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8/2 内田樹講演会。 『ポストグローバル期の国民の歴史』

『国民国家・民族の枠とボーダーを越え、「儲け」以外依拠するモノを持たないグローバリズム経済。                                                                                                                                                                                                                                                                      国家にも、民族にも、地域独自文化や民俗にも、帰属意識や忠誠心を持たぬグローバリズム企業。                                                                                                                                                                                                                   有利と見れば、トランプゲームのカード総入替えのように、企業への愛着さえ相対化し、まるごとの売却さえ行うグローバル企業。                                                                                                                                                                                                                                         より安価かつ従順勤勉な労働力、より原材料・運輸コストを容易く入手できる条件、より政情不安なき地域、各種規制(労働法制・建築法制・公害規制など)がより緩やかな場所・・・、それだけを求めて漂流するグローバリズム資本。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       不都合あれば、費用対効果に照らし、生産現地の事情・労働者の権利を顧みず、一時退却・閉鎖・本格撤退を為し、生き延びる。                                                                                                                                                                                                                                                己だけしか乗れない脱出ヘリコプターを確保して、船員には船の死守を命じ任務と義務を放棄する、沈没船の船長のようだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    だが、にも拘らず今ある国民国家という現実に、諸領域・諸課題で制約されてもおり、国民国家の統治に、各国政権は逆にナショナリズムや民族を持ち出す強権政治を動員して支えている。                                                                                                                                                                                                        グローバリズム資本にとって、国民国家こそが「最終対立矛盾事項」かもしれないのだが、国家も旧来の資本も民族も労働者も越えられなかった地平を超えて行く彼らにも、我々にも、国民国家解体以降のモデルがない。』                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 (「歴史教育者協議会・第65回大阪大会」内田樹記念講演より抜粋:旧東海道品川宿「たそがれ自由塾」塾頭メモより要約。                                                                                       演題:『ポストグローバル期の国民の歴史―日本社会はこれからどうなるのか』8月2日、於関西大学、参加者650名)CA3A4204

数十年前なら、「それを超える立脚点こそが『プロレタリア国際主義』なのだ」と返したかもしれない。                                                                                                                                                                                                                                    だが、ソ連東欧陣営の氷解や、第三世界の民族解放闘争の果ての「開発独裁」を見聞きし、また氷解以前から現在まで、大国による民族抑圧や国家という装置を基本にした国家「意志」が、体制の違いを問わず、残念ながら国家と民の結集軸ツールとされて来たし今もそうだと強く想う。                                                                                                                                                                                                                                                                          現在も、国家を運営するに、危機(経済的であれ、政治的であれ、文化的であれ)であればあるほどその傾向は強まっている。そこには20世紀モデルの、いわゆる「体制」云々を超えた文脈を築いてしか読み解けない「全文」がそびえ立っている。                                                                                                                                                         東アジアに目を向ければ、中・韓・日で互いに「ナショナリズム」と「強国志向」が強まり、歴史の改竄や、ひと度は受容れた国際的に定着した評価を否認して「国家」を前面に掲げて、内外に対処している。

日本の「集団的自衛権行使(他国の戦争への参加)」「敵基地攻撃態勢」への準備や、改憲・戦後社会の基本の変更、尖閣諸島問題での対応。                                                                                           中国の、アジア海域でのヴェトナム・フィリピン・ブルネイへの覇権行動(「中国の赤い舌」)や、バーチャル実戦の戦闘劇:魚釣島(尖閣)侵入者撃退ゲーム・ソフト(激しく売れているという。侵入者一人一人に固有名詞が付き、射殺を繰り返し勝利に至るらしい)などに見る国民を煽る政策。                                                                                     それは、共に大国主義・覇権主義・排外主義・ナショナリズムの動員だ。何主義を標榜しようがしまいが、国家の維持にそれの動員を強行しているのはどの国家も変わりはない。

自国史への真摯な自省は、ただでさえ苦く困難なことだ。内田樹は、その例として自由と人権の国とされているフランスを挙げている。                                                                                                                                                                                                                                                          フランスでは、初等中等教育や社会的一般合意に、第二次世界大戦の期間(1939~1945)のほとんどの時間(1940年6月~1944年)が、対独敗戦後に成立した親ナチ政権=ヴィシー政権(英国にドゴール将軍の自由フランス亡命政権が在ったとはいえ)による統治であり、つまりは「枢軸国」陣営の一員であったことは、あまり触れられないという。                                                                                           (2010年の映画『黄色い星の子供たち』はヴィシー政権による、1942年のヴェロドローム・ティヴェールユダヤ人大量検挙事件{婦女子を含む13,000人のユダヤ人無差別検挙・生き残り僅か400人}を克明に描いた。フランスは、つい先年1995年まで、「ヴィシー政権はフランスではない」として国家責任を認めなかった)                                                                                                                                                                                                                  (ヴィシー政権:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%BC%E6%94%BF%E6%A8%A9)                                                                                                                                                                                                                                                                 対独敗戦による休戦協定は、フラン対マルクが戦前の12フラン=1マルクから、20フラン=1マルクになったこと、フランス人捕虜1人解放に対してフランス人労働者3人をドイツ国内の工場に送ること、など過酷であった。そうした背景があったとはいえ、この政権は、イタリアよりも厳しいと言われる「ユダヤ人迫害法」さえ「自主的」に採択した。                                                                                                           (1940年10月:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%BC%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E4%B8%A6%E3%81%B3%E3%81%AB%E5%A4%96%E6%9D%A5%E8%80%85%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95)                                                                                                                                                                                                              もちろん、対独レジスタンスの歴史はあるが、国家としての顔、国内体制は親ナチなのだった。このことを出来れば忘れて欲しいという潜在願望があり、どうしてもその切開が希薄だ。その曖昧さが排外主義極右の蔓延・ネオ・ナチ政党=国民戦線の勢力確保(2012年大統領選挙得票率17,9%)に寄与しているだろうとも言われている。                                                                                                                                                                                              (国民戦線:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%88%A6%E7%B7%9A_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9)

日本に於いては、なお一層「アジア侵略」の当事者であったにもかかわらず、アジア侵略と昭和の戦争の美化と本質忘却、繰り返しての教育・言論・学術・報道での「自省」欠如が、ネオ・ナチ勢力の拡大と、「改憲=戦後社会の根本解体」を目指す政権党の「昭和旧体制美化(美しい国)」「その日本を取り戻す」「日の丸・君が代強制」「アジア侵略否定」「労働法制後退」「団結権否認」「ヘイトスピーチ行動の野放し」「従軍慰安婦問題」「麻生ナチス発言」「自国史への自省を『自虐史観』と呼ぶ作られた世論」「集団的自衛権行使容認」「敵基地先制攻撃論」等々として現出している。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              )集団的自衛権

国家なるものは原理的には、そのままでは「自国史」への「自省」という頁を破棄して成るもののようだ。それに加えて国民国家や民族を超える意志によって推進されるグローバリズムの席巻により、一層の「自国史検証の野放し」は深化している。                                                                                                                                   各自国史への「検証機能」が、もう一つの自国史からだけ為されたのでは普遍性を欠くこと(もちろん昭和日本のアジア侵略等に関して世界的に評価は明確だ)を我ら民の教訓として受け止めたい。                                                                                                                                                                                           だから、かつての『プロレタリア国際主義』の輝きの、21世紀的あるいはグローバリズムを超えて人々が「グローバル」に繋がる『思想』と、そのことを前提とした自国民自らの国際的に耐え得る「自国史」検証の文脈を求めることこそが重要なのだろう。                                                                                                                                                                        今、日本の政権党は、グローバリズム経済のリスクや混乱による、生産拠点の自国内への撤退や一時Uターンなどと、グローバル企業の下請けたる国内企業の雇用の困難をも見越して、少子化・労働人口の減少下での安価な労働力を求め、「解雇自由制(金銭解雇)」「限定正社員制度」や突然の「産休三年」「大学の統廃合による減少」(狙いは、60年当時の金の玉子か?)などを打ち出している。                                                                                                                                                                                                                                         内田樹はこれらの混迷を語り、グローバリズム経済への市民的対抗軸形成の困難を述べ、だからこそ「教育」(30年後にハッキリとした影響・反映が論証できようという)は重要だと訴え講演を終えた。                                                                                                                                                                                                                                                                                          『プロレタリア国際主義』を超える『*****国際主義』は聴衆たる諸君が探せということのようだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        『****』を埋めるに、新自由主義とも新保守主義とも一線を画して生きる生産者・勤労者・消費者・生活者そして民主的経営者をグルリと繋ぐ相対的左翼の連帯(社会的左翼)を思い浮かべるが、ピタリ来る用語が見当たらない。30年代の「人民戦線」のようだが違う。見当たらないということは、21世紀に相応しい陣形もその構想もぼくは持ち合わせていないということだろうか?                                                                                                                                                          取り敢えず、『アンチ・グローバリズム「グローバル」連帯戦線』とでも言っておこうか…。

【余談】                                                                                                                                                                                                                             「tono-taniの日記」なるブログが、はげしく内田を口激していた(2011年9月)。                                                                                                                                                                                                                                                                              話のあらましは、某女子大の「全共闘運動経験者のオーラル・ヒストリー その実践と考察」なる修士論文のインタビュー部分に登場する内田の語りが、「全共闘体験詐称だ」ということのようだ。加えて内田が「ゲバ棒なんてヘナヘナした物で、そんなものでぶたれたって痛くも痒くもない、ゲバ棒なんて『極めて象徴的』なものだ」と語ったことに激怒している。ゲバ棒が象徴を超えて如何に有効なシロモノであったかを述べている。やや柔らかい木材だが、折れたら折れたで有効な使い方があるのだと説明している。「ほんなら、どついたろか」とまであり、言論の応酬としてはいささか穏当を欠いたものになっている。もちろん、内田からは反論はないようなので、応酬ではなく一方的な怒り爆発といったところか?                                                                                                                                                                                                                                                                    私見では、「極めて象徴的なもの」と言うのは当たっているし、「いや当時の叛乱での、有効な限界武器だった」というのも当たっている。内田の発言が、当事者の「自省」から来る自嘲的な想いの「象徴」だと読めなくもない。ちなみに、内田は合気道など「武術」の達人(自称)で、書物も出している。それはともかく、                                                                                                                                                                                       ある種の「錯誤」さえ抱えて行なった事象への経歴詐称疑惑にこだわる、自戒に乏しい論難にどれだけの意味があるのだろうか?

zouhanyuuri[1]が、主眼は1970年東大入学(東大安田講堂陥落の翌年)の内田は、全共闘の当事者などではないとして、「全共闘ヅラ」するなと吠えているようだ。女子学生に経歴を詐称する者の言説など信じられようかと言いたいのだろうか。内田の個人史もブログ作者の論難の根拠も詳しくは知らない。                                                                                                                                                                                                                                                                                              もし、ブログが言う「全共闘ヅラ」の「詐称性」が事実だとしても、ここでは、何人であれ免れ得ないだろう「自分史」「自団体(党など)史」「自社史」に着いて回る恣意性、「検証機能不在」その普遍性の欠落を想うしかない。そして、他者の自分史の非客観性や非事実(とブログ筆者は考えてしまっている)への怒りに触れ、その百万倍複雑な要素に満ち溢れる「自国史」検証の普遍性・客観性確保の道の困難を想うばかりだ。

昭和日本(明治まで、いやそれ以前までを射程としなければならないが)の「自国史」への検証は、国内の統治者ではなく「国内被統治者」から、植民地(沖縄を含む)の「主権等を簒奪された側」から、軍事行動他で主権と領土と資源を、時に「言葉」「文化」「伝統」をさえ奪われた側から、「昭和日本史」・アジア史・世界史を俯瞰し、見聞きし知ることから始めるのが筋道だ。                                                                                                                                                                                               「自国史」を無化して進むグローバル経済世界に在って、ワシらが『プロレタリア国際主義』を超えて進むべき道『*****国際主義』への、                                                                                                                                                            それが入口だ。

【学生のような、ぼくの質問】                                                                                                   *グローバリズムは実質アメリカナイゼーションとして進んでいるのではないか?                                                                                                                                                  *グローバリズムは、世界のフラット化(言語・通貨など全て)を求め、原理的には国民国家の消滅さえ求めている、と言うが、                                                                                                                                                                   グローバリズムこそ「永遠の第三世界」を必要としてはいまいか?                                                                                                                                     *言語・民族・人種・宗教は強固で、たとえば宗教としてイスラム世界、貧困と飢餓の地域を多く持つアフリカ世界・・・。                                                                                                                                                                  グローバリズムとそれらとの衝突の構図とは?

【再:余談】                                                                                                                                                                                                  ン十年振りの大学は、当時とは打って変わって表面的には「学の府」の風貌。建物は新しく、キャンパスは清掃が行き届き塵ひとつ落ちていない。                                                                                                                                                                                                                                                                                         おちぶれ坂うらぶれ坂ですれ違う女子学生は、OLのようにキチンと社会人女性の化粧をしていて、これまた「表面的」には美しく「大人」だ。「関係者以外立入禁止」と書かれた貼紙が、各建物の玄関にあった。                                                                                                                                                                                           地域・市民や社会を拒む「大学」とは何なのか、グローバル企業には門戸を開いているくせに…、などと青く思って、炎天下の坂を下った。IMGP57031[1]

 

「ブラック・ジョークは撤回しました。」「あっそう。」  とは行かない!

報道によれば、『麻生太郎副総理兼財務相は1日、憲法改正に関連しドイツのナチス政権を引き合いに「あの手口、学んだらどうかね」と講演で述べたことについて「誤解を招く結果となった」として撤回した。』とある。(毎日新聞)

麻生副総理が1日に発表した発言撤回コメント(全文)は次の通り。

『7月29日の国家基本問題研究所月例研究会における私のナチス政権に関する発言が、私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾である。                                                                                                                                                                                   私は、憲法改正については、落ち着いて議論することが極めて重要であると考えている。この点を強調する趣旨で、同研究会においては喧騒(けんそう)にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪(あ)しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯をあげたところである。私がナチス及びワイマール憲法に係る経緯について、極めて否定的にとらえていることは、私の発言全体から明らかである。ただし、この例示が、誤解を招く結果となったので、ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい。』                                                                                                                                  「誤解」?。これが「撤回」か?

発言全体を見れば、「ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。」 「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。」 この発言のどこが「極めて否定的にとらえている」だ?                                                                                                                                                                                               誤解は、ドイツ現代史への麻生理解に在る。20df96fb2eb4bc583ce25cd8f0f3a463[1]

大阪で某新興政党が熱狂的に支持される以上に、ナチスが市民に支持されたのは事実だし、議会や投票のルールに一応基づいてナチス政権が誕生したことは事実だ。だが、同時に、それに至る第一次大戦のドイツ敗北、元軍人らの回収先=義勇軍=フライコールによるローザ・ルクセンブルクら暗殺、膨大な戦争賠償金に疲弊するドイツ国家・国民・企業、社会民主党政権下の超インフレ、困窮し報われない層のファシズムへの傾斜(期待)、ワイマール共和国の解体…そうした経緯の中でナチスが勢力を得、そして、ナチスの政権獲得に至る歴史は暴力と血に塗れているのも事実だ(ナチ党内部も)。                                                                                                                                                                                                                                   政権獲得後も、1933年「国会焼き討ち事件」、反対派議員逮捕下で採択された「全権委任法」(ナチ政府の制定した法律は憲法に背反しても有効とする法律案)による「憲法停止」(麻生が言う「ナチス憲法」は存在しないし、また「ある日気が付いたら」「変わっていた」などというように平穏無音に行なわれたのではない)から国家と党の一体化は進み、第二次世界大戦~ホロコーストへと向かう。

確かに麻生が「ドイツ国民がヒトラーを選んだんですよ」と言う通りだが、それは日本国民が《軍部独裁》を選んだのと違いはしない。違うのは、この自国現代史を痛苦をもって俯瞰する文化や広範な国民理解が、在るか無いか、だ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          第一次大戦末期に終戦を唱えた左派勢力は「国家の敵」だとし、戦時戦後に疲弊し困窮する国民を尻目に蓄財しているとされたユダヤ人こそ「諸国民の敵」だとして攻撃対象を捏造する手口、1923年のナチ党によるミュンヘン一揆(バイエルン州政府へのクーデター)以降の地方政府から攻め上るスタイルや、「全権委任」を得たとうそぶく言動。                                                                                                                 現在日本の某新興政党や政権党議員の、「弱者が辛うじて得た権利を特権と呼ぶ悪宣伝」「公務員叩き」「地方掌握からの攻め上り」「白紙委任の民意を得たという詭弁」は、確かにナチスと酷似していて多くの論者が「ハシズム」と呼ぶのも故なくはない。                                                                                                                                               この度の麻生迷言に対し、某新興政党の代表は「行き過ぎたブラック・ジョーク」「ナチスドイツを正当化した発言でないことは国語力があれば分かる」と言っている。あんた、どんな国語力だ! そしてどんな歴史観だ?                                                                                                                                                                                人権や自由や民主主義を「人類の多年にわたる自由獲得の努力」(日本国憲法97条)によって築いて来たはずの、近現代ヨーロッパにして陥った、20世紀の暗部への人類共通の教訓を何と心得る? ブラック・ジョークだなどと語れようか。                                                                                                          8月2日朝日朝刊には『自分を恥じている、許して下さい。と謝るべきだ』(日本大学佐藤綾子教授)とあった。

参照:                                                                                                        http://www.geocities.jp/torikai007/war/1943/race.html                                                                                         http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E5%85%9A%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%8A%9B%E6%8E%8C%E6%8F%A1                                                                                                                                 http://ja.wikipedia.org/wiki/1932%E5%B9%B4%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8%E6%8C%99

 

参院選を前の 元学生の「居酒屋談義」

大学に籍を置いていた時期(68、69)から40年以上経つ。1960年代末当時の仲間たちが60歳を超えた数年前、期せずして「残された時間に出来ることをしよう」と集い始め、「脱原発」「反軍事」「反貧困格差拡大」「労働諸権利の後退阻止」「改憲阻止」「橋下強権統治への反撃」などのテーマでデモ参加や・各種セミナーを開催してきた。                                                                                                                       個人史・立場・思想の違いを超え広く参集できればと、会の名称を「K大校友連絡会」とし、ぼくらジジババは集っている。デモや原発現地への行動は多いときは20数名の参加、セミナーは20~50名の参加を数えるに至っている。                                                                                                                                                                                                                          中心になって世話役をしてくれているS氏・I氏の、たぶん類まれなる仁徳もあって会は持続されて来た。 http://www1.kcn.ne.jp/~ritsu/

民主党政権の迷走、福島事故、維新現象、安倍政権の誕生、職場の権利後退、誘導された改憲世論…戦後のきしみは「戦後レジーム(体制)からの脱却」(安倍)という政権側の「大構想」として現実のものとして迫って来ている。                                                                                                                          その脱却は、ほとんどの領域(雇用形態―労働諸権利関係、教育、社会保障福祉、採算性・民営化という公共の放棄、などなど)での成果(?)を得て、改憲つまり、憲法三大原則(基本的人権の尊重、国民主権、戦争放棄)の公式放棄へと歩を進めている。                                                                                           (自民党改憲草案= http://www.yasumaroh.com/?p=16795 )                                                                                                                                                                                                                         このことへの構えは、各個人・各階層・各政党団体に、「戦後」と「戦後・後」をどう捉えるのかという根本命題を突き付けている。議会が、改憲勢力で2/3超という状況下、現実的な「多数派」形成や如何?というわけだ。CA3A4188                                                                                                                                                                                    先日、大飯原発現地行動に参加した帰路、現地坂道でヘロヘロになっての(ぼくだけのようだが)大阪着後、恒例「一杯呑み会」の席で、いわゆる「保守リベラル」を含めた「多数派」形成の理路に関して、次のような意見が交錯していた。

「保守リベラル」なるものが、例えば労働者派遣法に絡んで、例えば「労働移動支援型雇用」(金銭解雇=解雇自由型)を巡って、例えばエネルギー政策・「脱原発」に関して、沖縄の米軍基地に関して、一体どのようなスタンスで構えているか…、そこは明らかだ。「保守リベラル」への過剰な期待は幻想だ。                                                                                                                                            いや、「保守リベラル」をカウントしない陣形で、言い換えれば我が方(どこからどこまでが我が方規定なのかも漂流しているが)だけでことが進むと言うことの方が幻想だよ。昨今、我が方の後退は著しく、安倍政権が提示する国家像・社会像に対する全体構想を有効には示せていない。課題によるが、「保守リベラル」を含む「多数派」を持ち得てこそ対抗し得るのだ。

論議は、一見対立して言い合っているように見えて、①我が方の設定を巡って、②課題の設定を巡って、明確に整理して再論すれば、実は同じことを言っているのだと思う。                                                                                                                                                                   「戦後」というものが、良かれ悪しかれ「保守リベラル」なる勢力(いや「空気」のような合意)と、自民党改憲派との都度の政権交替劇によって推し進められたことも、中曽根「戦後政治の総決算」以来、双方(自民内交代劇政権側、我が方側)から「それではダメなんだ」と宣言されて来たことも間違いない。今、安倍政権の側は「戦後・後」ヴィジョンを明確に示した。つまりは、「日米軍事同盟」を基本にした「集団的自衛権行使するアジア覇権国」、それを可能にする「改憲を含む国内体制の整備」と定めた。では、                                                                               こちら側は民主党政権という「改憲派から旧社会党勢力まで」のゴッタ煮政権の数年を挟んで、安保・憲法・教育・雇用労働法制・原発・社会保障・福祉・人権・基地・沖縄を巡る漂流の中で、対抗「全体像」を示せているか?う~ん、できていない。                                                                                                                                            かつて、田中角栄は「ワシらが改憲に舵を切れば、そうなっちゃうんだよ。左翼諸君!」と挑発的に豪語したが、その発言の当否は別にして、その当時に比べ、田中氏が言う「諸君」の勢力・陣形が漂流し、社会的波及力が低下しているのは客観的事実だ。田中角栄の言辞の重さを想う。                                                                                                   課題によっては、「保守リベラル」を含む「多数派」を形成せずして勝ち目はないと思うがどうか?

自民護憲派

(お若い閲覧者へ。人名:左から宇都宮徳馬、宮沢喜一、後藤田正晴、武村正義、河野洋平、田中秀征、白川勝彦、野中広務)                                                                                                                  宇都宮徳馬⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%BE%B3%E9%A6%AC                                                                                                                                                                                                  かつて、自民党内に居た護憲派(?)の後継者はもういないのか…。さすれば、小泉~安倍の期間に失せたのか? その期間こそは、新自由主義・新保守主義集団の自民党内クーデターによって、自民党内不純分子(と彼らが考えていよう人々)無き保守党陣形を完成させたと言えようか?                                                                                                     「保守リベラル」云々を語る前にそれは自民内から放逐されたと見るべきかも。内容を問うことなく、民主党勝利・民主党政権誕生を喜んでいる裏で、このこと(保守リベラルの自民党からの追放)が小選挙区制の成果(?)だとほくそ笑んでいるのは誰だ?                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        参院選後、安倍政権は悲願の「集団的自衛権行使」(解釈変更による)へと歩を進め、「戦争する国」のカタチを作り、次いで議会情勢と世論を見ながら仕上げへと、つまり戦後社会の原則の公式放棄=「改憲」へと進まんとしている。「保守リベラル」談義の核心も、「我が方」の定義と問われている課題の冷静な明確化、によって自ずと見えて来ると思いたい。

いずれにせよ、元学生・現在60代半ばのジジババ居酒屋論議にも、それぞれの40数年の各所(例えば小さな職場での孤立無援の多数派形成の労苦、限られた地域での市民的要求実現の難儀など)での経験と蹉跌に照らした、自分の言葉が滲んでいようことは理解できた。

 

 

 

若者よ! 脱原発・改憲阻止・反軍国に一票を!

来る参院選。争点が曖昧だとマスコミは言う。おいマスコミ、お前たちが争点を隠蔽しているのだろ!                                                                            例えば、マスコミは平然とシラっと、安倍の「原発輸出」を普通の工業製品や繊維製品の輸出のように伝えている。外国の空港でタラップから降り立つTV画面の安倍は、さながら「死の商人」だ。eb840989771d2fee73e81b6d9ea402ac[1]                                                                                               アジア各国・トルコ・東欧で安倍が推し進める「原発輸出外交」は、「国内は強毒性の農薬ゼロを目指す声で一時休止なので、その毒は輸出することにした。」というような理屈(かつ原発は根本的に制御不可能なのだ)だし、国内で次々発覚する原発の不備や事故隠蔽のどこが「世界一安全」なのか?いや、安全性が世界一だろうが、世界二だろうが、核燃料最終処理・廃炉の道筋は永遠に不可能で、地震国トルコへの商売は「福島の再現」の輸出だと言える。

また、自民改憲が目指すものとは、96条の発議条件云々の先に、非戦の否定・集団的自衛権=9条、結社・表現の自由の解体=21条、など現行憲法三大原則=「基本的人権の尊重」「国民主権」「戦争放棄」を根こそぎ解体し国家のカタチを変えることだ。それは、働く場での人権が損なわれ、雇用と解雇の規制が一層国や企業に一方的に手厚くなること必定。若者よ、参加、意思表明を出来るところからしようではないですか。 http://www.yasumaroh.com/?p=16795

争点はハッキリしている。                                                                                                    脱原発。改憲阻止。反軍国。 どこが「争点が不明瞭」だ?                                                                                              「従軍慰安婦問題」・沖縄米軍・オスプレイなどを巡る、維新・橋下の数々の妄言は、自民党本丸の政策の露払い役も担っているとますます明確になって来ている。両党での2/3は阻止しなければなるまい。

 

八尾空港をオスプレイ訓練にどうぞ…。 維新の正体

6月6日、安倍総理は維新・松井幹事長と会談し、松井・橋下の「八尾空港オスプレイ訓練受け入れ」という唐突な提案を検討する意向を示した。嘉手納・八尾

橋下氏の慰安婦発言の失態から国民の目をそらせるためか、「風俗活用の勧め」発言への米軍の不快感を和らげるためか、大慌てで思いついた維新の「スタンドプレ-」か? いや「新自由主義」+「国家主義」に彩られた維新の政策の核心だ。

安倍総理は、橋下氏の慰安婦発言時には「安倍政権はそのような野党党首の発言や歴史認識に与しない」と良識ぶりを装ったが、八尾空港提供発言では再び維新と手を組み利用したいのだろう。

安倍首相の日頃の言動に照らすまでもなく、軍事の日常化・全国化は自民党安倍総理系の積年の悲願だ。                                                                                                            客観的には、維新が自民党政策の露払い役・様子見役を果して行くという構造だ。                                                                                                                                                                                                    ここしばらくの維新・橋下の言動に対して、公明党の山口代表が維新を指して「暴走政党」と呼び、「このようなリーダーに率いられた政党との連携は考えられない」(趣旨)と述べたが、その姿勢を堅持してもらいたい。                                                                                                                                                        和歌山県知事は「受け入れも何も、自治体の意向に関係なくオスプレイの低空飛行訓練は実施されているではないか! 見え透いたパフォーマンスだ」という趣旨の発言をして不快感を示している。

言うまでもなく、八尾空港は沖縄嘉手納基地同様、四方を市街地に囲まれ、東大阪市・大阪市など大都市が隣接する民家密集の「不適格」空港だ。面積・近隣状態・補給やメンテ施設など、どの角度から見ても八尾空港は不適格だと、元防衛庁長官や元自衛隊幹部も語っている。そこを敢えて提案に及んだ橋下氏らの思惑は、「慰安婦発言」の失点(本人らはそう自覚してしないが)と、沖縄米軍への「風俗利用の勧め」の失点を取り返そうとしての米軍と自民党への媚であり、維新政策の核心でもある。

沖縄の心が「基地の返還・撤去」であって「危険の分散」ではないということを理解できない橋下氏らの思想・感性は、「慰安婦問題」での「施設の管理」「従事者の移動」「従事者の募集の民間への委託」はしたが、「軍」が「直接管理支配したのではない」とする屁理屈と同根だと思う。

 

 

日米安保下、植民地下沖縄での 橋下発言。 その構造的現在地 

橋下市長、米軍・米国民にだけ謝罪。 橋下市長問責決議案。ん? 橋下発言への友の指摘は核心を突いている。                                                                                                  大阪市議会の自民・民主・共産が橋下市長問責決議案を出すそうだ。昭和の戦争を「侵略」とは言えないとする人々、「従軍慰安婦」制度に「軍の関与は無かった」と言う人々が「うようよ」居る自民党には、つくづく「?」とは思うのだが、どうかこの機会に「歴史認識」(を歴史家に任すのではなく)を一から深く考えるキッカケにしてもらいたい。市民も、識者も、学者も、誰も、政治家という職業・立場が歴史認識と無関係に成立しうるなどとは全く思わないのだ。                                                                                                                                          橋下市長は従軍慰安婦と軍(と当時の政府)との関係について、会見で「施設の管理」「従事者の移動」「慰安婦の募集を民間へ依頼」に関して、「軍」が行なった、と言い、拉致・監禁などを行なって、強制的に拘束した事実を示す証拠は無い、と言っていた。それは充分、「軍」の管理・実行じゃあないか!

「慰安婦を『私』が必要と言ったのではなく」「『戦時においては』女性を必要としていたのではないかと発言した」ところ、マスコミに「『私』が容認していると」誤報された、とも言っている。                                                                                            ちょっと待った。「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、どこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」との発言(5/13定例会見)は、マスコミの誤報・デッチ上げなのか? ハッキリさせなさい。                                                                                                               維新は、問責決議が可決されれば、市長辞任・再選挙だと恫喝しているそうな。懲りない面々だなぁ~。                                                                    追記:                                                                                                                                                  夜のニュース報道によれば決議案に賛成するはずだった公明党が反対に転じ、「問責」の文言を抜いた独自案を提出。それぞれ否決されたそうだ。出直し市長選による市政混乱は良くないというのが、その理由だそうだ。来る参院選と同時期は困る、参院選の維新との全国的選挙協力への思惑・・・等々だそうで、勝手にしてくれ!

ところで、橋下氏の「従軍慰安婦」発言が沖縄米軍への「風俗活用の勧め」とほぼ同時期になされた意味について、友人が深い見解を述べているので紹介する。橋下言動の核心だと思う。全く同感!                                                                                                                                                          沖縄の人々にはしない「撤回・謝罪」を、米政府・米軍・米国民にだけ行なう姿勢には、元の発言と同じ植民地観に基づく「思想性」「宗主国性」がハッキリと表れている。

M氏の見解

橋下発言の核心は、「今現在、日米安保維持のために沖縄で最も必要なのは、風俗という名の売春であるのは自明のことである」ので、それを言うためにかっての日本軍の「慰安婦」とされた人たちのことまで持ち出して語ったということだと思います。                                                                                                   植民地沖縄に対する宗主国ニッポンの一人の政治家として、宗主国の安全のために、強制収用で作った基地(土地・空間・社会・危険・軍事)の提供に加えて、植民地沖縄の女性を、かつての先勝国の男に差し出しますからよろしく、と言っているのです。

 

橋下氏の表現の自由・・・

憲法21条:                                                                                                                       1、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。                                                                                                           2、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

橋下氏の一連の言動に対して大阪弁護士会所属の弁護士たちが、大阪弁護士会に「懲戒請求」を起こす予定だ。                                                                                                                                         懲戒請求の準備を進める弁護士によると、橋下氏の慰安婦に関する発言と、在日米軍に風俗業活用を求めた件は、基本的人権を無視し、女性を差別しているなどと指摘。弁護士法が規定する「弁護士の品位を害する行為」に該当するとしている。同弁護士会は請求を受け、審査の対象とすると判断した場合、懲戒委員会で業務停止や退会命令などの処分を決める。                                                                                                                               これに対して橋下氏は「まあ、これだけ表現の自由が守られている世の中で、発言、表現だけをとらえて懲戒請求を出すことのほうが、それこそ懲戒請求もんだ」 「今回は国政全般と歴史認識に関する個人の見解だ。それについてまで懲戒請求をやるっていうのは、ここまできたら懲戒請求の乱用だ」 「表現の自由に対する強烈なプレッシャー、重大な挑戦だ。弁護士がやることか」と反論している。

表現の自由? 特定の個人に向けた発言ではない?                                                                                                                                                       ここ数年街頭にまで登場して「特定の立場」の人・存在に対して、「表現の自由」(?)を盾に「劣等民族」「害虫」「奴隷の子孫」「国へ帰れ」「殺せ:」と叫ぶデモに遭遇、眉を顰めた経験を持つ人は多いだろう。                                                                                          これが、表現の自由の範囲内か?                                                                                                                   特定の集団や個人に対する不寛容・排除を煽る言動(ヘイトスピーチ)は西ヨーロッパでは厳しく規制されている。                                                                                                                                                                                       表現の自由は、あくまで他者も同時に持っていよう自由を排撃しないか、他者の基本的人権の否定・排除・攻撃の為の表現ではないか、「公」的公平性を維持しているか、現実に行なわないまでも刑事罰対象の犯罪に当たる行為(圧政に対する民衆の抗いを除く)を主張していないか、など多くの前提の上に保障される。

5月13日の橋本発言発端に際して各党が見解を述べたが、ここでは公明党山口委員長が、あれこれ橋本発言への解説を省いて最も的確簡潔に述べていた。「弁護士法第一条はこのように言っています。」と紹介した。公明党が好きなのではないが、これは的確だった。                                                                                                                                                                     『弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする』                                                                                                        この度の、大阪弁護士会への懲戒請求は妥当だと思う。                                          

ところで、橋下・石原・その他の発言で唯一「その通り」なのは、「軍と売春っていうのはもうつきものでね、歴史の原理みたいなものでさ。・・・」(5月14日、石原氏)だ。 その通り、それが戦争だ。戦争史を紐解けば、欧米・アジアを問わずそれが戦争なのだ。                                                                                                                                                                                                                              だから、どうなのかを言わぬまま「つきものなのだ」だけを言うなら何を言ったことにもならない。                                                              友人の友人である、優れたフリー・ライター井上理津子さんの毎日新聞特集ワイドのインタヴュー記事を掲載させていただきます。

差別、階層社会を肯定−−  フリーライター・井上理津子さん(毎日新聞 5月16日 東京夕刊)                   

一連の橋下氏の発言は、社会的弱者への差別や階層社会を肯定していると受け取らざるを得ません。「慰安婦になってしまった方への心情を理解して優しく配慮すべきだ」とも言いましたが「支配階層」からの、極めて上から目線の言葉ですね。                                                                                                     「日本の現状からすれば貧困のため(風俗店で)働かざるをえない女性はほぼ皆無、自由意思」というツイッターでの発言には大きな疑問を感じます。私は大阪の遊郭・飛田新地で働く女性約20人に話を聞きましたが、「自由意思」で入った女性など一人もいなかった。貧困だったり、まっとうな教育を受けられなかったりして、他に選択肢がないため、入らざるを得なかった女性が大半でした。経済発展を遂げたとされる現在でさえそうなのに、戦前においては言うまでもないでしょう。                                                                                                                                   橋下氏は「慰安婦を暴行や脅迫で拉致した事実は裏付けられていない」とも発言しましたが、あまりにも限定的な考え方です。慰安婦になる以外に選択肢がなかった女性にとっては強制以外の何物でもないんです。「軍の維持のために必要だった」という発言に至っては、戦争を容認している証し。正体見たりです。                                                                                                               苦しい事情を背負った女性の境遇、慰安婦に送り出さざるを得なかった家族の思い、社会的背景に心を致しているとは思えない。政治家の役割を果たしていると言えない。【聞き手・江畑佳明】                                                                                                         井上理津子:1955年奈良県生まれ。長年大阪を拠点に活動した。著書に「さいごの色街=飛田」 「大阪下町酒場列伝」など。

吉永みち子さんの「赤旗」の記事も添付しときます。

 

「論評に値せず!」と捨て置けるほど微勢力ではない。

論評に値しない!と多くの人が呆れている。維新の会橋下共同代表の最近の言動だ。                                                                                          右翼中校生程度の歴史認識に基づく浅識が、彼の場合「自己切開」「自国史検証」の自省的スタンスを欠いている為、どんどん肥大化して行く。                                                                                                                                                                    元々、発言する度に「調べもせず浅い情報と雰囲気で」思い込み内容を「事実」のように強い口調で言うので、次回には前回内容を一層強固に主張するしか道がない。そういうエンドレスのサイクルに入っていたのだ。その構図がとうとう政権党のカッコ付きの民主主義者や友党から「論評に値しない」と言い切られる事態に至った。

昨夏「橋下政治の本質」を、ぼくは「公的事業の一層の民営化・教育や福祉の場を競争一色に・効率化と言う名の「公」事業切捨て・その必然としての公務員労働叩き・新自由主義とナショナリズム」を「度し難い幼児性・独善性に基づく攻撃性と懲罰主義で強行する圧政」と、規定した文をブログアップした。                                                                                                                              今回、その幼児性・独善性・攻撃性は、奇妙な被害者意識とそれこそ自虐史観に立って「欧米も同じことをしたのに、日本だけが世界から非難されている」と展開される。「おかあちゃん、ボクだけが非難されるよ」と訴える狼少年虐めっ子の言い分のようだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   そういう主張こそが、「日本だけが世界から非難される」根拠なのだという構図が何故解らないのだろう・・・。                                                                                                                                                                                                                 従軍慰安婦問題・沖縄植民地観・侵略の定義・歴史認識・沖縄集団強制死に軍関与は無い・君が代斉唱強制・公務員バッシング・権利剥奪・教育の場の競争と強権統制・改憲・・・・                                                                                                                                                                                                それらは根が一つの事だとよく解る。それらは、やはり、別々にことではないのだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     そこを市民が理解できるように発信してくれたのだ、と橋下の「反面教師」振りを語るには、包囲は強固で逆クーデターは進行中だぜ!                                                                                                                                  開いた口塞がらない、言語道断、論評に値しない!で放ってはいけない。若い人に何が・何処が・どう間違っているか、伝えたい。                                                                                                                           

5月20日追記:                                                                                                                         現に朝刊の世論調査報告によれば、橋下発言を「大いに問題がある」とした人は32%、「ある程度問題がある」が43%、合わせて75%が「問題あり」と答えているが、安倍自民の支持率は上がり、参院選比例区投票先を自民とした人は何と49%と空前の数値を示している。                                                                                                                                しかし、日頃の言動や国会答弁に明らかな通り、安倍氏の歴史認識は橋下とほとんど変わらないどころか、一層強固で年季を重ねているのだから、「世論」なるものの二重・三重の屈折はこの国の深層実相か。                                                                橋下氏の妄言は「反面教師」どころか、逆クーデター勢力の「後方援軍」となって受け容れられるのだから「世」は怖い。                                                                                                                                                                                                         

橋下氏に進呈:                                                                                      弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。(弁護士法第一条)

 

逆クーデター、改憲、維新・・・その事態には共通する言葉が出てきますね。

安倍自民党の改憲への暴走は「まるでクーデターだ」と言われている。                                                                         通常のルールを一挙的に改変し、それまでの政権の権能範囲や国家の運営方法を                                  根本的に変えたい行動という意味でその通りだと思う。                                                                                                                                                      反政府勢力などによるクーデターと違い、政権に在る者が、より強大な権力を目指して行うような場合、                                                                                          通常のクーデターと区別して「逆クーデター」とか「自己クーデター」と呼ぶらしい。

歴史上有名な逆クーデターに、1851年のシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ルイ・ナポレオンと略されている。ナポレオン・ボナパルトの弟の三男、つまりナポレオンの甥))によるクーデターがある。                                                             1848年革命で、ルイ・フィリップの7月王政が倒れ、第二共和制が樹立されると、ルイ・ナポレオンはフランスへ帰国。大統領選挙に出馬。                                                                                                                                                                                                                    それまでボナパルト家の帝政復活を夢見て国外から発し続けたあれこれの策動(労働者階級の保護を主張し、貧困層にアピールした1844年の著作『貧困の根絶』は有名)の効果と、ナポレオンという圧倒的知名度によって、圧勝する。                                                                                                                                                                                                             この第二共和制は国民議会の力が強く大統領権限は比較的に弱かった。ルイ・ナポレオンにとっては「決められない政治」であり、議会に主導権を奪われ続けた名誉職的大統領であったらしい。                                                                                                                                                                          1851年、国民議会の解散、大統領権限を大幅に強化した「新憲法」制定などを強行して独裁体制を樹立。翌1852年には国民投票を経て皇帝に即位し、第二帝政を宣言、「ナポレオン三世」を名乗った。この一連の政変を一般に「ルイ・ナポレオンのクーデター」と言うらしい。                                                                                         ナポレオン三世は1870年、普仏戦争に突き進み、自ら捕虜となり、70年末からのプロイセンによるパリ包囲下、71年1月、フランス降伏。1871年3月パリ・コミューンが成立。

 

近隣・近年では、韓国第五代(~九代)大統領朴正熙(パク・チョンヒ)による1972年の「十月維新」も逆クーデターだと思う。                                                                                                  1971年の大統領選挙に金大中が新民党(当時)の正式候補として立候補したが、民主共和党(当時)の候補・朴正煕現役大統領(当時)にわずか97万票差で敗れた。朴正煕は辛くも勝利(実は金大中が勝っていたと言われている)したが、民主主義回復を求める金大中と背後の世論に危機感を覚えていた。                                                                                                                                                                                                                   (そんなさなかの大統領選直後、大型トラックが金大中の車に突っ込み、3人が死亡。金大中は腰と股関節の障害を負った。後に韓国政府はKCIAが行った交通事故を装った暗殺工作であったことを認めている。)                                                                                                                       1972年10月17日、突然大統領特別宣言が発せられ、国会の解散・政党の廃止・政治集会の中止などを決定し、韓国全土に非常戒厳令が布かれた。「十月維新革命」とも言う(21世紀日本には、大阪発の「維新」が居るなあ)。                                                                                                                                            政治活動が禁止され政党が廃止されるという戒厳令の中で「統一主体国民会議」が構成され、朴正煕は「我が民族の至上課題である祖国の平和的統一」のために 「私たちの政治体制を改革する」と宣言し、強制的に改憲が行なわれた。10月27日議決、11月21日国民投票で確定。12月27日発布。「維新憲法」という。                                                                                                                                                             そのとき海外にいた金大中は韓国に帰れば殺されると判断し帰国を断念。日本やアメリカの実力者と会見をしたり、海外在住の同胞達に講演したりして、韓国の民主主義と自由選挙を求める運動を行っていた。                                                           翌1973年、8月8日いわゆる「金大中事件」( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6 )が日本で起きている。                                                                                                                                                                                                                                                     後年、韓国政府・日本の警察庁がともにKCIAの犯行だと認めている。                                                                                                                                                                                                                   韓国では、その後、1979年10月26日に朴正煕が側近に暗殺され、崔圭夏大統領権限代行就任から12月6日統一主体国民会議で同氏第十代大統領に選出。79年12月~80年1月までの軍内部の乱(粛軍クーデター)、ソウルの春と呼ばれ全国に拡大した民主化要求、同5月17日全斗煥らのクーデタ-(非常戒厳令拡大措置、金泳三・金大中・金鍾泌ら逮捕)、5月18日光州市で民主化要求市民決起(光州事件)、軍の過剰鎮圧、へと向かう。8月、崔圭夏大統領辞任、9月1日、全斗煥、第十一代大統領に。

現在ある統治制度・統治機構・憲法や法体系では、自分たちの統治・支配が思うように出来ない、不都合がある、だから強権的に支配者・政権側が「上」から議会や法や機構を変更し、権限強化の「超法規」的処置を実行する。それが、逆クーデターなら、次の例はどうだろう?                                                                                                                                 ブッシュ・チェイニー・ラムズフェルドが推進した、「ガサネタ」で「大量破壊兵器はある」と米議会・国連騙しを遂げ、イラクへの攻撃を正当化した一種の「超法規」処置体制はどうなのか? 政権・米議会・国連の乗っ取り行動なのだが・・・。                                                                                                                                                                                                                                                   これもカタチは違え逆クーデターの変形だ。戦争したい、先制攻撃の名分は捏造する、国民は「敵に付くのか?民主主義防衛の側に付くのか?」と迫れば付いてくるさ、と多くの反対・国際査察団の忠告を無視して走ったイラク戦争開始への無法の行いは逆クーデターだろう。                                                                                                                      (このネオコン政権の余りのデタラメに、激怒した軍部の某将軍・某司令官らによるクーデターが実行直前だったとの説あり。)                                                                                                                                                                                                                                          (コリン・パウエル元国務長官は「人生最大の恥」とのコメントまで付けた「誤情報告白」を正規の公聴会でしている)                                                                                                        ところで自民改憲案、その改憲の内容に入る以前に96条からという裏技で攻める攻撃。国会議決のハードルを下げる、すなわち可決水準を一般法と同等にする。これは、立憲主義の否定。憲政の根幹の変更だ。                                                                        改憲の中身は「憲法三大原則」(基本的人権の尊重、国民主権、戦争放棄)の根本変更=解体なのだ。                                                                                                                                                                  ゆえに、逆クーデターではないのか。

日本国憲法 第九十七条:                                                                                                       この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、                                                                                                                                           過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

 

国民栄誉賞と背番号96

背番号3氏は、愛すべきキャラクターの国民的スターだったが、                                                                                   背番号96氏はいただけない。

 

国民的に人気は高いが、遠の昔に引退した長島茂雄氏と日米野球界で活躍し引退した松井氏を引きずり出しての「国民栄誉賞」授与という、ややピンボケの、これまでの授与とは異質な儀式が去る5月5日:東京ドームであった。                                                                                                                                                                            授与式の後、投手松井・打者長島・捕手巨人監督原の「始球式」形式のパフォーマンスがあり、そこに登場した安倍首相は何と96番の背番号を付けてアンパイア役をしたという。                                                                                                                                                         「改憲は、96条から行くぞ」との決意表明だとネットにあった。国民栄誉賞は元々が歴代政権の「恣意的な」人気取り政策的面があったが、96番を付けるとはこの賞利用の魂胆を示して正直だとネットは言うが・・・。                                                                                                                                                                                                                                                                                  いや私は第96代首相でして・・・との言い訳も準備しているそうな。悪乗りの類だ                                                                                                                  

ところで、安倍首相の盟友にして、ある面で自民党の上を行くとも言える某政党の綱領から・・・。                                                                                                         どう読むかは各自の歴史観・世界観・思考の世界性によるので、好きに読むしかないかな。                                                                                           『日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる』(「日本維新の会」綱領)                                                                                                                                                                                                                                                                              えっ? 現行憲法ゆえに孤立しているというのは何時のどの案件を指しているのか?                                                                                                                     現行憲法ゆえに軽蔑されているというのは、いったい何処の誰から、どのように?                                                                                                                 そういう捉え方こそが「幻想」だろうが・・・!                                                                                                                                                                     かつて近隣諸国の主権を奪った者が後世にそれを伝える責務を放棄し、又、植民地として扱って来た一部地域の施政権を戦勝国に売り渡し(今なお全く同じ扱いを続け)たその日を、自国の「(擬制)主権回復の日」として祝うという神経。                                                                                                                                 その神経と歴史認識こそが、「孤立」を呼び込み「軽蔑」の対象となるのだとぼくは考えている。                                                                      

2012年12月、安倍首相街頭演説

 

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