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たそがれ映画談義:  予想外の収穫 『マイ・バック・ページ』

『マイ・バック・ページ』が語る                                                                                                                                                         - 本物と紛い物の境界、根拠なきコムプレクスの無効、当事者ではない位置固有の「当事者」性は築き得る…、そのことに無自覚だった主人公。 にも拘らず在り得た誠実 -

帰阪した際、しばしば「ええ映画ある? 行こうか?」と女房にせがまれては出かける(女房の理解では、ぼくの方が「せがんでいる」らしいが)。                                                                                                                                                                                今回は、原作発売時に深く感じ、TV版も欠かさず観て期待していた『八日目の蝉』を観ようか…となって、複数スクリーンのあるシネマへ出かけた。今回は(も)入場料は女房が出した。                                                                                                                                  早めに着いて書店やショッピングで時間を潰すつもりで出かけたが、天与の上映スケジュールの関係で、先にもう一本観れるなぁ~…となって、『マイ・バック・ページ』も観た。『八日目』については原作とTV版の際、あれこれ述べたこともあり、たまたま観て感じ入ったこの作品の方を取上げたい(一日二本は数十年ぶりか…)。                                                                                                                                                                                   その作品が、70年前後を扱った作品にしばしば見受けられる、「過剰な自己肯定」とその逆の「投げやりの全否定」、「空疎な自負」とその逆の「悪意に満ちた揶揄」、のいずれからも「離陸」しようとする誠実な精神を、言い換えると事態と己を相対化・思想化しようとする困難な坂道での営みを、そこに垣間見ることが出来る作品だったからだ。

『マイ・バック・ペ-ジ』(公開中、原作:川本三郎、監督:山下敦弘、脚本:向井康介。出演:妻夫木聡、松山ケンイチ、山内圭哉、あがた森魚)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   川本三郎の原作は読んでいないのだが、作品の実歴史:「1971年8月、朝霞駐屯地自衛官殺害事件」「主犯:菊井某のいかがわしさ」「彼のいかがわしい供述から全国指名手配され、潜行を余儀なくされた滝田修氏」について、当時誰もが事件に違和感を持って来たので、その点での興味もあった。滝田修氏に関してはぼくの周りにも強烈なシンパが居たので、何故か近いところの出来事のように思えた。                                                                                                                                                                                    当時、東大出にして「朝日ジャーナル」の新進記者だった川本は、菊井某に度々会い、計画を聞き、独占会見をゲットし、事件後彼から実行犯の証拠たる「警衛腕章」を受け取っており、犯人蔵匿・証拠隠滅で逮捕され、朝日を懲戒解雇された。報道者の課題・誠実・限界…。ぼくは、そこを切開する川本の真摯な営みをこの作品に見ることが出来たように感じている。                                                                                                        【事件のあらましは、ネット検索でいくつか引けるので参照されたい。朝霞自衛官殺害事件、菊井良治、川本三郎、滝田修などのキー・ワードを入力のこと】(例: http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/sekieigun.htm など)

                                                                                                                  菊井某の大言壮語・虚言癖・背伸び・ハッタリ・紛い物性は、関係者の証言や事件の概要からほぼ明らかだし、滝田氏関与はこじつけに等しい(後年判決でも謀議は否定された)。                                                                                                                                                 68年・69年が「あること」のピークだとし、71年菊井某は「遅れて来た男」であり、44年生まれで69年には25歳だった川本は「早すぎた男」だとして、そこから来る全共闘「ど真ん中」世代への二通りの「コンプレクス」の奇妙な「親和」関係が、二人を結びつけたのだとの、サブカル学者の言い分は多少当ってもいよう。                                                                                                                                                                                                                                                     けれども、そうした時代の「ど真ん中性」最優先の把握では、当時川本が陥った空回った「誠実」の「落とし穴」からは一歩も出られはしまい。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           そうではなく、人はあらゆる事柄に関して「ど真ん中性」を確保することなど出来はしないという自明に在って、共感の誠実・思想の歴史性・一見傍観者の当事者性とは、その「ど真ん中性」の欠如の中で、どういう回路でいかによく事態に「迫」り得るか?という方法論のことではないのか? 川本が、それを探す真摯な後半生を生きたと信じたい。

この作品は問うている。                                                                                                                                         菊井は客観資料から紛い物だとして、では一体、紛い物ではないとされるあなたや君やぼくが関与したり影響を受けたことどもには、一片の紛い物性もなかったのか? いや、そもそもお前自身が「紛い物」ではないのか?                                                                                                                                                                                                                                         あるいは、当事者ではない者が、そのこと固有の当事者性を獲得する回路は有り得ないのか?                                                                                                                                川本でなくとも、当時の社会情勢、「過激派」情勢、闘う者の実際を識る者ならば、簡単に菊井某の実相を掴めたと思うが、精神的「シンパシー」や「当事者」ではないことへの「後ろめたさ」という甘ちゃんの曖昧軽薄と、スクープをモノしたいという心理に支配されて動いた川本の幼邪心・・・。が彼をを断罪してこと足るのか? と。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             自身の側に何も無いとき、人は他者を「かたち」の上でだけ受容れてしまふ。実は、自身の側に何かを築き得たとき、受容れ難い論説・行動・対象であっても、その他者を「理解」はできるはずなのだ。その緊張に耐えられないとき、人は「受容れた」「ふり」をしてその場を切り抜けたりする。                                                                                                                                                                                                                        顧みれば、仕事・交友・男女・闘争・…、多くの場面でそうして生きてしまった。                                                                                                                                                                        ぼくならぼくがそう自身に問い返すように迫ることを、自身の「慙愧」の記憶から語ったのだろうこの作品を、ぼくは認めたい。

ラストで、妻夫木聡が演じた川本(作中名:沢田)が、かつて一ヶ月間同道して取材したチンピラに彼が営む焼き鳥屋で再会するシーンがある。「潜入」ルポを書いたのだ。                                                                                                                                                       その取材も、根無し草チンピラを装い、もちろん「当事者」ではなく取材したのだ。妻夫木がチンピラの焼き鳥屋としての実「生活」を前に嗚咽するのだ。一級のシーンだ。 『悪人』から本作への転移、妻夫木は当代若手第一級の役者だと思う。

                                                                                                                                                                        ぼくらは、この先も自身に即した当事者性の中を生き、他者への想像力と共感を維持する「方法論」を通して、事態と歴史に関わろう。                                                                                                                     違う当事者になるという無理を生きることはないのだ。その無理こそが、ぼくらが嫌ったはずの保身に基づく「解かったふり」の連鎖となり、根っからの傍観として成育するのだ。

たそがれ映画談義: 現代日本「ばかもの」の系譜

2010年に観た映画-現代日本「ばかもの」の系譜                                                                                                               

昔、『無用者の系譜』(64年、唐木順三)という本を読んだ。西行・在原業平・一遍・兼好・良寛・秋成・芭蕉などを論じて、「何故、日本の優れた思想や文学が、世捨て人=無用者によって作られ語り継がれて来たか?」を説いていた。                                                                                                                                               それになぞらえて当つぶやきの標題を 『現代日本「ばかもの」の系譜』 としてしまふほどに、今「ばかもの」が愛おしい。

某Web誌の恒例のアンケートに答えようと、2010年に観た映画(製作年度不問)から、いくつかの印象深い映画を振り返ってみた。                                                                       毎年、前年観た映画から三作品を選んでコメントする趣向で続いている。( http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/filma08.html )                                                                         『深呼吸の必要』(04年)、『やわらかい生活』(05年)、『ぐるりのこと』(08年)、『パーマネント野バラ』(10年)、『悪人』(10年)、『ばかもの』(10年)、の六作品が心に引っかかっている。                                                                                                                         登場人物は期せずして、いずれも自身の特性や人柄や境遇が「今」という「時代」への不適合ゆえに、生きにくさを生きる者たちだ。                                                                                                                                                                                                                                                            大学偏差値・就職偏差値・就職内定率・排他的競争=強いられる自発性に覆われた職場・過労自死・派遣パートなど非正規社員・・・。時代の要請を受容れる「能力」や「技術」や「智恵」を掴む機会に恵まれなかったか、その要請との和解を拒むしかなかった者たちだ。等身大の彼らに寄り添おうと苦闘する誠実な眼差しに充ちた作品たちだ。各作品には、拒絶する社会の側の病理を問う明確な姿勢があり、拒絶される側への限りないシンパシーを込めた応援歌が響いていた。                                                                                                 三作品を選べとのことですので、下記三作品を挙げておきます。(ストーリーは添付サイトをクリック)

『やわらかい生活』                                                                                                                (05年、原作:絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』、脚本:荒井晴彦、出演:寺島しのぶ・豊川悦司・妻夫木聡・大森南朋) http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD8732/story.html                                                                                                 大東京。上場大企業の総合職、キャリア街道を生きるシングル・エリート女性。                                                                                                       友の死をきっかけに陥った「うつ」、ドロップアウト、孤独・・・、それらを受容れる「やわらかい生活」を求め彷徨いながら、自己再生を「やわらかに」展望する主人公・・・。                                                                                                       寺島しのぶの存在感に救われた作品だった。蒲田というごった煮の土地柄もあってひときわ心に沁みました。

『ばかもの』                                                                                                                           (10年、原作:絲山秋子、監督:金子修介、出演:成宮寛貴・内田有紀・白石美帆・古手川祐子)                                                                                                                                                http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=10193                                                                                              主人公:大学生ヒデは『やわらかい生活』の元キャリア寺島しのぶとは違い、どこにでも居る四流大の学生。社会に出ても入口からしてノン・エリートだ。軽い気持ちで付き合った額子(内田有紀)との関係は、未来を描けぬ者の空疎を埋める時間でしかなかった、と思っていた。                                                                が、額子が結婚すると去って行くや、ヒデの心の空白は仕事・人間関係・日常生活を蝕み、何をしても脱落する者となって行く。強度のアルコール依存症となり、やがてそこから抜け出ようとしていた。                                                                                       別離から十年の後、結婚生活を破綻させた額子と再会する。映画のコピーはこうだ。                                                                                『10年に渡って額子を追い求めた。たとえ変わり果てた姿になっていたとしても・・・』

『悪人』                                                                                                                                                     (10年、原作:吉田修一、監督:李相日、出演:妻夫木聡・深津絵里・岡田将生・満島ひかり・樹木希林・柄本明) http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id336818/                                                                                                                   出版当時に原作を読んで圧倒され、友人知人にせっせと薦めていた。映画化を知り、深津絵里さんはこなすだろうが妻夫木君はどうだろう?と危惧していた。ところが、逆に彼が十二分に役を果たした。彼に賞を上げて下さいと言おうとしたら、先日ブルーリボン主演男優賞を獲った。確か、キネ旬でも賞もらったんじゃなかったか?                                                                                                          主人公:祐一が抱える生い立ち・境遇、人に対して閉じてしまう人格、出会い系サイトで知り合った佳乃(満島ひかり)を殺してしまう経過・・・。妻夫木君は、地方の、無口で社交性などからは隔たって不器用に生きる、学歴乏しい青年の孤絶を見事に演じたと思う。逢う度に祐一から金銭を得ていた佳乃の虚飾の言動と、地位や高収入青年を射止めたいという上昇志向は、カタチを変えて「ばかもの」ならぬ現代人が採用している処世なのだ。観客が抱く佳乃の振る舞いへの嫌悪の感情は、実は自身に棲む佳乃的処世へ向かっているに違いない。                                                                                                                                                                                                                                 やがて殺人者祐一は、その後またも出会い系サイトで知り合った光代(深津絵里)との逃避行へ・・・。彼女は、祐一が初めて触れ合うことができた異性であり、何事かを「共有」できた唯一の人間だった。                                                                                                                                                  祐一が光代に「もっと早く出会っていれば・・・」と言うのだが、芯に届いて痛かった。                                                                                          

【雑感】                                                                                                 『やわらかい生活』の寺島しのぶが、ほぼ掴んでいよう虚構のキャリア生活の相対化、『ばかもの』の成宮寛貴が仮到着した内田有紀との再生活のスタート・・・、それに近いものを『悪人』の妻夫木君は築けなかったのだろうか・・・。                                                                                                                                                                                             否。それが、光代が犯人逃亡幇助に問われることを避けようと、最後に『悪人』を演じる祐一の余りにも哀しい「ばかもの」の情愛表現だった。                                                                                                                     人は、自分一人の力で苦境を脱することはできない。振り返れば、その希少な機会をぼくもあなたも、どこかで得たからこそ今日があるのだ。                                                                                                                                                         祐一とぼく・・・、それは僅かな偶然の違いなのだ。                                                                              『悪人』一篇は、「祐一とは読者・観客のあなた自身ですよ」と告げている。そう告げ得た祐一に光あれ。                                          もしそう思えるなら、我らは、「We」であり、「ばかもの」なのだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   ならば、その「ばかもの」を相手にしてくれたあの方々(某詩人・某教授・某友人・某女房など)も「ばかもの」もしくは「ばかもの」応援者に違いない。                                                                                        「ばかもの」は「ばかもの」に出遭うことによってのみ、「ばかもの」だけにしか見えないものの価値を掴み、                                                                              そこから全てを構想する可能性へと進めるのだ。                                                                                                                               「品川宿:たそがれ自由塾」塾頭を自認するぼくの残された時間は、小賢しい処世の「智恵者」派ではなく「ばかもの」派だろうと思い定めている。                                                                                          『ひとつの事件を、被支配者たちは個別性から解放し、それに歴史性を付与することができる。                                                                                      歴史性とは、自分とは異なる位相で抑圧にさらされている他者への視線を、                                                                                                           現在・過去・未来にかんして獲得しうる、という可能性である』 (池田浩士) 

選んだ三作のうち二つもが原作:絲山秋子だという事実に、この作家の並々ならぬ「今日性」を思う。                                                                      なお、少し前(04年)なので除外した『深呼吸の必要』の成宮寛貴に『ばかもの』で再会したのだが、                                                    この『深呼吸』の出演者(香里奈・大森南朋・谷原章介・成宮寛貴・長澤まさみ・他)が、                                                                     今や各方面で翔いている姿に、ぼくは偶然ではないものを感じている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           映画の持つ「力」を過信している「映画バカ(もの)」のぼくではある。( http://www.yasumaroh.com/?p=9104 )                                                                                               そして、『踊る大捜査線』など「クソ食らえ」のぼくでもある。( http://www.yasumaroh.com/?p=8388 ) 

                                                                                                                   

たそがれ映画談義: 主演二人の映画は面白い

                                                                                                                                                                                                                                                                   

                                                                             

                                                                                                           

                                                                                                                                                                                                 

                                                                                                                

                                                                       

                                                                                                          何故主演二人は面白いのか?                                                                                                     ライターも監督も、一人には託し切れない己が二面性の分身として、二人を描いているのだ。そこが面白い。                                                                                                                                                                                                                     男二人の場合、間に女がいたりいなかったり・・・。  女ふたりはもっと面白い。                                                                                                            作品解説はしませんが、添付画像作品を全部見た人は、相当な映画通。どれもよかったね!                                                                                                          上、左から:                                                                                                                                                        『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』                                                                                                                                                                       『ジュリア』                                                                                                                                                                『チング』                                                                                                                                                   『冒険者たち』                                                                                                                                                                                                                                                                                                           『テルマ&ルイーズ』                                                                                                                                        『真夜中のカウボーイ』                                                                                                                                                                                                                      (余談: ジョン・ヴォイトさん、お嬢さん=アンジェリーナ・ジョリーさんは、最近ますます貴方に似てきましたね!)                                                                                        『17歳のカルテ』(これは99年、アンジー25歳の作品)                                                                                    『帰らざる日々』                                                                                                                 『さらば映画の友よ』                                                                                                                                   『荒野の決闘』                                                                                                                                                                                                

                                                                                            

                                                                                                                                    

                                                              

                                                        

                                                      

                                                        

                                           

                                               

                                                    

                                                                                                                                                                             

たそがれ映画談義: 『深呼吸の必要』-「達成感」 の行方

ずっと「達成感」力説篇は苦手だった。が…

10月22日朝日夕刊に、兵庫県伊丹市立天王寺川中学の運動会の取組:「3年生全員146人(組み手は137人)による10段人間ピラミッド」の、カラー写真5枚付き・五段抜き という異例の記事を見た。                                                                                                        YouTube に画像ありとあったので、開いてみた。感心すると言うか、感動に近いと言うか、生徒達の達成感が伝わって来ると言うか・・・                                                                                兵庫県伊丹市立天王寺川中学:組体操「未来への誓い」(10段人間ピラミッド)。http://www.youtube.com/watch?v=PEMdfqZFiR0                                                                                  アクセス殺到である。危ない、事故ったらどう責任を取るのだ、この教師が目立ちたいのだろうと種々の異論もあるそうだ。「達成感」力説篇は時にいかがわしく、しばしば達成「させる」側の魂胆が透けて見えたりもする。ひねくれ者のぼくは、常々眉に唾して「共感」を自制する回路をONにして、それとは距離を保って来た。昔、息子のラグビー観戦で、強豪校相手の残り2分からの奇跡的逆転勝利を観てウルウルするまでは・・・。このピラミッドも 何らかの恣意的な力が働かない限り、その行方は彼ら当事者のものだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

『深呼吸の必要』 (04年松竹、監督:篠原哲雄)                                                                                  

五年近く前、沖縄通から「ええ映画やで。是非観てや」と言われながら見る機会がなかった映画を、先日観た。                                                                                                                                                                                                       04年製作だから6年前の映画だが、『深呼吸の必要』という映画だ。                                                                                                                    沖縄の離島に、                                                                                                          さとうきび刈りの短期アルバイトにやって来た若者たちの物語だ。若者たちは、                                                                                                       それぞれ都会の労働や社会・人間関係に傷つき・敗れ・疲れ、                                                                                       寝床食事付・日給¥5,000で、沖縄の自然も満喫できるかも・・・と癒されに来るのだ。                                                  広大なさとうきび畑に尻込みする間もなく始まるとうきび刈りの重労働。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    その悪戦苦闘と、「逃げてきた」自覚が互いにあって皮肉を言い合う人間模様、                                            短くとも、協働・共助・強いられたのではない自発・「We」 を味わえた時間、                                                                                            若い働き手不在で、毎年若者を募集している畑の持ち主オジイとオバアの人柄。                                                                                                                                      畑全部の刈取りを果たすまでの短期間の物語だ。                                                                                                                   予告編     http://www.youtube.com/watch?v=e_iTzj3_2Gk                                                                                                              メイキング1  http://www.youtube.com/watch?v=JBHGsssZSnQ                                                                                                              メイキング2  http://www.youtube.com/watch?v=KcJpaMINI1k&feature=related                                                   不思議なことに、この映画の出演者(香里奈・大森南朋・谷原章介・成宮寛貴・長澤まさみ・等)は、今、2010年時点では                                                                                                                                                                                                                                                                                         ことごとく売れっ子になっているが、全員が、この映画撮影時の現場での                                                                                                                                                                           解放感・連帯感・達成感とストーリーへの感情移入が、その後の支えになって来たと語っているという。

達成感やそこに至る過程は、利用されない限り(利用を阻止する固い意志がある限り)、                                                                                                   つまり仮想敵を設定せず・排他的でなく・用意された効用を画策しない限り、認めたい。                                                                                                                                                                    軍国モノや、今日的愛国期待モノには、虫唾が走る「達成感」「礼賛」に終始するような「物語」が溢れているのは事実だ。                                                                                                                                                                                                                      この映画への異論もどこかで読んだ。曰く「沖縄の現実を覆い隠している」。                                                   「製作・公開前後とは、まさに、03年11月ラムズフェルドが普天間基地視察、04年4月那覇防衛施設局が辺野古沖現地調査開始、                                                                                                              
04年8月沖縄国際大に米軍ヘリ墜落だ」 などと書いてあった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         辺野古沖のジュゴン保護の観点を「オバサン視点で、安保を覆い隠している」と言う人がいるが、                                                                   先日のCOP10名古屋の論議でも明らかなように、                                                                               それは、グローバリズム産業の農漁業破壊・大規模自然破壊・農漁業支配と                                                             密接に直接間接に関連しているようだ。当然、その推進の両輪の一方であるのが軍事でもある。                                                                                                                                                                                                                       この映画の「達成感」に至る過程で、若者が取合えず味わった協働・共助・解放感・自然・沖縄の心・等々、                                                                                                                                                                                                                                                                     それらの向こうに見えてくるものの中に、異論者が言うことどももあるに違いないが、入口は、多数在ってしかるべし。                                                                                                                                                                      中身も出口も背景も、心ある者ならばそれを視ずに済む行方などないはずだ。 「逃げてきた」? 「オバサン視点」? それでいいのだ。                                                                                                                                                                          

「We」が何故、半植民地と言われる沖縄の、基地のない離島の、約ひと月「だけ」に、 可能だったのか?                                                                                                                    ぼくらと彼らの「行方」には、そのことの理由を日々見せ付けてくれる沖縄と日本の現実がある。                                                                                                                                                                                                              

                                                                                                                                                『「We」の不在』 http://www.yasumaroh.com/?p=6376                                                                                                                                                                                                 『ここに「We」がある』 http://www.yasumaroh.com/?p=8634

たそがれ映画談義: 蘇り 溢れる映画音楽(外国映画篇)

映画に出会って以来、半世紀強。記憶に刻まれたシーンは、ときに映画音楽とワンセットだ。                                                                                         先日、『踊る大捜査線』への異論を書いた。 ( http://www.yasumaroh.com/?p=8388 )                                                                                                                            『踊る』の作り手と観客に是非とも伝えたいことを考えているうちに、次々とシーンやセリフが思い出された。                                                                   それ以上に胸に溢れて困ったのが、優れた映画音楽の数々だった。                                                                                        今回は、 YouTube に見つけて09年に作った外国映画音楽ファイルに、いくつか補充して転載する。                                                                                                      載せたくとも見つからないものがほとんどだが、これらはすべて、『踊る』の対極に在るのだ。中に珠玉のシーンもあって嬉しい。                                                                                  日本映画のものも近いうちに・・・。                                                                                                                                                                                                                                                                『汚れなき悪戯』 http://www.youtube.com/watch?v=nU1-LJ0b0PM&feature=related スペイン映画                                                                                                                                                                                                                     『道』 http://www.youtube.com/watch?v=azQPqENwTZg ニーノ・ロータ                                                                                                                            『太陽がいっぱい』 http://www.youtube.com/watch?v=eYDRkCYiY0Y&feature=fvw ニーノ・ロータ                                                                                                                             『ロミオとジュリエット』 http://www.youtube.com/watch?v=TN2RHWywEA4&feature=related ニーノ・ロータ                                                                                                           『ゴッド・ファーザー』 http://www.youtube.com/watch?v=PXEmYzq8BgY ニーノ・ロータ                                                                                                                           『刑事』 http://www.youtube.com/watch?v=yg_vJNOCiOg&feature=related カルロ・ルスティケリ                                                                                                                       『鉄道員』 http://www.youtube.com/watch?v=uR2EKbTDPds&feature=related カルロ・ルスティケリ                                                                                                         『ブーべの恋人』 http://www.youtube.com/watch?v=p5i2XRQ8vig&feature=related カルロ・ルスティケリ                                                                                                                                                                         『誘惑されて棄てられて』 http://www.youtube.com/watch?v=ZAjp9YnATIU カルロ・ルスティケリ                                                                                                                           『禁じられた遊び』http://www.youtube.com/watch?v=6-X4cAUlg8g ナルシソ・イエペス                                                                                                         『真昼の決闘』 http://www.youtube.com/watch?v=QKLvKZ6nIiA ディミトリー・ティオムキン                                                                                                         『シェーン』 http://www.youtube.com/watch?v=9DVPxbsTccg&feature=related ヴィクター・ヤング                                                                                                            『エデンの東』 http://www.youtube.com/watch?v=Olo1MoLZHA0 レナード・ローゼンマン                                                                                『ティファニーで朝食を』http://www.youtube.com/watch?v=BOByH_iOn88&feature=related  ヘンリー・マンシーニ                                                                                                                                                                           『酒とバラの日々』 http://www.youtube.com/watch?v=swHHoC1XYk8&feature=related ヘンリー・マンシーニ                                                                                                                                                                    『ひまわり』 http://www.youtube.com/watch?v=wbU-a99giUg&feature=related ヘンリー・マンシーニ                                                                                                           『大いなる西部』 http://www.youtube.com/watch?v=TWv6wqV6mxc&feature=related ジェローム・モロス                                                                                                               『日曜日には鼠を殺せ』 http://www.youtube.com/watch?v=x37qCdT8SP0 モーリス・ジャール                                                                                                      『ドクトル・ジバゴ』 http://www.youtube.com/watch?v=zDkvSKvzUBI&feature=related モーリス・ジャール                                                                                                                                                        『死刑台のエレベーター』 http://www.youtube.com/watch?v=KkXSbwyln-0&feature=related マイルス・デイヴィス                                                                                                                                                                   『男と女』 http://www.youtube.com/watch?v=2bYBn5VJ-ko フランシス・レイ                                                                                                            『日曜はダメよ』 http://www.youtube.com/watch?v=QXOZrZQrt48&feature=related マノス・バジダキス                                                                                                                                                                                *(監督ジュールス・ダッシンはロシア系ユダヤ人。マッカーシー旋風によりハリウッドを追われ、ギリシャで製作。後に主演女優メリナ・メルクーリと結婚)                                                                                                                                                                    『その男ゾルバ』 http://www.youtube.com/watch?v=4UV6HVMRmdk ミキス・テオドラキス                                                                                                                                                                                     『炎のランナー』 http://www.youtube.com/watch?v=xEF4zH6XHCk&feature=related ヴァンゲリス                                                                                                                                                    『さらばベルリンの灯』 http://www.youtube.com/watch?v=t7wj34jhR6U ジョン・バリー                                                                                            『真夜中のカウボーイ』  http://www.youtube.com/watch?v=ZGORPUzLxtU&feature=related ジョン・バリー                                                                                                               『明日に向かって撃て』 http://www.youtube.com/watch?v=hUVpYENQJMg バート・バカラック                                                                                     『夕陽のガンマン』 http://www.youtube.com/watch?v=kXmUgereD1o エンニオ・モリコーネ                                                                                           『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』タイトルバック http://www.youtube.com/watch?v=YfczFtTvzbg エンニオ・モリコーネ                                                                                                                                                        『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』デボラのテーマhttp://www.youtube.com/watch?v=E0jFrXO22_o&feature=related エンニオ・モリコーネ                                                                                                                            『ニューシネマ・パラダイス』(タイトルバック) http://www.youtube.com/watch?v=kJKbSC1dU04&feature=related エンニオ・モリコーネ                                                                                                                                     『蝶の舌』 http://www.youtube.com/watch?v=nYa19UXr-y8&feature=related スペイン映画 ( http://www.yasumaroh.com/?p=963 )

『ニューシネマ・パラダイス』(エンディング) http://www.youtube.com/watch?v=qMgTCtSxOHE&feature=related エンニオ・モリコーネ

たそがれ映画談義: 『踊る大捜査線』-  ♪ 踊る作者に 観る観客 ♪

『踊る大捜査線』に視る奴隷根性と権力性、それは今風日本映画の立位置を映し出す。

10年近く前、TV局が、TVスタッフの手で、TVシステムによって作り上げ、事前大宣伝を経て空前絶後の大ヒットとなった映画『踊る大捜査線』を見たとき、言いようのない辟易感に襲われた。                                                   主人公と彼を取り巻く人物たちの「無自戒」、映画の製作者・監督の「勘違い」、観客たちの反応に見える「軽薄」・・・。とりわけ織田祐二演ずる主人公青島が、柳葉敏郎演ずる同世代キャリア上司:室井に言う下記の科白には反吐が出る思いだった。                                                         記憶は曖昧だが、その趣旨は概ね以下のようなことだった。                                                                          「ぼくら下の者は、上がシッカリしてくれていて努力できるのだ」「だから、上は上でそれを汲み取って出世してもらわないと」                                                                                            一部でキャリア・ノンキャリアの垣根を越えた「解り合い」だとか、働く者の気持ちを「言い当てている」と言われたりしたが、果たしてそうなのか?                                                                  ノンキャリア組の心情がそうした諦念(荒廃?)の中に在るという、今日的職場風土を示す皮肉だと言うのなら頷けもする。 だが・・・、青島君は、明るく元気で、自己と職場を全面肯定しつつ嬉々として立つのだ。                                                                                                                                                                                                                                            

話は飛ぶが、同じ現場刑事でも、内田吐夢監督の秀作飢餓海峡(64年、東映)の伴淳三郎演ずる弓坂刑事には、意地と執念のブツであり刑事人生を凝縮したような仏ヶ浦の「灰」を、幾年にも亘って握り締めている、地を這う捜査員のノンキャリア魂があった。そこには「上は上で云々」などという「代行性」を断じて拒否する、捜査員・ノンキャリア勤労者の「努力や誠実」が在ったぞ。                                                              それは、懸案を上司やキャリア組への委任や委託で終着点とする棚上げではなく、懸案をいわば我がこととして永遠に「抱え込む」気概・矜持に基づいていたのだ。                                                                                                          「下の者」のこの気概の解体・喪失・放棄・忘却こそが、実は「上の者」の支配性より強固な要素として、「権力性」の核心を打ち固めているのだ。国家規模の強権支配は、一握りの支配層の圧政を前提としつつ、民のそうした気概の解体と諦念の上にこそ貫徹されて来た。                                                                                                                                      『踊る』のファンには不愉快だろうが、そのことに無自覚な度合いこそが、『踊る』的映画をヒットさせてしまう社会の、ある度合い=荒廃度合いだと言えなくはない。

 さて、『踊る』自体だ。(黒澤『天国と地獄』のピンクの煙のパクリは、たとえパロでも、論評する気にさえならん!)                                                                                   先日、「日本映画専門チャンネル」で『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたか』なるリレー・トークを観た。10人の「映画通」が語っている。                                                                                                                        多くは、肯定・映画の敗北・当然の帰結・観客が選んだ結果だ・これも映画だ・・・・、との「現実追認」に終始している。                                                                                                   その中で、雑誌『映画芸術』編集長:荒井晴彦だけが「まとも」なことを言っていた。                                                                              気になって、各発言の採録である番組と同タイトルの新書(幻冬舎新書、¥800)を購入した。                                                                                                      以下に荒井発言を抜粋する。

『結局はフジテレビのプロモーションの力でしょう』 『テレビが勝ったのではなく、映画がダメになったのです』 『映画自体が乗っ取られた』 『映画館の大きなスクリーンでテレビドラマを映しているのと同じです』                                                                『僕らの年代は』 『なぜこんなものを映画館でやっているんだというような違和感を抱く』 『若い人たちはその違いを知らないから、何のわだかまりも無い』                                                                                         『「踊る」以降は「映画の監督がつまらん作家性なんか出すより、テレビのスタッフが映画もやったほうがかえって当たる」というわけです』 『「踊る」の亀山プロデューサーは』 『「なぜ彼や彼女は犯罪を起こすに至ったのかを描かなくていい」と言ったそうです』 『「犯人のバックグラウンドを描くな」ということです』                                                                                     『「踊る」以降の作品に描かれる犯罪は、「たまたま、ただのヘンな人が暴発したからおこったこと」になってしまった』 『犯人が捕まったらそれで終り、それで解決でいいということです』                                                                                                               『よくテレビでは「小学生でもわかるような表現じゃないとダメだなんだ」という言い方をします。でも僕は万人にわからせることだけがすべてではないだろうと思う』 『100人のうち10人がわかればいいという映画があっていいと思う』 『わかるのは二人ぐらいでいいんじゃないかと思うし、さらに言えば、たった一人でもいい。究極的には、作った俺さえいいと思えればいいんだ、とも思います』                                                                                            『見やすさだけ、わかりやすさだけが最優先されるのは、本当にいいことなんでしょうか』                                                                    『もちろん徹頭徹尾そういう作り方ではまずいけれど』 『すべての映画を、黙って座ってボーッと見ていてもわかるものにするのはどうなのか』                                                                                                   『今は』『観客の側が勉強して映画を理解する文化がなくなってきている』 『こうなったのは、作り手のほうが、「勉強しなくいいんだよ、考えなくても楽しませてあげるよ」と言ってしまったからです』   『監督や原作の作家が、何を描こうとしていたのかを知ろうとして、その作家の生い立ちなどを別の本で調べたりするうちに、どんどん映画に深くはまっていくこともあった』                                                                                                                                    『作品に匿名性のようなものが生れて、似通った作品ばかり』 『作品に個性がないから、顔がみえない』                                                                                        『そもそも映画は「娯楽」と「芸術」という、相反する要素を持ち合わせたもので』 『作り手は、芸術であるとまでは言わないけれど、全くの売り物だとも思っていなかった。「商品」「作品」の間で行ったり来たりして、悩んでいました』 『今の若い作り手たちは違います。彼らは自分のやりたいことを通すというよりは、お客さんを入れることを第一に考えるようになった』                                                                                                                                       『僕は昔からお客様は神様だと思ったことは一度もない』 『神様はバカ様になった』                                                                               『映画館の闇の中で、僕たちは人生を変えるような、魂を震わせるような何かと出会うことが出来た』                                                                          『今の映画は、ヒットすることと引き換えに、そういった陰影や多様性を切り捨ててしまった』                                                    『亀山プロデューサーは』 『勝つにはどうしたらいいかを考えて、その結果勝ったのはすごいことです』                                                                                                         『平野謙という文芸評論家が「畢竟、文学とは我を忘れさすか、身につまされるか、ではないか」と言っているのですが、映画もそうじゃないかと思います』                                                                                                           『我を忘れさせる映画の典型が「踊る」でしょう』 『映画館を出たら、ああ面白かったとその映画も忘れてしまうのではないか』 『僕は、身につまされる映画を作りたい』 『人に忘れられない映画を作りたい』                                                                                                      『文学や映画をエンターテインメントこそすべてとその枠に押し込めることで、そこにある生き方・考え方・価値観を揺り動かす力を捨ててしまうのはあまりにも惜しい』**********************************************************************************************************************************************

荒井の、いまどきの映画と観客への言い分は、そのまま映画『踊る』への、『踊る』登場人物への異論となっている。それは、現実への視点を欠き(欠かざるを得ない)、現実「回避・逃亡」に終始する、CG満載の近未来絵空事や有り得ないパニックにしかドラマを構成できない米映画作家の今日的立ち位置、その亜流たる日本映画への異論であり、同時に米帝国とグローバリズムへの鋭い文明批評として聞こえて来る。

荒井晴彦:1947年生まれ。1970年、早稲田大学文学部除籍。(なるほど・・・あの時代の、あの毒を浴びた同輩か・・・)                                                                      若松プロ助監督を経て、脚本・監督業。現:『映画芸術』編集長。                                                                                                                                                                                                                           脚本:                                                                                                  『神様のくれた赤ん坊』(78年)、『遠雷』(81年)、『時代屋の女房』(83年)、                                                                                                          『探偵物語』(83年)、『噛む女』(88年)、『眠らない街 新宿鮫』(93年)、                                                                                                         『絆-きずな』(98年)、『KT』(02年)、『やわらかい生活』(06年)                                                                                                                                  監督:                                                                                                              『身も心も』(97年、脚本とも)http://movie.goo.ne.jp/movies/p30683/comment.html

 ☆                                                                                                                                                       『やわらかい生活』はええです。大東京に生きるシングル女性(確か、上場企業の元総合職だった)。                                                         友の死をきっかけに陥った「うつ」、ドロップアウト、孤独・・・、それらを受け容れる「やわらかい生活」を                                            求め彷徨いながら、自己再生を「やわらかに」展望する主人公・・・。                                                                                                                                            寺島しのぶの存在感に救われた作品だった。                                                   蒲田というごった煮の土地柄もあってひときわ心に沁みました。→ http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id324265/                                                         出演:寺島しのぶ、豊川悦司、妻夫木聡、大森南朋

映画: 小百合さんナレーション 『ブッダ』、キョンキョン/永瀬競演『毎日かあさん』

手塚治虫『ブッダ』、西原理恵子『毎日かあさん』   映画化・来春公開

 スポーツ紙:芸能欄によれば、                                                                                        手塚治虫の長編漫画『ブッダ』(全14巻累計2000万部)がアニメ映画として、まず第一部が完成。                                                吉永小百合さんがナレーションを担当すると言う。期待せずにおれようか?                                                          全三部として、来年五月公開されるという。                                                                                                                                                                                      04年に離婚した永瀬正敏・小泉今日子が、西原理恵子作:『毎日かあさん』で競演する。                                                                 西原の『毎日かあさん』は、カメラマンの夫:鴨志田穣氏との、96年結婚・夫のアルコール依存症・03年離婚・06年復縁・07年夫腎臓癌で死亡 という実生活を描いている。キョンキョンが決まってから永瀬にオファーを出し、快諾を得たそうだ。キョンキョンも歓迎したと記事にはある。キョンキョンの応答セリフが実にいい。                                                  『同業として戦える日が来た』 う~ん、楽しみだ!                                         9月下旬クランクイン、来春公開。

たそがれ映画談義: 『パリ20区、僕たちのクラス』

『パリ20区、僕たちのクラス』(08年、フランス映画。ローラン・カンテ監督) http://class.eiga.com/                                                                
 
仕事帰り、脚を延ばして神保町「岩波ホール」へ。平日、最終回、満席だった。                                                                                                  
学校モノにありがちな、**志向派の「説教モノ」「根性モノ」「教育勅語近似モノ」でも、
逆に「スローガンもの」「理想モノ」「熱血モノ」「自慢モノ」「告発モノ」でもない。
公教育の当事者の偽らざる「希い」と「失望」を、その狭間での「努力」と「限界」を、
そしてそれでも続く・続けるべき、公教育の明日の可能性を描いていた。
 
パリ20区は、移民の多い地域で、親たちが移民の多い公立校を嫌い我が子を「私学」へ行かせるので、公立中学校の移民率はさらに高くなる。                                                                                   
アフリカから来た黒人、カリブから来た黒人、旧植民地アルジェリアから来た子、イスラム世界からの移民、アジア人・・・・・・。                                                                 スーパーマンではなくイエスマンでもない、一個の迷える中学校国語教師:晩期青年フランソワの熱心さと弱さと怒りと癒しと諦めと諦めない繰り返しが、24人の生徒に届き・届かず、寄り添い・寄り添えない現実。
                                                                                                         読む・聴く・語る・書く・考える、言葉の成り立ちに棲んでいる歴史性や社会的蓄積もやんわり伝える・・・、とりわけ移民の子が多い中で・・・。                                                        「国語」を教えるということの深い必然を見させてもらった。                                                                                                      中学時代、このように「国語」を教えて欲しかったなぁ~。いや教師は挑戦していたはずだ。
こっちがキャッチ出来なかったのだ。
 
映画はもちろん何らの回答を示すことなく終るのだが、訳知りどもに                                                                                                                        「いかがわしい答えなど簡単に言うな!」 「それでも公教育が持つ可能性を手放さない」                                                                  
と告げているように思えた。                                                                                               24人の14~15歳と、ムッシュ・フランソワ。 素晴らしい映画でした。
 
ガーディアン紙:                                                                                                                                                                               努力し、時に失敗しながらも、21世紀の新たな共和国を作ろうと、自分の限界に挑戦しようとする教師たちの姿。                                                                                                                          ニューズウィーク紙:                                                                                                                                                         中心にあるのは「言葉の重要性」という問題である。
 
ところで、日本の職員会議には決定権はなく、校長の指示を聞くだけの場とされ、当然に発言も激減し創造性が消えたと                                                                     校長自身が告白しているが、実態はどうなのか? 東京都のような実情はすでに全国的なのか。                                                       東京を含めて本来の姿を快復して欲しい。映画によれば、フランス・パリは東京都とは違うぞ。                                                   東京都教育委員会などの強引を改める。それ、「民主」党政権の、職場の民主への課題ですよ!学べ!                                                                                           教育委員会!                                                                                                                                                    教師が自分達の中で「民主主義」的運営を出来ずして(自粛して)、子どもに如何なる「民主」を伝えられると言うのか?
 

 

たそがれ映画談義: 公開中『パーマネント野ばら』

日曜日、映画『パーマネント野ばら』(2010年、監督:吉田大八)を観て来た。                                                                         http://www.nobara.jp/ 西原理恵子の漫画が原作。菅野美穂、実にええですね。

夏木マリ、小池栄子、江口洋介、宇崎竜童、池脇千鶴らも好演、よろしかった。                                                                     原作は全く知らないのだが、ストーリーの「からくり」は途中で解ってしまった。                                                 けれど、それがわかったときの透き通った感覚は、何とも言えず痛く恋しいものだった。                                             生きることが日常近辺の「非日常」を含めた繰り返す「日常」と、それを超えるもの-                                                                    【夢とか、見果てぬ夢とか、浪漫と呼ばれている、譲ることのできないもの】-                                                                     と「切れて」「繋がる」想念によって成り立っているということを、                                                                                                           (これまで)終始「受身」に生きてしまった主人公の「物語」を借りて描いたと思う。                                                                                                       きっと、主人公ら登場人物と作り手自身と観客の、再生・復権の明日を希って撮ったと思う。                                                      間違いなく秀作です。

たそがれ映画談義: 『幕末太陽傳』、川島雄三、品川宿

幕末品川宿を駆け抜けた「居残り佐平次」、 川島は彼に何を仮託したのか。
  
『幕末太陽傳』(1957年、日活)
監督:川島雄三、脚本:田中啓一、川島雄三、今村昌平、 助監督:浦山桐郎、音楽:黛敏郎。
出演:フランキー・堺、左幸子、南田洋子、山岡久乃、金子信雄、石原裕次郎、小沢正一、芦川いづみ、小林旭、殿山泰司。
何という破天荒、何という爽快、何というアナーキー、何という豪華キャスト。主演フランキーはこの年の賞を総なめにした。
尊王攘夷の志士とその行動、幕末という時代、そして現代をも相対化する川島流反権威の表現であり、相対化の対象は、
国家・体制はもちろん、会社(日活)、尊皇攘夷の志士(現代の自称「革命党」も含めて)まで、全てが含まれる。                                                      その立脚点は「したたかな町人」である。 (映画サブタイトルは「乱世を喰う男」であった。)
刀を抜いた高杉晋作に向かった佐平次に語らせる、あんたらは百姓・町人から絞り上げたお上の銭で、やれ勤皇だ攘夷だと騒いでいるが、こちとらそうは行かねえんでぃ、首が飛んでも動いてみせまさぁ! と。
当時、二度とあり得ない組合せだと言われたスタッフ・キャストが日本映画に残した足跡は、                                                                           今も敬意を込めて語り継がれている。
 
北の吉原・南の品川と言われた品川遊郭。幕末品川宿の雑踏と嬌声と、維新直前の殺気と緊張感・・・。                                                               当ブログのタイトルを軽く「たそがれの品川宿」と命名してしまい、「品川宿:居残り野郎」と自称してしまった当方は、     品川宿の我が庵で、 川島が幕末を借りて描いた混沌に我が身が覆われるのを日々感じていたのだ。
過日、改めて本作を観て感嘆・脱帽・恐縮でございます。恐れ入りました。
戦後日活第一次再建(1953年)の経過、再建三周年の本作制作時、日活からの、                                                            スター級を脇へ押しやったこと(快挙)への異論、制作費を巡る強い要請、等々・・・・ 
この辺りの概略は「川島雄三傳」 ← http://www.sadanari.com/k-sakuhin/baku-st.html に詳しい。
 
45歳で早逝した川島雄三の足跡。TV「驚きもものき20世紀」:川島雄三「サヨナラだけが人生だ」より (是非ご覧あれ)【削除されるかも】
お忙しいむきには、③だけでも観て下さい。
石原裕次郎(高杉晋作)と フランキー・堺(佐平次)               川島雄三(後方)         演出風景。 (左端:川島)                                                       
  
                                                     
 
スタッフ・キャストの猛反対で川島が折れ、実現しなかった「幻のラストシーン」
【佐平次(フランキー堺)が撮影セットを突き抜け、スタジオの扉から外へ出て、現代(57年)の品川の街並みを
<ちょんまげ>頭のまま走り去って行く。 映画の登場人物が現代の格好で佇んでいる・・・】
 
佐平次のように時空を突き抜けたいものだ。                                     
本来、時代は地続きなのだ。 ←  http://www.yasumaroh.com/?p=1738                                                                                                    
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