Archive for the ‘たそがれ映画談義’ Category
たそがれ映画談義: 洲崎パラダイス赤信号
『洲崎パラダイス赤信号』(1956年、日活) 監督:川島雄三 出演:新珠三千代・三橋達也・轟夕紀子・芦川いづみ。
パラダイス(売春街)への入り口に架かる橋が比喩的に登場する。その橋のたもとにうらぶれて立つ呑み屋で、あっちへ行くかこっちに残るか……ギリギリ踏みとどまっている女、蔦枝(新珠三千代、意外にも見たことないほどのハマリ役だった)と、何をしても続かないダメ男:義治(三橋達也)との、「明日」の見えない「今日」につまずいて漂う男女。 「戦後」を生きあぐねるその姿を通して戦後空間の時代不安を活写していた。 女は橋を渡(昔居た世界に戻)らなかったのだ。
社会が落ち着き始め、復興の明るい未来への展望も拓けている。公務員・サラリーマン・他、その流れに与する人々から隔たったひと組の男女。(06年1月、カルチャー・レヴュー57号投稿自原稿より転載)
新珠三千代:1930年生れ。宝塚出身。1951年、東宝から映画デビュー。1955年、宝塚退団、日活入社。57年東宝に戻る。 森繁「社長シリーズ」など東宝現代喜劇に欠かせぬ「夫人」役(もったいないねぇ)をこなした。 和服の似合う清楚高潔な「伝統的な日本女性」としてのイメージを保ちつつ、娘役から母親役まで、 良妻賢母から悪女まで幅広い役柄を演じられる女優として各方面から絶賛された。【ウィキペディアより】
『・・・赤信号』は、橋を渡らぬ女を演じて、後にも先にも無いほど役を我がものにしていた。彼女26歳時の作品だ。 2001年3月没(享年72歳)、合掌。
たそがれ映画談義: 『カナリア』
そう、これはオーム真理教をモデルにした映画だ。
「人間の共同性と全き個人性の相克」といふ永遠の課題が迫り、
物神崇拝へと至る呪縛から主体的に免れることの隘路と困難、
「個人の復権」への苦闘が痛かった。
「皇国少年の自己解体」と、彼らの戦後の自己再生や、
座標軸喪失症候群、あるいは総撤退・総封印(一切放棄)の「病」を想った。
実は、そこが「共闘」や「連帯」が始まる契機であり原圏なのだ。
若い元信者:伊沢(西島秀俊)の、少年:コウイチ(石田法嗣)への問いかけ
『教団もまた我々が生きているこの醜悪な世界の現実そっくりの、もうひとつの現実だった』
『お前は、お前が何者であるのかを、お前自身で決めなくてはならない』は、13歳コウイチにはあまりにも酷で、難しい。・・・痛々しい限りだ。 社会性を抜きには生きられない存在たるぼくら大人が抱える課題なのだから・・・。
この少女(の母性)にして初めて可能だったと思えるのだった。
谷村美月。 2007年『檸檬のころ』では、素晴らしい若手女優さんに成長していた。
たそがれ映画談義:『サイドカーに犬』
たそがれ映画談義:『百万円と苦虫女』
我ら二人、偶然同じ映画を取り上げましたね。ええ歳したオッサンが二人、
ネット社会の片隅(?)で、蒼井優的若者への共感・声援の、
キーボードを密かに叩いていたのか・・・、あの苦虫女に届けたいね!
「なんとか出会って苦虫女を抱きしめてほしいと祈りながら観ていた」のは、
ぼくも同様なんです、もう泣きそうになって・・・。
学生が控えめに発した言葉「自分探し・・・みたいなことですか?」に蒼井優が返す、
「いえ・・・。むしろ探したくないんです。探さなくたってイヤでもここに居るんですから」 と。
続いて苦虫女は弟への手紙で、こう独白する。
「姉ちゃんは、自分のことをもっと強い人間だと思っていました。でもそうじゃありませんでした。」
ナチュラルであるのに、そのナチュラルこそがむしろ
生きにくい理由の根本を構成している。
という転倒状況が若者たちを覆う今どき。
ラストのすれ違いは、その「今どき」の若者が強いられる「社会」からの「要請」を、
容れて・学んで・こなして行くのではなく、ナチュラルの側に身を置き続け
その立ち姿に「アッパレ」と拍手したのでした。
この二人、苦虫女と学生は必ず再び出逢います(現実場面でなくとも)。
ナチュラルということそのものに棲む「無知・過信・無謀」を、痛手を負って思い知り、
あのラストシーンには学生君の「必死さ」に対して、「あんたには頼らないわよ」
という「見かけによらない、芯の強い女」のメッセージ性と爽快感がある
とアンケートの初稿ではそのことを書いたのですが、「見かけによらない、芯
の強い女」というのは監督の狙いではないだろうし、現在のフェミニズムの達成点は
> 「いえ・・・。むしろ探したくないんです。
> 探さなくたってイヤでもここに居るんですから」
>「姉ちゃんは、自分のことをもっと強い人間だと思っていました。
> でもそうじゃありませんでした。」
と、苦虫女に言わせる境地じゃないでしょうか?