「アジール 空堀」 11月13日『道浦母都子&趙博 ふたり会』
11月13日(日) 『道浦母都子&趙博 ふたり会』
道浦母都子さん、趙博さん、今野和代さん(司会及び幕題字揮毫)。
ありがとうございました。
都はるみ歌唱、道浦母都子作詞になる『邪宗門』『枯木灘 残照』を、作詞者の横で歌い上げる趙博さん。
まるで弟を見守る姉のように、目を閉じてパギの歌唱に聴き入る道浦母都子さん。映画的に言うなら「う~ん、いい画(え)だ!」。
「どうしても選べと言われ選ぶなら、どの歌ですか?」との会場からの問いに、即座に挙げられたのが
ひとのよろこびわがよろこびとするこころ郁子(むべ)の花咲く頃に戻り来
だった。
次いで聴衆へのサービス精神だろうか本音だろうか、その質問以前に会場からの質疑感想に出ていた二首を挙げられた道浦さん。
その一つ、父にまつわる歌というのは、
釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ
振るわるる楯より深くわれを打つ父の怒りのこぶしに耐える
打たれたるわれより深く傷つきて父がどこかに出かけて行きぬ
のいずれかだろうか? 聞き逃したが、
おまえたちにわかるものかという時代父よ知りたきその青春を
ではないかと想像する。
というのは、会の前段の父上一家と朝鮮との関係を語られたお話で、
朝鮮に居た父上一家が、敗戦直後南へ逃げる際、混乱と暗闇の中、朝鮮人の男性に匿われ道案内を得て生き延びる。その男性は、「以前北海道の炭鉱で働き、帰る際に日本人が心を籠めて送別会をしてくれた。今度は私が返す番だ」と語る。帰国した一家に1947年、母都子さんは生まれた。この男性が居なければ、わたくしはこの世に存在できていないのです、と述懐された。
幼い日から、父にこの朝鮮脱出記を繰り返し聞かされて来た道浦さんだった。
会場の「父に打たれた側の道浦さんの、父への想いを聞かせて欲しい」への返答が「父よ知りたきその青春を」のこの歌だろうとワシは想う。
もう一つは、ワシがこの短歌に触れて以来、臓に居座っていて身から出て行かない
明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし だ。
80年代当時、幾人かの人が「決戦主義だ」「敗北主義だ」「情緒的に過ぎる」と論難していた。そうだろうか? これは、風雨に晒され雪に打たれても、ボロボロの旗となっても立ちつくしていようという、云わば「立ち方」を問う永遠の覚悟だ。
できてはいないが、そうでありたいとワシは想いたい。痩せた旗ではなく、肥満・腰痛・現場仕事撤退のワシ。学生期「極左」付和雷同期・そこからの脱走期・労組期・争議から破産法下20年の労組自主管理経営期、その破綻から東京単身赴任半ば日雇いの今。 客観的には団塊ジジイの敗走遠吠え以上のものではない。
ワシらは、すでに父であり、多くは孫までいる。会場は53歳が最年少というジジババ世代だったが、であらばこそ、きわめて今日的な短歌ではないだろうか?会場からの「戦後、左翼の数々の敗北史でも、もっとも拭いがたい悲惨を刻んでしまった、60年代末から70年代初頭」という全くその通りの指摘に、ワシらはそれぞれの方法論で答えて行くしかない、旗となるまで・・・。
趙博が言いかけたのは、
今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれ われらがわれに変わりゆく秋 だった。
聞き取れなかったが、趙博は「そうやって辿り着いた『われ』からこそ、今『われら』の復権を目指そうぞ。『われら』と『われ』との往還に居たい」と言った(ように思う)。
趙博がきわめて遠慮がちに語った「芸人・歌い手としての自分、運動実践家としての自分、舞台役者・劇作家としての自分、在日知識人・社会科学者としての自分・・・、その云わば『二兎を追う』身の苦悩は、ある意味痛々しい。
けれどパギ、二兎も三兎も追え。これまで通り「河原乞食」の矜持を余すところなく示せ。そこにウサギではない虎を射止める、独自の、どこにもない立ち方が必ず現れる。と非当事者のジジイは気楽に言ってしまいよる(失礼!)。
苦悩するパギに、ここで一句差し上げる。甲南大学退任(2006年)を間近にされていた熊沢先生の2001年の年賀状に沿えらた句で、作者の気概に圧倒されたんです。パギも好きな加藤楸邨の句だ。熊沢先生が、その後、大著『働きすぎに斃れて──過労死・過労自殺の語る労働史』(2010年、岩波書店)をものされたことはワシらが知るところです。
チンドン屋 枯野といへど 足をどる
追記:『道浦母都子&趙博ふたり会』報告FB投稿に、熊沢先生から一昨日、「熊沢誠:ああ参加したかった!」とコメントいただいたことお伝えします。
通信録: 「喪われた時を求めて」-消えた八王子の記憶-
〇〇 〇〇 様
拝啓、すっかり冬めいて参りました。お元気でしょうか?
過日(10月7日)は突然の訪問にも拘わらず、ご親切に老体の話をお聞き下り、押入れから遠い日のアルバムを引き出し1970年当時のお写真を探し出し下さり、誠にありがとうございました。お話した内容の要約を再掲させていただきます。
46年前1970年9月~12月、私は、現在は一戸建てであるお宅様の地に在ったアパートに居住しておりました。同年末に東京都足立区竹ノ塚に移転し、翌71年2月、大学時代から付き合っていた女性(現女房、彼女は70年春から、やはり学生生活に破綻してか山陰地方の実家へ戻っていた)と結婚するのですが、そこからの記憶も八王子以前の記憶も確かで、切れることなく繋がっています。また、結婚当時、八王子のことは会話に出ていましたし、私の記憶にキッチリありました。その後45年間、自分の中で八王子記憶が崩れ去っていることを自覚する機会もなく、夢にも思わぬことでした。
今回、東京赴任が終わるに際して、八王子を訪ねようと思い立ったのですが住所が分かりませんでした。八王子に居た3か月の間、故(*1)あって友人知人の一切の訪問もなく、親を含め通信の類は手紙・電話とも仕事先(水道橋)を使っておりました。八王子には云わば寝に帰るだけにような具合でした。住民票も戸籍謄本付票にも期限切れで1970年の住所へ辿れず住所が分からずでしたが、当時国民年金だったのではと思い立った女房が古い国民年金手帳をやっと見つけ出し、そこに記載されていた住所=八王子市西寺方町11××を特定したのです。しかも、付近まで行って11××、11××があるのに11××、11××が無く、近隣で訊ねても解からいのです。思い余って八王子市役所恩方事務所を訪ね、住所地を確認し日暮れ頃再訪し貴方様にお会い出来て、話をお聞きいただいのでした。ありがとうございます。
(*1)
前年、仲間と一緒にある「もめごと」に関与し、私は仲間を信頼もし好いてもいたのですが、さらに「もめごと」を継続するには、仲間の構成の仕方や物事の進め方などに疑義があり、かと言って「もめごと」の相手方に与する気はさらさら無く、ここは身を隠すようにヒッソリとしていようというのが、私の「選択」でした。学生期から勤務していた大阪の会社の東京事務所開設の伴い70年夏に上京するのですが、社長のお知り合いの紹介で八王子へ来ました。アパートの下見に同行した社長が、「水道橋から遠いけど、ここでええのか?」と何度も言ってくれたのですが、八王子にまで案内してくれた社長にも紹介してくれたお知り合いにも悪いなと思う若気と、前述しました「選択」とが合わさって、私は遠い八王子を承知したのです。仲間には、八王子の住所を告げず、水道橋の事務所を伝え、時にはその事務所へ仲間が訪ねて来ていました。私の復帰を暗に求め、幾許かの行動費を求めては帰って行きました。が、居住地をしつこく問うことはありませんでした。そんな次第で、八王子には誰一人訪ねては来ていないのでした。
今回、八王子へ行ってみよう、と思い立ってからも、建物の外観・部屋の間取り・バス停までの道中が全く思い出せずにいました。
JRも京王も八王子駅周辺には記憶を呼び起こす画像は何ひとつ無く、バスの車中の窓からの風景にも何も思い当たりません。バス停から見える街並にも記憶が戻りません。46年という歳月が小路を舗道に、雑木林を公演園や保育所に変えているのか、全く記憶を呼び覚ます風景が無いのです。
風呂の位置が思い出せず、そこから部屋全体が思い出せないのかなと思っておりましたが、その理由は今回の訪問で解かりました。
風呂は、外風呂=庭の外呂小屋だったんですね。
いただいた写真の右端に写っている小屋から、外に風呂があったことだけは思い出せましたが、風呂小屋内部は思い描けません。外部の鉄製階段やその支柱は確かにその踏板を登った記憶にダブリますが、実感や引いたアングルからの画像が浮かばないのです。
私が西寺方町11××に居たのは、1970年の初秋から年末までなのですが、私の記憶では階下に居られたのは、お家主さんではなく、若いご夫婦でした。
ご一家がこのアパートを住居としてご購入され一階を改装して住まわれ、二階を人に貸していたというお話ですが、ひょっとしたら、転居して来られたのは1971年以降ではないでしょうか? 写真の隅にも「FUJICOLOR 8 72」とあり、撮影日は72年8月のようです。
で、お訊ねします。
①アパートご購入ご移転の年月はいつでしょうか?
②1971年以降だとすれば、1970年秋から年末の時期に所有されていた方はお判りでしょうか? 辿れるようでしたら、お教え下さい。
外観や間取りが解かる資料をいただきたいのです。そこから「消えた記憶」の復旧に辿り着きたいのです。
まるで、ジグソーパズルの消えた2~3片、パソコンの行方不明のドキュメントのようです。パソコンなら場合によってはそれを復元できるのに、私の「消えた記憶」は今のところ復元できません。
私的な、下らない案件にお手を取らせますが何卒ご協力ください。1947年に生まれ今日までに居住した総て(計21か所)の場所に記憶があるのに、1970年9月~同年12月までの、八王子の時期だけがスッポリと一切の記憶が消えているのです。
前述しました、建物の外観・間取り・バス停への道中に留まらず、例えば休みの日に布団を干して近隣を散策しただろう風景・買い物もしただろう近隣の店・浸かった風呂の内部・洗濯物を干した光景・食器洗いした流し・・・何も像を結ばないのです。
こんな事があるのだろうか?と不安なのです。
これらの経過から、いずれかの時点で「記憶が消えた」としか思えないのです。もっと古い記憶・その他のそれなりに込み入った記憶は各々鮮明にあるのに、八王子記憶だけが・・・というのは納得できないのですが、人の記憶というものがこのように前後関係なくある部分から崩れるのかも知れません。
アルツハイマー症の初期症状ではないのかとの懸念もあります。10数年前に、脳内出血をしましたが、その際に記憶のワン・ブロックが崩れたのか?とさえ思うのです。
いずれにせよ、記憶の復旧又は記憶が消えるメカニズムの納得へと進まないことには、大げさに言えば我が人生が繋がらないのです。苦しんでいます。
どうか上記①②についてお願いいたします。
なお、先日のご親切に対する心ばかりの御礼を別便にてお送りしました。
どうかご笑納下さいませ。
年内に、再訪できればと思いますので、よろしければご自宅のお電話orスマホのナンバーお教え下さい。
当方は 090-3712-5346 です。
〒567-0891 大阪府茨木市水尾3丁目3-39 橋本 康介
ほろ酔い交遊録: 昨年秋に続いて山本義隆講演会を拝聴
10月21日(金)
京都精華大:山本義隆氏講演会(18:30~20:30)に参加した。
明窓館 M-201大教室は満席の聴衆(500強)、山本氏の熱い講演に老若が聴き入った。精華大の学生もそこそこ。
山本義隆:科学史家。1941年生まれ。74歳。
山本義隆という学究の徒を議長とした東大全共闘の選択を慧眼と言おうか。その偶然+必然+明治初年から100年目=1968年という歴史的要請・・・によると思える絶妙の事績は、どこまでも「学」の立つべき処を求めての、まさに「反軍産官学」であり、「反知性」への異論なのであった。明治150年を前に噛み締めたい。
【ワシの聴講メモより】
*欧米の18世紀末~19世紀初頭以降の科学技術(1800ボルトの電池、1831電磁モールス、ワット蒸気機関・エジソン電球、他)にそれほど遅れず明治維新。時あたかもエネルギー革命の時期。逆にその為の明治維新。
*人力・畜力・水力から蒸気と電気へ。欧米から「人権思想」「近代民主主義」を除き、科学技術だけを100%受容れた。
*アヘン戦争・薩英戦争・下関戦争などへのショック。科学技術と経済発展ワンセット=殖産興業・富国強兵は官主導により産軍学一体で推進された(されざるを得なかった?)。国策大学。
*士族の師弟を技術官僚・経済官僚として育成。気分は、藩に仕官している武士。
*富岡製糸工場、足尾銅山(電化第一号)。日本の近代は農村からの人的・物的収奪と、農村の破壊が柱。
*日清・日露・第一次世界大戦。科学を戦争に使うの本格化。ドイツの持ち堪えから、総力戦思考。生産力=潜在的軍事力。一層の理科系偏重1918科学研究所。
*科学者に問うと「一番研究の自由があったのは戦争中」だと答える。軍事に繋がる(あるいはそう思える)研究にはジャンジャン金を出した。【昨今の安倍政権】4度目の理系偏重文系縮減・・・明治初期・昭和戦争準備期・高度経済成長期・現在「戦争する国へ」期
*戦後、藩仕官精神の技術者、戦争中の技術者がそのまま横すベり的に移動して高度経済成長期へと進むのだが、その前提は
*朝鮮戦争(砲弾・ナパーム弾・兵器・車両・衣料から全必需品)とベトナム戦争という、具体的なリアルな、日常には感じることなく済む「戦争」によって支えられた。その後も例えば新幹線は軍の技術だ。
*1956もはや戦後ではない、1957東海村原子炉、岸は「核の平和利用」を宣言、「生産力は潜在的軍事力」からさらに進み核兵器保持への潜在力が「大国」の条件だとした。
*ある識者曰く「経済成長を妨げる3要素は、賃金が上がること・労働者の発言力が増すこと・公害規制が進むこと」
*技術革新が成長を生むという神話の条件は無くなりつつある。それでも成長への「糊しろ」や「外部」が必要な成長神話は、第三世界を喰いつくし、国内に外部を作り出す。貧困問題の根本だ。限界が近付いている。
*明治から約100年目に「国策大学の頂点」たる東大闘争があった。その少し前の明治・早稲田・明治・中央などの学費値上反対闘争は、理系増員にシフトして金が要ることを反映した大学の姿であり、学生は次世代の者のために闘ったと言える。東大:1959電子工学、1960原子力工学。理系定数増。
*今、149年目だ。科学技術信仰・技術革新による成長という、「戦争」を含む組み立ては破綻を迎えつつある。「戦争」はインフラや施設社会的財産の破壊と、製品と蓄積財の浪費だ。それは「外部」収奪先を失いつつある資本の「将来世代からの収奪」の姿だ。
*18世紀まで自然の一部であった人間。エネルギー革命以降の科学技術と成長への過信は、人間を自然の外に置いた。外から自然に対して命令する存在となった。その最後が「核分裂反応の統御」だ。そしてその無理を知った。
*ゼロ成長・ゼロ失業。ポスト資本主義や何処に・・・。
◎講演後の質問。 ノーベル賞受賞大村さんの「基礎研究をおろそかにしないでとの苦言」をどう思うか、への山本さんの答えは解かり難かったが、一流の照れだと思った。発言の一部が華々しく切り取られて、シンボルにされることへの違和感だろうか? また研究者たちの構えからして「こうこうこうします」とは言えない実状の吐露でもあろう。けれど、山本さん「照れてるバヤイじゃないですやん」『研究をストライキするでというのも変ですし』・・・う~ん。
下画像は出町柳での懇親呑み会。山本義隆・山崎氏兄上・水戸喜世子・道浦母都子・池田知隆・趙博・石田涼(精華大の若い専務理事)・荒木田岳・松尾順介 各氏他20数名の参加でした。
「アジール 空堀」10月 『古地図で辿る 真田丸~空堀 スローツアー』
「アジール空堀」10月1日(土)
『古地図で辿る 真田丸~空堀 スローツアー』
雨天予報もあったからか多少キャンセルありましたが、当日参加もありガイドの西俣稔氏(「毎日新聞」木曜,『わが町にも歴史あり』連載中)が言うところの「ちょうどいい規模」(14名)の一行となりました。
JR玉造駅北改札集合~砲兵工廠側線跡~旧玉造村(商店街映画館全盛期街並み跡)~三光神社~伝承の真田抜け穴~真田山軍人墓地~真田丸跡~熊野街道~瓦屋:寺島藤右衛門「請地」(徳川拝領地)~瓦屋町「用水路」跡~「ギャロ」 全行程12,000歩かな。
現代大阪に埋もれた秀吉期~江戸期~明治大正昭和を古地図で辿り、大坂から大阪への変遷、幾重にも折り重なる「戦い」、直近の戦争・・・、西俣さんのガイドは、ときにジョーク(ネタバレになるのでここには記さない)を交えながら、その悲惨と「浪速の民」との対比に貫かれている。「真田丸」は、その大きな物語の一断面ひとコマに過ぎない。脚に難のあるワシに合わせて歩いてもらい、16:30に瓦屋町「ビストロ ギャロ」に着いた。空堀商店街・谷町六丁目・瓦屋町一帯は、偶然にも先の大戦での「空襲」を免れた。現在、町屋がカフェや雑貨店などに再生され、若者や女性で賑わっている。「ギャロ」もその界隈の「瓦屋町」に在るのだ。
瓦屋町とは、大坂陣の時、紀州出身の瓦職人「寺島藤右衛門」が大坂城築城に携わり、徳川優勢」の中、城内の情報を徳川に提供、見返りに4万6千坪の土地を拝領し続けた。明治の初めまで大坂中の瓦を生産し続けた。古地図に「瓦屋:寺島藤右衛門請地」とある。
古地図(1800年ころ)によれば(見にくいがよく視ると解かる)、「ビストロ ギャロ」はその「請地」に沿って「畑」と通じる農業用水路(or排水路)の石垣際に立っていたのだ。
その石垣は、あるいは後年積み替えられたかもしれないが、「水路沿いだったのなら納得」という位置に奇妙に遺っている。もちろん水路は埋められ現在は無い。
今、気付いたのだが、「ギャロ」所在地は瓦の積込み場ではなかっただろうか?重い荷=瓦は即舟積みが好都合。この水路を西へ進むとすぐ横堀川、横堀川を北進すると大動脈:「大川」だ。この☆印の地は現在、瓦屋町1-1-1だ。故あるのだろうか・・・?
ほろ酔い駄紀行: あるツアー
弟(66歳)と従兄弟が あるツアーを企画して誘ってくれた。
母の父(祖父)の姓は「和束(ワツカ)」というのだが、珍しい姓で従兄弟(母の兄たちの息子、「和束」姓)の調査によると全国に10数世帯しか無いそうだ。母の父(祖父)の系統のルーツを辿るツアーだ。一瞬迷ったが、名家でないことは確かなので参加した。
「和束」姓を継ぐ従兄弟たちと、「和束」から橋本へ嫁いだ娘(我が母)の息子(ぼくたちと長兄の妻)、計7名のツアーだった。
従兄弟たちが父母や「和束(ワツカ)」縁者から収集した情報をまとめたツアーで配布されたレジメは、直接の聞き取り・伝聞・伝承・地元らしい地域の寺の「過去帳」などから構成されていて、なかなかの出来栄えの資料で「信憑性」もあるようだ。そのルーツの地へ行こうという訳だ。
京都府相楽郡和束町は、現在「ワヅカ」と発音するが、元は「和豆香」と書いて「ワツカ」だったそうで、茶に関しては鎌倉時代の初期に、海住山寺慈心上人が播種したとの伝承がある。天正年間には、大規模な植え付けの記録もあり、山城地域の中では大面積の茶の植え付けが安土桃山時代にあったとの記録から判断すると、それまでの自家消費としての茶生産から、商品生産としての茶業が成立したと考えられる。江戸時代、政治の安定に伴い煎茶需要が拡大し、和束郷では、他所に茶の販売を試みる者も現れた。生産者ではなく、茶の販売を行う茶商という業態も出現した。
明治時代には、殖産興業の政策で、内国勧業博覧会や製茶共進会が開催され、茶産地が茶の品質を競った。和束の生産者は果敢に出品を行い、初期には入賞を果たせなかったが、次第に製茶技術が向上し、湯船村や東和束村、中和束村から入賞者を輩出した。昭和30年頃まで、日本茶は輸出産業であった。しかし、不正茶の横行や度重なる戦争により翻弄され、好況と不況の繰り返しであった。やがて、「和束」の茶は品質を上げ、現在「宇治茶」として流通しているものの50%超が和束町産だどいう。
奈良に出ていた、後年「和束」を名乗る徳松という男(1901年明治34年没)が、すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた「平民苗字必称義務令」(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、1875年:明治8年2月13日公布。)により、出自の地「和束(ワツカ)を名乗ったのだろう。和束徳松、和束姓の始まりか?
1875年といえば、1872年が廃藩置県、73年徴兵令施行、74年板垣退助・後藤象二郎らによる「民選議院設立建白書」提出、75年朝鮮政府への無理要求の果ての「江華島事件」、76年「廃刀令」(武装の軍・警察への一元化)公布、77年「西南戦争」、といった明治新政府が西欧型国民国家を目指し、江戸武士社会の残滓の一掃・殖産興業/富国強兵が国策となって行く時期だ。同時にそれは「脱(奪)亜入欧」の暴走の第一幕だった。
「徴兵令」と「平民苗字必称」がワンセットなのは、「学」や「大学」が軍事的要請によって、二人三脚で発達した西欧と変わらないところだ。
で、この徳松の父=源十郎(1872年没)には、まだ姓はなく「車屋源十郎」と称されたとの伝承があり、その通りなら、粉挽きを生業としていたようで、水車を所有し穀物を粉にする工賃(加工費)で喰ってたようだ。材料のネコババなどしないとの、地域でのそれなりの信用があったとは推測できる。
この源十郎から先は、過去帳によれば源右衛門が三代続く。
三代源右衛門(1838年 天保9年没、1837年大塩平八郎の乱)、
二代源右衛門(1811年文化8年没、江戸政府 国後島でロシア軍艦艦長ゴローニン逮捕。後年、日本側捕虜と交換解決。当時から、先住民を無視した小競り合いをしていたのだ)、
初代源右衛門(1780年安永9年没、田沼時代。米独立戦争)。
初代源右衛門は藩相撲の力士だったとの伝承があり、あじさい寺として名高い矢田寺(大和郡山市 金剛山寺)に藩主が上位の力士や芸人を称え墓を建立しているのだが、そこに「三笠山源兵衛」の名がある。大坂相撲にも出っ張ったようで、明和年間の「大坂番付中相撲」にその名がある。母から先祖の伝承として「ご先祖さんは大坂相撲の力士で、三笠山という四股名やったらしい」と聞かされた事があるが、話半分に聞いていた。
先年、従兄弟がこの「三笠山源兵衛」の墓の刻印字に「没年表示」を見つけ、それが過去帳の「初代源右衛門、安永9年8月2日没 享年73歳」と完全に一致し、「三笠山源兵衛」と「初代源右衛門」が同一人物だと判明した。
云わば、通名と四股名の違いなのだろう。「和束(ワツカ)」姓の初代であり、粉挽き屋だった4代目車屋源十郎の子=5代目徳松は、何らかの事情で「和束郷」から奈良に出ており、明治8年の「平民苗字必称義務令」に際して、故地への郷愁と敬意を込めて出自の地「和束」を名乗ったのだろう。従って現代の呼称「ワヅカ」ではなく、明治以前の「ワツカ」なのだ。
まるで、「筑紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」(福岡県前原市)に大挙移住した種族が、「韓国(からくに)に向かひて真木通り-云々-」と出自の地を自画自賛したり、故地の建国神話の始祖の降臨の山「クシボン」を踏襲しているのに似ているなぁ~(古事記「天孫降臨」説話)。
*筑紫が九州全域を指すとは聞いたことがない。チクシは福岡一帯だ。日向をヒュウガと読むは恣意的に過ぎる。日向はヒムカともヒナタとも読める。前原にヒナタ峠あり。高千穂は形容句か。そして「クシボン」と「クシフル岳」の一致。前原の海岸からは、玄界灘を挟んで「韓国(カラクニ)」=伽耶に向かって真っすぐ一直線(真木通り)だ。
従兄弟・兄弟―我が母とその兄たち(「和束」姓)―和束源治郎(祖父)
―和束久治郎(1926年大正15年没)―和束徳松(1901年明治34年没)―車屋源十郎(1872年明治5年没)
―三代源右衛門(1838年天保9年没)―二代源右衛門(1811年文化8年没)―初代源右衛門(三笠山源兵衛)(1780年安永9年没)
ご先祖は、ローマの剣闘士やインド・マハラジャお抱えのレスラーのように、云わば領主お抱えの芸人であった。その怪力の御褒美は4代目(あるいは2~4代全て粉挽き屋だったか)にして車屋を営めるほどの特段の内容だったのか? 正に「芸は身を助く」だのう・・・。
それにしても、その末裔は芸も怪力も持ち合わせていないなぁ~。
余談【山城国一揆】
「応仁の乱」(1467~1477)が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続いた。
文明17年(1485年)、南山城の国人衆や農民らが宇治の平等院に集まり評定を持った。この評定で「国中掟法(くにじゆうおきて)」を取り決め、両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた。「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆により政治がおこなわれ、南山城は惣国とよばれる政治形態となった。
山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明17年(1485年)、(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行なった事をいう。
自主管理社会=コミューンを構想・夢想して決起した者の中に、我がハートのルーツを観たいなぁ~。
一般的に国人が起こした一揆のことを国一揆というが、山城国一揆は惣の農民らが参加している点で厳密には国一揆ではなく惣国一揆とでも言うべきものである。
ほろ酔い交遊録: 「青春の門」、藤圭子、宇多田ヒカル・・・
中西和久さんより
ちなみに7篇目の終わりは主人公の信介は北海道からシベリアの大地に船出しようとするところ。恋人の織江は演歌歌手として全国キャンペーンの旅をはじめたところ。信介25歳。織江23歳。二人の青春がこれからどのように展開してゆくのか …。
そこで藤圭子。
この小説のたしか6編目でこの「旅の終わりに」が売り出し前の織江の持ち歌として登場する。この曲は以前冠二朗の唄でヒットしたが作詞が立原岬となっていたので、小説の中に登場したのが不思議だった。他の人が作った歌詞を引用するのなら断りがあるはず…と思っていたら、立原岬=五木寛之さんでした。そう言えば『青年は荒野をめざす』も五木さん。歌謡曲、流行歌も数多く手掛けていらっしゃる。
『青春の門』7篇を読み終えてこの『旅の終わりに』を聞いてみると、この長編小説の場面場面が走馬灯のように浮かんでくる。さらに、藤圭子の歌声。どこかなげやりのようだが極めて丁寧に歌っている。作中の織江の声は、ひょっとしてこれではないかと思えてくる。
藤圭子。宇多田ヒカルのお母さんといった方が若い世代にはわかりやすいかもしれない。2013年、自ら命を絶った。うまい歌手がひとりいなくなった。
司会が糸井重里なんですが、ン年振りに「とと姉ちゃん」の主題歌『花束を君に』で歌唱を再開したヒカルに具わっていいる、母譲りの「媚びない」「動じない」存在感は、世渡りチンピラ野郎=糸井をますます小さく見せて小気味良かった。
『花束を君に』は自死した母藤圭子さんへの「手紙」のようなものなんだと聞きました。なるほどと想った途端、ワシ号泣!
普段からメイクしない君が薄化粧した朝
始まりと終わりの狭間で
忘れぬ約束した
花束を君に贈ろう
愛おしい人 愛おしい人
どんな言葉並べても
真実にはならないから
今日は贈ろう 涙色の花束を君に
毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く
ただ楽しいことばかりだったら
愛なんて知らずに済んだのにな
花束を君に贈ろう
言いたいこと 言いたいこと
きっと山ほどあるけど
神様しか知らないまま
今日は贈ろう 涙色の花束を君に
両手でも抱えきれない
眩い風景の数々をありがとう
世界中が雨の日も…
画像は「母」に似て来た最近の宇多田ヒカルさん。
交遊通信録: 9月19日 靭公園~なんばデモを回避して生駒へ
足腰不調で靭公園を回避して、生駒へ来てよかったぁ~。
千夏さん、パギやん、ご準備のみなさん、ありがとうございます。
1989年、居住某市に千夏さんに来て頂いたのですが、当時と変わらぬ彼女の迫力に会えました。持参した当時の画像をご覧いただくと「憶えてるぅ~」。マネージャー鈴木さんは、ワシのニックネームまで憶えておられてビックリ。いや~、27年前です。
添付画像にあるように、「しごと・くらし・地域を結ぶネットワーク」という構想を抱えて、労働運動・生活者課題・地域コミュニティ・・・、ユニオンの組織形態そのものを、再構築しよう・それぞれ別個に在る運動領域を「ぐるみ」で連帯できないか?という試みのスタート時期でした。ユニオン運動草分けのY氏や、今は亡きWさんが寝食を惜しまず奮闘されていた。
そのユニオンと居住某市の市民運動「民主教育を育てる市民会議」・女性・地区労・市労連・教組などがいっしょになって取組んだ集いに千夏さんをお呼びしたのでした。「ぐるみ」は政治的側面での統一戦線だけではどないもならんという直感だったでしょうか?
ワシらの構えに千夏さんが「意気に感ず」と応じてくれての来阪でした。
「アジール空堀」9月: 趙博『 歌うキネマ「NUTS」 』
「アジール空堀」9月、趙博『歌うキネマNUTS ナッツ』公演。
於:谷六、空堀通入口15M南「舞道ダンスシアター」。
北海道江別から帰還のパギ・げんさんの「NATS」公演だ。
コアな参加者の「あっ、8月KCC会館での公演から、アソコとココが変化している」とのご指摘があったが、ひとり映画に没入しているコチトラは気付きもしない。なるほど、パギ「歌うキネマ」は生きものだ。そうやって、揉まれ・熟され・進化して行くのか・・・。KCC公演4・江別公演2だから、本日7回目か・・・。「NUTS」は一層進化するのだろう。その「生きもの」の成育をこの先味わうのが楽しみだなぁ~。
バーブラ・ストライサンド(クローディア)、リチャード・ドレイファス(レヴィンスキー)の力演と、マーチン・リット監督の映画文法から、パギの手で90分のひとり映画に仕上がった妙全体を味わいたいと思っていると、もうどこににないビデオ(DVDは無いのだ)を入手しているMさんが貸してくれた。『飢餓海峡』がそうであったように、ある面「映画を超えている」かも・・・。
一人の高級娼婦、損なわれた青春・蔑まれ忌み嫌われ排除された者が、殺人事件の予審(裁判を受ける能力ありや無しやを審議する予審)を通して、人間の復権を遂げて往く「法廷劇」には、映画の製作者でもあるストライサンドの並々ならぬ怒りと愛を想った。久し振り(?)の新作にこの作品を選んだ趙博の意志に、『飢餓海峡』で杉戸八重への想い入れを前面に打ち出した「思想」や、相模原事件を巡るパギのいくつかの文章と同じものを想うのはワシだけか?
(画像提供:二階堂裕之さん、新野貴子さん)