Archive for the ‘品川塾誇大史’ Category
読書: 小論集『日本語は美しいか』。 「美しい国」論との同根性を読む
『日本語は美しいか』(遠藤織枝他、三元社、¥2300)
「日本語は美しい」と主張するこれまでの言い分は「日本語」を母語とする者によって、「日本語」で語られ・書かれて来た。そのことに対して、「いささかアン・フェアだろうが…」と思って来た。それはまるで、ある社(党でもいいのだが)の風土・人心・歴史 etcを、他ならぬその社の社長・役員・従業員、つまり内輪のみで称え合っているような「親バカ」的構図だと思ったからだ。 はたして日本語は美しいのか? 言語の美しさとは何のことか? また、各言語には備わった醜美の等級などあるのか? そもそも、どうやって他言語の醜美度を測りかつ比較するのか? 本書は「日本語は美しい」なる論の、恣意性・虚構性・いかがわしさの、発生メカニズム・国家や支配層の関与・話し手(母語話者)の受け止め方などを、日・中・韓・ニュージーランドでの調査、歴史・文献などをもとに明らかにして行く。若い(かどうか知らないが)学究者たちの小論文集だ。 ぼくのような、日本語に無頓着な、言葉素人にも分かり易い一冊だ。
「日本語は美しい」なる説の根拠・来歴は、日本でしか話されない地域言語「日本語」の、虚構の世界性・アジア盟主性を無理にでも確立したい者たちが、母語話者に当然備わっている「馴染み」「愛着」を巧みに利用しそこに「美しい」を加味して推進した構図のようだ。しかも、他言語など知りもしない推進者たちは「簡潔で単一」「澄み切っている」「敬語こそ美しさの根拠だ」と言いながら、「世界に類例のない敬語が乱れている」と危惧してもいる。 ならば、澄み切って単一のはずの言語を、アジアに広める任務の教員に見られる各「方言」は困ったものだと、何故嘆いているのか? アジア共通語を画策した者たちが、日本語を「完成」させようと躍起になったのは、実は、それほど、未完成で、多数の方言があり、敬語も各階層で違い、狭い島限定の地域語であることを、推進者自身が承知していたことの証左でもあろう。 あるいは、「簡潔」と言いながら、敬語の「難しさ」を言うが、では、難しさイコール美しさなのか? また、類例がないはずの敬語の格付けが日本語よりうんと複雑なインドネシア語は、より美しいのか? 言語にはそれぞれに美しさがあり、その言語の内部での「美しさ」を磨くしかないのではないか。それは、他者の受容と己の明確な自己主張によってのみ初めて可能性が垣間見える、「自立と連帯」のように難しい。
そもそも、日本語を巡る「美しさ」への心情経路は次のような超飛躍三段論法ではなかったか? 『我は、美しいものが好きなのだ。だから、我が好きなものは美しいに違いないのだ。 我は家族・親類縁者・我が故郷が好きだ、それらの人々・社会が好きだ、その集合体である「ニッポン」が好きだ。 話されている言葉=「日本語」も好きだ。ゆえに、我が好きな「日本語」も「日本」も「美しい」のだ。 文句あっか?』 橋本信吉・金田一・三木清・吉川幸次郎・日夏耿之介、といった高名な学者も、この論の外には居ない。 当時の時局柄か、中国出自の言葉への劣等感を裏返した敵意に充ちてもいる。日本人なるものの構成史のように、列島に「ことば」が先行して原生していたのではないのだから、日本語も何らかの「寄せ集め」であることは自明なのだが…・・・。
「日本語は美しい」なる論が、「美しい国」を標榜した某首相の意図と瓜二つの論理立てで主張されて来た経緯がよく解る一冊だった。敬語や女性言葉も、家父長制を支えるツールの一つだと言えるが、男の学者どもは「敬語を中心にした女性言葉こそはその美しさの根幹だ」とその社会性・歴史性・支配性には、あえて(?)目をつぶっている。 これを超えて、日本語への相対観・距離感を保った上で、他との比較でなく、かつ、何らかの恣意性に与することのない、「日本語」の「個性」にも独自に備わっていよう「美しさ」「繊細さ」「深さ」について、知り学ぶことは大切なことだと思う。それによってこそ、ぼくらは歴史と他者と自身に出会う可能性へと進めるのだから…。 我が**は美しい、我が**は愛しい、我が**は素晴らしい、我が………、その親バカ性と排他性。 肝に銘じたい。 ここでも、「切れて」「繋がる」がKEYなのだ。
品川塾空説: ひょっとすれば、日本語は、海洋系基礎単語身体語・数詞(ヒ・フ・ミ・ヨ)・発音+北方文法+中国・朝鮮の概念語や他の 多くの要素から紡ぎ出されたのではないか? ならば、その合成成立史はすごいことだ。日本人なるものの構成成立史と無関係ではないはずだ。 『楽浪海中倭人あり』の倭人は日本語の原型を話していたか?違う言葉だったか? 卑弥呼はどんな言葉を話してしていたか? 倭の五王は? 隋の煬帝に国書を送った倭国の王=日出る処の天子=多利思北孤=タリシホコ は? 「白村江の戦」では「百済・倭連合軍」はどんな会話を成立させていたのか? 柿本人麻呂の 『大王之 遠之朝廷跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所思』は、本来どのような言葉と音だったか? 【通説読み: おほきみの とおのみかどと ありかよふ しまとをみれば かみよしおもほゆ】 日本語の原圏は古代史と離れて語られるべき事柄ではない。 残念ながら、そこが未明なのだ。
追記: ぼくが、心底美しいと思ったのは、北原白秋『からたちの花』です。「みんな みんな やさしかったよ」…。 日本語が美しいのか、それとも、刷り込まれた日本語浅知識の判断基準に照らして、その中で「これは美しい」と感じたのか…?。 後者でしょう。 美しさは、比較しようもない言語種にではなく、言語によって「幻想」される情景・心情・世界を美しいと感じる心に宿るのではないでしょうか? その美しさに見合う、あるいは適する「言語」-「発音」「抑揚」「語感」「語順」「構成」であるかどうかは、「日本語」しか知らない者には解りようもなく、ただ「日本語としては」、「知っている日本語の中では」、「この表現、構成は」 美しいのではないか? と思うばかりだ。 『からたちの花』 http://www.youtube.com/watch?v=nC9-40wKDfM&feature=related
排外主義の詐術: 石原よ! 誇るなら、「古代合衆国」たるを誇れ!
『東郷大将が大和魂を持っている。魚屋の銀さんも大和魂を持っている。
詐欺師、山師、人殺しも大和魂を持っている。誰もみたものはない。
品川塾誇大史: 100枚限定鏡が500枚出土…? バーゲンか?!!
『正始元年鏡は卑弥呼が中国から授与された可能性が極めて高い』 と指摘するのは、
交遊通信録・品川塾誇大史 消された「倭国の記憶」
F・K さん。
前頁で言いました予告編です。機会をみて、順次詳細を記述しましょう。「倭」は近畿天皇家ではありえないことが、明らかになると思います。