Archive for the ‘品川塾誇大史’ Category
品川塾誇大史: ウラジオストックの新石器時代~縄文期の黒曜石
友人たちが7月に一週間前後、極東ロシアを旅すると聞いた。
「日露」戦争跡地巡りでも、「北方領土」からみや昨今の日露の極東資源開発・経済協力の事前調査でもないことは確かだ。
21世紀の東アジアを俯瞰し、尖閣問題・いわゆる「中国の赤い舌」問題に限らず地政的課題、経済的相互協力(依存)的課題、文化・民族的課題、20世紀の歴史を共同の東アジア史として見つめ、中日・朝日・韓日・露日の現実的な壁・制約と可能性を肌で感じたい、とのことだと聞いた。諸事情で行けないが、興味があって羨ましい。
ワシの興味とは、短期間の旅で何かを掴める質のものでないが、21世紀だからこそ、100~150年の近現代や500年や1,000年の単位の時間ではなく、地図的だけでなく時間的にも俯瞰したいとの積年の「黒曜石」ロマンとでも言うべき妄想だ。
過去ブログから転載する。
青森県青森市の4,500年前から3,000前だろうと言われている、有名な三内丸山縄文遺跡には大型家屋(集会施設か)の構造柱の巨木(栗=腐りにくい)・糸魚川のヒスイ・長野県霧ヶ峰の黒曜石・新潟のアスファルト(防水剤)などが出土していて、この地の集団の交易圏の想像以上の広さが実証された。
同時期かそれ以前の生活用具のひとつ石鏃(ナイフやヤジリとして実用)が、ウラジオスットクから出土している。石鏃の素材は「黒曜石」で、ガラス質でスライスし易いが強度もあり石器時代から刃物として使われて来たと言う。その成分は、二酸化珪素・酸化アルミニウム・酸化ナトリウム・他で、現在の分析技術では成分構成比や混合成分から、その産地が特定できるのだ。
ウラジオストック出土の「黒曜石」土器だが、分析の結果、果せるかなその産地は、何と島根県隠岐だった。
縄文期、あの内海―――日本:日本海、韓国:東海、共和国朝鮮:朝鮮東海、中国:日本海のようだ――を、交通路とする文化・交易の実態があったことが、浮かび上がる。
縄文期の伝承らしいと言われている、出雲の「国引き神話」で北や西の国を『引く』のも「交易権樹立」の事績の伝承と読み解けば、あながち絵空事だとは言い切れまい。
話は飛ぶがうんと下った時代の、近畿天皇家による九州王権の歴史・神話・伝承・文化・他の強奪・剽窃の歴史・・・・。
ある勢力の東征(九州一派の大和入り)、邪馬壱国、九州王者磐井への近畿継体政権の叛乱(教科書は「磐井の乱」と記述)、聖徳太子&遣隋使の虚構(阿蘇山あり、故なくして火を噴き云々)の真実、壬申の乱の実際、の聞きかじり情報を縷々申し上げて来た。
また、縄文期の実態と「あの海」を巨大な内海とする文化圏のことも素人なりに言って来た。おおかたは、「現情勢に関係ないやろう?」との反応だった。
「現情勢に関係して来ている」ではないか?!21世紀~22世紀、それらが明らかになって行くか?
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou54/furuta54.html
貴兄は何処だったかで「考古学研究者」と名乗って居られたから専門家でしょうが、素人のワシにはここでの論旨=(ウラジオ出土の黒曜石の産地は隠岐だった。縄文期あるいはそれ以前から、日本名:日本海を内海とする交易圏が存在した)=は、空理空論ではないと思います。
出来れば、この論のどこが空理で何が空論なのか、教えて下さい。
列島覇権の暴虐: 民博で「アイヌ三大蜂起」を知る。
せっかく向かった4月27日にスカ喰ろうて(水曜日休館日を知りながら、その日が木曜だと思い込んでの無駄足)翌日リベンジに行くつもりが、
民博(国立民族学博物館):「夷酋列像-蝦夷地イメージを巡る人・物・世界」への訪問は本日5月1日(日)となった。
「アイヌ三大蜂起」を知り、最後の武装蜂起と言われている「クナシリ・メナシの戦い」(1789年、江戸時代寛政年間)の翌年、松前藩士によって描かれた「夷酋列像」は、松前藩の和解策に協力的した12人の有力者だという。9世紀初頭のアテルイの和睦の後の騙し討ちもそうだが、列島覇権の暴虐とその裏面の哀しみに「東アジア反*****」には理と大義があると想った。
民博からの帰り路、万博記念公園内に走る「汽車ポッポ」は四輌連結(電気自動車が引いている)で楽しそう。
ちょいしんどいのでその気はないのに「孫を連れて来たったらよかった」と想った瞬間、昔、万博公園の隣にあった無料公園(現サッカー競技場辺り)で、確かいっしょに行った保育所つながりの人に撮ってもらったらしい、女房と子どもたちの写真を思い出した。あ~ぁ、しばしば不在だったな。
7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されているが、大和朝廷成立史はと表裏の関係だ。古くは5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝にある、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中の記述「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」の「東は毛人」も北関東から東北・北海道にかけての蝦夷だと思われる。(ウィキペディア:「蝦夷征討」参照)
下って8世紀末、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現在の奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたとされる。田村麻呂は802年(延暦21年)、胆沢城を築いた。
『日本紀略』には、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。2人は田村麻呂に従い7月10日に平安京に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、8月13日に河内国にてアテルイとモレは処刑された。和睦の果ての騙し討ちだ。処刑された地は、枚方市宇山を比定地とみなす説があったが、発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明し、枚方市宇とする説は消えた。
コシャマインを首領とする函館:志濃里の「コシャマインの戦い」は1457年、何と応仁の乱の10年前だ。有名な「シャクシャインの戦い」(静内方面)が1669年だから、それから120年後に起きた1789年の「クナシリ・メナシの戦い」はアイヌ民族最後の武装蜂起と言われている。俗にこの三つを「アイヌ三大蜂起」と呼ぶらしい。
今回の「夷酋列像」は、主に蜂起の翌年1790年に松前藩士:蠣崎波響がアイヌの有力者を描いたものだと言う。12人はそれぞれ有力者で「村落の荒廃とこれ以上の死者を避ける為、松前藩の和解策に協力した有力者だという。哀しい史実だ。
蜂起に至った事情は次の通り。
メナシはアイヌ語で「東方」を意味し、元来は現在の北方領土から知床半島、根室地域 一帯を指した。
慶長9年(1604年)に成立した松前藩は、家臣に北海道各地の漁場の経営権を与えた 。米の取れない蝦夷地では、他藩のように年貢前を家臣に分けることができなかったの だ。漁場の経営権を委ねられた家臣は、次第にその権利を商人にあずけてけてしまう。 こうして漁場の経営権を握った商人を場所請負商人という。
当時、メナシ一帯を支配したのは飛騨屋という商人だった。飛騨屋は、北海道のエゾマツ、トドマツを江戸、大阪に送る商売によって巨万の富を蓄積した。木材商人であった飛騨屋が漁場経営に乗り出したのは、松前藩が飛騨屋への借金返済のために、メナシの漁業権を20年の期限付きで貸し与えたからだった。飛騨屋は漁業に慣れていない上、期限内に利益を上げようとアイヌを酷使・暴力支配した。 そんな折、国後島のアイヌが、倭人から薬代わりにもらった酒を飲んだところ、病状が 急変、まもなく死亡するという事故がおきた。相前後して、倭人からもらった飯を食べてすぐに果てたアイヌの娘がいた。相次ぐ同胞の死に、追いつめられたアイヌたちは、寛政元年(1789年) 5月7日の夜、国後島泊村の運上屋を襲い、ついに決起した。
国後島を制圧したアイヌたちは、対岸のメナシに渡り、同地のアイヌ人およそ130名以上 を集め、次々と和人の陣屋を襲撃した。羅臼町城にはオロマップに番屋があり、8人の 和人が襲われている。ほう起したアイヌ人は、松前藩の反撃を予想して、各地にチャシを構え、戦闘態勢に入った。報告を受けた松前藩もすぐに臨戦態勢をとり、264人の鎮圧 隊をノカマップ(現根室市東部)に上陸させた。
そこに現れたのが厚岸アイヌの長イトコイと国後アイヌの長ツキノエ。二人はほう起軍をなだめ、首謀者の首をさし出すことで、乱を治めた。倭人を殺した罪で、アイヌ37人が 処刑され、その首は松前の立石野でさらし首になった。
ぼやき: 島尻の「歯舞」読めずの深淵
政府答弁書までウソをつくようでは安倍首相もおしまいだ
2016年2月20日 天木 直人
島尻安伊子沖縄・北方領土担当大臣が北方4島の一つである歯舞諸島を読めなかったことは、おもしろおかしく報道されて、もはや日本人で知らない者はいない。
テレビで流されるあの時の映像を見れば、島尻大臣が読めなかった事は明らかだ。
どう読むのか教えてくれと側近にささやいてる声まで流されていた。
それにもかかわらず、安倍内閣は19日の閣議で「読み方を知らないと言う事実はない」とする政府答弁書を決定したという。
いくら安倍首相が嘘つきだと言ってもこの嘘はない。
嘘をつくことはその場限りで終わってしまう。
国会答弁の修正はできる。
しかし閣議決定を経た上の政府答弁書は公文書として永久に残る。
政府答弁書を修正するなどということはあり得ない。
安倍首相の嘘もここに極まれりだ。あまりにも愚かだ。
読めませんでした、そんな政治家を担当に任命した私の責任です、と正直に認めれば国民は許したろうに。
正直になれない安倍首相はこれで終わりである(了)
旧唐書:『日本国は、倭国の別種なり。その国、日のヘリに在るが故に、日本を以って名と為す。あるいは曰く、倭国自らその名の雅びならざるをにくみ、改めて日本と為す、と。あるいは云う、日本はもと小国にして倭国の地をあわせたり、と。その人にして朝に入る者、多くは自ら大なるをほこり、実を以って対せず、故に中国はこれを疑へり。また云う、その国界は東西南北各数千里、西界と南界は大海にいたり、東界と北界には大山ありて限りとなす。山外はすなわち毛人の国なり。』 読み解けば、「日本」は倭国とは政権が別の国家で、倭国よりは日に近いすなわち東に存在し、しかも倭国がなんらかの理由で衰えたのを合併し、列島の統一王権を形成した国である、と言うことができる。 その国とは、紛れもなく「大和王権」であろう。
倭国が日本に併合され統一国家が生まれたのは、上の<倭国>記事の最後の年号・貞観22年すなわち648年と<日本>記事最初の年号・長安3年すなわち703年の間のことである。648年から703年の間に生起した九州倭国を揺るがせた大事件と言えば、663年の「白村江の戦い」の他にはない。したがって前の段落で「なんらかの理由で衰えた」原因こそがこの「白村江の戦い」でなければなるまい。戦いは海戦で、倭国の水軍400艘が海の藻屑になったと言われる消耗戦であった。これにより九州倭国は立ち直れないほどの痛手をこうむったのである。
そのために対外的には倭国として権力を振るってきた九州国家は勢いを失い、変わって畿内大和王権が「日本」という新国家体制(唐の制度にならった律令体制)を建設し、列島を統一したのであった。おおむね天武王朝から文武王朝の時代にかけてそれは完成したと見てよい。やがて、列島支配の大和覇権は、8世紀(700年代)末の蝦夷地への強奪戦(アテルイ vs 坂上田村麻呂軍)へと至る。島尻が蝦夷地「歯舞」を読めないことの深層は、文字通り「深い」。
アカデミズムがある種の「徒弟制」で成り立っており「ムラ」で論じた学績を教授になった途端「ゴメン、今までのは嘘です。実は…」とは絶対ならず、原子力ムラのように「古代史ムラ」なんです。「記紀」を相対化する道、列島を東アジア古代史・列島内覇権史の中へ解き放つ道は遠い。
品川塾誇大史: 蝦夷・アテルイ
大和朝廷を震撼させた雄:アテルイは蝦夷だ。
789年(延暦7年)桓武天皇の命を受けた征東大将紀古佐美に率いられた歩兵2万5千8百余人の大和朝廷の侵攻軍を、1500人ほどの軍勢で「衣川の戦い」において撃破。桓武帝の第一次蝦夷征服軍を解体に追い込む。792年(延暦11年)、征東大使大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂に率いられた十万余に及ぶ第二次征東軍の侵攻も跳ね返し、北上川以北の独立を守った。しかし20年近くに及ぶ戦争のため国土が疲弊し、801年(延暦20年)に征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂の採った各族長に対する「懐柔工作」によって組織自体が脆弱化し、対抗する力を失っていく。ついに802年(延暦21年)4月15日、盟友の磐具公母礼(いわぐのきみ もれ)等500余人と共に征東軍に降服する。田村麻呂が生命の保証をしたため、桓武天皇に拝謁すべく平安京へと上るが、裏切られ(騙し討ち)て捉えられ、803年(延暦22年)8月13日、母礼と共に河内国杜山で処刑された。一説によれば、坂上田村麻呂は朝廷にアテルイの「助命」を願い出ていたという。敵トップの武勇を称えてのことだとも、生命を保証した約束を破りたくなかったとも、全くの作り話だとも言われている。 朝廷の言い種『野生獣心、反復して定まりなし』
いいかげんに認めなさい。
この列島の多民族性、ノット単一性、元祖「合衆国」性、謀略と覇権強奪史を。
●会場国立民族学博物館 特別展示館
(大阪モノレール「万博記念公園駅」下車 国立民族学博物館)
●会期2016年2月25日(木)~5月10日(火)
●開館時間10:00~17:00(入館は16:30まで)
●休館日毎週水曜日(5月4日(水・祝)は開館)
※フランス・ブザンソン美術考古博物館所蔵の「夷酋列像」の展示は4月19日(火)までです。4月21日(木)からは、国立民族学博物館所蔵の「夷酋列像」を全面展開して、展示します。
誇大史: ①倭人のアイデンティティに学ぶ
尖閣・竹島、東アジアの海洋・・・・・・ 「魏志倭人伝」等に登場する倭人の 「海峡を跨ぐアイデンティティ」に学ぶ。
これを語ると、たいていの人は「現代に古代史を持ち込まないでくれるか!」とか、「悪名高い日韓同祖論か?」と返して来るのだ。 これ、とは「魏志倭人伝」にも描かれた「邪馬壱国」を含む領域「倭」のことである。 同祖論?朝鮮族にあらず、後代の「日本国」に非ず、すなわち「日朝」いずれでもなく、かつ海峡両岸(半島の最南部と、列島九州島の北部)にも居住した倭人、それは海の民だった。 では、倭人とは誰のことか?
朝鮮史によれば、現在の遼東半島青島(チンタオ)辺りを始祖の地として、朝鮮民族は形成された。これを古朝鮮(コチョソン)という。古朝鮮が南下して行き朝鮮族の地を拡大して行ったという。南下拡大という限り、半島の南の方には古朝鮮ではない種族が居たか、無人の地であったかなのだが、南には5000年前とされる古朝鮮の誕生より遥かに古い「人類生存」の痕跡たる遺物が当然大量に発掘されてもいるので、古朝鮮が古朝鮮ではない人々が居た南に進出して行ったということになる。一世紀には、半島に、朝鮮族の古代準国家(馬韓・辰韓・弁韓)が形成されて行く。 やがて四世紀~七世紀にかけては「三国時代」と呼ばれる古代国家、高句麗(コグリョ)・新羅(シルラ)・百済(ペクチェ)の時代となる。新羅が統一(676)するまで大国中国の半島支配策も絡み抗争は続いた。
一方、中国の史書に拠れば、朝鮮半島のさらに先に朝鮮族ではない倭人が居り、その倭人の本拠地は三世紀の魏志倭人伝まで判然としていないが、中国歴代王朝の史書には古くから倭人が登場している。古いものから順に挙げると、 『論衡』 *周:BC1046~BC256 「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず」 (周代は列島の弥生時代前期に当る。暢草は酒に浸す薬草。倭人がそれを献上して来ていたと言うのだ)
『漢書地理志』 *前漢:BC:206~BC8 「夫れ、楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時をもって来たり献見すと云ふ」 (楽浪郡は、前漢の武帝がBC108年に衛氏朝鮮に設置した四郡の一つ。郡都は現在のピョンヤン付近。その眼前の海を越えた処に倭人は居るという訳である)
『後漢書東夷傳』 *後漢:AD25~220 「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。」 「安帝、永初二年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う」 *生口=奴隷 (大夫が居る倭奴国は「倭」の南の果てに在ると言っている。江戸時代に博多湾:志賀島で発掘された「漢委奴國王」の金印を受けたのは、倭人が九州島北部に{天孫降臨}して構えた本拠地の主であり、金印の読みは教科書が教えるところの「漢の倭の奴の國王」ではなく、従って「奴国」という「倭国」の一分国の王ではなく{本社が支社を通り越して一営業所所長に支社章を授けるがごとき、冊封制度の先の分国に金印を授ける事例無し。}{漢が冊封制度下の国に対して「漢の**の**」と三段表記した例は無い}、「漢の倭奴(イド)国王」であり、その地は中国が認識する「倭」域の正に極南界だと言っているのだ。) また、「倭国」「倭奴国」については、後代の史書にこう記述して混乱防止策も講じている。 【 『随書』:「安帝の時(106~125)、又遣使が朝貢、これを倭奴国という」 『旧唐書』:「倭国とは、古の倭奴国なり」 】 (たそがれ自由塾説:倭の固有名詞は「イ(ae)」「ヱ」「井」であり、「奴」は「匈奴」などにも見られる卑字蔑称。ちなみに、属国への蔑称は、例えば「匈奴」は=「凶悪な野蛮人」、「鮮卑」=「鮮やかなまでに卑しい」、「女真」=「女しかいない(男尊女卑観に基づいて)」などがある。「倭奴国」の固有名詞の部分は「倭」であり、それは発音ともども引き継がれて行く。「邪馬(これまた蔑称)壱国」なら「壱(一)」、「日本」の「日」、いずれも「倭」の音を継いでいる。今日、中国語「イーベン」、韓国語「イルボン」)
『魏志倭人伝』 *正しくは『三国志:魏書巻三〇「烏丸鮮卑東夷傳、倭人の条」』 *魏:220~265 「倭人は帯方郡東南の大海の中に在り、山島に依り国邑を為す。もと百余国。漢の時、朝見する者有り、今、使役通ずる所、三十国。」と始まる。 (以下、方角・位置関係、距離、行程が述べられ、経済生活や日常習俗《黥面文身=魔除けの刺青、海女漁法など》の観察記述があり、最後に外交や政治が論じられている。それは夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条からなる東夷傳全体にほぼ共通する手順だそうだ。最後に倭の中枢たる「邪馬壱国」に到るのだが、その所在地は日本古代史の大論争点でもあり九州説・大和説入り乱れての混迷にある。) (239年景初三年、卑弥呼、難升米らを魏に派遣。親魏倭王の印・銅鏡100枚など拝受。240年、魏の使者、倭国を訪問。卑弥呼が受けた鏡とされた三角縁神獣鏡は、すでに500枚出るという奇怪。存在せぬ年号=景初四年の刻印のものさえある。???倭国内製だろう・・・)
言えることは、古代中国が史書に記述した「倭」理解は、一貫して同じものを指しておりそれは動いてはいない。魏志以降の史書でもそれは変わらない。途中で、違うものを指すなら但し書きが要る。ノン注、すなわち但し書き無しならば、「読者諸君が御承知の、あの楽浪海中の、あの極南界の、あの帯方郡東南の大海の中の、あの「倭」が・・・」、と表しているのだ。 例えば、有名な「倭の五王(讃珍斎興武)」の倭王武の上表文が登場する「宋書」だけが、違う「倭」を言っているなどということはない。そこで言う「倭」が近畿大和天皇家なら、遡って「漢書地理志」に言う「楽浪海中」も、「後漢書東夷傳」に言う「極南界」も、「近畿大和」でなければならない。正史とはそういうものだ。但し書きなき継続した呼称の指し示すものは一貫して同じでなければ読み下らない。
【参照】 *「倭の五王」を巡って、『宋書倭国伝』 * 「遣隋使の謎」「日出づる処の天子」を巡って、『隋書俀国伝』 http://www.yasumaroh.com/?p=7619 http://www.yasumaroh.com/?p=7646 http://www.yasumaroh.com/?p=7655 さて、「邪馬壱国」の謎解きについては、「朝まで生誇大史」をしたいところだが、 ここでは通称『魏志倭人伝』に登場する、「倭」の場所を示す重要かつ目からウロコの二つの文言を示しておきたい。 一つは、「倭人の条」の前条は「韓の条」(馬韓・辰韓・弁辰)なのだが、その冒頭にある文だ。 『韓は帯方の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、方四千里ばかり。』 「接し」・・・、つまり韓と倭は、接している・地続きだ、と言っている。東夷伝には海を隔てている場合の表現は「渡る」などと何度も出て来るので、「接し」は地続き状態を言っていることがよく解かる。 「倭」地は、韓と接していたのだ。これが、一つ目。 二つは、倭人の条の冒頭導入部の「・・今、使役通ずる所、三十国。」に続いて登場する、帯方郡から倭に向かう行程を述べる文の最初の行だ。 『郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍(たちま)ち東し、其の北岸、狗邪韓国に到る、七千里。』 上記「其の」は、倭に至るには、を受けての文脈から「倭の」としか読めないのだが、さすれば「倭の北岸、狗邪韓国」という地平が立ち現れるのだ。倭の一部分たる地「狗邪韓国」に到る・・・、そこは倭の北岸に当るのだ、しかる後に「始めて一海を度(わた)る」と(通称)魏志倭人伝は云っているのである。
最早疑う余地は無い。倭とは、黥面文身・没水捕魚の海洋の民=倭人が棲息する領域であり、海峡の両岸を縦横に行き来し、 「北岸:狗邪韓国」=伽耶の洛東江流域と「南岸:九州島北部」を陸のダブル本拠としていた海洋種族だ。 半島内情勢に締め出されてか、ある時(紀元前後か?)「南岸:九州島北部」を本拠と定め大移動(古事記に言う{天孫降臨})、 やがて三世紀の「邪馬壱国」から宋や隋と外交・交易する「倭国」となって行く。 半島内「倭」は早期に消滅、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の永い時間の抗争・割拠を経て、唐による冊封下、百済「白村江の戦」敗北、再度の滅亡、新羅による統一(676)へ至る。 九州島「倭」は、七世紀東アジア大戦争=唐・新羅連合VS百済・倭連合の「白村江の戦」(663)大敗北をきっかけに滅亡。 近畿大和王権は「壬申の乱」(672)を経て「親唐王権」=大海人皇子(天武朝)から701年「日本国」へと進む。 その王権は故あって「倭」の歴史・伝承・文物・古の大移動(「古事記」にいう天孫降臨)・古代国内平定譚・外交史・戦史など、そっくり頂戴した。 人々の記憶・各地に残る伝承・外国の史書などとの整合性の「つくろい」に腐心し、年月を費やした(諸説あるが、681年天武による編纂事業開始勅命、720年・養老四年・舎人親王らの撰により完成とされる。何と39年を要したことになる)事業である正史「日本書紀」は精度高く、「倭」「倭国」の実像を隠し遂し、近畿大和王権像を確立した、 かに見えた。 が、実は次々と綻び始めているのだ。
例えば、『隋書』にある600年の「倭」からの遣使事績の記事が何故か日本書紀には無い、日本書紀が小野妹子らを派遣したと言う607年の遣使記事はというと、有名な国書について記載されていない。 しかも派遣先を「唐」(618年からは唐なのだ)と記載してある。日本書紀:推古紀:推古15年(607)『七月、大礼小野妹子を大唐に遣わす。』 『隋書』に拠れば、その国書の文言『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや』(何故か学校ではここまでしか教えられないが)の後にはこうあるのだ。『阿蘇山有り。其の石、故なくして火起こり、天に接する者、俗以て異と為し、因って祷祭を行なう。』・・・・・・。 この王者の統治域がどこであるかは明らかだろう。 そもそも「日出づる処の天子」は実在が疑わしいとされる聖徳太子(らしい)と教えているが、彼は推古天皇の摂政であって天子(王)ではない。 国書において地位を僭称するか! 無理に無理を重ねる正史解説なのだ。 常套句「中国使節が嘘を付いた」「南と東を取り違えた」「編者のケアレスミスだ」「誤字・誤記」「斯く斯くの事情で伏せた」・・・・・・、 原子力ムラならぬアカデミズム世界の古代史ムラが、とにもかくにも「近畿大和王権史観、記紀中心史観」に合うように自由自在・なんでもありの説明を繰り返して築き挙げたムラは強大だ。ムラに「真史」を語る若き学究の徒が現れるのは何時のことか? 永久に無理かもしれない。 『たそがれ自由塾』を閉められない所以だ。
元始、境界とは無縁の 輝く海があった。 そこは海峡を跨ぐ海の民:倭人の棲むところであった。
次回予告:尖閣・竹島を考える ② 明治・平成 二人の国民作家(漱石・春樹)に見る「朝・中」への眼差し
歌「100語検索」 34、 <散>
散
桜は嫌いだ!
別・離・忘・去・逃・棄・折・流・ちぎれ・倒 (http://www.yasumaroh.com/?cat=26 )それでも納得しない「お国」は「砕けよ」「散れ」と言っている。 「散る」はそれこそ修復不可能、命の終わりだ。
花と言えば「桜」だと、一体誰が決めたのだ。 古来、花は「梅」だったと思う。花が命を終える場面を表す日本語は実に見事にその瞬間を捉えていて感じ入る。桜は「散る」、椿は花びら全てが一気に落ちるので「落ちる」と表し、罪人の斬首を連想させて喜ばれない。 牡丹は大きすぎて自らの重みに耐えかねるように朽ち行くので「崩れる」と表す。 梅の花は独り密かに命を終えるが、その様を「こぼれる」と表し奥ゆかしい。 桜のあの散り際は、どうも騒々しい。辺り一面にこれでもかと花びらを撒き散らし、前夜までのバカ騒ぎ酒宴を呪うように人間どもに反撃している。 桜をネタに呑み騒ぐ人間(もちろん私を含む)どもも、これ見よがしに咲いた挙句過剰な反撃に出る桜も、どうも好きになれない。 桜に責任はないが、好きになれないのにはもうひとつ理由がある。 仏教用語「散華(さんげ)」を拝借僭称して、「お国」の為に命を失った人々の最期を表すに使った詐術のことだ。 「散華」:仏や菩薩が来迎した際に、讃嘆するために華を撒き散らし降らしたという故事にちなんで行なわれる。 法要などに散華が行なわれ蓮などの生花が使われていたが、蓮華を模った色紙で代用する。 ここから、「散る」に最も相応しく儚さを象徴する花を求め、日本人(?)の死生観・無常観・「もののあはれ」など儚さを美しく感じる風土感性(?)にマッチするとして、見事に散る桜の花を散華のシンボルに誰かが祀り上げた。 日本軍兵士の戦死を美化するに際して、「玉砕」とともにそれを美化する表現として「散華」が採用されたのだ。もちろん、事故・病死・空襲・非戦闘員・他国の兵士のそれは「散華」とは言わない。【ウィキペディアより要約】(靖国の合祀基準そっくりだな) そして軍国用語とされちまった「散華」のその華は下記歌謡にもある通り「桜」なのだ。 ところで、先日偶然、万葉集に登場する植物ベスト・テンを知った。(数字は登場回数)
1.はぎ(萩)141 2.うめ(梅)116 3.たちばな・はなたちばな(橘・花橘)107 4.すげ・すが・やますげ(菅・山菅)74 4.まつ(松)74 6.あし(葦)55 7.ち・あさぢ(茅・浅茅)50 8.やなぎ・あをやぎ(柳・青柳)49 9.ふぢ・ふぢなみ(藤・藤波)44 10.さくら(桜)41 「桜」は何と第10位と下位だ。
ひとはいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(紀貫之:古今集) これは、前段に、『初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程経て後に至れりければ、かの家の主、かく定かになむ宿りはあると、言ひ出だして侍ければ、そこに立てりける梅の花を折りて、よめる』とあり間違いなく梅。 東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな(菅原道真:901年、京を追われるに際しての作歌とされる。拾遺和歌集) これらは梅だが、この前後から梅から桜への変遷があり、それは古今集編纂前(905年奉上)の時代だと言う。 ヤマトが全国制覇(701年。唐、列島を代表する王権として大和を認知。呼称を「倭」から「日本」に改める。旧唐書:『倭伝』のあとに『日本伝』あり。『或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたり』と記載されている )、を成し遂げて以降、 つまり品川宿「たそがれ自由塾」が主張する「倭」(九州王権)から「ヤマト」(近畿天皇家王権)への覇者移行の後二世紀の間に、梅~桜の主役交代があり、根深い事柄だと思う(勉強不足で直感でしかありません)。 *品川塾塾頭は、紀貫之も菅原道真もよく知る古の九州王権の存在を匂わせているのではないか、と考えています。 梅は中国出自の植物で、万葉では大宰府での歌や貴族の庭に咲いているのを詠んでいて、東国の歌には登場しないそうだ。やがて桜が花の主役となった。 「桜」が、軍国日本が差し向けたサクラ(啖呵売の仕込み偽客)役の呪縛から解放され本来の桜に戻るなら、その美しさ・「あはれ」を認めもしたい。このままでは、桜の側も迷惑だろう。
『同期の桜』 http://www.youtube.com/watch?v=yY6WraxaTZk&feature=related 作詞:西条八十 『名月赤城山』 http://www.youtube.com/watch?v=rEF4UGJhHZs 東海林太郎 『この世の花』 http://www.youtube.com/watch?v=6_rSk4-EOlk 島倉千代子 『緋牡丹博徒』 http://www.youtube.com/watch?v=1r-K-FSyiBA 藤純子 『終着駅』 http://www.youtube.com/watch?v=DxRV_Txt3bw 奥村チヨ 『恋人よ』 http://www.youtube.com/watch?v=HM_2yAW_vZg 五輪真弓 『エリカの花散るとき』 http://www.youtube.com/watch?v=dParcpK1DAM 西田佐知子 『昴』 http://www.youtube.com/watch?v=I0oq0k2GfIc 谷村新司 『ひとり咲き』 http://www.youtube.com/watch?v=_cmcjSmBlXY チャゲ&飛鳥 『さくら(独唱)』 http://www.youtube.com/watch?v=KnjxtkgrFh4 森山直太郎 『島唄』 http://www.youtube.com/watch?v=DKB41krUnVU 宮沢和史
他に沢山ある。日本人は「散る」が好きなのか? 何せ、かつて人々は内に抱えた心情の行く先を「散る」へと収斂させる力学下に生きざるを得なかったのだ。戦後そこから出たはずなのだが、何やら雲行きは怪しい。そこへ行くと、女性の「散る」は「お国」の要請ではなく、己一人の決断で桜本来の「散る」を奪い返しているように聞こえるのだが、それはぼくだけか? ともあれ「散華」(パクリ、僭称の)はまっぴらだ。
『ジョニーの子守唄』アリス、 『東京流れ者』渡哲也、 『夢は夜ひらく』藤圭子、 『学生時代』ペギー・葉山、 『網走番外地』高倉健、 『湯の町エレジー』近江俊郎、 『東京ラプソディー』藤山一郎、 『伊勢佐木町ブルース』青江美奈、 『からたち日記』島倉千代子、 『花咲く乙女たちよ』舟木一夫、 『空に星があるように』荒木一郎、 『花と蝶』森進一、 『大利根無情』三波春夫。
品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ③/3
<『水城』『大野城』『嶋門』に囲まれた『倭都』の防衛網>
②の冒頭に述べた中国「冊封制度」は、小国支配の技術的方策なので、当然一地域一王権が望ましい。唐は、朝鮮半島では、北の強国高句麗との攻防を繰り返す一方、新羅と百済が互いの覇を競い互いに唐のお墨付きを求める構図の中で、660年、百済を唐+新羅によって滅亡させる。唐が、半島南部を新羅によって冊封せんとする構図だ。 (5世紀475年の百済第一次滅亡は、南下拡張する高句麗によるもの)(478年、倭王武はこの高句麗の南下を「非道」と宋:順帝に申し出ており、実際百済と組んで半島へ出陣していたようだ)。 5世紀以来の、百済との同盟から、倭は質たる余豊を帰し(百済最後の王となる)、百済再興を企てる。百済救援でもあるが、ここをやり過ごせば唐が次は倭を攻めるだろう、地位をヤマトに奪われるという恐怖がそうさせたのだと思う。かつ、「ヤマト:継体の反乱531」(教科書では「磐井の乱」)の例に見るまでもなく、ヤマトが列島盟主の座をうかがっている・・・。そうした東アジア史全体構造の中で、663年、「百済・倭連合vs唐・新羅連合」の戦争「白村江の戦」が勃発した。 だから、その敗戦の後さらなる攻撃に備えて、「水城」が造営されたとしても故なしとはしない。 だが、では東アジアの動乱の5世紀以降(つまり拡張と進撃の5世紀「倭の五王」の時代、百済と同盟して半島へ出撃・その隙にヤマト:継体に攻められた6世紀「磐井の時代」など)には、「倭都」は無防備都市だったと言うのか?
「水城」の天智期造営説に割り切れないものを感じていた研究者に、1995年ニュースが舞い込んだ。 発掘調査で、堤(土塁)の内部に石積みの「別の水城」が出て来た。近畿天皇家の事績として来たアカデミズム塔の先生方は何と「見つかった古い水城が天智期のもの。これまで天智期のものとして来たのは、奈良時代の増築・修復の跡」と言い出す始末。これなら、何でもありだ。記紀に合わせて、古代史脚本がある。出土物品も文書も伝承も、外国の史記も、その脚本に合うよう理解したり、脚色したりする。「ほら、記紀と一致するではないか!」と言うわけだ。これが学問か? 「魏志倭人伝」の行程・距離・方角、「倭の五王」は近畿天皇の誰かだとして強引かつ法則性も無い比定(*3)、「607年の対隋国書、日出処の天子は聖徳太子」なる無理無体……、それらと同様の常套手段だ。 ところが、朗報が届いた。九州大学理学部「放射性同位元素総合実験室」が「古い水城」の年代を特定した。 西暦430年+-30年! 「倭の五王」の時代だ。天智こそ「増築・修復」役(倭からの任命での)なのだ。 では、本来の「水城」は、いつ、どのような目的で、どういう機能を備えた「城」だったのか? ここで、「大野城」の特異性とワンセットで構想しつつ、「嶋門」から「倭都」現:大宰府周辺を俯瞰すると、そこに一大城塞都市ぶりが浮かび上がる。
左:現在の「水城」跡。手前(西:春日の丘陵)から、正面(東:「大野城」)に向かって一直線に堤(土塁)が延びる。壮観だ。 右:「倭都」俯瞰図。「倭都」が人造湖と化す「水城」の機能も、「大野城」の位置取りもよく解かる。左上(北):博多湾に「嶋門」。 写真・イラストとも「九州歴史資料館」1998年発行:『発掘30周年記念誌:大宰府復元』より (クリックで拡大可)
「倭の五王」の攻撃性・拡張性は前頁の②で見た通りだが、彼らと「倭都」は、攻撃性・拡張性がもたらす予想される「リ・アクション」にも備えていたようだ。山が丸ごと城である「大野城」には、何箇所にも食糧備蓄倉庫としか考えられない、高床式大倉庫(の敷石現存)がある。ある研究者が穀物などを備蓄したとして、数万人が数ヶ月籠城出来る規模だと試算し発表。しかし、数万人が籠城とは如何なる事態か。また、空っぽ同然になる倭都は? と疑問が残る。 そこで、「水城」の機能だ。「水城」は堤(土塁)造営用土砂採取の為に掘って出来た溝に、御笠川の水を溜め「堀」にするゆえ「水城」なのだとされて来た。つまり、「水」は堤(土塁)の北:博多湾側にある訳だ。 これに対して、幾人かの論者と品川ジジイは「倭都」を空っぽにする戦術を空想した。「水」は、堤(土塁)を挟んで南:倭都側にあり、と。(堀はあって当然。堀・湖併用が答えか) すなわち、「水城」はダム、倭都は一時「人造湖」となる。御笠川の水は、ダムに堰き止められ、倭都に水が溜まり人造湖と化す。ゆえに全員退避。 最も有効な瞬間に、ダムの堰を開放、一気に大量の水を放出、水攻めを成し、「大野城」からは籠城組が山おろしの追い討ちをかける。この戦法は、対馬などからの狼煙通信などで、いち早く船団の規模を把握し、かつ博多湾岸での上陸阻止戦でもなお防げないと判断せざるを得ない危機の場合の、万が一の「捨て身の」戦法だ。「捨て身」ゆえ、一億火の玉、官・武・民挙げての総動員態勢なのだろう。(「水城」が実際の機能を果たしたことは、元寇の際も含めて、幸いにして一度も無いそうだ) いずれにせよ、「水城」は、近畿天皇家が都から遠い「辺境」の「一地方」を守る為に造ったのではなく、都督府所在地=「首都」を守る為の幾種もの防衛施設のひとつだったのだ。
663年夏8月「白村江」敗北から倭国は崩壊に向かった。それから約1280年後の1945年、同じ、倭国のDNAを引き継ぐ者の拡張性・玉砕主義・総動員態勢や半島への係わりが、同じ8月に倭とヤマトの末裔支配層の「懲りないDNA」に敗北と焼跡を進呈した。 20世紀の国体は奇妙な形で護持された(?)のだが、「倭国」が、671年、数千人の唐の戦後処理交渉団(?)とどのような交渉をしたのか、謎の内戦「壬申の乱(672)」を経て「倭国消滅」「政権移行」「親唐政権」を成し、国際舞台への「日本」登場へと繋いだのだとしたら、それこそ小国「東アジア合衆国」たる者の智恵かも知れない。
☆701年。唐、列島を代表する王権として大和を認知。呼称を「倭」から 「日本」に改める。(旧唐書:《倭伝》のあとに《日本伝》あり。) 『或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたり』
黙して視ていた観世音寺の梵鐘は、これら全てを知っている。 (観世音寺は、都督府に隣接しています)
*************************************************************************************************
*3 「倭の五王」はそれぞれ 讃・珍・済・興・武 と名乗り、宋書には上表文や在位期間・親子関係・兄弟関係などが詳しく記載されている。この時代の該当する近畿の天皇は、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略と、いわゆる河内王朝とも呼ばれる古市古墳群・百舌古墳群に眠るとされている大型古墳時代の七名だ。 413年から478年の間に東晋と宋に9回朝貢・遣使しているので、「日本書紀」によってその時間帯に絞って比較すると、允恭・安康・雄略の三天皇となり、どうにも合わない。そこで、近畿天皇の誰かでなければならない人々は、宋書記載の年代や親子兄弟関係(が近畿天皇家のそれと合わないので)を無視したり、恣意的に和風諡号・漢風諡号から無原則に一音一字を採る(例えば「応神」の和風諡号は「ホムタワケ」だから、「ホム」の意味から「讃」。「仁徳」の和風諡号は「オホサザキ」だから「サ」音から「讃」。などなど)。 意味から辿ったり、音から決め付けたり各仮説入り乱れて言い合っておられます。 いくらひねっても無駄!「倭の五王」は近畿天皇家ではありません! 普段は記紀偏重の先生方が、宋の冊封を受け朝貢・遣使し堂々と語る「倭の五王」に限り、それを近畿天皇家の事跡として取り込みたい一心で、記紀に無記載には口を閉じ、偉大(?)な事跡に拘るのは無原則といえばあまりの無原則。天皇家とは無関係とした江戸時代の学者の方がマシかも。
-以上、06年稿を加筆修正-
<予告> 上記の「倭都」「水城」の説明文に、「御笠山」「御笠川」「春日」などの語が登場します。それらの語は、 『天の原 ふり離けみれば春日なる みかさの山に いでし月かも』(『古今和歌集』巻第九)にも登場。 阿部仲麻呂が唐の明州(現:浙江省の東海岸)の宴席で故郷を偲んで詠んだことになっています。 これへの古田氏の異論に刺激され、想像たくましくして現地(博多湾外~壱岐、アマ原圏)へ向かい、確信的直感(つまりは主観)をもって辿り着いた仮説を述べさせてもらいます。標題はズバリ『天の原はどこだ?』です。
品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ②/3
<『都督府』遥かなり>
都督は各小国に一人、都督府は一ヶ所。 (古田武彦説を基礎に)
中国「冊封制度」(コスト高の進駐しての直接完全統治ではなく、朝貢し恭順の意を示せば、その地の覇者を大中国の役職者に仕立て、属国として大中国の末席と見なす。小国の覇者の側も地域支配権を保障されるメリットを求めた。倭人伝登場の「邪馬壱国」女王卑弥呼の朝貢もこの制度下の事跡。)に基づき、倭国の王は外交を進めて来た。「倭の五王」の時代には、その役職名は「都督」であり、上表文はまず「使持節都督**倭王*」と名乗り、次いで本文に入って行く。「都督」は東アジアに広く知られる有名な語であった。常識か。 宋:順帝へ出された有名な「倭王武」の上表文(478)は、高句麗非道を訴え高句麗侵攻のお墨付きを求めることが主眼なので、同盟国「百済」、敵対「新羅」を我が支配下と書き「渡りて海北を平らぐること九十五国」といささか背伸びしているが、半島南部の覇権空白を言いたかったのだろう(全くの絵空事というわけではない)。だが、やはり常套肩書「・・・都督・・・倭王」を自称して、次いで言う。 『自昔祖禰躬[*環]甲冑 跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國』 「昔より祖先自ら甲冑をつらぬきて、山川を跋渉し寧處にいとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十五国、渡りて海北を平らぐること九十五国」 これは、三つの側面から「倭の五王」が決してヤマトの王ではないことの証明でもある。 1. 中国天子の歴史認識・倭の所在地理解と矛盾しないこと。歴代中国王朝の「倭」認識の延長上で把握されている事実。つまり「楽浪海中倭人あり」(漢書地理志)、 「建武中元二年(57年)、倭奴国 奉貢朝賀す。使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」(後漢書倭伝)【「倭」の極南界との表記。注目】、 「魏志倭人伝」等々の、あの、「倭人」「倭奴(イド)国」「邪馬壱国」の国であるとの双方の共通認識を前提として成立した上表文である。 「都督」は大中国の一地域統治者の一役職との大義名分であるから、任命者がその居所を知らぬでは、制度の根幹が揺らぐ。中国天子は、当然倭都=都督府の所在地を知っていた。 2. 天智紀に、他所にもあるかのごとく「筑紫の都督府」とあり、「都督」は市民権を得た語と言うか、注釈なく通る語だった。かつ、大宰府以外を都督府として指すことは無い。現代で言えば「首相官邸」を「東京の首相官邸」と言うがごとき表現だ。「大阪の首相官邸」など無いのだから。言いたいのは、ヤマトも「九州に都督府あり」「都督府は一ヶ所」と知っていた、という蓋然性。 3. 何よりも、倭王武が示す自国の自称拡張史だ。この地理観、自身の場と列島・半島との位置取りは、ヤマトではあり得ない。北へ海を渡るって、海は遠いぞ、どうしろと言うのか?
その「倭の五王」の直接の系統か別系統かは別にして、「倭王武の上表文」から約半世紀後の530年前後(531らしい)には倭王磐井(倭武など倭王の名から類推するに「倭・ワイ」ではないか)への近畿王権オヲド(継体天皇)の反乱(*1)があり、約130年後の607年には、倭王=「日出処の天子」=多利思北孤=タリシホコは、隋の煬帝に『日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや云々』で有名な国書を送る。 学校では何故か上記迄しか教えないのだが、その後段には『阿蘇山あり、その石故なくして火起こり』と自慢げに書かれている。阿蘇山を特筆する者の心情・自国把握・地理観や如何?(*2) もはや、疑いようもない。九州、大宰府こそは、「倭国」の都、都督府、「遠之朝廷」だ。 海峡人・倭人・伽耶人 が福岡県前原:日向峠近くのクシフル岳下の平野部(前原市:吉武高木遺跡、糸島郡:三雲遺跡、春日市:玖珠岡本遺跡。九州北部の出土物は、紀元前一世紀ころにガラリと一変する。金属器・金属祭器武器・鏡の多出土)に「降臨」し、やがて「邪馬壱国」を経て大宰府に倭国を建設した。その流れは、系統の連続性は別にして、5世紀「倭の五王」、6世紀「磐井」、7世紀「多利思北孤」へと継がれた。
その「倭国」の崩壊と近畿天皇家の列島覇権掌握に至るドラマは、「白村江の戦663」の大敗北が因である。 当時の「倭国」がその攻撃性・拡張性ゆえに持っていたに違いない、重防衛の都市建設はどうだったのか? 御笠山(現:宝満山)を水源とする御笠川は、大宰府の平地を流れ、東:「大野城」の麓と、西:春日の丘陵に挟まれた狭い地峡を抜けて博多湾へ向かう。この地峡の、大宰府市と大野城市が交雑する市街地を、旧国鉄・国道3号線・西鉄・九州自動車道などが南北に走り抜けている。それらを横断して堤(土塁)が東西に伸びている。21世紀筑紫大宰府に姿を留める堤(土塁)の、巾80M・高さ10M・地峡の端から端までの延長1.2キロの偉容は、今日でもハッキリと確認できる。(次頁写真参照) 『水城(みずき)』だ。 「水城」は、664年、前年663年8月「白村江の戦」敗北から、唐・新羅の追撃に備え、中大兄皇子が指揮して百済からの亡命技術者の支援で造営したことになっている。近畿天皇家の皇位継承者(この時点は斉明崩御661の後の混乱?で即位せず)が、近江大津に遷都して即位(667)するまでの間に行なった事績ということになっている。 ヤマトの都は、近江への遷都前は「飛鳥」だが、次期天皇が己が都ではなく「都ではない一地方都市」防衛の土木事業に邁進…?。 列島の覇者なら地元九州に命じなさいよ。あるいは、己が都の防衛策を講じなさいや。逆に「倭都」の主に命じられたのなら分かる。 元々、倭の要請で出陣し 永く筑紫:朝倉に陣し、斉明崩御での「喪」を理由についに半島へは行かなかったのだから…。 一方「倭国」は、戦場で倭王=薩夜麻=サチヤマを奪われ(唐の捕虜となる)、多数の死者を出し、大混乱だっただろう。671年には、唐から数千人の使節団(?)が来倭。敗戦処理の交渉などでの苦い時間だったか。文字通り「国敗れて山河あり」の有り様ではなかったか・・・? 天智亡き(672)後、どういう勢力と勢力の攻防だったかは百説あるが、天智の皇子:大友皇子勢と、アマの音を持つ大海人皇子勢の「内乱」=「壬申の乱672」が勃発。大海人皇子側の勝利、天武天皇へ。この内乱が親唐又は唐に敵対しない政権の誕生だったとの傍証はある、との説もある。
*********************************************************************************************************************
*1 奇妙な即位(仁徳五世の孫、越の豪族、507樟葉で即位、19年間ヤマト入りしないなど)(ヤマトの政治空白・混乱を示していると思うが如何?)をしたオヲド王(継体天皇)は、筑紫の君磐井との戦い(531)を前に、重臣トップの、物部アラカヒに向かって言う。(この戦に勝ったら)「長門より西汝制(と)れ、長門より東朕制らむ」(日本書紀・継体紀)ん? ん? 長門(山口県)より西が磐井の支配地域なのは当然だろう。だが、よく読むと「長門より東」(安芸辺りまでだろうか・・・)にも磐井の勢力圏があると告白している。この時期「倭国」は百済と結んで新羅との戦闘状態だったが、その間隙を縫ってヤマトが攻めたようだ。 *2 中国には活火山知識無いだろうと知っていた(?)か。どうであれ、ヤマトの王者が阿蘇を誇るのは不自然極まる! 聖徳太子は天子ではない。彼は女帝:推古の「摂政」である。国書において地位・肩書を偽称・僭称するか?あまりにも不自然だろう! また、「後宮」に女官数百人と自慢しているが、推古女帝に後宮?
-以上06年稿を加筆修正-
品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ①/3
<「日出処の天子」が打たせる鐘>
-以下06年稿に加筆し、一部修正したものです。-
10世紀初頭、901年大宰府の地に在った菅原道真は、都督府跡に立尽くし、観世音寺の鐘声を聴きつつ、ある諦念の中でこう詠んだ。 「都府楼はわずかに瓦の色を看、観世音寺はただ鐘声を聴く」(和漢朗詠集) 道真は、冤罪による左遷という自身の身の上を嘆き、その地の悲運に重ねていた。
10世紀初年においてなお、往時の輝きを奪われた大宰府は荒涼たる気配の中に佇んでいたのだ。 観世音寺の鐘は日本最古の紀年銘文ある梵鐘とされ、同じ鋳型で鋳造された兄弟鐘が妙心寺(京都市右京区)にある。材料の銅は成分分析や伝承から福岡県香春の産とされる。香原=カワラは「サワラ」の音からの命名に違いないが、香春岳は古代から銅の産地だ。大阪府茨木市沢良宜(サワラギ)などの例も同様に、サワラ=銅は古代史家が一致して認めるところだ。
妙心寺の梵鐘は、『徒然草』でも言及されていて、雅楽の「黄鐘調」(おうじきちょう)に合う美しい音色だという。梵鐘には鋳造年銘文が刻印されていて、戊戌(つちのえいぬ)から698年と比定されて来た。 698年? 「白村江の戦663」の大敗北、中大兄皇子の王権奪取~近江宮遷都(668~天智天皇。没:672)、壬申の乱(672)、大海人皇子の勝利・即位(天武天皇)(673~)、持統女帝(690~)藤原京治世~名高い内紛劇(大津皇子抹殺など)、697軽皇子への譲位(文武天皇)… その翌年ということになる。 観世音寺の梵鐘鋳造を含め、近畿天皇家の事績とするのが何かと丸く治まるということか? この戊戌の歳が60年前の638年だとすれば、何が不都合なのか。いわゆる「大化の改新645」(中大兄皇子が、母:女帝皇極の愛人=蘇我入鹿を斬った事件=乙巳の変)より以前であり、近畿王権は政権基盤建設途上であり、彼らの正史に照らせば、638年の九州に大伽藍・名梵鐘が在ってはならないのだろう。 逆に、九州「倭」の経過を辿れば、638年鋳造の方に歴史的整合性がある。 607年、隋皇帝:煬帝に国書(阿蘇山あり、その石故なくして火起こり)を送った倭王=日出処の天子=多利思北孤=タリシホコは、仏教に深く帰依し、その信仰を次代・次々代へと引き継いでいた。 観世音寺の兄弟梵鐘の一つ、妙心寺の梵鐘は運び去られたものだ、観世音寺の伽藍は解体・移築され法隆寺となったのだ、法隆寺釈迦三尊像は観世音寺に在ったのだ、その光背銘にはヤマトにない年号(九州「倭」年号)が書かれている、等々言われている。 【移築?バカな! などと言うなかれ、元興寺は飛鳥寺の移築だとあんたら言っているではないか!】 【詳細は別機会に】
北部九州の「倭」や倭都の事物は、では何処に在るのか? 移築・移設・抹消されず残るものなどあるのか? あるのだ! 古からの外国(中国・朝鮮半島)の史料・資料、出土物品、伝承・風土記、当時の東アジアの常識、当時の地政学的地図、さらに「歌」、そして動かしえない土木遺構・建造物・城砦石垣・等々(多くが喪われたが…) ぼくらが、大宰府政庁跡遺跡を訪ねて出会う、跡地公園にひっそりと立つ石碑の「都督府古跡(こし)」という表記、「都督」とは何か…。 次頁はそこからです。
品川塾誇大史: 人麻呂の海峡。『遠之朝廷』『神代』そして『嶋門』
嶋門を見れば・・・【古田武彦説を中心に】
以前、韓国への短い旅行をした際、帰路思うところあって釜山からのジェット・フェリーを選択した。 気持ちは、半島最南部「伽耶の地」(洛東江両岸、現:金海付近)から、「神代」の人々がやって来たルートの擬似追体験だった。天孫降臨と言われる勢力移動が、このルートであるかどうかは定かではない。 ただ、「古事記」に書かれている 「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(クシフルタケ)に天降りまさしめき」 「此地は韓国に向かひて 真木通り 笠沙の御前にして 朝日の直刺す国 夕日の日照る国なり」 (出自の地と到着の地とを自画自賛しており、降臨の地が福岡県前原市近辺:日向峠近辺だと示している) との文言から、 伽耶にも「楽浪海中」各島にも勢力を持つ倭人末裔の大挙移動の地は、北九州:博多湾岸のいずれかの地だと確信して来た。
通説(宮崎県・日向・高千穂)への異論: 古来、九州全体を筑紫と呼ぶことはない。筑紫は福岡県方面だ。日向は「ヒュウガ」に非ずヒナタ(ヒムカかも)であって、前原市に日向峠あり。その東方にクシフル峰あり。その連なりの高祖山・飯盛山からは、晴れた日には対馬が見える。南九州の日向、高千穂ではまるで見えない。ましてや明治に命名された韓国岳など無関係。伽耶の本拠地たる現:金海に亀旨<クシボン>峰あり。この亀旨峰に、始祖たる六人の童子が降臨したところから始まる伽耶六国の建国神話あり。降臨地名称・降臨形態その酷似をどう見る? 他の案件(魏志倭人伝、邪馬壱国、倭、百済・新羅との関係、倭の五王、倭王磐井への近畿連合王権:継体の側の叛乱、日出る処の天子、白村江の戦、他)も合わせて「北九州:倭」は動かしがたい事実だと考えて来たところだ。 話は長くなるので、詳細は「品川塾:誇大史」を参照あれ。← http://www.yasumaroh.com/?p=1946 さらに詳しくは各種古代史書籍読まれたし。 で、「神代」の降臨ルートと、後代のある歌=柿本人麻呂歌「大王の遠の朝廷と・・・」の原風景を視たくなっての、海路選択だった。
その人麻呂歌についてだけ述べておきたい。 『大王之 遠之朝廷跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所思』 (おほきみの とおのみかどと ありがよふ しまとをみれば かみよしおもほゆ) 通説意訳: 天皇家王権の、遠い地方出先機関である大宰府と頻繁に往来する際 関門海峡を通過しては、 天皇家のご先祖様が瀬戸内海を縦横に行き来なさった往時が偲ばれるのだ。 反論:【「遠の朝廷」が天皇家の出先機関なら、各地に「遠の朝廷」が在ってしかるべし。が、万葉では大宰府以外を指す事例無し。また、関門海峡はご存知の通り、長門と呼ばれるほど細く長く潮の流れは速く、まるで大河のようだ。「嶋門」の趣ではない。】 左:赤線が倭人降臨ルート、黄線は人麻呂「遠之朝廷」訪問ルート。(倭都防衛の「水城」みずき(白に赤線)後方の青丸が「倭都」) 右:赤線黄線の交差点海上の紫丸域から博多湾方向を望む。湾の手前に構えているのは、倭都の入口「嶋門」。左:志賀島、右:能古島 (資料作成・写真とも by 2001 yasumaroh) (両資料ともクリックすると拡大します。水城など鮮明になります) 上記「水城」(みずき)に関してひと言付け加えたいが、次回にする。
品川塾訳:(上記資料・写真を見ながら構想されたし) 元祖列島覇者=倭王の、遠い(時間的にも)朝廷があった地=大宰府に度々公務で赴く。博多湾に入る際に通る志賀島と能古島の間は、まるで島で出来たの門のようのだ。そこを通るとき、今は亡き倭国の無念を思い、さらに、そのご先祖が半島からやって来られた「神代」(人麻呂がオオクニ出自ならオオクニとアマとの攻防とアマが勝利した「神代」)をさえ思い浮かべて痛いのだ。 我もまた、帰属世界を喪ふことの痛切を知る者の一人だから…。 注釈:【近畿から来ると長門を越え宗像沖を通り、玄界灘から博多湾に入る際、志賀島と能古島の間を抜けて那の津に至ることになる。二つの島は正に「嶋門」であっただろう。現在でも、添付写真の通り、それは文字通り島の門だ。神代とはいつのことか? 何故「嶋門」を見て神代を想うのか?】 この歌は「大王」の「遠の朝廷」と、その玄関「嶋門」と、その祖先の「神代」と、そして人麻呂自身の故地と、それら全てを、時空を超えて一直線に結ぶ壮大な歌だと思う。 可能性 ①:人麻呂は「唐・新羅」に滅ぼされた「百済」からの亡命知識人である。 ②:人麻呂は「白村江の戦」敗北が因となって崩壊した「倭国」出自の歌人である。 ③:人麻呂は、はるか昔「倭人=アマ」と覇を争い敗れた「オオクニびと」の末裔である。
柿本人麻呂が確認されるのは、「白村江(現:錦江)の戦663」(百済・倭連合VS新羅・唐連合)の大敗北、 「壬申の乱672」を経て、大海人皇子が政権奪取(天武天皇673~)して以降だそうだ。 活躍し始めるのは女帝:持統天皇の治世(690~)からだと言われている。人麻呂はどこから来たのか? 何故あんなにもスケールのデカイ歌を詠めるのか、何故倭国の謎を堂々と公に語れるのか・・・? 人麻呂が、誰もが知る倭国の存在と歴史を公言し、その前史たる天孫降臨の実際を示し、近畿天皇家の正史に楯突く内容を秘めた歌を詠んだのは何故か? 倭国の哀史を強調する奥に、人麻呂の自分史と故地の歴史が重なっているのではないか? 自分たちの歴史的運命を、滅んだ倭国史に重ねたのではないか・・・が、品川塾説。 品川塾では、ズバリ、「白村江の戦」で国を喪った百済からの、その後幾十年に集中して続いた大量の亡命者。その中の亡命知識人。それが人麻呂の実像ではないか、と確たる証明なく空想している。なら、同じく「白村江の戦」が因となって崩壊した倭国への格別の想いも解るところだ。 上記①②③のいずれかであればこそ、倭国「真」史を散りばめ、本当の神代を示し、海峡を跨ぐ歌を詠めたのではないか? 人麻呂にとっては、天皇・ヤマト・そして倭王と倭国までもが相対化されていると言われている。 納得だ。 元祖:越境人、海峡に立つ者のアイデンティティを詠いあげている。現代ならジョルジュ・ムスタキ、金時鐘といったところか・・・?
☆人麻呂は北部九州:「倭国」の歌人だという説も、アマとの攻防とオオクニ敗北の古の史実伝承を知る「オオクニびと」の末裔だとの説も有力。 【参考】人麻呂終焉の地は、オオクニ:島根県浜田。【】 、