Archive for the ‘アジール 空堀’ Category
アジール空堀 『ナオユキ 春のワンマンショー』
「アジール空堀」3月29日(金)18:30~ 於:ビストロギャロ
『ナオユキ 春のワンマンショー』参加者20名様
ナオユキの話に登場する人物の、可笑しさ・哀しさ・落ちこぼれ振りは何故こうもワシらに響くのだろう?
公演後、遠方の参加者たちが家路に就いた後も残ってくれた彼の言葉にヒントがあった。
ぐでんグデンの酔っ払いオヤジの自業自得(?)の蹉跌も、トンデモ姉さんの失恋譚も、どうしようもない逆恨み(?)なのだが、憎めなくもあり観客自身が身に覚えのある情感だ。それは結局 首の革一枚で人生にしがみ付く「弱者」「落伍者」「勘違い者」の、明日はいざ知らず「あさって」にはリベンジするかもしれない「可能性」信仰(?)であり、彼らへの「共感」と「応援」なのだ。ナオユキさんはそこをこう言ったのだ、「希望なんです」と、「登場人物に救われて来てボクがある」と。自身を省視する者の言だ。…
断言する。ナオユキ話芸は、権威・支配・統治・・・権力性の対極に在る。
その支持者は、間違っても安倍派でも大国主義者でも改竄派でも忖度派でもあろうはずがない!
ナオユキ最高です。「アジール空堀」の盟友だぁ。
(画像:ライブ風景、またド忘れして半数が帰ってから撮った集合写真)
アジール空堀 「春を待つケルト音楽の夕べ』
2月2日(土)16:30開場 17:00開演 於:ビストロ ギャロ
『春を待つケルト音楽の夕べ』
参加25名様。
高野陽子さんの澄み切った声質とアイリッシュ楽器が心地よく、それがケルトの心なのかと痛覚した。当方ケルトを知らないのだが、文字を持たなかったと言われるケルトの文化継承の方法論に興味が湧き(アイヌしかり)。それだけ「人~人」の繋がりや共同性への、関係の儚なさへの、濃い想いや悲哀が在っただろうと・・・。…
ケルト風メニュウと要請された店が、資料も無いなかアイリッシュ・シチュウなどで「風」を出してくれたが、まぁ美味しかったです。
高野さんが用意した各地に残るケルト遺跡のスライドに大いに惹かれ「ケルトを知りたい」と思った夜でした。
狭く窮屈な会場、硬い椅子、マイク不調・・・ご参加のみなさんスミマセン。陽子さんのナマ美声(かえって良かった)に免じて許して!
画像:
ラストまで残った面々・高野さん演奏+歌唱風景+スライド映写・懇親食事会・名残り尽きない店頭前(ン年振りの元上司さんとか)
アジール空堀 2019年1月14日 原一男『全身小説家』上映+講演
作品に登場する女性たちの井上光晴評も、「嘘つきみっちゃん」像も、「私こそが一番*されていた」という自負も、誰にでも似たような巧言を吐いていたんでしょという疑念も、ワシはある人物を思い出して、井上の天性のサービス精神・トレーナー根性の表れだと思えた。
エディ・タウンゼントという…ボクシング・トレーナーをご記憶か?
藤猛・カシアス内藤・海老原博幸・柴田国明・ガッツ石松・村田英治郎・赤井英和・友利正・井岡弘樹など世界チャンピオンや国内有名選手を手掛けた、伝説の名トレーナーだ。
鉄拳と竹刀に代表される日本的スポーツ指導に異を唱え、最初に来たリキジムで身を挺して根性論否定の指導法を認めさせた。日本のボクシングジムでは当たり前だった指導用の竹刀をジム内で見つけた時、「アレ捨ててよ。アレあったら僕教えないよ! 牛や馬みたいに叩かなくてもいいの! 言いたいこと言えば分かるんだよ!?」と発言したという。
誰よりも早くタオルを投げ入れるトレーナーと言われたのは、誰よりも諦めが早いからではなく「誰よりも選手の将来を諦めなったからだ」と言われている。「ハートのラブ」で選手を育成した。
ボクシング界を変えたとも言われる存在だ。
彼が育てた名だたる有名選手に「エディに最も愛されたボクサーは誰か?」と問えば、全員が揃って「もちろん僕こそが最も愛されたボクサーだ!」と答えるという。
皆にそう言わせるのは容易なことではないだろう。エディの言葉と行動が「誰よりも俺を理解し・俺の分身であり・俺の不遇/失意の時も俺に寄り添ってくれた」と相手に想わせる濃さと誠実に満ちていた証左だろう。
【エディの略歴】
弁護士であるアイルランド系アメリカ人の父と、山口県出身の日本人の母との間に、ハワイで生まれる。3歳の頃に母は病死してしまう。11歳からボクシングを始め、12勝無敗のハードパンチャーとして活躍。1932年にハワイのアマチュア・フェザー級チャンピオンになったが、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の前日に初めて敗北を喫した。戦争開始にともないジムが閉鎖されたこともあり、現役を引退し指導者に転身する。
1962年、力道山に招請されて来日。力道山が「日本からヘビー級のボクサーを」と創設したリキジムでトレーナーを務めるが、63年に力道山が暴漢に刺されて急死してしまい、その後は田辺ジム・船橋ジム・米倉ジム・金子ジムなど各ジムから招聘を受け、選手の育成指導を行い結果を出した。
ある時、ハワイ時代から旧知の仲だった日系三世のポール・タケシ・藤井(リングネーム:藤猛)が偶然訪れ、1967年に世界チャンピオンへと導いたことで注目される存在となる。以降、6人の世界チャンピオンと赤井英和、カシアス内藤らの名ボクサーを育てる。
【エディが遺した名言】
「勝った時は会長がリングで抱くの。負けたときは僕が抱くの。」
「試合に負けた時、本当の友達が分かります」
原一男『映画監督 浦山桐郎の肖像』『全身小説家』のもうひとつのテエマは「母」だ。
浦山は自分を産んで直後に他界した生母への尽きない「思慕」と、継母(生母の妹)への疑似「恋情」とその精神的根拠地を、作品と女性主人公像を通して繰り返し語ったように思う。
『全身小説家』では井上光晴の幼児期・少年期の虚経歴=生地・父の失踪蒸発・母の出奔・朝鮮人美少女との悲恋譚などから、実は離婚して他で再婚していた「母」への愛憎が、ワシは最も気になっている。
その井上への女性たちの反応から、選手に「僕こそが最も愛されたボクサーだ」と言わせた名トレーナー:エディ・タウンゼントを思い出したのだが、偶然か必然かエディは3歳で実母を亡くしている。
浦山-井上-エディ-原映画・・・を勝手に結びつけるのは、映画ファンの特権か・・・。
原+小林佐智子の上記ふたつの作品は、浦山桐郎にとって井上光晴にとって、「僕こそが最も愛されたボクサーだ」と言わせ得るような浦山愛・井上愛に満ちた名トレーナー振りだったのではないか?
対象への迫り方の、作り手側がある痛手を負うほどの覚悟を感じる比類なき密度は、個人を追うノンフィクションのひとつの姿を示してくれた。
アジール空堀 2018年忘年会
12月21日(金)『パギやん漫談ライブ パギ一代記』& 忘年懇親食事会
於:谷六 隆祥館書店多目的ホール & 空堀ビストロギャロ
【ライブ】
小学校期・中学高校期の悲哀と武勇伝(?)の一部を聞かせてもらった。ワシに刺さったのは、三人のバアちゃんという「家族」構成にへばり付く在日家族の物語だ。一家を挙げた共助の労苦と家族関係の「濃さ」は、それだけ在日家族が背負わねばならなかった社会的保障と市民権の「薄さ」の反映だ。そうやって生き抜いた家族の物語から、ワシはふと山田洋次が『家族』『故郷』『遥かなる山の呼び声』(通称「民子三部作」)や『息子』などで、そして是枝裕和が『そして父になる』『海街diary』『万引き家族』で繰り返し探しあぐねた、家族ということの血縁・家族・夫婦・親子の住民票的単位を超えた核心とは何なのか?という命題を想った。
山田が崩れゆく現代の家族を再構想するときその核は「民子」なのだと見当を付け、是枝の家族観が『海街』の三姉妹にとっての他者広瀬すずや『万引き家族』の松岡茉優に仮託する思念を是としながら、釈然としないのだった。…
「民子」-山田にとっての頼みの綱の-以降の民子不在が、物語に重しとワシの腑に落ちる展望を与えてくれないのは、是枝の家族構想と主人公人物に臓に響く「醜さ」「邪心」「憎しみ」が見えないのは、何故なのかと感じて来た。 実際、民子が居ないその後の山田映画は衰えて観え、芯が失せたようで、コクのある銘店コーヒーとチェーン店コーヒーほどの落差があるとさえ思える。
それはたぶん家族が共有する社会的受難とそれとの闘いの欠落、言い換えれば今日的家族がひたすら「国家構成員としての正社員」と化して私的に生き、「非正規的」国民としての共同性に立つことのない時間に居るからではないか? 山田の民子はそこを半ば切開しかつ家族に活路を示した。
パギの話に控えめに登場したパギの母親、彼女がパギ一家の「民子」だったに違いないと勝手に想像して、次回以降の「一代記続編」に期待することとした。
【忘年会】
ギャロの在る空堀界隈に事務所を構える「ちんどん通信社:東西屋」の林幸治郎さんに、パギ漫談ライブの後の忘年会に「スペシャルゲスト」でちょこっと出てもらえませんか?と依頼した。「パギさんのなら喜んで」・・・、で登場となった。幸いパギの方も旧知の間柄で「いや~嬉しい」となり、当夜は「飛び入りゲスト」の出し物に乗ったパギやんが逆「飛び入り」というオマケ付となった。
参加者も大ノリで、環状線の大合唱。
歌い手他多芸な芸人にして著述家:趙博と学士ちんどん屋として全国に名を馳せる林幸治郎のコラボは「河原乞食」の王道を示して、まことに「アジール」に相応しいライブ第二弾となった。
参加者・演者・会場「隆祥館」・店「ギャロ」・主催者、五方善しのスペシャルな夜だった。
パギやん、林幸治郎さん、ジャ―ジ川口さん、ご参加者各位。ありがとうございました!
アジール空堀 趙博:声体文藝館『水滴』
11月18日(日)15:30~ 於:谷六「隆祥館書店8F多目的ホール」
定員45席に49名様の満席。
主人公:徳正(とくしょう)の右足から滴り落ちる「水」は何なのか?
怒り・恨み・絶望・悲しみ・悔い・失意・私心・・・・その総てのようだ。沖縄の戦争とその後を生きた当事者が、言葉でも現象でも晴らすこと叶わず滴らせた、云わば「痛み」の分泌液か。
水滴が織りなす奇想天外が、沖縄戦の歴史と沖縄の「今」を、コミカルに、シニカルに、そしてラディカルに、物語る・・・。
「赦してとらせよ、イシミネ・・・」が抱え持つ、沖縄・戦争・ヤマト・戦後・擬制の繁栄・現在・・・への怒りと哀しみと悔恨・・・その重量を感じさせてくれた。
パギ版『水滴』はさらに深化・進化を遂げるだろう。
アジール空堀:『ゆきゆきて 神軍』上映会+原一男監督講演会
【「ゆきゆきて 神軍」上映と、原一男監督講演】9月17日 13:00~
谷六「小劇場 ほっとすてんしょん」参加者:35名
楽しくスリリングな集いでしたね。
昔観た際は、「ゆきゆきてブーム」「奥崎礼賛」の洪水下での「他の観客」への違和感を抱いていた。想えば、思い上がった感情だったか。…
齢(70歳です)相応に相対化されてか、講演での原さんの懐の深さに救われてか、その感情が随分薄まったのを自覚できました。
当時の他の観客への思い上がった感情というのは、概ね下記の二点のようなことでした。
①
「大きな暴力」に対する暴力的抵抗の正当性を力み返って主張している君、
ワシも君とこころを同じくするものだ。ほぼ異存はない。
が、暴力の重量と自己嫌悪を理解することのない軽さの文脈で語って欲しくないのだ。
理不尽な暴虐への、弱者の抵抗権としての反撃の暴力を認めつつ、暴力を超えたいと希うワシです。奥崎氏にもそれを観たのです。
暴力、ワシにとってそれは永遠の未解決事項だ。
軽々しく礼賛されては辛い・・・そんな想いだった。
②
奥崎氏に糾弾される側の者たちを、卑劣漢・上からの言いなり野郎として自分とは無縁な者たちだと断じて、ハイ終了という視角に違和感があった。
彼らを「戦争の被害者」だとして一斉救済する気などは一切ないのだが、父・叔父つまり自身の肉親であったとしても不思議ではない者たちだ。自分であるかもしれない。
「視た・体験した」事実を伝えるべきだ、と強く想う。それが責任だとも思う。だが、
君は、職場で・部活で・居住域で・組織/団体で・党その他で
上や周りや慣例や空気に抗って人権を巡る自説を通そうと試みたことがあるか?あるいは為したことがあるか?
他者をその属性でステレオタイプに評価し、自身の帰属を求めて彷徨する精神に生き、帰属する組織/団体への属性を決して捨てることなく、指示・命令に抗うことのない時間。
そして奥崎氏の元上官の中に自身を観ることの無い文脈で奥崎氏の上官を語るな!そう想った。
ところでお前はそうして来たか?しているのか?と問われれば、ワシはもちろんその自信はないのだ。
『ゆきゆきて 神軍』はその意味で「しんどい」映画だったが、原監督の講演は、そうしたテエマに立往生するワシらをユーモアを交えて解きほぐしてくれた。そして一夜明けてジワリ迫って来るものの正体から逃げられない。
「アジール空堀」原一男監督を招いて・・・上映会と講演
先日投稿した件の続編。 木曜日19日原一男監督にお会いし、「アジール空堀」9月企画の打ち合わせをしました。
作品上映とご講演を組みますので長丁場・・・やはり土日かなと。
原さんは、毎週火曜日に大阪入り、水曜日木曜日が大阪芸大の講義(原さんは大阪芸大の客員教授)、木曜夜帰京だそうです。で、9月17日(月)がたまたま休日なので、普段の前日来阪し「アジール空堀」をやり切る・翌火曜日からいつも通りにする、でどうだろうとご提案くれました。
9月17日(月・休日)昼一からかな・・・。
上映作品を『ゆきゆきて 神軍』にするか『全身小説家』にするか迷ってます。ワシは「嘘つきみっちゃん」(埴谷雄高氏らがそう言っていた)と言われた井上光晴を通した「作家にとって真実とは何か?」に引き込まれたのだが・・・…
「アジール空堀」メンバーで思案します。原さんは「いずれでもいいですよ」だった。
別れ際に「お互い{敬老の日}に救われましたな」と言ったものの、ワシより2歳年長とは思えない身のこなしの原さんは、若くて敬老には不似合いだった。
上映作品・会場など早急に決定して告知します。
みなさま、是非 来てね!
日程確保して下さい。お申込みお待ちします。(ウッカリ忘れ厳禁)
発起人さん・賛同者さん、シェアさせていただきました。ご了解下さい。
ありがとうございます。
「アジール空堀」:2018年6月 ふたりのシュンちゃん『<憲法の空白>を撃つ』
6月24日(日) 14:00~ 於:谷町六丁目小劇場「ほっとすてんしょん」
仲岡しゅん・三浦俊一ダブル講演会
ふたりのシュンちゃん『<憲法の空白>を撃つ』
講演会参加者:22名 懇親食事会参加者:14名
6月・・・。
1945年6月23日「沖縄慰霊の日」=組織的地上戦が終了した日とされる。
1960年6月15日60年安保闘争、国会突入デモで東大生樺美智子さんが虐殺された。
去る6月18日、茨木市に住むワシは大阪北部地震に遭遇した。予告なしの突然地の底から突き上げるような、直下型地震を初めて体験して、家屋・家財にいささかの被害を蒙った。
原発事故・戦争・シリアやパレスチナの事態を想った。
この地震の衝撃の億倍の暴虐と悲惨の常態化が戦争だ。
ふたりのシュンちゃんの講演会場に向かった。
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三浦俊一さんは、ふた駅離れた四天王寺前の天王寺区民センターでの白井聡さんとの『9条改憲を阻止しよう講演集会』同時刻登壇がある中、時間配分をこなし往復された。
ままあるこの時期のブッキングだ。「アジール空堀」で、「もうひとつの憲法の空白」(後述)を存分に語られ、3時過ぎに四天王寺に向かわれ、アジ演説(本人談)を力強く数百人の参加者に語り、4時半過ぎに「ほっとすてんしょん」に戻られた。
早い時期の設定で講演者日程・会場都合・告知済みなどから変更できず、三浦さんにはご苦労をお掛けした。また、白井講演+デモのみなさんに、もしご迷惑をお掛けしたのなら、この場をお借りしてお詫びします。どうか、ご理解下さい。
【三浦俊一:「もうひとつの<憲法の空白>」】
9条を支点にした、1~8条の天皇条項すなわち「国体護持」と10条以降すなわち「擬制民主主義」、「国体護持と民主主義」という相容れぬはずのもののアクロバット天秤が現憲法だ。国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を三原則にしていると喧伝される憲法によって差配される戦後レジームは、一度も確認されたことの無い「国民の総意」に基づく象徴を戴き、どこにも記載れていない「国民主権」に基づき、「基本的人権」が保障されていることにして、非戦主義ではない「平和主義」を信じて来た。
多くの空白を抱えて当然だが、最底辺{釜}~「植民地」の片隅:辺野古に身を置けば、その空白が日常的に襲いかかかって来るのが見える。加えて憲法否定が「新法」の名で施行され、閣議決定という超法規で空白だらけの憲法さえ否定されている。
沖縄の自己決定権を想えば、自ずと戦後日本の自己決定権が問われるのだ。
「もうひとつの憲法の空白」とは、特高警察など旧内務省系列の組織の公安警察への横すべだ。軍に戦争犯罪人として問責・処罰の対象となった者がいるが、内務省・特高の関係者には一人もいなかった。人的にも・組織的にもシステムとして引き継がれたのだ。まさに「国体」は護持されたのだ。731部隊は有名だが、医者・科学者・理系技術者もほとんど同様だ。
戦後は、そうやってスタートして現在にいたっている。
ワシは2015年11月南御堂会館での元東大全共闘議長:山本義隆氏の講演『理工系にとっての戦争』
を思い出していた。
『戦後、文学や芸術や映画作家の戦争責任が問われたが、理工系学者技術者の責任が問われた例をほとんど知らない。理工系こそ戦争に直接かかわっているのに、である。ここには、科学や技術の超思想性・中立性という幻想を悪用した国家イニシアティブによる「思想性」と、「学」の側の「科学技術の発展はプラス・マイナスを超えた絶対値的価値なのだ」という科学技術「信仰」が在る。ここを崩さない限り、「科学技術」根本DNAへの異論たり得ない。』
三浦氏の講演はそことも重なって迫って来る。「9条を守れ」に集約されがちな「護憲運動」に「空白」なきことの方法論が見えず語れず苦しいところだ。
【仲岡しゅん:「LGB T」と書き「LGB」と「T」の間を空ける意味】
「L」レズビアン=女性同性愛者、「G」ゲイ=男性同性愛者、「B」バイセクシャル=両性愛者は、対人的(対他的)な問題であり、「T」=トランスジェンダーは性的越境者と規定され、生まれ持った性とは異なる性で生きる者のことだ。対人的(対他的)な性的指向ではなく、「性自認」をめぐる自己規定の云わば分類だ。
「LGB T」以外にも、その他多く様々のセクシャル・マイノリティの在り方がある。そのことによって、被差別的・被抑圧的な少数者に閉じ込められるとしたら、そこに「基本的人権」の空白がある。憲法24条は『婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。』と言うが、戸籍上の性別を絶対条件としてしていると読む人びともいる。同性婚を否定する根拠とする論は、そもそも「基本的人権の尊重」の否定ではないのか?
性差別の根っこにあるのも「男女という制度」。
性的自認の獲得、性別それ自体の自己決定権を・・・。