその気はないのに「孫を連れて来たったらよかった」と想った瞬間、昔、万博公園の隣にあった無料公園(現サッカー競技場辺り)で、確かいっしょに行った保育所つながりの人に撮ってもらったらしい、女房と子どもたちの写真を思い出した。あ~ぁ、しばしば不在だったな。
7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されているが、大和朝廷成立史はと表裏の関係だ。古くは5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝にある、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中の記述「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」の「東は毛人」も北関東から東北・北海道にかけての蝦夷だと思われる。(ウィキペディア:「蝦夷征討」参照)
下って8世紀末、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現在の奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたとされる。田村麻呂は802年(延暦21年)、胆沢城を築いた。
『日本紀略』には、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。2人は田村麻呂に従い7月10日に平安京に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、8月13日に河内国にてアテルイとモレは処刑された。和睦の果ての騙し討ちだ。処刑された地は、枚方市宇山を比定地とみなす説があったが、発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明し、枚方市宇とする説は消えた。
コシャマインを首領とする函館:志濃里の「コシャマインの戦い」は1457年、何と応仁の乱の10年前だ。有名な「シャクシャインの戦い」(静内方面)が1669年だから、それから120年後に起きた1789年の「クナシリ・メナシの戦い」はアイヌ民族最後の武装蜂起と言われている。俗にこの三つを「アイヌ三大蜂起」と呼ぶらしい。
今回の「夷酋列像」は、主に蜂起の翌年1790年に松前藩士:蠣崎波響がアイヌの有力者を描いたものだと言う。12人はそれぞれ有力者で「村落の荒廃とこれ以上の死者を避ける為、松前藩の和解策に協力した有力者だという。哀しい史実だ。
蜂起に至った事情は次の通り。
メナシはアイヌ語で「東方」を意味し、元来は現在の北方領土から知床半島、根室地域 一帯を指した。
慶長9年(1604年)に成立した松前藩は、家臣に北海道各地の漁場の経営権を与えた 。米の取れない蝦夷地では、他藩のように年貢前を家臣に分けることができなかったの だ。漁場の経営権を委ねられた家臣は、次第にその権利を商人にあずけてけてしまう。 こうして漁場の経営権を握った商人を場所請負商人という。
当時、メナシ一帯を支配したのは飛騨屋という商人だった。飛騨屋は、北海道のエゾマツ、トドマツを江戸、大阪に送る商売によって巨万の富を蓄積した。木材商人であった飛騨屋が漁場経営に乗り出したのは、松前藩が飛騨屋への借金返済のために、メナシの漁業権を20年の期限付きで貸し与えたからだった。飛騨屋は漁業に慣れていない上、期限内に利益を上げようとアイヌを酷使・暴力支配した。 そんな折、国後島のアイヌが、倭人から薬代わりにもらった酒を飲んだところ、病状が 急変、まもなく死亡するという事故がおきた。相前後して、倭人からもらった飯を食べてすぐに果てたアイヌの娘がいた。相次ぐ同胞の死に、追いつめられたアイヌたちは、寛政元年(1789年) 5月7日の夜、国後島泊村の運上屋を襲い、ついに決起した。
国後島を制圧したアイヌたちは、対岸のメナシに渡り、同地のアイヌ人およそ130名以上 を集め、次々と和人の陣屋を襲撃した。羅臼町城にはオロマップに番屋があり、8人の 和人が襲われている。ほう起したアイヌ人は、松前藩の反撃を予想して、各地にチャシを構え、戦闘態勢に入った。報告を受けた松前藩もすぐに臨戦態勢をとり、264人の鎮圧 隊をノカマップ(現根室市東部)に上陸させた。
そこに現れたのが厚岸アイヌの長イトコイと国後アイヌの長ツキノエ。二人はほう起軍をなだめ、首謀者の首をさし出すことで、乱を治めた。倭人を殺した罪で、アイヌ37人が 処刑され、その首は松前の立石野でさらし首になった。
つぶやき: 孫一年生 給食参観
ちょいとした巡り合わせでいい体験をした。
近くに住む息子の女房が、うちの主(息子の母親)に電話を寄越し、「明日の次女の給食参観、新一年生の最初の参観日なので行ってやりたのですが、末娘が発熱で行けなくなりました。お義母さん行ってくれませんか?」
うちの主は、己れは一日何たら会議の予定で無理なのに「わかったオッサン行かせるわ」と約束。孫・一年生の給食参観の、ありがた~い「お役」が回って来た。
これが、大収穫! 入学してまだ2週間強のクラス30人が、教師が大声で指示するでないのに見事に準備・運び・配膳などをこなすのだ。もっとも、エプロン先生(ボランティア?)数名さんの力は大きい。
食事を早く終える者・やや時間がかかる者がいても、だれも焦らない。大らかに時間は進む。担任の技量もあるのだろうが、食事が済んだ子どもたちが、それぞれに先生の席へ行き何やら「自慢」や「報告」したり、机でお絵かきや絵本読みを始める。う~ん、いい。
頼むから、ここにある空気を教育の場で続けてくれ~、と思った。孫はワシを見て照れながら手を振っていた。
ふと想い至る。あれぇ~、我が子4人の学校給食の場面なんて知らないぞ。
それぞれの、その時期を思ってみた。なるほど、アレとコレとソレで、身勝手だったり故ある事柄だったり主観的には外せない**だったりはしたが、行けなくはなかったはずだ。
世の爺に「孫いのち」みたいな人を時に見受けるが、それは「手にできなかったものの代替行為」かもしれない。そうはなるまいと思う。等身大のバカ父像を噛み締めていよう、爺は爺ぃだ。
「アジール 空堀」 3月10日『フォルクローレの夕べ』
ロスチャンカスさん歌唱 三浦俊一さんお話。
ロスチャンカスさんの、アンデスの空・空気・大地・雪解け清流・山々・人びと・響き・・・それらへの切情、
三浦俊一さんの、先住民抵抗史抵抗歌への尽きない共感と怒り…。
今宵、アジール空堀は、そのふたつの完全融合空間と思えた。「ギャロ」 シェフは、初挑戦のペルー料理への、へーゲルさんの「故郷の味だ。どうやって作りました?」 との絶妙の褒め言葉にウルウル。
あぁ、歌は人々の、魂だ、生活だ、労働だ、闘いだ、尊厳だ、歴史だ、文化だ、歓びだ、哀しみだ、怒りだ、叫びだ、そして愛だ!
高橋もと子さんレポート
ロスチャンカスの「フォルクローレの夕べ」
広大なアンデスの風景をイメージさせてくれるケーナ、ギター、サンポーニヤの音色がアジールに響き、
今夜のアジールはアンデスの世界に包まれました。
ペルーの家庭料理「アデノガーニ」はなんとも不思議な味わい。
でも、ビールにもワインにもよく合います。
釜日労の三浦さんのトークは、抵抗の音楽「フォルクローレ」の歴史。
虐殺された人気歌手ビクトル・ハラが残したのは「平和に生きる」。
深い声、語るような歌声のジュリエットグレコは自由を愛し、権力に屈しなかったと。
そしていま、三浦さんは、月の半分は沖縄辺野古の闘いに参加しています。
第二部では、現在連習中という沢八で「竹田の子守唄」
おなじみ「花まつり」では手拍子と掛け声で大盛り上がり
アンコールは「コンドルは飛んでいく」
いつも集会やデモで出会う人もそうでない人も、
いい感じの一体感に包まれて、、、やっぱり音楽っていい。
今日は3.11
5年間、いろいろありましたね。
「アジール 空堀」: 「街頭紙芝居の奥は深いぞ!」or「紙芝居が俗悪(!)だった頃」
出会いの必然性、その脈路の不思議。「アジール 空堀」某企画
同居人が、幼児向けの「読み聞かせ」の会(7~8名)に参加している。月に一度の某百貨店での公演(?)が先日あった。
その日は、紙芝居好きの準メンバーSさんも参加されたそうで、Sさんから以前借りてムチャクチャ面白かった本を返却したそうだ。本の著者はSさんの師匠だそうで、書名は『保育に生かす紙芝居』だという。
えっ! 聞いたことあるな~。その著者ってワシが「アジール 空堀」で、紙芝居の実演とお話『紙芝居が語る時代の風景』(仮題)を是非お願いしたいと考えて来た鈴木常勝さんとちゃうん? ほれ、アジールでお話してくれたKさんの、その夫の紙芝居おじさんやでぇ。いっぱい本も出してはるで。いろんな視角から「戦争と市民」「民と国家」を考えたいアジールでお話して欲しいので、近々お願いに行こうと思うてたんや。
同居人曰く、その本しばらく家ウチにあったでぇ~。アチャ~知らんかったなぁ。
決まった。早急に鈴木常勝さんと相談や(某月某日に必ず実現したい)。
出会いの不思議、その脈路の必然性を想うのだ。
たぶん夏前に実現しそう。