Archive for the ‘ぼやき つぶやき 駄エッセイ ’ Category
つぶやき:ヨーロッパには民衆蜂起の記憶があるが、日本には・・・と言うけれど
パリ・コミューン1871年は明治4年だが、明治3年という年に、引っ掛かるような感覚の記憶があった。 故・脇田憲一さんが最期まで語っておられた、ご郷里=小藩:宇和島藩の一揆、それが明治3年だったと思い出した。 脇田さんには、ぼくが関与した勤務先の組合潰し偽装破産と職場バリケード占拠闘争・その中での自主管理運営、それへのご助言、 駄小説執筆に際しての実際のご体験の述懐、資料提供や逸話のご紹介・・・、多くの場面でお世話になった。 (脇田憲一著作の書評: http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re37.html#37-2 )
脇田さんは、1870年(明治3年)4月~の宇和島藩の「野村騒動」「三間騒動」など一連の維新後の全藩的一揆は、 打毀しから「庄屋征伐」と呼ばれる蜂起に至る、自由民権運動とも連動する世直し運動であり 「これは宇和島コミューンである」と言い続けておられ、 「宇和島コミューン」に、現代左翼の混迷を解くヒントや再生の可能性を見定めておられた。
明治初期にはまだ産業社会は始まったばかり、農民は85%前後(ちなみに江戸末期の武士比率は約7%)だった。 工場労働者ではないし、プロレタリアという括りには無理があるが、八割を超える農民が封建国家の財政と一割以下の武士の「食」を支える生産者層であったことは間違いない。何が「侍ジャパン」だ! 宇和島藩の世直し運動は、貧農小作だけでなく富農・庄屋層・元武士・新政府県官吏や調停に奔走した初期自由民権派インテリまでを糾合する陣形で闘われ、一時新政府県令に要求項目を呑ませ休戦協定を結び、自治が始まる手前まで行ったという。やがて、廃藩置県で全国に配置された新知事の協定破棄の騙まし討ちと武力を伴う強権的指揮に敗北を余儀なくされる。
脇田さんは言っていた。宇和島コミューンは、現代で言う、生産労働現場・消費や居住の生活現場・生活困窮者の自立・地方自治や地域課題への市民運動などを、守備範囲に抱えていたぞ。今日、例えば労働運動は、何故「非正規雇用者の問題を我が事とできないのか」、勤務先の事情に縛られてか電力産業からの真綿の支配が強大なのか、大企業労組は何故「反原発を打ち出せないのか?」と問うておられた。 http://blog.goo.ne.jp/hama8823/e/68d203c92ddcdeb5635d6f255abb17c5 脇田さんは、職場の利害から出られない(出ようとしない)労働運動、自身の働き方や労働の影響結果(例えば公害・農薬漬け・騒音・道路公害など)を質せない(質さない)住民運動、自らもまた生産者であることを忘れ、時に消費者エゴに終始しがちな複眼を失った生協とその組合員・・・・、 これら互いが互いを問い合う(気付きあう)緊張関係を内に抱えもって融合する思想と行動が、自治・自営・共助のコミューン思想だと語られ、 地域のコミュニティ・ユニオンなどといっしょになって「トータル・ユニオン」を提唱され結成された。 脇田さんは、故郷宇和島の明治初期の一揆に在った叛乱と自治・コミューン思想に現代への教訓を求め続け、最後の十数年 ライフ・ワーク「宇和島コミューン評伝」の調査・執筆に没頭され、その完結に至ることなく2010年11月他界された。ご無念だったと思う。合掌!
明治維新に対して「自由民権一揆」という歴史的位置・・・。ならば今、あの「維新」に対して、どんな位置取りを作り始めるのか・・・ぼくらは。
明治初期の民衆運動、明治に入ってからの一揆・世直し運動(http://www004.upp.so-net.ne.jp/pre_toke/religion/nenpyo/chronological_table.htm)の多くが旧・武士階級:不満士族の反新政府行動に誘発されたという見解に、強い異論を語られたのだがその時の言い回しを憶えている。 『そういう見解は、パリ・コミューンは、対独講和反対や反独ナショナリズムや パリ恋しの愛国思想によって成り立っていたと言うのと同じです。 市民の側の主体性を見たくない者の偏見に満ちた言い分です。 中国革命のヘソは満州族「清」王朝に対する漢民族の反「清」民族主義だとか、 60年安保闘争は戦勝国アメリカ憎しの反米ナショナリズムによってあんなに盛り上がったとだけ繰り返す、 叛乱する民の心を知らない者の発想です。確かに、叛乱の時期というのは、主体の側で制御し通せるなら ナショナリズムが叛乱にとって援軍でもある、と相場が決まっていたのも事実やね。けれど、それらは一要素であって核心ではない』 民族主義やナショナリズムとは切れていただろう、農民層の反政府蜂起の例として、「秩父困民党」の闘争を想い出す。
【追記】 1884年(明治17年)、 11月1日~11月9日、自由民権運動影響下の 秩父困民党による農民層の対明治政府武装蜂起(いわゆる「秩父事件」)。 この事件を知った高校生期、「秩父コンミュン党」とダジャレってた。 http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id320687/ http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E5%9B%B0%E6%B0%91%E5%85%9A%E7%BE%A4%E5%83%8F-%E4%BA%95%E5%87%BA-%E5%AD%AB%E5%85%AD/dp/4404032420 http://www.youtube.com/watch?v=RRx8EBp6eMk http://books.google.co.jp/books/about/%E5%BE%8B%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%A9_%E4%BB%81%E4%BF%A0%E8%80%85.html?id=G5gyAQAAIAAJ&redir_esc=y http://books.google.co.jp/books?id=rKrTAAAAMAAJ&hl=ja&source=gbs_book_similarbooks
歌遊泳: 市民シャンソン講座から 1871年5月パリ・ロワール通のバリケードへ
尖閣・竹島とシャンソンそしてパリコミューン
市民シャンソン講座の発表会に親しい知人が出ると聞き、市のホールへ出かけた。それがキッカケとなって、YouTube などでシャンソンを聴くこと多いこの頃。
シャンソンは、ごく私的な愛の物語を唄う時も、『その輝き・蹉跌・再生は、「時代」が抱えることになるだろう社会的「失意・栄光・憤怒・希望」(公的記憶=パブリック・メモリー)と共振しているんだよ』とつぶやいている。
その上で、『それは何処にも誰にも譲れない、私だけの、個的な尊厳に関わる事柄なのさ』とささやいてもいる。
シャンソン。それは、道理と憲法に反する職員条例を強行して恥じない精神になど、決して宿らない種類の文化なのだ。
『さくらんぼの実る頃』はパリ・コミューン(1871年)の、『美しき五月のパリ』はその約100年後:1968年パリ五月の、その渦中に生まれた。
『サン・トワ・マミー』『雪が降る』『ろくでなし』で有名なサルヴァトール・アダモはシチリア生まれのベルギー籍で、自作の歌を多言語で唄っている。
『時は過ぎてゆく』の作・歌唱のジョルジュ・ムスタキはギリシャ系ユダヤ人である両親の亡命先エジプトで生まれ、17歳でパリへ来て、そして、永い歳月を経て、「在仏地中海人」と自称するアイデンティティに辿り着いた。
これらの歌は国境や民族を越えたい者共通の財産なのだ。
『さくらんぼの実る頃』 イヴ・モンタン
http://www.youtube.com/watch?v=ncs4WlWfIZo
『美しき五月のパリ』 加藤登紀子
http://www.youtube.com/watch?v=m-9vdTyuUj0
『ろくでなし』(原題は「不良少年」) サルヴァトール・アダモ
http://www.youtube.com/watch?v=BM_2igjbxjc&feature=related
『時は過ぎてゆく』 金子由香利
https://www.youtube.com/watch?v=zHCDzGHBz5Q
『さくらんぼの実る頃』はジブリ映画『紅の豚』で知った加藤登紀子さんの歌唱を含めて、それぞれに味がある。その中でぼくはナナ・ムスクーリさんが唄っている版が大好きなのだが、その理由はこうだ。イントロからラストまで流れるギリシャ風・エーゲ海風アレンジ旋律の伴奏と、彼女の澄み切ってピュアな声質によって、パリ・コミューンの精神が蒼い地中海と全ヨーロッパの空を貫いて鮮やかに響き渡っているような気分にさせてくれ、この曲と歌詞が捧げられたという、パリ・コミューンの渦中に散った若い看護助士ルイーズの物語を思い起こすからだ。
http://www.youtube.com/watch?v=jycvRlQI_hw
パリ・コミューン:1871年3月18日~同年5月28日、市民の蜂起によりパリに実現した自主管理政府。「普仏戦争」(1870、7~1871、2)とは、やがてドイツを統一するプロイセンとフランスの戦争だ。開戦直後たちまち敗色濃厚となったフランスはナポレオン3世自身が捕虜となり退位、9月4日臨時国防政府を設け第三共和制の成立を宣言し戦争続行。
が、ビスマルクによって完成された統一ドイツの圧倒的軍事力の前に形勢変わらず、70年末~71年明けにかけてパリはプロイセン軍によって完全包囲された。市内は飢餓状態的食糧不足に陥る。71年1月28日、国防政府はプロイセンに対して正式に降伏する。
2月、ティエールを首班とする、降伏後の和平交渉を担う臨時政府が誕生、ボルドーに国民議会を召集した。フランス有数の鉱物資源宝庫=アルザス・ロレーヌ地方の割譲などの交渉経過に、多大な犠牲を払ってパリを防衛したパリ市民は降伏を認めず、3月18日市内各所で蜂起した。市庁舎を占拠し、18日夜にはパリ市民による自治政府:パリ・コミューンが誕生する。
ヴェルサイユに本拠を移し構えるティエール政権は5月に入るとドイツの支援を得て、中旬には、コミューン内の内紛情報も得て、パリ総攻撃へ向け最終準備に入った。パリ市民は総出で各主要道路にバリケードを築き「来たるべき日」に備えた。5月中旬サクランボの季節、籠いっぱいの実を抱えてロワール通りのバリケードにやって来た二十歳の看護助士ルイーズ。彼女は言った。「わたしにも、できることがあるはず・・・」。 数日後、コミューン軍最前線の「野戦病院」に彼女は居た。
5月21日、国民議会派軍がパリ市内入城。市内各地で壮絶な戦闘が始まった。コミューン軍は善戦したが、5月28日のペール・ラシェ-ズ墓地の戦闘を最後に力尽きる。 多くのパリ市民とコミューン関係者が虐殺され(通説:3万人)、セーヌ川の水が赤く染まったと伝えられている。 逮捕者4万人、内処刑多数(300~10,000、諸説あるが四桁だとされている)。 1871年3月18日から5月28日まで、歴史上初の労働者・市民による自主管理政府=自由社会主義パリ・コミューン72日間の短くも濃い命、その死とともに逝ったルイーズ。彼女は、パリ・コミューンの記憶とともに、『さくらんぼの実る頃』の歌の中に、伝説となって今も生きている。
コミューン評議会内部の対立と混乱は、コミューンを維持する方法論(多数派=人民独裁論派VS少数派=多様勢力との連立論派)を巡る現在も続く古くてお馴染みの「未完の論争」だが、それはさて置き今は、間違いなく現代社会へ受け継がれた財産と言うべき、コミューンの混乱の中から発せられた政策の数々に、パリの人々が血で贖って得た「近代の智恵」をこそ見たい。
コミューン、それは選挙権・被選挙権・言論/結社の自由等の剥奪の上に、**主義を標榜する「塔」によって上から築かれた政府ではない。
パリ・コミューンの遺産=「婦人参政権」「無償義務教育」「児童夜間労働禁止」「政教分離」「主要公職公選制」など
BobbejaanSchoepen(ぼくには読めません)というベルギー籍の歌手、2008年83歳での収録歌唱。味わい深い。こういうジイサンになりたい!
http://www.youtube.com/watch?v=B8VQnDxY8Yw&feature=BFa&list=PL0C216C92913B3BC1
つぶやき: 尖閣・竹島を考える ②明治‐平成、二人の国民作家。中・朝への眼差し
月刊誌・週刊誌が『どうすれば勝てるか、日中文明の衝突』(月刊文芸春秋)、『中国よ、日本が勝つ』(週刊現代)、 『中国5万人スパイ軍団、日本壊滅マル秘作戦』(週刊大衆)、と吠えれば、 夕刊紙が『尖閣戦、中国軍一週間で壊滅』『尖閣奪還作戦、自衛隊24時間で制圧』(いずれも夕刊フジ)と煽る。
2003年、イラク戦争。 「フセインが大量破壊兵器を持っている確かな証拠を、アメリカから示された」と語った首相小泉が、「その証拠とは何か?」と問われ 「それは軍事機密なので言えない」と答え、イラク戦争支援を打ち出した。党首討論では 「フセイン大統領が見つかっていないから、大統領は存在しなかったといえるか」 という小学生以下の詭弁さえも堂々と披瀝したのである。 http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Japanmilitarism/stop_iraq_bill2.htm 報道各紙・各誌は追随し、政府調達機に乗り込み「イラク取材」と称する物見遊山を決め込み、戦闘地域ではない後方キャンプから「現地報道」と称する「官製情報」の垂れ流しを繰り返した。、当のアメリカでさえ、大量破壊兵器云々のブッシュ・チェイニー・ラムズフェルド「ならず者」三巨頭の「言い分」がデッチ上げだったことが、コリン・パウエル元国務長官の「人生最大の恥」とのコメントまで付けた「誤情報告白」などもあって、今や「常識」となっているというのに・・・。日本の紙・誌は自らの不明を恥じて「官製情報垂れ流し」を検証したか?あるいは当時の為政者の「虚言」を問い直し、その壮大な「虚構」に切り込んで来たか?
先日来の、森口なにがしのIPS細胞の世界初の移植手術ネタに踊った報道は、東大・東大病院などの森口が演出する構図に在る「権威」に平れ伏し、検証を怠った結果だと他の大新聞が言う。 フセインの大量破壊兵器、小泉のウソ・・・、その片棒を担いだ構図を「怠った」とは言わない。「怠った」? 厚かましい。「怠った」というのは、意欲や意志はあり、方向は確保していたが、斯く斯くの理由で図らずも検証作業を果たせなかった、つい怠った・・・無念。そういう場合に用いる言葉だ。君たちに使って欲しくない。 イラク報道・森口報道・・・それは「官製情報」と「権威」の前で何の疑問もなく、だから「取材内容」を垂れ流し、情報発信者の側に立ってその「代弁」をするしか能のない、君たちの本性を示す出来事だ。 そういう報道者が、今、いっせいに冒頭のような報道を繰り返しているのだ。見ておこう。こうやってマスコミは「戦前」を誘導し、「開戦」を推進し、「戦争」を報道し、「銃後」を作るのだ。
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漱石は、日露戦争(1904年2月~1905年5月)の正にその同時期に、つまり国威発揚・好戦気分・イケイケ報道の真っ最中に、連載著作でこう言っている。 『大和魂!大和魂!と新聞屋が云う。大和魂!と掏摸(すり)が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂を演説する。独逸で大和魂の芝居をする。東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有っている。大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた。三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらしている。 誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か』(「吾輩は猫である」) 『吾輩は猫である』は日露戦争の只中と直後、戦勝祝賀の提灯行列・ポーツマス講和への「軟弱外交」抗議・「極東ロシア領土の一部を奪うまで止めるな」世論・日比谷焼打ち事件・・・・そうした世情の中、1905年1月から翌年8月まで連載された。
漱石は1900年(明治33年)9月~1903年(同36年)1月の間、文部省から英語学研究(悩ましくも「英文学研究」ではない)という命を受け英国留学している。官費留学であった。研究内容への違和感、会話力のハンディ、アジア人差別(漱石は一際小柄だった)などに悩み、知られている通り失意と衰弱の日々を送った。 漱石が、西欧近代を見せ付けられ圧倒されながら、自己を支えるに大和魂・武士道・天皇・神道を持ち出して対抗するのではなく、『西欧を貪欲に学びつつ、しかも十九世紀風の西欧本位の見方にとらわれず、また国粋主義に陥らず、自分たちが進むべき路を、その文筆活動によって示そうとした』(平川祐弘『内と外からの夏目漱石』、河出書房新社)ことはその後の文筆活動に明らかだ。 ところで、自分たち=すなわち明治以降の日本・日本人=が進むべき路、漱石が構想し願望する近代国家とは、どういうことだったのか。西欧近代を師としながら、その模倣ではない路。西欧近代が、20世紀現代に至り帝国主義的拡張合戦に終始する姿を目撃しながら、そうではないもう一つの近代国家というか、西欧近代とは違う明治日本を構想していたのだろうが、富国強兵・殖産興業という国策、日清・日露の戦争は、それ(もう一つの近代国家)と相容れるものではなく、大逆事件・日韓併合(1910年)が「漱石構想の無理」の最後の結論を刻印するのだった。 『村上春樹と夏目漱石 -二人の国民作家が描いた《日本》- 』(柴田勝二著、祥伝社新書)は、漱石にとってあるべき明治とは、国家として西欧列強と拮抗し得る国力を備えても、戦争と侵略による国家の拡張という路を歩まない国、個人として「自由と独立と己れとに充ちた」(『こころ』)近代的自我を人々が獲得しても、福澤諭吉が「一身独立して一国独立す」(『学問のすゝめ』)に込めた「西欧列強の学問である『実学』を吸収して国力を増強し対峙する」為の近代の功利主義的な(「奪亜入欧も辞さぬ」康麿記)学問ではなく、「自由と独立と己れ」の確立を求める学びの路、それであったと論じている。
1905年、第二次日韓条約により韓国は日本の仲介なしには他国と条約を結べなくなり、つまり外交権を剥奪され、伊藤博文が総監に就任し「保護国」化する。1907年、第三次日韓条約では外交・内政にわたって韓国の自律性は奪い取られる。1908年には、日本は併合指針を決定し、韓国の司法に関する覚書の調印があり、韓国の主体的な法権は剥奪される。1910年、西欧列強の同意を取り付け、国際的に韓国併合を遂げた。 なお、日本政府が閣議において正式に竹島と命名し、島根県隠岐島司の所轄とする旨決定し、島根県知事名で告示第40号をもって公示し島根県に編入したのは、韓国併合へ向かう途上の1905年1月~2月のことであった。当時韓国は何の抗議もしなかったというが、当時のドサクサ情勢からして故あるところではある。 『こころ』執筆は1914年4月~8月「朝日新聞」への連載で、第一次世界大戦直前の時期だ。大正(1912~)に入った日本は、戦争と侵略による国家の拡張という明治以来の「物語」を続け、「もう一つの近代国家」への路を採らなかった。前述の柴田によれば、『こころ』の奇妙な人物設定(例えば、先生が他人である私に遺書を託す、など)や先生の自死は、執筆前10年への漱石の思想だという。友人Kを出し抜き、策を弄して「お嬢さん」を奪い取った先生の後年の自死は、明治天皇の崩御・乃木希典の殉死・明治の精神に照らした自己処罰などと言われてきたが、どうも腑に落ちないと言う。「明治」であり漱石の分身でもある先生の自死は、明治の精神に殉じたのではなく、逆に、「大正」たる「私」に戦争や侵略や強奪に終始した明治とは違う時代を期待しつつ、そうはならかった明治を恥じ、明治に決着をつけようとしたものだという。そして歴史に明らかな通り、もちろん「大正」以降もそうはならなかったのである。
『こころ』の物語としての不自然さも、先生・K・私のポジションの奇妙も、あるいはお嬢さん=奥さんを巡る男女間の不自然さも、漱石的寓意の機構の中で、それぞれ明治日本・韓国・大正日本・韓国の文化・抵抗運動の志士や人々などを表象する存在として描くことの難儀ゆえのことだと言う。 柴田によれば、『こころ』で明治日本たる先生にお嬢さんを奪われるKはコリアのKで、Kがかつて「突然姓を変えて周りを驚かせた」というエピソードは「創氏改名」をほのめかしている、となる。『それから』で明治日本たる代助が、友人平岡から奪うその妻三千代は、「三韓」や「三千里」から韓国を想起させるし、『門』では同じく明治日本宗助が友人安井からその共棲者お米を奪うのだが、「安」は安重根(アン・ジュングン)を想起させる、となる。 漱石に問い質すしかないが、一国の・一民族の文化的独自性を無化するような振る舞いは、いかに近代国家たらん・西欧列強に伍さんとする足掻きだとしても、自罰に値する恥ずべき事柄だったというのが『こころ』の核心であり、漱石の言い分だったとする柴田の説に、ぼくは、異論を差し挟む識知を持たない。 徳川世を嫌い、西欧近代に学ぼうとした漱石が、ないモノねだり的に構想した幻視の明治日本は、その後一度も現実のものにはならなかった。 漱石の不快は極まって行くのだ。
『村上春樹と夏目漱石 -二人の国民作家が描いた《日本》- 』(柴田勝二著、祥伝社新書)が述べる村上春樹に関しては彼を殆ど読めていないので後日とします。 20世紀日本にとっての中国、20世紀日本の陰画としての20世紀中国、それ抜きには現代日本を語れない中国。 著作に何度も登場するという、春樹にとっての中国、各位はご承知でしょう。教えて下さい。
誇大史: ①倭人のアイデンティティに学ぶ
尖閣・竹島、東アジアの海洋・・・・・・ 「魏志倭人伝」等に登場する倭人の 「海峡を跨ぐアイデンティティ」に学ぶ。
これを語ると、たいていの人は「現代に古代史を持ち込まないでくれるか!」とか、「悪名高い日韓同祖論か?」と返して来るのだ。 これ、とは「魏志倭人伝」にも描かれた「邪馬壱国」を含む領域「倭」のことである。 同祖論?朝鮮族にあらず、後代の「日本国」に非ず、すなわち「日朝」いずれでもなく、かつ海峡両岸(半島の最南部と、列島九州島の北部)にも居住した倭人、それは海の民だった。 では、倭人とは誰のことか?
朝鮮史によれば、現在の遼東半島青島(チンタオ)辺りを始祖の地として、朝鮮民族は形成された。これを古朝鮮(コチョソン)という。古朝鮮が南下して行き朝鮮族の地を拡大して行ったという。南下拡大という限り、半島の南の方には古朝鮮ではない種族が居たか、無人の地であったかなのだが、南には5000年前とされる古朝鮮の誕生より遥かに古い「人類生存」の痕跡たる遺物が当然大量に発掘されてもいるので、古朝鮮が古朝鮮ではない人々が居た南に進出して行ったということになる。一世紀には、半島に、朝鮮族の古代準国家(馬韓・辰韓・弁韓)が形成されて行く。 やがて四世紀~七世紀にかけては「三国時代」と呼ばれる古代国家、高句麗(コグリョ)・新羅(シルラ)・百済(ペクチェ)の時代となる。新羅が統一(676)するまで大国中国の半島支配策も絡み抗争は続いた。
一方、中国の史書に拠れば、朝鮮半島のさらに先に朝鮮族ではない倭人が居り、その倭人の本拠地は三世紀の魏志倭人伝まで判然としていないが、中国歴代王朝の史書には古くから倭人が登場している。古いものから順に挙げると、 『論衡』 *周:BC1046~BC256 「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず」 (周代は列島の弥生時代前期に当る。暢草は酒に浸す薬草。倭人がそれを献上して来ていたと言うのだ)
『漢書地理志』 *前漢:BC:206~BC8 「夫れ、楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時をもって来たり献見すと云ふ」 (楽浪郡は、前漢の武帝がBC108年に衛氏朝鮮に設置した四郡の一つ。郡都は現在のピョンヤン付近。その眼前の海を越えた処に倭人は居るという訳である)
『後漢書東夷傳』 *後漢:AD25~220 「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。」 「安帝、永初二年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う」 *生口=奴隷 (大夫が居る倭奴国は「倭」の南の果てに在ると言っている。江戸時代に博多湾:志賀島で発掘された「漢委奴國王」の金印を受けたのは、倭人が九州島北部に{天孫降臨}して構えた本拠地の主であり、金印の読みは教科書が教えるところの「漢の倭の奴の國王」ではなく、従って「奴国」という「倭国」の一分国の王ではなく{本社が支社を通り越して一営業所所長に支社章を授けるがごとき、冊封制度の先の分国に金印を授ける事例無し。}{漢が冊封制度下の国に対して「漢の**の**」と三段表記した例は無い}、「漢の倭奴(イド)国王」であり、その地は中国が認識する「倭」域の正に極南界だと言っているのだ。) また、「倭国」「倭奴国」については、後代の史書にこう記述して混乱防止策も講じている。 【 『随書』:「安帝の時(106~125)、又遣使が朝貢、これを倭奴国という」 『旧唐書』:「倭国とは、古の倭奴国なり」 】 (たそがれ自由塾説:倭の固有名詞は「イ(ae)」「ヱ」「井」であり、「奴」は「匈奴」などにも見られる卑字蔑称。ちなみに、属国への蔑称は、例えば「匈奴」は=「凶悪な野蛮人」、「鮮卑」=「鮮やかなまでに卑しい」、「女真」=「女しかいない(男尊女卑観に基づいて)」などがある。「倭奴国」の固有名詞の部分は「倭」であり、それは発音ともども引き継がれて行く。「邪馬(これまた蔑称)壱国」なら「壱(一)」、「日本」の「日」、いずれも「倭」の音を継いでいる。今日、中国語「イーベン」、韓国語「イルボン」)
『魏志倭人伝』 *正しくは『三国志:魏書巻三〇「烏丸鮮卑東夷傳、倭人の条」』 *魏:220~265 「倭人は帯方郡東南の大海の中に在り、山島に依り国邑を為す。もと百余国。漢の時、朝見する者有り、今、使役通ずる所、三十国。」と始まる。 (以下、方角・位置関係、距離、行程が述べられ、経済生活や日常習俗《黥面文身=魔除けの刺青、海女漁法など》の観察記述があり、最後に外交や政治が論じられている。それは夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条からなる東夷傳全体にほぼ共通する手順だそうだ。最後に倭の中枢たる「邪馬壱国」に到るのだが、その所在地は日本古代史の大論争点でもあり九州説・大和説入り乱れての混迷にある。) (239年景初三年、卑弥呼、難升米らを魏に派遣。親魏倭王の印・銅鏡100枚など拝受。240年、魏の使者、倭国を訪問。卑弥呼が受けた鏡とされた三角縁神獣鏡は、すでに500枚出るという奇怪。存在せぬ年号=景初四年の刻印のものさえある。???倭国内製だろう・・・)
言えることは、古代中国が史書に記述した「倭」理解は、一貫して同じものを指しておりそれは動いてはいない。魏志以降の史書でもそれは変わらない。途中で、違うものを指すなら但し書きが要る。ノン注、すなわち但し書き無しならば、「読者諸君が御承知の、あの楽浪海中の、あの極南界の、あの帯方郡東南の大海の中の、あの「倭」が・・・」、と表しているのだ。 例えば、有名な「倭の五王(讃珍斎興武)」の倭王武の上表文が登場する「宋書」だけが、違う「倭」を言っているなどということはない。そこで言う「倭」が近畿大和天皇家なら、遡って「漢書地理志」に言う「楽浪海中」も、「後漢書東夷傳」に言う「極南界」も、「近畿大和」でなければならない。正史とはそういうものだ。但し書きなき継続した呼称の指し示すものは一貫して同じでなければ読み下らない。
【参照】 *「倭の五王」を巡って、『宋書倭国伝』 * 「遣隋使の謎」「日出づる処の天子」を巡って、『隋書俀国伝』 http://www.yasumaroh.com/?p=7619 http://www.yasumaroh.com/?p=7646 http://www.yasumaroh.com/?p=7655 さて、「邪馬壱国」の謎解きについては、「朝まで生誇大史」をしたいところだが、 ここでは通称『魏志倭人伝』に登場する、「倭」の場所を示す重要かつ目からウロコの二つの文言を示しておきたい。 一つは、「倭人の条」の前条は「韓の条」(馬韓・辰韓・弁辰)なのだが、その冒頭にある文だ。 『韓は帯方の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、方四千里ばかり。』 「接し」・・・、つまり韓と倭は、接している・地続きだ、と言っている。東夷伝には海を隔てている場合の表現は「渡る」などと何度も出て来るので、「接し」は地続き状態を言っていることがよく解かる。 「倭」地は、韓と接していたのだ。これが、一つ目。 二つは、倭人の条の冒頭導入部の「・・今、使役通ずる所、三十国。」に続いて登場する、帯方郡から倭に向かう行程を述べる文の最初の行だ。 『郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍(たちま)ち東し、其の北岸、狗邪韓国に到る、七千里。』 上記「其の」は、倭に至るには、を受けての文脈から「倭の」としか読めないのだが、さすれば「倭の北岸、狗邪韓国」という地平が立ち現れるのだ。倭の一部分たる地「狗邪韓国」に到る・・・、そこは倭の北岸に当るのだ、しかる後に「始めて一海を度(わた)る」と(通称)魏志倭人伝は云っているのである。
最早疑う余地は無い。倭とは、黥面文身・没水捕魚の海洋の民=倭人が棲息する領域であり、海峡の両岸を縦横に行き来し、 「北岸:狗邪韓国」=伽耶の洛東江流域と「南岸:九州島北部」を陸のダブル本拠としていた海洋種族だ。 半島内情勢に締め出されてか、ある時(紀元前後か?)「南岸:九州島北部」を本拠と定め大移動(古事記に言う{天孫降臨})、 やがて三世紀の「邪馬壱国」から宋や隋と外交・交易する「倭国」となって行く。 半島内「倭」は早期に消滅、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の永い時間の抗争・割拠を経て、唐による冊封下、百済「白村江の戦」敗北、再度の滅亡、新羅による統一(676)へ至る。 九州島「倭」は、七世紀東アジア大戦争=唐・新羅連合VS百済・倭連合の「白村江の戦」(663)大敗北をきっかけに滅亡。 近畿大和王権は「壬申の乱」(672)を経て「親唐王権」=大海人皇子(天武朝)から701年「日本国」へと進む。 その王権は故あって「倭」の歴史・伝承・文物・古の大移動(「古事記」にいう天孫降臨)・古代国内平定譚・外交史・戦史など、そっくり頂戴した。 人々の記憶・各地に残る伝承・外国の史書などとの整合性の「つくろい」に腐心し、年月を費やした(諸説あるが、681年天武による編纂事業開始勅命、720年・養老四年・舎人親王らの撰により完成とされる。何と39年を要したことになる)事業である正史「日本書紀」は精度高く、「倭」「倭国」の実像を隠し遂し、近畿大和王権像を確立した、 かに見えた。 が、実は次々と綻び始めているのだ。
例えば、『隋書』にある600年の「倭」からの遣使事績の記事が何故か日本書紀には無い、日本書紀が小野妹子らを派遣したと言う607年の遣使記事はというと、有名な国書について記載されていない。 しかも派遣先を「唐」(618年からは唐なのだ)と記載してある。日本書紀:推古紀:推古15年(607)『七月、大礼小野妹子を大唐に遣わす。』 『隋書』に拠れば、その国書の文言『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや』(何故か学校ではここまでしか教えられないが)の後にはこうあるのだ。『阿蘇山有り。其の石、故なくして火起こり、天に接する者、俗以て異と為し、因って祷祭を行なう。』・・・・・・。 この王者の統治域がどこであるかは明らかだろう。 そもそも「日出づる処の天子」は実在が疑わしいとされる聖徳太子(らしい)と教えているが、彼は推古天皇の摂政であって天子(王)ではない。 国書において地位を僭称するか! 無理に無理を重ねる正史解説なのだ。 常套句「中国使節が嘘を付いた」「南と東を取り違えた」「編者のケアレスミスだ」「誤字・誤記」「斯く斯くの事情で伏せた」・・・・・・、 原子力ムラならぬアカデミズム世界の古代史ムラが、とにもかくにも「近畿大和王権史観、記紀中心史観」に合うように自由自在・なんでもありの説明を繰り返して築き挙げたムラは強大だ。ムラに「真史」を語る若き学究の徒が現れるのは何時のことか? 永久に無理かもしれない。 『たそがれ自由塾』を閉められない所以だ。
元始、境界とは無縁の 輝く海があった。 そこは海峡を跨ぐ海の民:倭人の棲むところであった。
次回予告:尖閣・竹島を考える ② 明治・平成 二人の国民作家(漱石・春樹)に見る「朝・中」への眼差し
自民総裁に復帰した「美しい国」の元首相と、東アジア
東アジアの地理的かつ歴史的な俯瞰の中で 尖閣・竹島を視たい
自民党総裁選は、厭な拙予想( http://www.yasumaroh.com/?p=15145 )が的中してしまい、安倍元首相が勝った。「日本を取り戻す」なる大合唱の中で行なわれた総裁選び、尖閣・竹島・「従軍慰安婦」へのただ一種類の「言い分」・・・。もちろん、他の候補が勝ったところで大勢に何か影響がある訳ではないのだが・・・。 どの新聞だったか忘れたが「自民党は、曲りなりの国民政党から、思想的には極右少数政党になり下がった」と論じていた。「リベラル保守・保守護憲から中道まで、巾のある国民政党だったのに・・・」とは、いささか能天気な分析だ。 が、民主党政権の「社会民主主義」(?)からの撤退・変身・放棄(いや松下政経塾DNA塾是の本領発揮政権)が、自民党の選択肢を狭め一隅へ追いやり、加えて尖閣・竹島問題等が自民党総裁候補の「言い分」を逆規定したとも言えるのか? その選挙戦風景は、まるで某大国の大統領選挙が草の根極右やキリスト教原理主義勢力に強く支えられたように、街頭演説などで何らかの組織・団体の動員に路上を占拠されていた、との報道もあった。 ともあれ、宏池会的DNAは出る幕は無かったのである。そこへ、明智光秀にも擬えられた幹事長=某知事の息子の立候補などで谷垣氏は降りたのではあった。 「維新の会」の安倍氏へのラブコールと今回の安倍勝利を、結合させ第二幕を迎えたい力学は、尖閣・竹島を巡って、それがメディアの使命だとでも言うようにすでにあちらこちらの紙誌上で「魔女狩り」「名指しの非国民告発」を開始している。
例えば、週刊新潮(10月4日号)は三人の現・元政治家と一人の映画監督を槍玉に挙げて叩いている。その手法は、ひとつの方向性と相容れない論説を述べる個人を徹底的に攻撃するという異様なものだ。言論世界のこの流れは、新総裁の「美しい国」政策や、新党内の権限を一個人に過度に集中して恥じない党首の教育観や公務員観や歴史認識の強権統治願望と軌を一にした露払いに違いない。企業や教育の場で、ますます「物言えぬ」風土が拡大して行くことだけは避けたいものだ。 記事にある4人の発言と新潮側の言い分の記述は、はしなくも左翼でも中国派でもない人たちによる良識見解の広範なるを示してくれたが、一方でそれを最も嫌う者の「魔女狩り」「名指しでの非国民告発」言論が、この先に定着させたい姿も示している。
【記事抜粋】(週刊新潮10月4日号) 野中広務(元自民党官房長官)(CCTV中国国営テレビ局の取材に) 『こんな不孝な事件が起きたのは、まったくの日本の人間として恥ずかしいこと』 『周辺国とどのように大切に平和を守っていくか。これが、国家を担う政治家の責任じゃなければならない』 『長い戦争で多くの犠牲者を残し、今なお傷跡が癒えていない中国に対して、歴史を知らない若い人たち(日本の政治家)は、そういうことを抜きにして一つの対等の国としてやっているんです。それは間違っています』 新潮のツッコミ かつて日本は中国を侵略したのだから暴力デモも我慢しろ、としか聞こえない。 康麿 【野中氏が言った意味を、歴史を知れば勇ましい一方的な主張ではなく、「我が国の領土」だという立場であっても、語るべき違う言葉があるはずだ、そういう文脈で聞きたいと思う】
岩井俊二(映画監督、『LoveLetter』『花とアリス』など) 『国があの島を買うという行為がどれくらい挑発的かを相手の立場でもう少し考えるべきだと思う。日本はかつて侵略戦争をしかけて負けたのだというのも忘れすぎている。』 『日本のメディアは隣国を悪し様に言いすぎ。』 『日本は隣国を侵略しようとして最後はアメリカと戦い負けた。なのに免責された。侵略された国がまだ怒っていても当然で、忘れてしまっている日本の方がどうかしている。というのがぼくの歴史認識です』 新潮のツッコミ さすがにここまで一方的に中国の肩を持てば、反発を受けるのは当然だった。岩井氏のツイッターはさっそく“炎上”した。コラムニストの勝谷誠彦氏はばっさり切って捨てるのだ。「中国には出来るだけへりくだっておこうという考えの持ち主だと分かります。これが日本映画の旗手というのですから・・・。」 康麿 【言論界の者による、ツイッター“炎上”容認には驚くが、「できるだけ歴史の中に事態を晒してみよう」とか「できるだけ相対化して双方の言い分を聞こう」との言を「出来るだけへりくだっておこう」と無理読み・恣意的な誤読が勝谷氏のあの大声の論法だとは理解できた。その後、岩井俊二批判・攻撃はあらゆる通信手段で継続中。その感情的言論はマッカーシズム下のハリウッド以上の下品さと攻撃性満載だ。】
河野洋平(元自民党総裁、前衆議院議長) 『現在はこの問題を解決する智恵を私たちは持たないので、解決は次世代に委ねると中国側リーダー(鄧小平)が明確に表明しました。』 『尖閣を巡っては日中間に一つの合意が在ったにもかかわらず、なぜここまで問題化してしまったのか。それは明らかに石原知事のパフォーマンスです』 『国有化は、明らかに現状維持から踏み込んでいます(言外に、次世代に委ねるとの合意の一方的変更でしょ、との意)』 新潮のツッコミ 河野氏はその昔、「従軍慰安婦」問題で、強制の証拠も無いのに「談話」を発表して謝ってしまった張本人である。デモが起きるのが日本のせいにするところが河野氏である。 康麿 【互いに見解が違い、暫くおこうか・・・、となっている案件を動かしたのはいかがなものか?という河野氏の論は、「デモは日本のせいだ」とは趣旨が違う。悪意をもって誤読するな】
藤井裕久(元財務大臣)(9月23日、NHKの討論番組で) 『敢えて私は言いますけど、中国にも韓国にも昔の日本に対するものが残っている。歴史を若い人にもっと勉強して頂きたいと思っています。韓国を併合した。中国を侵略した。』 『日本は中国や韓国を侵略した。そう言えない日本人はダメです。』 新潮のツッコミ 尖閣諸島とは別問題では?尖閣諸島がいずれの国にも属していないことを日本政府が確認し、日本に編入したのは1895年。戦後、日本が連合国から指弾された「侵略」とは関係がない。 康麿 【1895年、日清戦争の最中の尖閣日本編入は、明治新政府の征韓論や1874年の台湾出兵以来の、脱亜入欧路線日本の東アジアへの欲望の表現であった。藤井氏は後日、近現代の日中・日韓=明治期からの侵略的姿勢総体の歴史を見届ける眼差しがない者=新潮からの質問(侵略と尖閣は別問題、との)に、いわゆる「十五年戦争」に限定する無知無恥を言いたくて、、「もっと勉強しなさい!」と言い放ったそうだ。
余談:「世界」8月号・豊下楢彦氏論文:『「尖閣購入」問題の陥穽』から抜粋要約 ① 「第十一管区海上保安本部」の提供区域一覧表によれば、(尖閣諸島を構成する主要な五島、すなわち魚釣島・北小島・南小島・久場島・大正島のうち)実は久場島と大正島は、驚くべきことに「黄尾嶼」と「赤尾嶼」という中国名を冠して記載され、 ② しかも「射爆撃場」として米海軍に供されている。 ③ 国家間政治力学によって、国境線が右に左に揺れて来たヨーロッパに「固有の領土」という概念は無い。そもそも国際法上も「固有の領土」なる概念は無い。日本の政府と外務省が考え出した、きわめてあいまいにして政治的な概念だと言えよう。例えば琉球諸島から成る沖縄の場合、一体いつから日本の「固有の領土」になったのであろうか。琉球王国は独立国家であった。1879年(明治12年)に沖縄県が設置されてからのことか? しかし、翌年に明治政府は、沖縄本島以南の先島諸島(宮古・八重山諸島など)を清に「割譲」する条約に仮調印を行なった。割譲する地域が「固有の」なのか? なら、尖閣を含む琉球諸島は、15年後の日清戦争(1894~95)を経て初めて「固有の領土」となったのか? ところが、1945年6月下旬、天皇ヒロヒトは当月初め御前会議で決定された「徹底抗戦」方針の軌道修正に乗り出し、連合国との和平交渉へ踏み出すこととなった。その際「和平交渉の要綱」の「条件」の項で、『国土に就いては、止むを得ざれば固有本土を以て満足す』とあり、固有本土の解釈は「最下限沖縄、小笠原、樺太を捨て」と説明されている。つまり、沖縄は日本の「固有本土」ではなく、和平の条件として連合国側に捨てられるものと位置付けられていたのだ。
そうやって、現在140万の人口を擁し「固有の領土」である沖縄が外国軍と日本によって永く植民地として扱われていることについては沈黙し、人も住まない尖閣諸島に対しては「固有の領土」として断固死守と声高に叫ぶのである。「固有の領土の死守」は、別の意図を持つ単なるレトリックではないのか。
【追記】 ぼくは、野中さんや岩井監督や藤井さんの歴史認識に近い見解の持ち主ですが、同時に大国中国の昨今の覇権主義や、古い古い文献を持ち出しての ヴェトナム・フィリピン・ブルネイ・マレーシアとの領土領海争いを 「中国の赤い舌」と皮肉り危惧する論に大いに同意する者でもあります。 その上で、戦前の「日本の黒い腹」を認めない歴史認識から「中国の赤い舌」を語る、新潮や勝谷氏の思考の我田引水・身勝手・非客観性を痛感する者です。
哂われるかもしれないが、この先1000年以上(そして永遠に)付き合わねばならない相手に対して、2000年前からの古代史を齧るものとしては、 大陸大国とその沿岸列島弧小国との永い関係を、50年100年で考えて激してしまう覇権主義(?)も贖罪主義(?)も、共に俯瞰時間が短期に過ぎると言いたい。
ぼやき: シンゾウ君とトヲル君が、 「美しい(?)」国柄の「価値観」を共有。
「維新の会」と安倍元首相。
「維新の会」が安倍元首相との連携を進めるべく動いたとの新聞報道。維新の代表になってくれと言われたという情報まである。ご指名に預かった安倍氏の側も妙にはしゃいでいるそうだ。数年前の出来事(政権投げ出し)が恥ずかしくはないのかと言われながら、秋の自民党総裁選挙に立つそうで、維新との連携に進むのだそうだ。 さっそく「あの政権プッツン投げ出しの{お坊っちゃま極右}はかえって好都合、日本の有権者はあの辞め方を簡単には忘れないよ。{美しく}共倒れしてくれるのではないか?」と楽観論が出ている。 そうだろうか? 日本の有権者は、簡単に忘れることにかけてはプロだよ。 元首相は、辞任(投げ出し)後半年ほどの段階で「ぼくの登場のタイミングが少し早かたようだ。美しい国の真意が理解される時が必ず来る。そのタイミングで再び起つために云々・・・」と周囲に捲土重来を誓って見せていたそうだ。地方行脚(?)を繰り返し、軟弱・お坊ちゃまを返上、パワーアップを図って「来るべき時」に備えて来たそうだ。尖閣・竹島・「従軍慰安婦問題」が浮上する「今」がそのタイミングだという訳か。 「維新の会」となら「価値観を共有できる」「戦いにおける同志だ」そうだが、安倍元首相の再登場が、尖閣・竹島・「慰安婦問題」を巡る「国家主義的」世論(?)を背景にして「維新の会」の人気に乗って力を得るなら「楽観論」は通らない。手ごわいと思うし、その先への流れをつくるキッカケにしたい自民党右派の伝統的DNAが前面に登場だ。
「維新の会」は次期総選挙において、「みんなの党」「小沢新党」との連携は採らない一方、公明候補者が居る選挙区への立候補は見送るという。 最早明らかだろう、「維新の会」とは、議席を獲得するに最も有効なバーターを選択して公明には恩を売り、新自由主義的な経済・労働政策と、国家主義的な教育などの政策への公明の追随を担保し(すでに府政・市政で実行済)、自民右派との連立、さらには連合を考えていよう。安倍元首相が自民党総裁となるならば「維新の会」との連立ということだと思う。別の者が総裁となっても、自民内「価値観」共有派との共同歩調が始まるだろう。 「維新の会」の目指すものとは結局、 行政改革という名の 公務員叩き、職員基本条例、教育基本条例、福祉切捨て、労働者関連施設廃止、男女共生施策嫌いの施設と予算の縮減などが本音で、大阪都構想・道州制等見栄えする表向きの衣装に過ぎない政治と、 「君が代条例」、従軍慰安婦問題などでの発言、集団的自衛権行使への見解、改憲論、近現代史学習館(扶桑社・育鵬社の教科書製作者を迎えて)の創設構想に明らかな国家主義に貫かれた思想なのだ。 歴史に照らせば、ン十年前ヨーロッパに登場したあの政党の亡霊のような動きではないか。 あの時も、既成保守政党の没主体的擦り寄りがその政党の権力奪取を助けたのだが、「維新の会」旋風は、橋下という絶好のタレントを得て、戦後自民党が果たそうとして果たせなかった、国家主義・民族主義・排外主義・反民主主義・改憲政権を、本格的に登場させようとする装置として尊重されるだろう。そこに「大阪ハシズム」の根深さと根本問題がある。
国家が過剰に語られ、民族が声高に叫ばれ、近隣国への憎悪が組織され、人々が勝利(取敢えずスポーツだが)に熱狂し、外交姿勢を弱腰と糾弾する昨今(実に日露戦争直後1905年の世情に似ているではないか!)・・・、この国の国柄は、宮台真司・大塚英志の対談集『愚民社会』(太田出版、12年1月、¥1600)が言う通り「近代への努力を怠って来た」結果だろうとは思う。ヨーロッパの近現代は果てにナチス登場を許しホロコーストを生んだではないかと語って、近代の意味を否定する論にはぼくは与しない。 ところで、国柄はこんなところに表れる。お茶の間経済ジャーナリストと自称してTVに登場する、萩原博子という一見「主婦の味方」「生活から政府を撃つ」風スタンスのオバチャンまで、悪乗りして「民主党の弱腰外交が、竹島・尖閣問題を悪化させた。知識があって弁が立つ人がやった方がいい」(9/2夕刊フジ)と語るのだ。ナショナリズム称揚とそれに基づく外交選択のお茶の間説得に一役買っても、当然それに動員されたとは自覚しはしない。 大同小異はあれ、現在マスメディアが垂れ流している情報に大差はない。竹島・尖閣に怒らないのは「非国民」だと言い始めかねない論調に溢れている。石原慎太郎は「野田政権は日本人の政府ではない」と吠えている。お隣韓国では、竹島(孤島)への見解を問われ言葉を濁したKARAが、猛烈なバッシングに晒されている。
近代への努力を怠る、近代そのものの否認、近代の胎動を経ずして経済大国化、等等・・・・そのいずれであれ、ヨーロッパ的近代体験からは隔たって在って、21世紀に至ってしまっている中露日韓。 中・露・日・韓による領土問題は、どちらに正当性が有ろうが無かろうが、いずれかのナショナリズムに立脚した論からは、決して答えに行き着きはしない。 領土問題という超難問の中で、東アジア総体の「近代への努力」を、試す・行なう・挑む、その構えをまず確立したいものだ。 それができない限り、国内的には80年前のヨーロッパのあの政権の類似政権を許すことになる。 東アジアへの顔、国内の民度、それはワンセットだ。
【蛇足】 言いたくはないのですが、某市市長選に際してのぼくの言い分( http://www.yasumaroh.com/?p=14358 )を撤回する気はありません。むしろ、ますます危惧した状況へと事態は動いているようです。あそこで「維新」の勢いを削ぐことは有効だったと思う。 いずれにせよ、「自民党の伝統的右派DNA+維新」との総力戦が始まるのだと思う。 孫にハシズム社会を遺したくはない!
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つぶやき: 空気読み 涙見せたり 威嚇をしたり (某市長)
去る7月5日某市長は、記者から大津市立中学生の自殺に関して、感想を問われ、 「イジメが自殺の原因だとする明確な証拠は無い」などとは決して言わず、 『あの事件は本当に痛ましい。子どものことを考えたら悔しいだろうし』 『ああいう問題は難しいところもあるが、もうちょっと早く気付いてあげられなかったのかと思う』と答え、声を詰まらせ 落涙してみせた。(各紙報道)
直接的証拠や、加害者の関与の具体性を列挙したり保存したりは出来なかった事柄に、被害者の立場に立って構想する「知性」や、歴史性に照らした「理性」を発揮したのではなく、涙は「空気」を読むに敏なタレントとしての彼のパフォーマンスだったとすぐに分かる。
昨日、従軍慰安婦問題には次のように発言した。
橋下氏、慰安婦強制連行「証拠あるなら出して」
【読売新聞 8月21日(火)19時55分配信】 大阪市の橋下徹市長は21日、いわゆる従軍慰安婦問題について、「慰安婦という人たちが軍に暴行、脅迫を受けて連れてこられたという証拠はない。もしそういうものがあったというなら、韓国の皆さんにも出してもらいたい」と述べ、旧日本軍や官憲による「強制連行」はなかったとの認識を示した。
大阪市役所で記者団の質問に答えた。 橋下氏の発言は、「資料の中に、強制連行を直接示す記述は見当たらない」とする政府の見解を踏まえたものだ。ただ、慰安婦問題への対応を求める韓国政府に対し、論争を提起する姿勢を示したことは、韓国側の反発を招く可能性もある。 橋下氏は、李明博韓国大統領の竹島訪問の強行について、「従軍慰安婦という課題が根っこにある。領土問題の前提として、従軍慰安婦について強制の事実があったかどうかを、韓国ときちんと議論すべきだ」と強調した。
橋下君、極東軍事裁判を始めとして、証拠や証言は数多くありますよ。 軍側の書類を証拠とし、「無い」「無い」と叫んでいるのか。 そりゃ無いわな。 例えば大前研一のような、左翼ではない人からもこんな発言がある。 http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/78/index2.html
「子どもの家」を廃止する一方で「近現代史の学習施設」の開設計画(「展示内容の助言を扶桑社や育鵬社の教科書編集に携わった人にも求めたい」)、集団的自衛権の行使、九条改憲・・・・橋下氏の本音がますます明らかになっている。
つぶやき: あさって20日の 銀座・五輪祝勝パレードに想う
前ブログに書いたように、ロンドンでの選手たちの活躍に拍手したいとは思うのだが、20日に予定されている銀座パレードの沿道に何やらいかがわしいプラカードなどが登場しそうに思う。 近隣国との摩擦に国家主義的に対処し、自分たちの政権の数年前の同じ対応を棚上げして、国民統合の好機到来とばかりに政権に対して声高に「弱腰」「軟弱」と罵る御仁が多数登場している。彼らには、「竹島は云々」「尖閣諸島はどうこう」などと叫ぶプラカードの登場は我が意を得たりというところか。
プロ野球優勝チームのパレードのように五輪での健闘を称えるのはよいことだと思うし、今後のスポーツ振興に繋がるかと思えるので否定したくはない。 けれども、野球チームという「私」をファン心理から称えるパレードと、本来選手を称えるはずなのだが、「国家」を称えたい者どもに占拠されている「(擬)公」=国家が主宰するパレードとは自ずと性格を異にしている。 震災・円高・デフレ不況・消費税政局・・・。 五輪での選手活躍の威光を拝借したい政権の思惑や、ここ幾日かの、近隣国との摩擦を巡る各種の発言を見聞きするにつけ、かつて明治~昭和の戦勝を謳った提灯行列や、戦時の壮行会行進や某国の軍事パレードを想起してしまう。 1905年の、対ロシア戦争祝勝の提灯行列+ポーツマス講和に「軟弱だ」とする抗議の市民行進、それが今再来するのか? 一体、国と民はこの100年に何を学んだのだろう。宮台真司(好きではありませんが)の言うとおり「近代への努力を怠ってきた」国柄が、今、白日の下に晒されている。
2011年3月16日天皇がマスメディアを通じて「おことば」を発した。もちろん、たぶん、東日本大震災+福島原発事故という未曾有の事態ゆえのことなのだから・・・と言うが、実に迅速で震災五日目のことだった。天皇が自ら全国民を対象にメッセージを発し伝えたのは何と1945年8月15日以来66年ぶりのことだったという。 「平成の玉音放送」と論じ、1945年と2011年に、天皇崩御に拠らない「改元」が行なわれたのだと説く論者も居る。 国柄のベイシックな「相貌」や人々のポピュラーな「心性」が、機関車の重い車輪が動き出す時のようにゴットンと動き始めようとしているのなら、今、止めなければと思うのだ。 上の画像は、2010年ロッテ球団の優勝パレード。 (ちなみに、ロッテ創業者:辛格浩氏は在日韓国人一世。女子サッカー、ナショナルチーム《なでしこジャパン》にメンバーを多数輩出しているINAC神戸のオーナー:文弘宣氏は、金時鐘さんが学園長を務めるコリア国際学園の常務理事を務め、財政支援を束ねる在日二世実業家。海峡を跨いで立つアイデンティティに学びたい。)
ぼやき: ジュードウ・競泳と 国際ルール
ジュードウへの異論も、競泳メドレー・リレー銀への賛辞も 別にナショナリズムの発露なんかじゃないよ! あえて言うなら『アンチ・偏欧米スタンダード』論なんじゃよ。
ロンドン・オリムピックはあと一日で終わる。 競泳男子メドレーリレー・男女各競泳・女子バレーボール・男女サッカー・体操・女子レスリング・・・など、驚きの活躍が続いた。 8月初旬から帰阪しての盆休暇。連日の「ニッポン」組の頑張りについつい深夜の実況を見てしまうのは事実だ。
オリムピック半ばの先日、さる席で競泳陣の頑張りなどを称えたところ、 予想通り、「隠し切れないナショナリズムが顔を出したか?」と「左翼(?)」独特の聞き飽きた皮肉が返って来た。 どう思われようが構わないが、「反欧米気分」や「Pan-アジアニズム」が身の何処かに潜んでいることを自覚しているので、そこは黙っていた。 ナショナリズムじゃないんだよ。ちゃんと言うから聞いてくれ! 世界を覆う「インチキ公平、偏欧米偽フェア」に基づくルール作りへの異論なんです。
球技が苦手なぼくは、高校時代のごく短期間柔道部に居たのだが、「国際化」と引換えに点取り競技と化したとも言いたいジュードウは、柔道ではないのだとの想いを強くして来た。無理にでも数値化することが「公平」「フェア」だとする、他の競技にも見られる原型変容は、実はスポーツに限られた現象ではない。文化のみならず思想や哲学にさえ及ぶ、固有の地域が培って来たオリジナルな「文化文明」総体の価値観・価値論が「国際化」の過程で辿る変容は、つまりある種の転向でもあるのだ。 問題は、一見「公平」「フェア」に見えもする評価点数を競い合う為に取って付けた数値化が、そのスポーツならスポーツの本来持っていた価値や美学を損わないかどうか、そこだと思う。 元々、数値化には馴染まない事柄や出来事や方法(スポーツなら技など)、つまりは価値が、強引に数値化・評価点数の競い合いへと変質させられているとしたら、やはりそれは元始の原形とは「違うもの」、国際化・公平・フェアという衣装をまとった加工品=「虚構」だと言えるのではないか? しかも、公平・フェアを標榜する者たちは、その公平・フェアの基準や運用ルールを、しばしば「国際化」の推進を言い出した側の私的な都合で自在に変更さえして来た。
1956年メルボルンオリムピックで、競泳平泳ぎで潜水泳法の古川が金メダルを取ると『常に水上に頭が出ていなければならない』と新ルールが作られた。日本泳法が30年に亘り苦しんで来たのは有名だ。ルール策定者は上半身を水上に大きく出すウェーヴ泳法の確立の見通しを得た87年、1ストロークごとに1回水上に出れば良いと改正。1988年ソウル背泳で鈴木大地が金メダルを取るとバサロスタート(潜水泳法、サブマリン泳法とも呼ばれる)を10M以内に規制した(現在は15M以内)。公平に潜り、フェアにスタート後長く潜水することのどこがアンフェアなのだ? 1964年東京オリムピック・女子バレーでアジア人:日本が金を取ると、「ネットの高さを上げる」というアジア人に不利なルール変更を行なった。「公平」に、共通の高過ぎない(?)ネットで競技することの何処が不都合なのか? あまり知られていないかもしれないが、冬季スポーツにも奇妙なルール変更がある。ジャンプでは、ノルディック複合で荻原潰しを目的とした「ジャンプ得点比率の低減」を強行した。さらに長野オリムピック・ジャンプで、ノーマルヒル銀(船木)、ラージヒル金・銅(船木・原田)、ラージヒル団体金(原田・岡部・斎藤・船木)とアジア人が活躍すると「スキー板の長さは身長に比例とする」とルール変更。背の低いアジア人は、小さなスキー板で勝負せよ!という訳だ。何が「公平」なのか? そんな公平・フェアが通るのなら、「砲丸投げの鉄球重量は体重に比例」とか、「ラグビーのチーム員の体重合計は***kg以内とする」(ラグビーはオリムピックに無いが)とかになる訳かい? そもそもジュードウの体重別制も、身長も体重も小さなアジア人に投げ飛ばされる「耐え難い絵柄」を衆人に見られたくないという邪心に拠っていたと、柔道部の先輩が言っていた。同じ体重クラスなら衆人に見せも出来るという訳だ。 そうした柔道ではないジュードウに何とか合わせて努力して来た日本ジュードウが、煮え湯を飲まされたのがシドニー・『世紀の誤審』だ。 2000年シドニーオリムピックの100㎏超級の篠原・ドイエ戦の『世紀の誤審』については、今さら解説も不要だろう。動かぬ証拠(YouTube画像 http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%8B%E3%83%BC%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%82%A8%E6%88%A6+%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E8%AA%A4%E5%AF%A9&tid=6c4429eb067a9be79b9d663dd4630bdf&ei=UTF-8&rkf=2 )を添付して、ぼくの断じてナショナリズムではない「アンチ・偏欧米スタンダード」の根拠の一端としておく。 ちなみに、ドイエ自身は篠原の技の直後、呆然として「一本取られた」という表情で事実を認めていた。
選手たちの頑張りに、勝手に生来の「アンチ*****」を仮託してのオリムピック観戦だった。まぁ、いかがわしいルールやその背景でも、それを乗り越える者が出てきたりするし、スポーツはスポーツだ。影響は限られていよう。しかし、社会的営みに関するルールは人間の生存の全領域に及ぶのだ。言えることは、中小零細企業も、狭い農地で生産する農家も、市井の民も、北島康介たちのようには「恣意的なフェア」による「スタンダード」を跳ね返す、度外れた能力など持たないということだ。スポーツに於いてさえこのようなアンフェア「フェア」を押し進める者たちは、経済・貿易・製造・農業・医療・保険・他で、例えばTPPにどんな「公平」を準備しているのか・・・?
翻って想うに、この国の・この社会の「当たり前」「与件(の一部)」とされているルールの多くは、理不尽で恣意的で身勝手な人員構成や手順で決定され、かつ日々ご都合主義的な変更を繰り返してはいまいか。そして、ぼくならぼくは、そのルールを作る側に居るのではないか? そうでなくとも、「ネットを上げる」「スキー板を身長比例とする」などに、かつては即座に「それはおかしい!」と思えた思惟力・感性・嗅覚を喪っていはしまいか? 例えば、
*条約により米軍に基地を提供し、その過半(3/4)を沖縄に置く。返還されるはずの、世界一危険な市街地の基地に欠陥機オスプレイを配備する。 *原発は過疎県海岸地域に建設し、使用済み核燃料の処理方法や廃炉方法はこれから考える。 *今後のエネルギー政策の如何によらず、「日米原子力協定」に基づき、日米の原子力共同研究・協力は続け原発輸出は続ける。 *福島原発事故に関して、民主党政権を問い東電を責めるが、米の設計・メーカーに欠陥や不備を問わない。 *年金のダブル・スタンダードいやトリプル・スタンダードは、勤労者各個人の職場選択の結果であり自己責任である。 *企業たるもの、任意の数の正社員で運営し、他は有期雇用・派遣社員・下請など非正規雇用者で賄うべきである。競争に勝ち抜く為に、法や制度を最大限活用して、その非正規雇用者への企業責任から免れる研究・努力に励まねばならない。 *労働組合の使命は、正規雇用労働者が所属企業の発展や賃金の上昇などを実現することであって、下請・臨時・パート・季節・派遣労働者の雇用形態や権利問題などに関わる言動を行うことではない。 *公務員は、所属機関の政策批判をしてはならないし、政治的言動をしてはならない。
ともあれ、残された時間を、構造的「アンフェア」を推進したりそれに手を貸すことに使いたくはない。 出来れば、どんなに微力でもその構造に抗う「生」を立てたいと思ってはいるのだが・・・。
単純な敵・味方二元論、ゲーム世代的文化観 それはそれで勝手だが
真っ当な人々に刃を向ける以上、捨て置けない。 橋下市長の実像。 ズバリ それは幼児の残虐性だ!
産経新聞によれば、26日再度文楽を視察した橋下氏の言い分は以下の通り。 『財団法人・文楽協会への補助金凍結を示唆している大阪市の橋下徹市長は27日、国立文楽劇場(大阪市中央区)で前夜鑑賞した文楽について「人形劇なのに(人形使いの)人間の顔が見えると、中に入っていけない」と批評。「クライマックスのときに、顔がポコッとみえるのは、どうも腑に落ちない」と率直な感想を述べた。 橋下市長は26日の文楽鑑賞後、「大阪発祥の古典芸能が守るべきものであることはよく分かった」と理解を示す一方、「演出など、見せ方をもっと工夫すべき」と注文をつけていた。』 -7月27日13時50分配信-
(何故、君の貧弱で稚拙な感性の腑に落ちなければならないのか!恥を知れ!)
(歌舞伎の、大見得とか六方とか誇張された所作の様式美なんかも「あり得な~い」と却下するのか。歌舞伎はメジャーで芸能ニュースネタも含めてマスコミにも再三登場するから、「行列のできる***」と同じく、ボクちゃんは認めるのかい?)
例えば、近未来SF映画とアメフトの大ファンでもあり天下の正義漢を自認する、カウボウイ・スタイルのアメリカ大統領が、円形野外劇場のギリシャ悲劇を鑑賞して「難解なセリフの応酬より、舞台にもっと大道具など『見える化』を工夫しないと・・・。あの服装で直立して語るのには入っていけない」と言い、日本の大相撲に「体重制」がないのは「アンフェア」で「腑に落ちない」と論評したら、どうか? 体重制なきある種の「非合理」を含めて「大相撲」とする体系なんですから米大統領といえども「放っといてくれ!」です。
例えば、アメリカの成金石油王が、イタリアのヴィスコンティの映画『山猫』を観て、「何やら重厚な装飾は立派だか、ラストにググッとくるものがなかった。台本が古い、現代に合う様に工夫してもいいのではないか?」と言えば、ヨーロッパの映画ファンは怒りを越えて、成金の無教養とガサツさに言葉を失うだろう。シチリヤの市街地、石畳の舗道に跪(ひざまづ)き、滅び行く者の悲哀と覚悟を胸に矜持と受容を抱え、静かに祈るサリーナ公爵(バート・ランカスター)(この人、これと『エルマー・ガントリー』『家族の肖像』があるから歴史に名を残した役者なのだ)。 イタリア統一運動、赤シャツ隊、時代の節目、旧体制の終焉、理想どもの裏切り、新興勢力の現実主義・・・多くの終わりと始まりを目撃しながら生を閉じて行く公爵。うらぶれた小径へ曲がってゆく公爵の後ろ姿・・・。 あのラストシーン・・・、ぼくは好きですが。
これらの、ゲーム熱中世代の中学生のような軽薄で幼い文化観と、下記に示す間違っていて単純な正義感と言うか幼児性丸出しの独善・攻撃性は、同じ根っこのものだと思いませんか?
大阪市環境局の現業職員の労働組合がごみ収集事業の民営化方針に反対するチラシを戸別配布していた 問題で、橋下徹市長は11日の市議会本会議で、「組織の方針について反対を促すような行動は、組織の信頼を失墜させる行為として厳しく処分したい」と述べ、 関与した職員の懲戒処分を検討する意向を示した。 ( 何を言うとるんじゃ!! だから独裁者と言われるのよ) あんた、弁護士やろ! それ、何に基づいて言うとるの? 何人も「組織の方針について反対」を表明する自由と権利を有してるの!
公立学校の先生が、子どもの家事業廃止を批判したことが我慢できないらしく、執拗な攻撃を繰り返しています。「現場を知らない」のはどちらでしょう?twitterする暇があるなら、高校生が話していたように現場に来て、見て、感じることから始めるべきです。
そして彼は言い放っています。「公立高校教員が教員の身分で決定された市政改革に口を挟むのは断じて許されない」と。 (納得できない市の施策に已むに止まれず意見を吐く教師は許されない。と言うような行政トップは「許されない」)