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読書: 小論集『日本語は美しいか』。 「美しい国」論との同根性を読む

『日本語は美しいか』(遠藤織枝他、三元社、¥2300)

「日本語は美しい」と主張するこれまでの言い分は「日本語」を母語とする者によって、「日本語」で語られ・書かれて来た。そのことに対して、「いささかアン・フェアだろうが…」と思って来た。それはまるで、ある社(党でもいいのだが)の風土・人心・歴史 etcを、他ならぬその社の社長・役員・従業員、つまり内輪のみで称え合っているような「親バカ」的構図だと思ったからだ。                                                                              はたして日本語は美しいのか? 言語の美しさとは何のことか? また、各言語には備わった醜美の等級などあるのか? そもそも、どうやって他言語の醜美度を測りかつ比較するのか?                                                 本書は「日本語は美しい」なる論の、恣意性・虚構性・いかがわしさの、発生メカニズム・国家や支配層の関与・話し手(母語話者)の受け止め方などを、日・中・韓・ニュージーランドでの調査、歴史・文献などをもとに明らかにして行く。若い(かどうか知らないが)学究者たちの小論文集だ。                                           ぼくのような、日本語に無頓着な、言葉素人にも分かり易い一冊だ。                                

「日本語は美しい」なる説の根拠・来歴は、日本でしか話されない地域言語「日本語」の、虚構の世界性・アジア盟主性を無理にでも確立したい者たちが、母語話者に当然備わっている「馴染み」「愛着」を巧みに利用しそこに「美しい」を加味して推進した構図のようだ。しかも、他言語など知りもしない推進者たちは「簡潔で単一」「澄み切っている」「敬語こそ美しさの根拠だ」と言いながら、「世界に類例のない敬語が乱れている」と危惧してもいる。                                                                                           ならば、澄み切って単一のはずの言語を、アジアに広める任務の教員に見られる各「方言」は困ったものだと、何故嘆いているのか? アジア共通語を画策した者たちが、日本語を「完成」させようと躍起になったのは、実は、それほど、未完成で、多数の方言があり、敬語も各階層で違い、狭い島限定の地域語であることを、推進者自身が承知していたことの証左でもあろう。                                                                                                                                                                                                                                                                あるいは、「簡潔」と言いながら、敬語の「難しさ」を言うが、では、難しさイコール美しさなのか? また、類例がないはずの敬語の格付けが日本語よりうんと複雑なインドネシア語は、より美しいのか?                                                                                                         言語にはそれぞれに美しさがあり、その言語の内部での「美しさ」を磨くしかないのではないか。それは、他者の受容と己の明確な自己主張によってのみ初めて可能性が垣間見える、「自立と連帯」のように難しい。

そもそも、日本語を巡る「美しさ」への心情経路は次のような超飛躍三段論法ではなかったか?                                             『我は、美しいものが好きなのだ。だから、我が好きなものは美しいに違いないのだ。                                                                  我は家族・親類縁者・我が故郷が好きだ、それらの人々・社会が好きだ、その集合体である「ニッポン」が好きだ。                                                                                                          話されている言葉=「日本語」も好きだ。ゆえに、我が好きな「日本語」も「日本」も「美しい」のだ。 文句あっか?』                                                                                                                                                                                                            橋本信吉・金田一・三木清・吉川幸次郎・日夏耿之介、といった高名な学者も、この論の外には居ない。                                                              当時の時局柄か、中国出自の言葉への劣等感を裏返した敵意に充ちてもいる。日本人なるものの構成史のように、列島に「ことば」が先行して原生していたのではないのだから、日本語も何らかの「寄せ集め」であることは自明なのだが…・・・。                                                                                          

「日本語は美しい」なる論が、「美しい国」を標榜した某首相の意図と瓜二つの論理立てで主張されて来た経緯がよく解る一冊だった。敬語や女性言葉も、家父長制を支えるツールの一つだと言えるが、男の学者どもは「敬語を中心にした女性言葉こそはその美しさの根幹だ」とその社会性・歴史性・支配性には、あえて(?)目をつぶっている。                                                                                                                                                       これを超えて、日本語への相対観・距離感を保った上で、他との比較でなく、かつ、何らかの恣意性に与することのない、「日本語」の「個性」にも独自に備わっていよう「美しさ」「繊細さ」「深さ」について、知り学ぶことは大切なことだと思う。それによってこそ、ぼくらは歴史と他者と自身に出会う可能性へと進めるのだから…。                                                                                                                                       我が**は美しい、我が**は愛しい、我が**は素晴らしい、我が………、その親バカ性と排他性。 肝に銘じたい。                                                              ここでも、「切れて」「繋がる」がKEYなのだ。 

品川塾空説:                                                                                                                                                                                  ひょっとすれば、日本語は、海洋系基礎単語身体語・数詞(ヒ・フ・ミ・ヨ)・発音+北方文法+中国・朝鮮の概念語や他の                                                                                                                                                    多くの要素から紡ぎ出されたのではないか? ならば、その合成成立史はすごいことだ。日本人なるものの構成成立史と無関係ではないはずだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                  『楽浪海中倭人あり』の倭人は日本語の原型を話していたか?違う言葉だったか? 卑弥呼はどんな言葉を話してしていたか?                                                                                                                                                                                                            倭の五王は? 隋の煬帝に国書を送った倭国の王=日出る処の天子=多利思北孤=タリシホコ は?                                                                                                          「白村江の戦」では「百済・倭連合軍」はどんな会話を成立させていたのか?                                                                                                      柿本人麻呂の 『大王之 遠之朝廷跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所思』は、本来どのような言葉と音だったか?                                                                                                       【通説読み: おほきみの とおのみかどと ありかよふ しまとをみれば かみよしおもほゆ】                                                                                                                                                                                                                                    日本語の原圏は古代史と離れて語られるべき事柄ではない。 残念ながら、そこが未明なのだ。
                                                                                                                             追記:                                                                                                                    ぼくが、心底美しいと思ったのは、北原白秋『からたちの花』です。「みんな みんな やさしかったよ」…。                                                                                                              日本語が美しいのか、それとも、刷り込まれた日本語浅知識の判断基準に照らして、その中で「これは美しい」と感じたのか…?。 後者でしょう。                                                                                               美しさは、比較しようもない言語種にではなく、言語によって「幻想」される情景・心情・世界を美しいと感じる心に宿るのではないでしょうか?                                                                                                                       その美しさに見合う、あるいは適する「言語」-「発音」「抑揚」「語感」「語順」「構成」であるかどうかは、「日本語」しか知らない者には解りようもなく、ただ「日本語としては」、「知っている日本語の中では」、「この表現、構成は」 美しいのではないか? と思うばかりだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       『からたちの花』 http://www.youtube.com/watch?v=nC9-40wKDfM&feature=related                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

                                                              

排外主義の詐術: 石原よ! 誇るなら、「古代合衆国」たるを誇れ!

石原慎太郎よ! 誇るなら、ちょっとは勉強して
『「古代合衆国」たるを誇れ!』
   「日刊ゲンダイ」によれば、4月17日、東京都知事石原慎太郎が、毎度ながらの
国家主義・排外主義に基づく差別妄言(それも不勉強な)を繰り返している。
(「永住外国人への地方参政権付与」に反対する全国地方議員の決起集会)
 記事によると、発言は次の通り。
「(この会場に)帰化された人、そのお子さんはいますか」      「国会はずいぶん多い」
「与党を形成しているいくつかの政党の党首とか与党の大幹部は、調べてみると多いんですな」
「その子弟たちが、ご先祖への義理立てか知れないが、日本の運命を左右する法律をまかり通そうとしている」
記者が根拠を訊くと、
「インターネットの情報を見るとね。それぞれ検証しているでしょう」
つまり、ネット上の誹謗・中傷やウワサの類の情報をもとに、ペラペラしゃべっていたのだ。
(何のことはない。参照先が2チャンネル他のネット情報だと白状している)
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 記事にある「帰化」(石原発言)(「国籍取得」とか「変更」と言わないのだ)という言葉に込められた支配者論理と排外性と、
「帰化された人」の「お子さん」と言われるのは心外だ・誹謗・中傷だ、とする側に
もし、「いや違います。日本人ですよ」と言いたい衝動があるのなら、                                                              そこに秘められていよう差別性について、考えたい。そこは、
次の機会に譲るとして(記事執筆者には字数制限もあろうし)、ここでは石原論の虚構について述べたい。
     「帰化」という語句の本来の意味は「君主の徳に教化・感化されて、そのもとに服して従うこと (ウィキペディアより)   
石原に限らず、この種の国家主義・排外主義・民族主義者(日本民族など虚構だが)の背景には、
もちろん、彼らの「日本人」という抽象(擬民族)の確立願望と、「日本国」という政治・経済・社会の単位があり、
それらに照らして、それら以外のものを嫌悪し排外するのだ(「他者排外による自己確立の思想」)。
だから、その「日本人」という不動のものが揺らいでは
己の「主義」や「国家」の根幹が揺らぐことになる。まずは「日本人」という抽象の根幹をどうしても守りたいのだ。
では、そもそも、その「日本人」とは一体何のことなのだ?
 
参考資料を提供しまっさ。偏っているという常套句を返されても辛いので、国立機関の資料ですヨ。
☆『日本人はるかな旅展』 http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/index.html 国立科学博物館。
☆『倭人の形成』 http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/wajin.html 九州大学ミニミュージアム。
 
 ①
日本人なるものを、もし無理やりに「括る」ことができるとするなら、
少数先住民「縄文人」(多種多様であろう)と
大陸と半島と他から渡って来た多数渡来人(これまた多様な)との実に多様なミックスである。とでも言うしかない。
近年、最新のDNA解読などからもこの列島に生きる人々の形成要因が、どんどん明らかになって来ている。
縄文末期(4500年前)の列島内先住民の人口は、推定25万人。繰り返された人の流入と稲作開始(*2500年以上前の、                                                              苗代式水田跡は、岡山県総社・大阪府茨木牟礼・福岡県板付・他など各地で次々発掘されている。                                        多元的なのだ) による食糧事情の変化で増加し、弥生時代半ばの人口は60~75万人と推定されている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                           (古墳時代末までの渡来人の総計は、百数十万人以上と言われている)←http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08yayoijidai_no_toraijinn_no_kibo.html
BC2世紀前後、半島南端部・洛東江流域の古代国家・伽耶の一勢力、                                                                     自由に往来して北部九州にまで影響力を持っていた海の民の一群が、半島内情勢に押し出されてか、
良好な稲作地を求めてか、列島覇権と先行渡来勢力(?)「オオクニ」打倒を目指してか、波状的に北部九州に移住したようだ。                                                                        古事記に言う『天孫降臨』的事態(紀元前後か)とは、現在の天皇家との関係はともかく、この一例の反映だろうと言われている。                                                                                           そして、古事記自身が、自分たちの故地は伽耶(洛東江両岸)だと告げている。                                                                      (例:カラクニに向かひて真木通り=伽耶(?)に向かって一直線に真っ直ぐ)  (いずれ詳述)
BC1世紀前後の東アジア世界を伝える「漢書地理誌」が、「楽浪海中倭人あり」(「倭」という語の初出)と記した「倭人」だが、
彼らは、古代フェニキア(現レバノン辺りを出自とするセム語族。各古代帝国の狭間各地に点々と根拠地を建設した地中海広域海洋民族*)    のような、海の民であった。 (余談:日産自動車社長:カルロス・ゴーン氏はフェニキア人の末裔であることを誇っているそうだ))                                                                                  その本拠は伽耶、準本拠が北部九州。(海の民=倭人=アマ、いずれ詳述)
 *フェニキアが建設した都市国家『カルタゴ』は、ローマを脅かしたハンニバルで有名。                                                                                        ⑤
後代の「魏志倭人伝」が記す3世紀の「邪馬台国」(正しくは「邪馬壱国」)も、後年「倭国」と称される国も、一貫して博多湾岸に在り続けた。その論証は、考古学的史料(出土物・史書・他国史料・他)から明らかだが、それは別の機会に譲る。                                                        ここでは、「魏志倭人伝」の中から得た、いくつもある確信のうちのひとつを言おう。(他に、行程記述、部分記述、総距離記述、等)                                                                                          長くなるので全文は省く(魏志倭人伝全文→  http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html )       
魏志に書かれた「その北岸狗邪韓国に到る」の「その」は、文脈から「倭の」以外ではありえない。 すなわち、「倭国の北岸は狗邪韓国(伽耶)だ」と言っている。「倭」地内の北岸部分が「狗邪韓国」-「伽耶だ」と言っている。前節の「韓伝」末尾には「南、倭と接す」とある(そう結んで倭人伝に移る)。接している、つまり地続きだと言っている。これを総合的に読めば、海峡の両岸に勢力圏を持つ海洋域=「倭」の実像が浮かび上がる。
 ・ちなみに「倭」の発音は「ヰ」ないし「イー」であり、後の「邪馬壱国」の「壱」も、中国読み「イー」・朝鮮読み「イ(ル)」周辺の音。呼称の 連綿たる踏襲は、存在の一貫性を暗示している。ヤマトが国名を「日本」としたのも、音「イー、イ(ル)」の「日」を当て、正当な後継者だと示す為の工夫だった、と言う研究者をぼくは支持する。                                      注:「邪馬」は「鮮卑」「匈奴」など同様の、中国からする属国呼称に付けた卑字。
☆いずれ、ぼくの「石原への全面反論」を提出します。(いずれ添削の上、)
  とりあえず、今回は骨子を述べます。
 
ぼくも石原も、天孫降臨の直系であってもそうでなくても、先住民の末裔か、伽耶出自の半島人の直系か、その混血か、
あるいは中国・朝鮮半島各地・他からの渡来の人々と先住民との混血者の末裔である。
「私の言う日本人とは、もっと後代の時代に居た人々のことだよ」と言うなかれ、 
801年から数次に亘って坂上田村麻呂が「成敗」したとされる、蝦夷とは何だ?
(789年にはヤマトが大敗もしている列島北部に居た大勢力だ)
和睦の果てに騙し、都・京に連れ来て処刑した「アテルイ」とは誰だ?公家らが、風貌・骨格・習俗の違いをさんざん「野性獣心」と評したという。                                      その時代の列島内に、ヤマトが御し難い異民族が居たことの証左でしょう。
「いやさらに後代だよ」ってか?
独自の歴史と文化と王朝を持ち、大和・明と等距離交易をなした琉球は?「琉球人」は? 列島内に永く住まう他民族は? 
 多民族共生というKEYワードなど塵芥症のあんたには届くまい。
もういい。結局、あんたの言う「日本人」とは「列島内マジョリティ」しかも、
「権力を持つ側の意向を守る(又は推進する)側に立つ人」 と要約できる人々のことだ。
「まつろわぬ民」があんたの言う「非日本人」なのだ。だから「帰化すりゃいいんだよ」となる訳だ。
「帰化」とはすなわち、アイデンティティの変更または放棄なのだ、そして「あんたが言う日本人」になれという
強制のことだ。                                                                                                                     その上しかも、「帰化された人」の「お子さん」と、本音を秘めた言葉を慇懃無礼に駆使して、
暗に「帰化」してもルーツは忘れないぞと、「日本人」にいつ敵対するか「日本人」をいつ裏切るか、目を離さないぞ、と恫喝しているのだ。 
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 「楽浪海中」の「倭人」の子孫を、「天孫降臨」によって戴いた民は、
その「天孫」を尊重するか否かを問わず、せっかくの「古代合衆国」という得がたい価値を、
二千年かけて消し去ったのだ。
ぼくが言いたいのは、「天孫」のことではなく、海峡をまたいで生きていた「海の民」の、
その今日的課題に即した復権のことだ。いや、彼には解らんでしょ。いずれ詳述する。
ジョルジュ・ムスタキの爪の垢でも煎じて飲みなさい!← http://www.yasumaroh.com/?p=3391
********************************************************************************************
現代の「国家主義」「民族主義」「排外主義」が、天皇・日本人・日本国などに支えられている限り、
その形成過程にまで遡って切開しなことには、この列島に住まう者の根っこに在る「合意」を糾すのは難しい。                                                                                                                                                                                               教科書記述包囲網と教育界の「常識」、永く蓄積された社会の「合意」。それを覆すのは気の遠くなることではある。
西欧に触れそれと向き合い圧倒され、それに対抗する「方法論」として、                                                                                   「神国日本」「天皇」「大和魂」」などを持ち出す誘惑に駆られながら、                                                                      決してそうはしない見識を、自他との格闘を通して手にした明治人(の一部)は、本当に偉い!と思う。
漱石先生は、こう言っている。
『東郷大将が大和魂を持っている。魚屋の銀さんも大和魂を持っている。
 詐欺師、山師、人殺しも大和魂を持っている。誰もみたものはない。
 誰も遭った者がない。』 『大和魂 それ天狗の類か』 (「吾輩は猫である」1906年)   ←  http://www.yasumaroh.com/?p=1738
啄木は、こう嘆いている。
『地図の上朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ秋風を聴く』(1910年) ←  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-2.html

品川塾誇大史: 100枚限定鏡が500枚出土…? バーゲンか?!!

F・K さん 
 
正月早々、産経新聞(他にも出てるかも)が、「卑弥呼の鏡」と大騒ぎ。読まれました?
決着済みのことですが、「なるほど、邪馬台国はやはり奈良か・・・」と思われても悔しいので、反論しておきます。
 「邪馬台国」(「邪馬壱国」なのだが)を奈良盆地に持って行く為の外堀埋めの一環です。マスコミの煽り・扇情誘導・お上の意向…、                   報道姿勢(大本営発表、イラク戦争、普天間・辺野古、日米信頼関係の危機?報道)は変わりません。
 
 
大量の鏡が出土した桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)。
出土品には中国の年号「正始元年」(240年)と刻まれた鏡と同じ鋳型製の鏡片も含まれていた。
同年は邪馬台国の女王・卑弥呼が中国皇帝から金印や鏡を受け取ったとされる倭国の“メモリアルイヤー”。                                                          被葬者が卑弥呼から直接譲り受けた可能性もあるという。
『正始元年鏡は卑弥呼が中国から授与された可能性が極めて高い』 と指摘するのは、
福永伸哉・大阪大大学院教授(考古学)。桜井茶臼山古墳を280年代築造とし、
被葬者が正始元年当時に20代で、60~70歳で亡くなったとすれば、
『生前に卑弥呼から鏡を直接もらったとも考えられる。
邪馬台国と大和政権を結びつける重要な史料』 と話す。
卑弥呼が活躍したころの中国は「三国志」で知られる魏、呉、蜀(しょく)が台頭。
卑弥呼が魏に送った使者が日本に戻ったのが正始元年だった。
 
【反論】
もしもし!決着済み事項を繰り返さないで下さい!あのね・・・・、
三国志魏書東夷伝倭人条(通称「魏志倭人伝」)には、こうある。
☆「魏志倭人伝」全文 http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
景初二年、魏の天子が女王国の遣い「難升米」らに
「親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
「紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い」とある。
正始元年には、「太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし」とあり、先方が来倭する。
 
*畿内説学者がそれと特定した、この三角縁神獣鏡は、困ったことに見つかり過ぎて、すでに「500枚以上」発見されている。
*中には、「景初四年」という存在せぬ年号のものまである(改元を知らず製作…つまり国内製)。
*受領した「景初二年」に、帰国時の「正始元年」刻印の鏡を貰ったの?天子の死を先取り?大胆な。そんなこと在り得ません!
*中国にただの一枚も出土せず。鋳型も見つからず。
◎三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」に非ず、国内製、渡来工人+列島内工人。として、決着済み。
◎500何十枚目の「100枚限りの鏡」をまたぞろ持ち出すのかマスコミよ! イラク報道と同じ「垂流し」!!
◎古田武彦氏談:難升米が拝受した鏡は・・・?
『三国志』を書いた陳寿と同じ時期に死んだ人が持っていた鏡が発掘されて出てきた。
洛陽の西晋の墓から出てきたのは前漢式鏡もしくは後漢式鏡である。
そうすると卑弥呼の貰った「銅鏡百枚」の鏡は前漢式鏡・後漢式鏡ではないか。
前漢式鏡・後漢式鏡が出てくるのは、今の糸島・博多湾岸、これが基本的に中心です。
 
 
 
 
茨木の在野の研究者:故:藤田友治氏著
『三角縁神獣鏡』(ミネルヴァ書房、\2,800)

交遊通信録・品川塾誇大史 消された「倭国の記憶」

さん。

前頁で言いました予告編です。機会をみて、順次詳細を記述しましょう。「倭」は近畿天皇家ではありえないことが、明らかになると思います。

海峡とは 
人と人、民と民を 断ち・切り・分け・隔てる為の境界ではなく、
人と人、民と民が 出逢い・繋ぎ・結び・交わる為の「場」なのだ。
 
 【たそがれ誇大史:予告編】 最も大規模かつ長期の「記憶の改竄」を糾す 
①9500年前ころ~: 
  鹿児島県国分市「上野原縄文集落」(6300年前、喜界島大爆発で消滅)
  の縄文土器の製法を含め、この集団の出自は?
②4500~3000年前:
  青森県青森市「三内丸山遺跡」の縄文土器・ヒスイ・防腐用コールタール?
③2500年前 前後:
  出雲「国引き神話」に見る、事実の反映、ウラジオストクに隠岐産の黒曜石。
  縄文晩期の苗代式稲栽培=板付遺跡・茨木牟礼遺跡・岡山県総社。
④2100年前 前後:
  出雲「国譲り神話」、誰がどこに譲ったか? アマ原圏=楽浪海中倭人あり(漢書地理誌)
⑤西暦紀元前後:
  アマ勢力、北部九州に本拠地設営。天孫降臨。
  *古事記:「韓国(カラクニ)に向かひて 真木通り(一直線だ)、笠沙の御前にして
     朝日の直刺す国 夕日の日照る国なり、 故 此の地はいと吉き地」 と降臨の地を描写している。
    誰が、無関係な地を特筆するか? カラクニが出自の地だと誇っているのだ! 洛東江両岸、伽耶の地こそ天孫の故地だ。
  *後漢書:「建武中元二年(57年)、倭奴国、奉貢朝賀す。光武、賜うに印綬を以てす。」
    志賀島出土の金印。「漢倭奴国王印」は「カンのワのナ国王の印」(三段読み、例なし)ではない。 
    いえ、「カンのイド国王の印」です。つまり、北部九州王権の王への印。
  *後漢書《倭伝》「倭国は古(いにしえ)の倭奴国なり」
⑥2世紀:
  北部九州王権の一部の東征。ヤマトへ。当時の地形、河内湖、南方(ミナミカタの水路)。記紀説話との一致。
⑦3世紀:
  魏志倭人伝:「その北岸、狗邪韓国に到る」。すなわち、半島最南端部が「倭」の北岸だ!と言っている。伽耶の地だ。
  傍証:魏志韓伝:「南は倭と接す」とある。
  「郡(帯方郡)より女王国に至る万二千里」 魏の尺度:一里=75メートル内外。
  重装備した軍用馬が一日に駆ける距離は75Km=すなわち千里・・・千里馬(チョンリマ)。理屈に合う。
  ゆえに、万二千里は900Km・・・・・・邪馬壱国はどこだ?
   北岸が「狗邪韓国」、南岸が「邪馬壱国」・・・・。海峡国(勢力圏)「倭国」の姿はこれだ!
⑧空白の4世紀:
  百済(ペクチェ)王、倭王旨に七支刀を贈る。390、新羅(シラ)王、子美海を倭へ質と為す。
  高句麗広開土王即位。
⑨5世紀
   美海、倭を脱走。「三国史記」「三国遺事」(半島資料)が描く「臣:堤上の悲話」が語る倭都は海岸に接し、       
   堤上夫人が新羅の嶺に立ち「倭国を望み」慟哭できる地、北部九州の海岸だ。(朴堤上の悲話は壮絶だ)
  倭の五王(讃珍斉興武)はだれだ? その本拠は何処だ? 倭王武が宋(南朝劉宋)に出した上表文。
  東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國
 (東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国)
  この地理観は近畿でありようもない。中国に通用するいくつかの歴史を前提に書かれている。
  「あなた方が知っている漢書に言う楽浪海中の、魏志にある女王国の、あの倭です」と。
  半島では、高句麗の拡大。474百済第一次滅。
⑩6世紀:
  上記⑥以降のヤマト王権、武烈後に政権混乱政治空白(?)。越(福井)のオヲド擁立の怪、楠葉で即位、20年後ヤマトへ。
  オヲド(継体天皇)の側の叛乱=九州侵攻(531筑紫の君磐井の乱と教えられた)。が、オヲドは戦を前に重臣:物部アラカヒに言う、
  「長門より西汝とれ、長門より東朕とらん」 ん? 長門(山口)より東にも、西の別王権の支配地ありと自ら認めている。
⑪7世紀:
  【遣隋使】
  姓をアマと自称するタリシホコなる王(日出る処の天子)が煬帝に国書を送り、やって来た返礼使に自ら面談したという。
  疑問:聖徳太子は「天子」か? 国書に於いて公的位階を詐称するか? 彼は推古天皇の摂政だ。
  後宮に女性600~700人と自慢しているが、推古女帝に後宮? また、「阿蘇山あり。その石、故無くして火起こり天に接す」とある。
  推古・聖徳太子が九州の山を特筆するか!当然、ヤマトの何かを語るだろう? しかもこの一大外交行動、記紀に記載なし!!小野妹子の訪問先は「大唐」だと書いてある。「隋」とは書いてない。それを学者は「書き間違い」だと言ってきた。違うだろう! 607年の誰かの事績を盗んだのだ。                                       しかも、日本書紀は、607年の前600年の隋皇帝:高宗への第一回「遣隋」に触れていない。???
  【近畿王権内 クーデター】
  645大化の改新?「中大兄が母(皇極)の愛人(蘇我入鹿)を斬った事件に後付けがなされた」との説あり。 
  【半島情勢、倭国臨戦態勢】
  新羅、唐と同盟し660第二次百済滅す。倭、百済からの質=皇太子余豊を返す。百済最後の王に。
  大唐から倭防衛の一環としての「百済防衛・再建」へ全列島動員→ヤマトも斉明天皇・中大兄を先頭に
  数万の大軍を派遣。筑紫・朝倉に陣する。倭、五王時代設営の水城の強化、大野城の整備。首都防衛。
  662斉明死去。喪に服すを大義名分にヤマトは半島へ向かわなかったのでは・・・?
   近畿の主だった将軍・重臣に死者・捕虜なし。「万葉集」にもこの一大悲劇が一切採用されていない。奇妙だ。
    一方、半島では、百済再興運動が対唐・新羅のゲリラ戦を展開。  
    663白村江(錦江河口)で 「唐・新羅」VS「百済・倭」の一大海戦。四たび戦い四たびの大敗北。
  「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍」はここだ。近畿天皇家に大海戦の歴史なし。
   倭軍司令官:倭王薩夜麻、逮捕・連行さる。  倭都、国敗れて山河あり。
  671唐から3000人の使節団が誘導役:薩夜麻を伴い、郭務綜を先頭に来倭。
  672「壬申の乱」勃発。その名に「アマ」を持つ「大海人皇子」(後の天武)側の勝利。
⑫【日本の登場】
  701年。唐、列島を代表する王権として大和を認知。呼称を倭から「日本」に改める。
  旧唐書《倭伝》のあとに《日本伝》あり。「或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)す」
【参考】
「倭」の読みは「ワ」ではない。「イ」「ウィ」「ヰ」だ。
「倭」から「日本」は大変化のように見えるが、発音は中国読みなら「イェーベン」朝鮮読みなら「イルボン」・・・、                                    「イ」「ヰ」の音は継続させたようだ。
*******************************************************************
ついでに言うと、
「邪馬薹(台)国」とされている国の記述は中国歴代史書において、
例外なく全て「邪馬壹(壱)国」つまり「邪馬一国」です。
「邪馬」は「匈奴」や「鮮卑」に用いられたような、中国からする
属国・格下国への侮蔑語なので 純国名は「一」であり
その音は「イ」周辺だ。「倭」と同音を踏襲しての命名ではないか?
邪馬「倭」国・・・⇒「邪馬一国」じゃあないでしょうか?

交遊通信録・品川塾誇大史 「近畿天皇家の呪縛」と半島

さん。
 
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 
年末にお薦めのお知らせをいただいた、NHK番組『日本と朝鮮半島 2000年』、
もちろん元日から、拝見しました。
古代東アジア合衆国たるこの列島への半島からの影響力、
国家建設・律令整備などに果たした渡来人の智恵と、
ペクチェ(百済)滅亡に伴って流入した人々の功績・・・。
大いに参考になりました。
列島内王権が自前で執り行ったとされて来た、
文化・マツリゴトが半島の濃い影響の下なされたと、
映像を駆使した説得力ある放送でした。
この列島の覇者は、半島へ三度手を出し、その都度自滅している構図。
白村江の戦(倭国)、文禄・慶長の役【壬辰倭乱】(秀吉政権)、20世紀日韓併合(明治政権~)。
徳川期の朝鮮通信使の彼我の必要性・緊張の中の実施・・・よく解かりました。
 
が、せっかく半島との強い結びつきを言いながら、NHKとヨイショ学者にはうんざりです。
列島内唯一(と海外からも認知される王権)は、
ヤマト以外にあり得ないとする「公認学説」を繰り返されては、
NHKとその監修役の学者の「自説」(「韓国」学会を味方に付けての)
の強要であり、公平を欠いている、というのがぼくの正直な感想です。
ぼくが、言うのは北部九州の王権のことです。その可能性への言及のことです。そこはフェアに案内せんとぉ~。
半島と列島の関係構造を説き明かしたのだからいいじゃないか・・・ではありません。
20~30年前なら半島の強い影響力を正当に認めなかった
古代史学者の多くが、今では半島との関係、半島の強い影響力、
当時の東アジア地政学の中で俯瞰すべき歴史、
中国及び半島がこの列島の云わば「教師」であったという実態・・・、
それらを認めて語っている。
ところが、そこで言う「列島内王権」とは近畿天皇家なのです。
 
逆に言うと、
ある種の学者は、北部九州のある勢力の痕跡(記憶)を抹殺せんがために、
あれほど無視して来た「半島の指導力」を認めたのだ。と ひがみ癖あるぼくは思ってしまう。
仮想:
《  韓国側学者の主流=「日本書紀」重視・影響を与えた対象近畿天皇家なり・・・
の傾向に期待して、近畿天皇家中心史観の補強資料として、その論を活用する・・・。
(韓国学者は、無意識のうちに、日本に最も受容れられるを求め、
近畿天皇家中心書物や史観を前提に述べてしまう。二重の思惑が錯綜する)
ここにある「合意」はまるで、反・北部九州王権説の「日韓連合」の様相を呈している。
それぞれ違う思惑を秘めて・・・。
まるで、反・沖縄独立の「日米連合」のようだ。
辺野古キャンプ・シュワブに軍港を含む基地を作る元々の計画を、普天間返還に絡めて持ち出し、                                             辺野古沖案を平然と出す「詐術」の構造とそっくりだ。
(北部九州王権無視に関する「合意」についてのみの感想。他のことに及ばない。念の為)  》
 
2日放映の「白村江の戦」では、
番組はその後の天智天皇(中大兄皇子)の死去(671)から
すんなりと「やがて天武天皇が即位」などとナレーションで流している。
もしもし! 「壬申の乱」(672)はどこへ行った。
戦勝国:唐からの3000人の使節団来倭を何と見る?
対唐戦争の「戦後」に何故に後継を巡る内戦(壬申の乱)に至ったか?
天智の弟であるはずの天武(大海人皇子)が、何故に天智より年長なのか?
新王権は何故に親唐(戦勝国・唐)政権へと向かったか?
この一大政変をNHKは端折ったのだ。フェアでない!
そもそも中大兄と母(大化の改新時の皇極天皇、白村江時の斉明天皇)は、
白村江戦の主宰者なのか? 近畿天皇家はどこかの要請に応じて、
大軍を筑紫まで派遣しただけではないのか。派遣はアリバイ作りではないのか?
消極的参戦は、「唐・新羅(シラ)」「百済(ペクチェ)・倭」のいずれが勝とうが、
その後の近畿天皇家の安泰を確保せんが為の方法論ではなかったか?
 
長くなるので、詳細は後日として、ぼくの見解はいずれ、「たそがれ誇大史」の頁を作り、
順を追って述べて行きたい。その予告は次頁に示します。
 
********************************************************
 
品川宿:「たそがれ自由塾」風景:唯一の自慢は、W=2300のビッグデスク。
何故か カーテン横に「9条改憲阻止」のたすきが・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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