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つぶやき: 東京出稼4年目。谷根千(ヤネセン)から品川宿へ…

谷根千(ヤネセン)『「坊ちゃん」の時代』から 品川宿『幕末太陽傳』へ・・・

 先日、某・忘年会で出会った友人に声を掛けられた、「仕事や睡眠を削ってブログ書いてんのか?」 と・・・。 ネタをバラしておく。ブログを立上げて以来、過去に「人の迷惑 顧みず」メールで発信していた「駄文」(といっても自分としてはお気に入りの)を微修正、せっせと「転載」しているだけ。だから、今のところ労力はほぼ皆無。迷惑メールだった人々は、たぶんホッとしていることだろう。迷惑だとサインを送ってくれた人が、案外読んでくれていたのだが・・・。しかし、長文の「強引自説」メールは「迷惑」に違いない。

 某社東京支店立上げで上京したのが06年10月だから、ようやく満3年が過ぎ4年目に入ったところだ。08年7月まで、文京区本郷は東大近くに居た。仕事の先行きに自信も無く、業務は独りで何とかこなした。  東へ坂を下ると根津がある。「谷根千」(やねせん)=谷中・根津・千駄木の街並みは漱石・鴎外・わがまま啄木らの『「坊ちゃん」の時代』(双葉社、文:関川夏央、画:谷口ジロー)の息遣いが感じられ、震災・戦災を超えて昭和ばかりか明治まで見えるような気がした。その気分を『明治~平成 根津権現坂』  http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re69.html#69-2  に書いたりしたのだが、そこから、啄木へ、やがて啄木の妻:節子へと遊泳したのだった。 だから、節子さんに出会えたのは、住居近くの散策のお陰だと言えなくはない。  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-2.html 

 08年7月、東京支社はようやく3名態勢となり、南品川に3階建ての事務所兼自宅を借り移転した。ここは東海道品川宿。 街道の街並みは、参勤交代の人馬の響きまでが聞こえて来そうな趣で、なかなか人も街も魅力的なのだ。 

品川宿と言えば、名作:『幕末太陽傳』(57年、日活、監督:川島雄三)の「居残り佐平次」。                    

幕末太陽傳

やがて品川宿散策から、幕末~21世紀の何人もの「居残り佐平次」に出会えるだろうか・・・。 北品川駅近くに「売防法」前の「赤線」があったそうで、ある世代以上のある趣向の人には「北品川カフェ街」=「16軒の特飲街」として知られていた。 品川宿という語には、そうした背景色が湿気を帯びて付着しているらしい。 

 幕末の志士、明治の民権派、西欧コムプレクスと格闘した明治人、大逆事件の人々、関東大震災、軍国昭和、開戦・大空襲・敗戦、東京湾上のミズゥーリー号・進駐軍・マッカーサー~『敗北を抱きしめて』の時代、幻の2・1ゼネスト、砂川闘争~伊達判決、60年安保闘争、67・10・8他の羽田へも近い、・・・・。 江戸の手前、大東京の喉元、品川宿。 

 『幕末太陽傳』佐平次の「幻のラスト・シーン」=【佐平次(フランキー堺)が撮影セットを突き抜け、スタジオの扉から外へ出て、現代(57年)の品川の街並みを[ちょんまげ]頭のまま走り去って行く。映画の登場人物が現代の格好で佇んでいる・・・】 のように時空を突き抜けたいものだ。                                     本来、時代は地続きなのだ。

品川宿独り暮らしの自作モーニング(どう?美味しそうでしょう?)と、事務所兼住居3Fから視た 品川神社・荏原神社合同の天王祭

モーニング (1)

事務所3Fから観る天王祭

つぶやき: 民主党に告ぐ

 
野古新基地建設反対!
普天間基地即時撤去!
嘉手納統合策動粉砕!
 
国会前で横断幕の下に座った「9条改憲阻止の会」の親爺さんが
次のように語っていた。
『「OCCUPIED OKINAWA」。
 ヤマトが 明治政府が そして日米が、沖縄を占領し続けて来たのだ。
 「戦後」というもの総体が、そのことを与件として成り立って来た。
 沖縄はその丸ごとの見直しの開始を、求めている。 』 
 
保守二大政党というものが、上述親爺が言う与件を前提とする「合意」によって
成り立つとしたら、保守二大政党ということがすでにして『大連立』なのだと思う。
そもそも、先年、小沢・福田の大連立構想を阻止した民主党(の諸氏)には、
アメリカ型二大政党、大連立の変形であるような保守二大政党、ではなく
対立軸がより明確なヨーロッパ型大政党への構想があったはずだ。
日本での明確な対立軸について設定されるのは、
「小さな政府 vs 大きな政府」 「新自由主義 vs 社会民主主義」などと言われるが、
実は、明確なのは、日米安保体制を根幹とする「戦後」そのものへの「立位置」なのだ。
ここを譲り、「丸ごとの見直しの開始」を見送るなら、その位置は「合意」の内側に在り、
つまりは、二大政党のカタチを採るが実質大連立体制であり、
大連立構想を押し返した民主党議員らの志(?)は潰える(?)のか? 
あるいは、構想した二大政党へ進むのか・・・・? 
現在(いま)正にその岐路に在る。その鍵は、「憲法」と「沖縄」への立位置にある。
沖縄・辺野古・米軍、ここで社民党を寄り切って、民主党政権が向かう先は何処なのか?

突然ですが

渡辺白泉 【わたなべ はくせん】
 1924(大正2年3月24日)~1969(昭和44年1月30日
渡辺 白泉

 

 

 

                                                                                                                           弾圧の厳しい戦時下にあって、京大俳壇は
国家・社会に対する批判精神を持ち続けた。
各誌は廃刊に追い込まれ、白泉も検挙された。

重い「冬」、快晴下・静寂の「夏」が迫る。
季語を超越した季語だと言われている 。
 
銃後といふ不思議な町を丘で見た (1938/昭和13)
 
戦争が廊下の奥に立つてゐた (1939/昭和14) 

玉音を理解せし者前に出よ (1945/昭和20)

 

つぶやき&歌遊泳: 【おさななじみ】異論

【おさななじみ】にみる『公的記憶の改竄又は無化』
 
1963年発表 作詞:永六輔 作曲:中村八大 
 
おさななじみの 想い出は 青いレモンの 味がする 閉じる瞼の そのうらに おさない姿の 君とぼく                                                                             お手々つないで 幼稚園 つみき ぶらんこ 紙芝居 胸にさがった ハンカチの 君の名前が 読めたっけ                                                                           小学校の 運動会 君は一等 ぼくはびり 泣きたい気持ちで ゴール・イン そのまま家まで かけたっけ                                                                             にきびの中に 顔がある 毎朝鏡とにらめっこ セーラー服が よくにあう 君が他人に 見えたっけ                                                                                        出すあてなしのラブレター 書いて何度も読みかえし あなたのイニシアル何となく 書いてやぶいて捨てたっけ                                                                          学校出てから久しぶり ばったり逢った二人とも アベック同士のすれちがい 眠れなかった夜だっけ                                                                                 あくる日あなたに電話して 食事をしたいと言った時 急に感じたむなさわぎ 心の霧が晴れたっけ                                                                               その日のうちのプロポーズ その夜のうちの口づけは 幼ななじみのしあわせに かおるレモンの味だっけ                                                                             あれから二年目僕たちは 若い陽気なパパとママ それから四年目幼な子は お手々つないで幼稚園                                                                                おさななじみの 想い出は 青いレモンの 味がする 愛の印の幼な子は 遠い昔の君と僕
 
永六輔は、作詞時期=63年当時に高校生か大学生(つまりは16~22)である諸君の少年期を拝借し、彼らが自身の近未来から、個人史を振り返える。
そんな設定で、時代・世代を問わず歌える歌を作詞したに違いない。そうだとは思う。
しかし、当時30歳の永が1933年生まれ、歌い手の初代デューク・エイセスが30年代後半生まれの若いパパ・ママ達であってみれば、                                                                 聞き手がそこで「作り手の幼少期、初恋、結婚なのだ」として聞いたとしても、
それは聞き手の責任ではない。事実、当時誰もがそう聴いたのだ。
  
さて、ぼくの言い分。
歌詞から主人公カップルの年齢を推理すると、
学校出て数年後再会しプロポーズ、
で2年後若いパパ・ママとなり、さらに4年後の今(63年)、
子が幼稚園へ通っている。
整理すると、大卒22歳+数年+2年+4年=30歳前後
ということになる。高卒だとしたら26歳前後。
従って、彼らの生年は、
1963(歌発表年-30=1933 33年(昭和8年)前後、
敗戦時12歳で、戦後を18年間生きた、そういう世代だ(高卒ならマイナス4歳)。
彼らが戦争期を小学生として過ごした体験は強烈に刻印されているはずで、
はたして歌詞にあるような幼児期だっただろうか・・・?
幼き日々の記憶に、わだかまって沈殿しているものこそ、「生」の核心だ。
描かれている世界は我が世代(1947年生)を含む戦後世代の幼児期のように思えて仕方ない。
何故か? 戦争の影、その不在なのだ。
 
歌には、敗戦期を挟んで、戦前戦後を生きた少年少女の証しが、全く無い。 都市部在住なら空襲や疎開もあったろう。
地方を含め、物資不足・勤労動員・ひもじさや父不在、
そうした戦争期の社会構造や風景の中で生きたはずだ。
敗戦後、ギブミーチョコレートと声を上げジープの後ろを追ったかどうかはともかく「進駐軍ジープの排気ガス」、                                                                            焼跡・闇市の雑踏と喧騒、進駐軍・価値混乱・戦後の諸改革を目の当たりにして生きたのだ。
自身でなくとも、父や母、兄や姉、身近な者の「戦争」を因とする受難も見たはずだ。 
 痛苦の記憶の味・匂い・香りを、                                                                                     「青いレモンの味」一本へと変換する装置こそが、公的記憶の無化装置であり、
大衆と呼ばれる存在の生きて行く為の方法論なのだろうか・・・? その装置がこの歌にはありはしないか?
ぼくのようなひねくれ者が聞くと、敗戦を12歳で通過した者の飢餓感や悲哀なんぞは、
明るい未来に彩られた所得倍増社会を生きる者には邪魔だと言っている、と聞こえなくはない。
作者が、当時のサブ・カルチャーの多くと同じく
たとえ無自覚であれ(自覚してであれ)「もはや戦後ではない」という掛け声を容れ、
公的記憶を改竄しその無化に手を貸していると言われてもしかたあるまい。
そう言われては、他で戦時下の児童の体験談などを反戦論として語って来た永は辛かろう。
で、我らは、
戦争期・敗戦期の公的記憶を改竄し無化するような「愛国政治」「衆愚文化」「勲章文化「お上ヨイショ言説」・・・、
そこには決して与しないぞという意志を持っていたい。
それが、我ら「民」の存在論的可能性ではないだろうか・・・? 
自分たちの記憶を結果として無化しては、在日・沖縄・など少数「他者」 の受難の「記憶と現在」への想像力を持ち難いのではないだろうか?
 
【参考1963年という年】
映画:「にっぽん昆虫記」「武士道残酷物語」「拝啓天皇陛下様」「真田風雲録」
歌謡:「長崎の女」「高校三年生」「美しい十代」「こんにちは赤ちゃん」
事件:吉展ちゃん事件、松川事件全員無罪、大阪地裁吹田事件全員無罪、狭山事件
商品:電機蚊取機ベープ、コーンフレーク、
造語:カワイコちゃん、三ちゃん農業、ピンク映画、OL、
価格:ビール115円、銭湯23円、大卒初任給\19,400、
 
【1963年に30歳前後だった人々】
作詞者:永六輔が、まさに33年生まれなので、歌の主人公をその世代と仮定する。
1963年に30歳前後(1932、33、34年生れ)はこんな人々(現在74~77歳)だ。
32年:岸恵子、船村徹、滝田ゆう、仲代達也、小田実、遠藤実、渡辺美佐子、
33年:江藤淳、岡田茉莉子、渡辺貞夫、南田洋子、永六輔、伊丹十三、
34年:児玉清、財津一郎、大橋巨泉、山田太一、皇后美智子、米倉斉加年、
 
学童疎開②
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
例えば彼らをウィキペディアで引くと、共通体験、頻度最多事件は学童疎開なのだが・・・。
台東区(旧下谷区)生れの永自身も「学童疎開」の体験者だ。

エッセイ:映画『三丁目の夕日』異論

 

全文は http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re57.html#57-3 でどうぞ。

【イントロは下記】

1958年(昭和33年)。東の都は、帝都の香り匂うがごとく今盛りなり、と華やいでもいた。

 若い勤労者は、社会への目を閉じる限り、上司に『おーい中村君』(58年、若原一郎)と呼び止められても『有楽町で逢いましょう』(58年、フランク・永井)と逢引を謳歌できたし『銀座九丁目は水の上』(58年、神戸一郎)と浮かれることもできた。湘南族の国民的スターは『俺は待ってるぜ』(57年、石原裕次郎)とイキがっていても、東京でひとり働く娘は、母を招いた久し振りの再会に『東京だよおっ母さん』(57年、島倉千代子)と無理して散財し、翌日はまた独り『からたち日記』(58年、同)を書いて自らを慰めるのだった。

 街工場の若者は、旗揚げした組合が暴力経営者に足蹴にされ、不参加者からは『だから言ったじゃないの』(58年、松山恵子)と嘲笑われても、クルリと輪を描いて支持してくれる『夕焼けとんび』(58年、三橋美智也)たちを信じることもできた。村では 駅まで三里の『柿の木坂の家』(57年、青木光一)の青年は『愛ちゃんはお嫁に』(56年、鈴木三重子)と太郎を恨んで泣いていたし、友も『東京の人』(56年、三浦光一)を『哀愁列車』(56年、三橋美智也)で見送ったのだ。

三丁目(小)

エッセイ: 啄木の妻:節子の「初恋のいたみ」

ソプラノ版で知っていた、歌曲「初恋」(詞:啄木、作曲:越谷達之助)を、
先日テノール版で耳にしたとき、「この歌はソプラノこそ似つかわしい」と強く思った。何故そう思ったのかをずっと考えていた。                                                                                                               いま、その理由が分かった。
啄木の初恋の相手、堀合セツ(節子)が唱っていると思えたからに違いない。
                                                                                                                               砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
 (『一握の砂』啄木 より)                           
                                                                                                                                                   【歌曲:初恋】     作曲:越谷達之助 歌唱:唐澤まゆこ
 砂山の砂に
 砂に腹這い
 初恋のいたみを
 遠くおもひ出づる日
 初恋のいたみを
 遠く遠く
 ああ ああ
 おもひ出づる日
 砂山の砂に
 砂に腹這い
 初恋のいたみを
 遠くおもひ出づる日                                                                                         http://www.youtube.com/watch?v=9uDjESlhcZ8
 

 
 啄木の初恋の相手とは才媛と謳われた堀合セツ(節子)である。
 岩手県立盛岡中学校二年の時で、当時啄木十三歳。少年の初恋だ。
 セツへの恋は、啄木が短歌に本格的に取り組み始めた15歳の頃から、相互の恋となって育って行ったと言う。セツは、啄木の下宿へ、詩作を学ぶとして入りびたり、街に噂が立ち、セツの父は妹の同行を条件にしたり、次に交際を全面に禁じたりしたが、セツの巧みな戦術で突破される。父は心配し、一途な娘の姿にその前途を案じた。
 1902年(明治35)10月、十六歳の啄木は苦手科目のカンニングが発覚し、退学勧告を受け已む無く退学。それを機に念願の上京(東京に出て、文士になる?)を敢行。同じく十六歳の節子はこう言葉を贈って激励する。
理想の国は詩の国にして理想の民は詩人なり、狭きアジアの道を越え、立たん曠世の詩才、君ならずして誰が手にかあらんや。」と……。
                                                                                                                                                      本文、結び ↓
『あの歌は、期せずして節子の独白だ。節子のものだ。彼女の「生」の証しだ。                                                                                                                                                                                                                 啄木ではなく、 節子こそが「初恋のいたみ」に殉じたのだと思えて来る。  合掌。』
***************************************************************************
                                                                                                                     *全文は http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-2.html  でどうぞ。

エッセイ:明治~平成「根津権現坂」

【本文より一部転載】 

漱石『こころ』の「K」は誰か?

識者は言う。明治の大文豪たちは「大逆事件」に際して、こぞって、沈黙をもって応えた、漱石もしかり、と。                                                        「K」とは幸徳秋水である、と。(注:徳富蘆花は兄の蘇峰を通じて死刑の執行停止に動いた。永井荷風は「文学者」停止を宣言、世間に背を向けた。昭和の戦争に対してもその姿勢は一貫していたと言われている。)
 高橋源一郎『日本文学盛衰史』によれば、「大逆事件」前後に漱石に推薦され場を与えられ、秘密裁判が始まるや、その同じ漱石に「場」を奪われた人物が居る、という。                                              その人物は漱石を「先生」と慕い、何かにつけ相談にやって来ていた。
名を工藤一という。イニシャル「K」だ。・坊主の息子・途中で姓が変わって周りを驚かせた。                         彼は大逆事件に相前後して、「明治の暗黒」を撃つ評論を書いている。それは日の目を見なかった(どこにも出なかった。死後発見された)その評論は、今日では誰もが知っている。                                                               『こころ』の「K」のプロフィールにピタリ合致する。
 明治四十三年八月、彼はある評論を書いている。「大逆事件」の僅か二ヵ月後である。
 朝日新聞文芸欄に掲載されるはずであった。誰が執り持ったか?                                                                   「K」はその短い生涯のうちに、ただの一度も漱石への非難・異論を口にしなかったという。彼は「じっと手を見」ていたのだ。

 『何もかも行末の事見ゆるごときこのかなしみは拭ひあへずも』(同年8月)                                                *全文は http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re69.html#69-2  で…

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