Archive for the ‘アジール 空堀’ Category
アジール空堀:『<憲法の空白>を撃つ』
あらら、「アジール空堀」のページにフライヤー公開したら、即3名様お申込みありました。
では、晴れて受付開始です。よろしく。6月24日(日)です。異色異才の初コラボ!
アジール空堀:2月企画『映画とクラシック』
「アジール空堀」2月企画
2018年2月10日(土)16:00~20:30『映画とクラシック』
トーク&映像&フレンチの会。
寒さのせいか、みなさんイヴェント疲れか、はたまた企画の不備か、ご予約が伸びず焦ったが、木曜日に13名様に達し、本当日も飛び入り2名様で計15名様。それでも、「アジール空堀」始まって以来の最少参加者数。…
その分濃く楽しい会になった。
日本映画の部では、黒澤明監督からの、彼の側に特定のクラシック音楽が想中にあって、「このイメージで別途オリジナルを」との要求に音を上げた早坂文雄・佐藤勝・武満徹たちとの「暗闘」(?)の話は、映画という表現が逃れられない「業」の大きな部分ですね。
講演者の、ひと際愛着ある浦山桐郎監督の「クラシック・ファンであり、愛するがゆえに映画音楽として直接使うを忌避して」との理解にも興味があった。「私が棄てた女」に於いて民謡「新相馬節」や歌謡曲「東京ドドンパ娘」を使ったように、浦山がその時代の女性を描くに際しクラシックは「いかがなものか?」と考えたことの根っ子に、60年代男女の「掛け値なし」の心性が民謡や歌謡曲の波間に漂うたに違いないという確信があったと講演者は語ったのだろう。
後半洋画の部も面白く書き切れないのだが、スウェーデン映画『みじかくも美しく燃え』(1967年、スウェーデン)の主演女優:ピア・デゲルマルク(カンヌ映画祭主演女優賞受賞)のその後の数奇で薄幸な半生(富豪と結婚・離婚)や「あの映画にさえ出なければ」との失意が、原題(サーカスの綱渡り芸人の名)ではなく日本題名「みじかくも美しく燃え」とモーツァルトのこの曲とワンセットに迫って来る映画ならではの面白さ・・・と講演者。
ラストは、『2001年宇宙の旅』。ここにも、監督と音楽監督の壮絶なバトルがあったそうで、アレックス・ノース(スパルタカスなど)が書き上げていた作品を無視、「ツァラトゥストラ」等に変更。ノース死後彼の友人ジェリー・ゴールドスミス(パピヨンなど)が没になったノースの作品をCD化したそうな。
いやはや、独りではできない、いくつもの才能の結集だけに衝突の連続だろう映画作りの断面のホンの一部を聞かせてもらった。
講演者が無類の「浦山ファン」だということがよく解かった。ワシも『キューポラのある街』『非行少女』『私が棄てた女』の通称初期三部作の女性主人公、ジュン(吉永小百合)若枝(和泉雅子)ミツ(小林トシエ)を、60年代を生きた女性たちの変容態だと語った一文を書いたことがある。講演者が言う、浦山の「虐げられる側・棄てられる側に寄り添う」基本姿勢に同感しながら、参加女性からの指摘「女性の描き方が、余りにも男の都合からのものだ」にも頷くワシだ。
浦山さん、しかし「私が棄てた女」の幾百万の主人公吉岡氏こそ、60~70年代高度経済成長期日本を積極的(か渋々かは置いて)に推進し、社会性と公共性の一切(?)に目を閉じ、「所属企業」内のみでの「企業処世」と「私的安定」に汲々とし、一方で幾百万のミツを棄て続けて来た存在であることは事実だ。
主催者としては、少人数の良さを活かせたいい集いでした。慣れない上映もまずまずで、音響も「ツァラトゥストラ」のウーハースピーカーはバッチリ。
映画ファンであるご参加者の、映画とクラシックへのそれぞれの切り口が発展して行きそうな予感が生まれた会でした。みなさん、橋本良介君、ありがとうございました。いずれ続編しましょう。
アジール空堀:2018年1月『ちんどん道を生きる』
舟木徹男氏発
【Asyl空堀 1月】
今日は「アジール空堀」で、ちんどん通信社の林幸治郎氏のライブを観に行く。アコーデオンと太鼓の伴奏に合わせた歌が哀調を帯びていて、いい催しであった。「阪神の震災後の神戸に呼ばれて街を練り歩いたとき、鉦や太鼓の音が邪気を払うものだということが民衆の無意識の記憶にのこっていて、それが震災…の災厄冷めやらぬ神戸に自分が呼ばれた理由なのだとわかった」という意味のことをおっしゃっていたのが印象的だった。金属音が魔除けの意味を持つというのは、柳田国男の「山の人生」にもあったな、とかいろいろ思い出した。
アジール空堀:2017年忘年会
昨夜(12/19)は呑み過ぎた。
「アジール空堀」忘年感謝会。
時間あれば朝までみんなの話を聞きたかった・・・。
(シャーデー師のマジック最高でした!)
アジールの心…
『党ならざる者たちによる叛乱 と 自治』
『群れない 媚びない 競わない』
アジール空堀: 『道浦母都子&趙博 ふたり会』
11月13日(日) 『道浦母都子&趙博 ふたり会』
道浦母都子さん、趙博さん、今野和代さん(司会及び幕題字揮毫)。
ありがとうございました。
都はるみ歌唱、道浦母都子作詞になる『邪宗門』『枯木灘 残照』を、作詞者の横で歌い上げる趙博さん。…
まるで弟を見守る姉のように、目を閉じてパギの歌唱に聴き入る道浦母都子さん。映画的に言うなら「う~ん、いい画(え)だ!」。
「どうしても選べと言われ選ぶなら、どの歌ですか?」との会場からの問いに、即座に挙げられたのが
「ひとのよろこびわがよろこびとするこころ郁子(むべ)の花咲く頃に戻り来」
だった。
次いで聴衆へのサービス精神だろうか本音だろうか、その質問以前に会場からの質疑感想に出ていた二首を挙げられた道浦さん。
その一つ、父にまつわる歌というのは、
「釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ」
「振るわるる楯より深くわれを打つ父の怒りのこぶしに耐える」
「打たれたるわれより深く傷つきて父がどこかに出かけて行きぬ」
のいずれかだろうか? 聞き逃したが、
「おまえたちにわかるものかという時代父よ知りたきその青春を」
ではないかと想像する。
というのは、会の前段の父上一家と朝鮮との関係を語られたお話で、朝鮮に居た父上一家が、敗戦直後南へ逃げる際、混乱と暗闇の中、朝鮮人の男性に匿われ道案内を得て生き延びる。その男性は、「以前北海道の炭鉱で働き、帰る際に日本人が心を籠めて送別会をしてくれた。今度は私が返す番だ」と語る。帰国した一家に1947年、母都子さんは生まれた。この男性が居なければ、わたくしはこの世に存在できていないのです、と述懐された。幼い日から、父にこの朝鮮脱出記を繰り返し聞かされて来た道浦さんだった。会場の「打たれた側の道浦さんの、父への想いを聞かせて欲しい」への返答が「父よ知りたきその青春を」のこの歌だろうとワシは想う。
もう一つは、ワシがこの短歌に触れて以来、臓に居座っていて身から出て行かない
「明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし」 だ。
80年代当時、幾人かの人が「決戦主義だ」「敗北主義だ」「情緒的に過ぎる」と論難していた。そうだろうか? これは、風雨に晒され雪に打たれても、ボロボロの旗となっても立ちつくしていようという、云わば「立ち方」を問う永遠の覚悟だ。
できてはいないが、そうでありたいとワシは想いたい。痩せた旗ではなく、肥満・腰痛・現場仕事撤退のワシ。学生期「極左」付和雷同期・そこからの脱走期・労組期・争議から破産法下20年の労組自主管理経営期、その破綻から東京単身赴任半ば日雇いの今。 客観的には団塊ジジイの敗走遠吠え以上のものではない。
ワシらは、すでに父であり、多くは孫までいる。会場は53歳が最年少というジジババ世代だったが、であらばこそ、きわめて今日的な短歌ではないだろうか?会場からの「戦後、左翼の数々の敗北史でも、もっとも拭いがたい悲惨を刻んでしまった、60年代末から70年代初頭」という全くその通りの指摘に、ワシらはそれぞれの方法論で答えて行くしかない、旗となるまで・・・。
趙博が言いかけたのは、
「今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれ われらがわれに変わりゆく秋」 だった。
聞き取れなかったが、趙博は「そうやってようやく辿り着いた『われ』からこそ、今『われら』の復権を目指そうぞ。『われら』と『われ』との往還に居たい」と言った(ように思う)。
趙博がきわめて遠慮がちに語った「芸人・歌い手としての自分、運動実践家としての自分、舞台役者・劇作家としての自分、在日知識人・社会科学者としての自分・・・、その云わば『二兎を追う』身の苦悩は、ある意味痛々しい。
けれどパギ、二兎も三兎も追え。これまで通り「河原乞食」の矜持を余すところなく示せ。そこにウサギではない虎を射止める、独自の、どこにもない立ち方が必ず現れる。と非当事者のジジイは気楽に言うてしまいよる(失礼!)。
「アジール空堀」:屋外ウォーク・ツアー【大塩平八郎と仲間の 覚悟と無念】
「アジール空堀」屋外ウォーク・ツアー
【大塩平八郎と仲間の 覚悟と無念】
大塩軍決起交戦の地にて20名で追構想。
10.8山崎さん集会に参加したくもあったが、…
本日のウォークは正解でした。
大阪案内人:西俣稔氏の名ガイドに拍手!
恐怖した者の密告により、大塩軍は計画から大きく減少して300名での決起となった。遺されている檄文(刷り物)の型は、36分割されたもので個々では意味が読み取れない工夫がなされていたという。用意周到に準備されていたのだった。已む無く出陣地となった大塩私邸でもある「洗心洞」。
「洗心洞」から辿り、途中の大塩墓所(成正寺)にある 乱に殉じた者の墓の前で、決起300名のうちに守口の青年ら160名と聞いた。それは農民だったと言う。極刑・晒し首・流刑・・・。
多数の農民青年、大塩の決起の公共性を想う・・・。
大塩軍も渡ったという難波橋(現在のライオン橋の西手に在った)を越え、交戦場所近くで集合写真を撮った。いまに活かすべき、大塩の遺産とは…公=おおやけ とは・・・・・大塩[陽明学]が言う『人間とは生まれながらにして四つの徳を持つ。すなわち 仁・義・礼・智 である』の今日的意味とは・・・・・
安倍政治の真反対に在るものであることは確かだ。
アジール空堀9月23日(土・休)『川口真由美&金洪仙 ふたり会』
【高橋もと子さんより】
「ふたり会inアジール」では、二人の魅力を存分にみせていただきました。参加58名様
金洪仙さんは、金城実さんや喜納昌吉さん、真由美さんたちとの出会いやエピソードを楽しく語り、、
真由美さんの歌はパワフルで、愛あふれていて、、そして、辺野古での闘いについて語り。
元気をもらうってこういうことなんですね。
司会のなおちゃんもシスターフッド満載でとても素敵でした。
みんなの素敵な笑顔が目に焼き付いています。
最後は「ケセラ」で声を合わせ、
アンコールではみんな踊り出して、、
何とも贅沢なひとときでした。
「アジール空堀」 童謡・唱歌に見る児童生徒に刷り込んだ国家意思
【蛍の光】(スコットランド民謡。1881年・明治14年、尋常小学校唱歌)
1.
蛍の光、窓の雪、
書読む月日、重ねつゝ、
何時しか年も、すぎの戸を、
開けてぞ今朝は、別れ行く。
2.
止まるも行くも、限りとて、
互に思ふ、千万の、
心の端を、一言に、
幸くと許り、歌ふなり。
3.
筑紫の極み、陸の奥、
海山遠く、隔つとも、
その真心は、隔て無く、
一つに尽くせ、国の為。
4.
千島の奥も、沖繩も、
八洲の内の、護りなり、
至らん国に、勲しく、
努めよ我が兄、恙無く。
【われは海の子】(1910年・明治43年尋常小学校唱歌」)
一、
我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ。
二.
生まれてしほに浴して
浪を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の氣を
吸ひてわらべとなりにけり。
三、
高く鼻つくいその香に
不斷の花のかをりあり。
なぎさの松に吹く風を
いみじき樂と我は聞く。
四、
丈餘のろかい操りて
行手定めぬ浪まくら
百尋千尋海の底
遊びなれたる庭廣し。
五、
幾年こゝにきたへたる
鐵より堅きかひなあり。
吹く鹽風に黑みたる
はだは赤銅さながらに。
六、
浪にたゞよう氷山も
来らば来れ恐れんや。
海まき上ぐるたつまきも
起らば起れ驚かじ。
七、
いで大船を乘出して
我は拾はん海の富。
いで軍艦に乘組みて
我は護らん海の國。
【冬の夜】(1912年・明治45年、尋常小学校唱歌)
一、
燈火(ともしび)近く衣(きぬ)縫(ぬ)う母は
春の遊びの、楽しさ語る。
居並(いなら)ぶ子どもは指を折りつつ
日数(ひかず)かぞえて喜び勇む。
囲炉裏火(いろりび)はとろとろ
外は吹雪(ふぶき)。
二、
囲炉裏のはたで縄(なわ)なう父は
過ぎしいくさの手柄(てがら)を語る。
居並ぶ子どもはねむさ忘れて
耳を傾(かたむ)けこぶしを握(にぎ)る。
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪
【里の秋】(1941年・昭和16年12月 童謡雑誌掲。戦後1945年川田正子歌唱ラジオ放送で全国放送))
一、
静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた
二、
明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す
三、
きれいな きれいな 椰子の島
しっかり 護って くださいと
ああ 父さんの ご武運を
今夜も ひとりで 祈ります
四、
大きく大きく なったなら
兵隊さんだよ うれしいな
ねえ 母さんよ 僕だって
必ず お国を 譲ります
*川田正子が唄った時点では、三番は下記に変更され、四番は削除された。
さよなら さよなら 椰子の島
お船に ゆられて 帰られる
ああ とうさんよ ご無事でと
今夜も かあさんと 祈ります
「アジール 空堀」 12月15日 『高野陽子 アイルランド&ウチナー ライブ』
12月15日(木)18:00~
『高野陽子 アイルランド&ウチナー ライブ』満席盛況・ご好評を得て、無事終了。
有名な「サリーガーデン」「シューラルーン」などのアイルランド民謡の旋律と響き・高野さんの声質に魅了されました。発声法には全く知識が無いのですが、ナチュラルで飾らない独特の発声だな~と感じます。そして、それは続いての、旋律・リズムの全く違う沖縄の恋歌・哀歌に言い表せない不思議な力で受け継がれ、「てぃんさぐぬ花」「安里屋ユンタ」「十九の春」の高野流歌唱には、全く違和感は無い。
食事後、アイルランド訪問記、スペイン・サンディアゴ巡礼記(その一部100㎞を走破なさったそうだ)のスライド上映とトークは素晴らしく、参加者の多くが「行ってみたい」と呟いていました。
セカンド・ステージでは、会場のリクエストから「スカボロフェア」「花」などもあり、満足の集いでした。
話は飛びますが、オスプレイの墜落事故などの暴虐を見るにつけ、アイデンティティ・排他的なナショナリズムでなはい「自己決定権への想い」が、グローバリズムに対抗できる大きな根拠地ではないか?と思うのです。そう思わせてくれたライブでした。
アイルランド、スコットランド、カタルーニャ、バスクなどのヨーロッパの独立運動、太平洋ではグアム、パラオ、ツバル、ニューカレドニアなどの独立や独立運動、その文脈から台湾先住民族・沖縄(琉球)や東アジアを見るとき、そこに生まれ永い民族の歴史と文化に育ち、住み暮らす者の「第一義」的大義が、いわゆる「プロレタリア国際主義」や「革命」にあるのではなく、それは「結果」なのだと思えるのだ。現地からの発言が「独立」「自己決定権確立」に終始するかに見えるのは、先進国・宗主国に生きる者の思考・信条・感性に欠落(個人の責任ではなく、文字通り《意識は状況によって決定される》というドグマの通りに)している視座ゆえかもしれない。
逆に、被支配少数者、独立・自己決定権確立を希う者は問うだろう、「では聞く!貴方の社会変革論の、あるいは左翼政党の、どの頁に、我らの《自己決定権確立》が主要なテエマとして記載されていると言うのだ?」と。それは、すぐれて当事者たる我らの課題だ。「イデオロギーよりもアイデンティティ」と言うのは、まさにそこなのだ、と。革命によって変革されることは全体の「部分」なのだ、と。ニワトリが先か?玉子が先か?、ではなく、元々ニワトリ・玉子の体系・文脈では及ばない人間社会に巣食う「業」なのだ、と。