Archive for the ‘たそがれ映画談義’ Category

たそがれ映画談義: 洲崎パラダイス赤信号

 『洲崎パラダイス赤信号』(1956年、日活)  監督:川島雄三 出演:新珠三千代・三橋達也・轟夕紀子・芦川いづみ。

 本編導入部画像:
 
15年以上前だったろうか、偶然HNKで放映されているのを観て、ビックリ。                                                   「掘り出しものを観た」と映画好きの何人かに知らせたりした。「映画好き」各位のほとんどはよく知っていて、                                                    「何を今さら、あの名作『幕末太陽傳』の川島雄三の作だ。しかも、彼自身お気に入りの作品でっせ!」だった。                                                                                            主演の新珠三千代さんは、もちろん高校時代に『人間の条件』(監督:小林正樹)を再公開で観て、梶の妻役として知っていた。                                                                               前後関係はどうだったか忘れたが、TV『氷点』の母親、『細うで繁盛記』の女将で見かけていた。                                                見かけたというのは、その時期テレビはあまり見なかったので記憶はあいまいなのだ。
 
                                                     売春防止法成立前の時代を描いて秀逸だ。喜劇仕立てであっても、そこに展開される「時代」にへばり付いて生きる主人公男女のすかたんドタバタ道中には、その「必然」があったと思う。
パラダイス(売春街)への入り口に架かる橋が比喩的に登場する。その橋のたもとにうらぶれて立つ呑み屋で、あっちへ行くかこっちに残るか……ギリギリ踏みとどまっている女、蔦枝(新珠三千代、意外にも見たことないほどのハマリ役だった)と、何をしても続かないダメ男:
義治(三橋達也)との、「明日」の見えない「今日」につまずいて漂う男女。                                              「戦後」を生きあぐねるその姿を通して戦後空間の時代不安を活写していた。                                   女は橋を渡(昔居た世界に戻)らなかったのだ。
社会が落ち着き始め、復興の明るい未来への展望も拓けている。公務員・サラリーマン・他、その流れに与する人々から隔たったひと組の男女。(06年1月、カルチャー・レヴュー57号投稿自原稿より転載)
 

新珠三千代:1930年生れ。宝塚出身。1951年、東宝から映画デビュー。1955年、宝塚退団、日活入社。57年東宝に戻る。                                                                                                   森繁「社長シリーズ」など東宝現代喜劇に欠かせぬ「夫人」役(もったいないねぇ)をこなした。                                                                                       和服の似合う清楚高潔な「伝統的な日本女性」としてのイメージを保ちつつ、娘役から母親役まで、                                                良妻賢母から悪女まで幅広い役柄を演じられる女優として各方面から絶賛された。【ウィキペディアより】 

『・・・赤信号』は、橋を渡らぬ女を演じて、後にも先にも無いほど役を我がものにしていた。彼女26歳時の作品だ。                                                                                           2001年3月没(享年72歳)、合掌。                                                                                                                                                                                                                          

   

たそがれ映画談義: 『カナリア』

『カナリア』  2004年、監督:塩田明彦 出演:石田法嗣、谷村美月、西島秀俊
 
カナリアは、ガスに敏感な鳥として有名だ。
上九一色村「第7サティアン」でも、突入する機動隊を先導していた。
そう、これはオーム真理教をモデルにした映画だ。

「教団の崩壊」による「信者の虚脱」という事態から、
「絶対真理を持つと主張する宗派と構成員」
「人間の共同性と全き個人性の相克」といふ永遠の課題が迫り、
物神崇拝へと至る呪縛から主体的に免れることの隘路と困難、
「個人の復権」への苦闘が痛かった。
「皇国少年の自己解体」と、彼らの戦後の自己再生や、
各種「正義」「教義」と宗派(あるいは党的集団)解体(あるいは脱退)後の
座標軸喪失症候群、あるいは総撤退・総封印(一切放棄)の「病」を想った。
人は「帰属」性の中でではなく、それを取っ払った地点の「孤立」の中で、他者に出逢え己にも出逢える。
実は、そこが「共闘」や「連帯」が始まる契機であり原圏なのだ。
                     
       
ぼくはそう思う。永い時間と人並みに痛手を負ってようやくそう考えている。
若い元信者:伊沢(西島秀俊)の、少年:コウイチ(石田法嗣)への問いかけ
『教団もまた我々が生きているこの醜悪な世界の現実そっくりの、もうひとつの現実だった』
『お前は、お前が何者であるのかを、お前自身で決めなくてはならない』は、13歳コウイチにはあまりにも酷で、難しい。・・・痛々しい限りだ。      社会性を抜きには生きられない存在たるぼくら大人が抱える課題なのだから・・・。

逃亡信者として警察に追われるコウイチに、偶然同行することとなった少女:ユキ(谷村美月)の、
「家庭状況」や早くから発揮する「闘う慈愛」(=母性)、逃避行の中で目を見張る変貌を遂げ 
どんどん成長して行くゆく姿に、
かたくなな狂信少年信者主人公:コウイチに「殺人又は自死」を断念させること、
彼を「再生し生きて」ゆかせること、その『偉業』は
この少女(の母性)にして初めて可能だったと思えるのだった

 谷村美月。 2007年『檸檬のころ』では、素晴らしい若手女優さんに成長していた。

たそがれ映画談義:『サイドカーに犬』

「サイドカーに犬」 2007年、監督:根岸吉太郎、出演:竹内結子、松本花奈、ミムラ、鈴木砂羽。
 
あるアンケートによれば、日本の男の理想の女性は、
吉永小百合さんとルパン三世の峰不二子だそうだ。
竹内結子演ずるヨーコさんは、その両方を兼ね備えた女性で、
原作者と根岸監督の理想の女性なのだろうか……? 
小学校4年生の女の子:薫にとっても、ヨーコさんは特別だった。
母の家出期にやって来た父の愛人ヨーコさん、ときに熱く豪快大胆で大雑把。
ときに泣き虫で、小学生の薫にも解りそうに見えて、謎だらけのヨーコさん。
「大人の女」「かくありたい女性」「カッコいい女」たるヨーコさん。
どちらかと言えば引っ込み思案の薫と、ヨーコさんの規格外の生(ナマ)の個性とが
スリリングに火花を放ってひとつの連帯関係を結んで行く。
「同性」や「同志」としての年長者への目線なのかな。
少女の感受性、邪心も色眼鏡もなく 人を見分ける眼の確かさこそが、
作者の分身たるダメ親父の望むところに違いない。
日差し・土の匂い・アイスクリーム・汗・・・、ヨーコさんに教えてもらって初めて乗った自転車・・・。サイドカーに犬
セリフやストーリーを越えた、映像・音・間(ま)・沈黙、それらが醸し出す映画独自の表現「文法」。
女の子薫の、クラクラするほど刺激的なひと夏。子供から少女へ向かう時間の、はかない値打ちが伝わって来て見事でした。
薫を演じた 松本花奈ちゃんに、90点あげたい。

たそがれ映画談義:『百万円と苦虫女』

 
 
 
『百万円と苦虫女』 2008年、監督:タナダユキ、出演:蒼井優・森山未来・ピエール滝
 
百万円と苦虫女
 
Web評論誌「コーラ」誌上への紹介文:
【品川宿 K
苦虫女の所持金が100万円に戻れば、彼女は決め事を実行し街を去るだろうと
100万円に戻らぬよう寸借を繰り返した学生の彼。
学生生活を羨む心が猜疑心を倍加させてか
「なんで、あなたと女子学生のデート費を私が出さなきゃならないのよ」と言ってしまった苦虫女。
若い意地の張り合いに心当たりはある。
学生が去って行く苦虫女を追った横断陸橋で、
二人を逢わせないラストシーンの「行き違い」はアッパレです。
そう、人生はこの種の行き違いの山で構成されているのですから。
 
【黒猫房 Y
苦虫噛んで「やってられないよ」とばかりに、100万円貯めては次の町々へとさすらう主人公……、
主演の蒼井優がとてもよかったですが、森山未来という男優も、
健気な不思議な存在感がありました。
<学生(森山未来)が去って行く苦虫女を追った横断陸橋で、
 二人を逢わせないラストシーンの「行き違い」はアッパレです。
 そう、人生はこの種の行き違いの山で構成されているのですから>という品川宿さんの指摘は
その通りなのかもしれませんが、なんとか出会って苦虫女を抱きしめてほしいと祈りながら
このラストシーンを観ていた人は私だけではないでしょうね、きっと。
そして、このすれ違いの思いを引きずってしまうのは学生のほうだけなのか?
……けれどもその思いも、いずれは怠惰な時が癒してしまう。
したがってこの映画のラストシーンは、「華奢な感じ」に見える苦虫女がまあちょっとぐらいは
振り返ったとしても、その姿は凛として町を立ち去ってゆく……という「アッパレ」な結末というわけですね。
 
再論:
 
【品川宿 K
我ら二人、偶然同じ映画を取り上げましたね。ええ歳したオッサンが二人、
ネット社会の片隅(?)で、蒼井優的若者への共感・声援の、
キーボードを密かに叩いていたのか・・・、あの苦虫女に届けたいね!
ラストのすれ違いを、
「なんとか出会って苦虫女を抱きしめてほしいと祈りながら観ていた」のは、
ぼくも同様なんです、もう泣きそうになって・・・。
学生が控えめに発した言葉「自分探し・・・みたいなことですか?」に蒼井優が返す、
「いえ・・・。むしろ探したくないんです。探さなくたってイヤでもここに居るんですから」 と。
続いて苦虫女は弟への手紙で、こう独白する。
「姉ちゃんは、自分のことをもっと強い人間だと思っていました。でもそうじゃありませんでした。」
ナチュラルであるのに、そのナチュラルこそがむしろ
生きにくい理由の根本を構成している。
という転倒状況が若者たちを覆う今どき。
ラストのすれ違いは、その「今どき」の若者が強いられる「社会」からの「要請」を、
容れて・学んで・こなして行くのではなく、ナチュラルの側に身を置き続け
「ここに居る」とする、若い苦虫女=蒼井優の宣言だなぁ・・・と思えて、
その立ち姿に「アッパレ」と拍手したのでした。
この二人、苦虫女と学生は必ず再び出逢います(現実場面でなくとも)。
ナチュラルということそのものに棲む「無知・過信・無謀」を、痛手を負って思い知り、
その代価を支払い、年齢と経験を重ねても
「社会」の「要請」の核心とは決して和解しないぞと生きる限り・・・。
                                                                                                                                                                                   
【黒猫房 Y
いやあ~「よい読み」ですね! さすが「映画オヤジ」(喝采)。
あのラストシーンには学生君の「必死さ」に対して、「あんたには頼らないわよ」
という「見かけによらない、芯の強い女」のメッセージ性と爽快感がある
とアンケートの初稿ではそのことを書いたのですが、「見かけによらない、芯
の強い女」というのは監督の狙いではないだろうし、現在のフェミニズムの達成点は
> 「いえ・・・。むしろ探したくないんです。
>  探さなくたってイヤでもここに居るんですから」
>「姉ちゃんは、自分のことをもっと強い人間だと思っていました。
>  でもそうじゃありませんでした。」
と、苦虫女に言わせる境地じゃないでしょうか?
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