駄エッセイ: 池田浩士氏 ある冊子に見る若き日の想い
先日、池田浩士さんの講演会『ファシズムとボランティア ―自発性から総動員へ』に参加して、FBにチョコっと投稿した際、女房が奥さんの妹さんの高校時代の友人で、女房は池田さんのファンだと書いて、女房に「恥ずかしくカッコ悪いことを書くな!」と叱られた。
カッコ悪いついでに、女房が「お宝」だと秘蔵(?)していた「ある冊子」を家探しした。
押入れの、子らに配るはずがそのままになっている幼児期の絵や、片付けようにも手が付けられない数千枚のバラバラの写真、学生期の駄文や労組関係や各種活動資料などに混じってそれは出てきた。1966年、池田氏がご結婚に際して配布された『渚なみ』という名の冊子である。奥様やご友人たちの文章もあって、なかなか読みごたえがある。それが何故、女房の手許にあるのかよくは知らない。奥さんの妹さんから頂いたのだろうか?
池田さんご本人には、無断公開はもちろん非礼なので、表紙をスキャンし、どうやら女房が「お宝」扱いして来た根拠らしいある一文の要旨だけを、紹介することを赦していただきたい。
1966年といえば、丁度50年前だ。50年前に若き池田浩士氏が書いた文には、今日なお色褪せない、社会主義に於ける創造性・表現・自立自律を巡る譲れぬ見解が記されている。その後の池田氏の研究・論考へと発展する原点といった趣だ。若き日に立った地平と同じ地平(もちろんその深化発展した地平)に立つことの稀有さと尊さを想う。
その一文は「マニキュア」という題で、文学研究会の機関紙からの転載だ。大学3年時とある。
三人の学生旅行の船上で出会った高校生少女のマニキュアを巡る話だ。少女は「何処とはなしに好きになるような可愛らしさ」を湛えて、甲板の手摺によりかかって海を見始めた。それに見惚れる池田青年。当時(1961年)普段は好きではなかったマニキュアが、池田青年の中で「美しいもの」「好ましいもの」に変貌して行く様が、甲板・海波・船上を渡る風の中でスリリングに瑞々しい文章で描写されてゆく。
船上で、学生間の論議がある。
「マニキュアって好きか?」「どうもいただけないな」から始まる論議は、好きな子がある日マニキュアをしていたら、その子が嫌いになるか?「いやならない」と進む。
その後に青年池田はこの寓話からこんな「思想」を披歴している。
『ルカーチがやっきになって否定しようとしている反動的ブルジャア文学が、ルカーチに言われずとも否定されねばならないことはよくわかっている。ナチスに協力し、或いはナチスを黙認したドイツ作家は当然責められなければならないこともよくわかる。それで居て何度読んでみても好きで好きでたまらないという作品がなくはないのだ。それどころか、それらの呪縛から抜け出られずにジタバタしている有り様なのだ。それに対して、社会主義リアリズム文学論の何と貧弱なことよ!』
『文学作品の価値は単に作者自身が典型を捉えたかどうかよって決まるのではなく、如何にしてその典型を形象化しえたかによって決まるのである。ある一定の社会から抽出した典型をどのような虚構を通し、どのような美学的手段によって形象化するか、』
『私はリアリズム文学論を否定するものではない。私はマニキュアにだけ目をつむったり、あるいはこれをこじつけて正当化したりすることなく、マニキュアの「美」をも含めた全体的な美しさを生み出すのに貢献するような理論の確立をリアリズム文学論に要求しているのだ。』
(1966年、池田氏ご成婚時の冊子『渚なみ』所収、1961年慶応大学「外国文学研究会機関紙より転載」
池田浩士氏のその後の思想的営為の実際は誰もが知るところだが、その歳月は、池田氏がここで披瀝した「思想」の深化作業にある意味「殉じた」時間でもあった、と嬉しくなる。
ある人の、青年期の思考が、初期に例え稚拙で驕慢で錯誤に満ちていたとしても(池田氏の場合は学生を超えた論考です)、その原初の「精神綱領」を持続し、旗となるまで立ちつくしている姿は美しい。
話は飛ぶが、1991年に「立風書房」から金時鐘さんの集成詩集『原野の詩』が出版された。890頁に及ぶ分厚い書籍だった。¥6500だったが、女房の分と友人の分とで3冊購入した。我が家のバイブルだ。
その巻末の解説 『いま、金時鐘を読むということ』 こそは池田浩士氏の文章であった。
引用したいが、一部を切り取ることなど出来ない持続する「思想」が詰まっている。『渚なみ』「ルカーチ」『ヴァイマル憲法とヒトラー』(岩波現代選書)「金時鐘」・・・それは一つのことの変容態だ。
女房曰く、冊子『渚なみ』のある一文が、地方から大阪の大学へ来て、右往左往していたであろう自分の、社会主義小僧が吐く凡百の各種「決定論」や「ねばならない」症候群への違和感や、どう見ても「ヤクザ」「チンピラ」にしか見えない野郎(ワシだ)への視角を、大いにHELPしてくれたそうだ。
訊いてはいないが、その一文はこの「マニキュア」に違いない。
「アジール 空堀」: ユーラシア 西の果ての島 東端の列島
高野陽子さんアイルランド歌謡
昨夜、天神橋5丁目『浮世小路』(天神橋筋に面している)で、高野陽子さんのライアー(竪琴)と澄み切った高音美声の、アイルランド歌曲を聞かせてもらった。エンヤの楽曲が世界的に聴かれたのをついこの間のことのように思い出す。
高野陽子さんを初めて聴いたのだが、『サリーガーデン』(アイルランド民謡)『スカボロ・フェア』(スコットランド民謡)・・・・、何故かユーラシア大陸の西の果ての大陸からは離れた島:アイルランドがス~っと入って来る。こっちは、東の果ての離れた列島だ。
ケルトは、古代に中央アジアからヨーロッパに渡来した、インド・ヨーロッパ語族の中のケルト語派の民族で、広くヨーロッパ全域に居住したが、ゲルマン・ローマ・アングロサクソンなどの覇権種族の被支配層として生きた。支配強度の比較的弱い環アイルランド・スコットランド・ウェールズなどに民族的にはケルトが残っている。が、その言語=アイルランド語(ゲール語)、スコットランド・ゲール語、ウェールズ語、マン島語、ブリトン語(ブリテン島在住のケルト人の言語)の話者は減少傾向にあるそうだ。
高野さんが用意されたスライイド映像の、痩せて荒れたアイルランドの狭い農地を囲む石垣に、ふと目的は違う沖縄の石垣風景を想い起し、その歴史と現在、そして「歌」が浮かぶ。
すると図らずも、何と、高野陽子さんが、休憩を挟んだ後半に三線の弾き語りを始めるではないか!
「てぃんさぐぬ花」「安里屋ユンタ」「花」・・・・。
歌は正直だ。少数者の哀史と矜持を、暖かさと優しさと強い意志を、真っ直ぐに伝えている。高野さん、是非「アジール空堀」に来てアイリッシュ魂歌のライアー演奏歌唱、沖縄歌謡の弾き語り・・・やって下さい。
http://takanoyoko.com/
交遊録: 「ある卒業」
【ある卒業】
1998年まで隣の市に住んでいた。
1977年からゆえあって労組で運営していた「商業施設設計施工」の会社が、初期の食うや食わずを脱したころ、業績の乱高下をフラット化させよう(という甘い素人考え)から、やや身の丈を超えた規模の飲食業も始めた。そのころ酒販店の社長に「勉強になるで」と連れられ紹介された小さな呑み屋がある。女性が一人で切り盛りしている。繁忙時間に「おもて」に女性店員を使ってはいたが、ほぼ一人でこなしておられた。丁寧な調理は驚くほど品数も豊富。「志づ家」さんという。1985年だった。30年になるなぁ~。
始めた飲食業はまずまず運んだが、98年にぼくは20年続けた本業の方の施工業会社を潰してしまい連鎖で飲食業もパア~。同年、現在の市に移転、その後拾われた会社で東京単身赴任をし、現在の半労・半リハビリ生活に至っている。
が、隣の市の「志づ家」さんには帰阪の際に機会を作っては出向いた。「助けてもらった」という記憶があるからだ。会社を潰す前後の言葉化できない修羅を、問わず語らず受け止めてもらった。女店主の、ここには書けない「壮絶な苦難」が、他者の苦境に無言の理解と癒しを届けたのだと想う。同じ年の父の死に際しては、その夜の内に誰よりも早く駆けつけて下さった。
先日、その「志づ家」さんから「6月末日をもちまして閉店させていただきます」と葉書をもらっていた。万博の年:1970年開業、46年間営んで来たとあった。76歳になられたはずだ。最終日はお近くの濃いファンがお越しだろうと、最終日の前夜にお伺いした。
「卒業して、山歩きや好きなことしますねん」と淡々と語られた笑顔に、達成感を秘めた安堵があった。その夜も美味かったのは言うまでもない。
当時、営んでいた会社の特異性や業務の苦境の具体を何も語らなかったが、間違いなく伝わっていたと確信をもって想うのだった。
店は「政治と宗教の話、ご法度」で、客同士が激したりすれば、たちまちレッドカードが出るのだが、彼女が明確な筋金入りの「改憲阻止派」であることをぼくはよ~く知っている。
*写真は最終日の前日と2009年母上ご存命時のPhoto
「アジール 空堀」 紙芝居おじさん 鈴木常勝さん実演
昨夜(6月23日・木)、「アジール空堀」集い『街頭紙芝居の奥は深いぞ』 紙芝居実演と、お話「紙芝居の底力とその哀史」。鈴木常勝さん。参加24名。
子どもたちに夢を与え・想像力を育てもした紙芝居。かの時代に国・軍と一体化して進められた戦争への総動員は、命令・強制・戦闘参加要請でありながら、直接的には家族の絆・郷土への情愛の美談として登場する。敵や悪者の強調も姿を潜め善人ばかりの登場で充たされている。台詞と語りを全て入れ替えれば、一篇の「お涙頂戴」の「家族もの」「郷愁もの」として十分通用する出来栄えだ。 国に・国の意志に取り込むに当たって、紙芝居もまた家族や郷土や友情を拝借する道を歩む。それは明治の唱歌・童謡の道と同じだ。 「戦争はいつも美談仕立て」でやって来る。
「アジール空堀」 11月13日予告FB 道浦母都子さん講演
われらがわれに還りゆくとき
◆調べより疲れ重たく戻る真夜
怒りのごとく生理はじまる 道浦母都子
二度の結婚、離婚を経て歌人、作家として活躍する道浦は今、かたくなだった当時の自分を「『ねばならない』とか『すべし』に取りつかれていた」と振り返る。「『ほどほど』とか、『適当』も人生には必要なんですよ」。もし時をさかのぼれるなら、そう声をかけてやりたい。「でもイノシシですから。直りませんね」 (敬称略)
つぶやき駄エッセイ: ヘイトスピーチは「言論」ではない!
「ヘイトスピーチ」は「表現の自由」の範囲内か?
川崎市で6月5日に計画されていたヘイトスピーチ(差別扇動)のデモについて、福田紀彦市長は5月30日付で、デモの起点となる公園の使用を不許可にした。
一方、神奈川県警と神奈川県公安委員会は5日、道路使用を許可した。
当日、カウンター・デモがヘイト・デモを圧倒し中止に追い込んだのだが、これを「警察と一体になってヘイトスピーチデモを実力行使で中止に追い込むのは、いくらなんでもやり過ぎだ。やり過ぎだ」と論難している投稿があった。そうなのか?!
http://blog.goo.ne.jp/ra…/e/9d1cf3181fb5163dc5df5fda5365fb93
「表現の自由」を論拠に様々に語られるが、「言論の自由」と言うとき、その自由の限界範囲内に「ヘイトスピーチ」は想定されていない、というのがワシの考えだ。
「表現の自由」などの基本的人権は、唯一他の人権によってのみ規制される。ヘイトスピーチは「他の人権」の否定によって発せられるからして、基本的人権を成立させる要件を充たしていない。
それは「表現の自由」の外に在る。
ほろ酔い交遊録: 労働組合・・・見果てぬ夢
「アジール空堀」 2016年6月5日 『詩人:金時鐘に出会う午後』
会場「ビストロ ギャロ」古民家は、築95年だ。つまり「戦災」に遭っていない。空堀の一角は空襲を免れたのだ。戦前と繋がる時空、都市部の裏路地のその空間で聞く1945年・・・。
アメリカはもう日本に反撃はもちろん国家維持の余力もないと・降伏前夜だと、そう知りながら、壮大な実験=市街地への原爆投下を強行した、二度までも。オバマはヒロシマ演説で「空から死が降ってきて、世界は変わった」と誰が投下したかという主語を欠いた言葉を発し、原爆をまるで自然現象のように表現して、ことの重大性・原爆被害への当事者性をひた隠しにした。
一方、日本と日本人はどうか? 原爆という事態を前に一挙に被害者へと横滑り、自国の戦死者300万人強、アジア各地の死者2000万人強、加えて膨大な負傷者・罹災者への責任を忘却した、自国の指導層を民自らの責任で指弾することも(うちの国もそれに近いが)・・・。
オバマ演説は多くのことを教えてくれる。
ほろ酔い交遊録: 5月22日(日)生野区民ホール14:00~ 金時鐘講演会&懇親会
『・・・詩は好もうと好むまいと現実認識における革命なのです。・・・見過ごされ、打ち過ごされてることに目がいき、馴れ合っていることが気になってならない人。私にはそのような人が詩人なのですが、その詩人が満遍なく点在している国、路地の長屋や、村里や、学校や職場に、それとなく点在している国こそ、私には一番美しい国です。』
(06年12月、朝日新聞。安倍の「美しい国」発言に抗して。金時鐘)
時鐘さんお元気で安心しましたというか、その伸びた背筋に黙した叱咤をいただいたのでした。多くの、男たち、女たちにとって、時鐘さんは「父」なんです。
戦後社会一期生たる「団塊」どもにとって、復興から高度経済成長に邁進し・いわゆる「反動」に目をつむり・右であろうが左であろうが確たる道を示しはしない「戦後」父像とは違い、ことの良し悪しを超えてピンと背筋を伸ばして、一貫した「説」を語り続ける・・・時鐘さんは、そんな「あるべき」「父」なのであった。