Archive for the ‘ぼやき つぶやき 駄エッセイ ’ Category
つぶやき: 大道芸
東京駅東方500M、京橋のオフィス施工現場から、
現場の某小傷の補修剤を求め、有楽町ハンズへ歩く。
その帰路、有楽町駅まで来て、ガード下で白人大道芸に遭遇。
糸あやつり人形のバイオリン弾きが聞き覚えある曲を奏でている。 ハンガリー舞曲第五番だ。
バイオリン弾き人形の年齢と並ぶか越えるかしているはずの
かつて青年だった男の奮闘、哀愁漂う表情と見事な所作に魅せられた・・・。
その大道芸には、彼の時間に相応しい味と香りがありそうだ。
人は、こうした少し年長の分身が居てこそ、
生きて行けるような気がする。
自身が操ってきた仮想相棒の 設定年齢を
たぶんぼくも越えたはずだが・・・。
う~ん、あ~ぁ、うん、・・・。
『異境にて苦き月日の大道芸 相棒人形の齢を越えおり』
つぶやき: 労働の原圏
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この業界(内装施工業)に永く居る。
74年にこの業界に入り労組結成、 3年後に勤務会社が組合潰し目的の偽装破産をし、
自分たち(労組)で会社を立ち上げ同業を継続して20年、
98年にその社を破産させてしまい、
フリーターの果てに行くところもなく同業社に拾われ・・・てな具合で、
出入りはあるものの業界在籍期間は合算30年強になる。
考えてみると、その期間の大部分はいわゆるホワイトカラー・デスクワーク中心の
管理者・企画者・営業畑そして経営だった。
現場に出かけてその「裏方」の作業工程を見ることはあっても、
それを身をもってつぶさに知り体験することは、ほとんどなかったように思う。
今回(06年~)の東京単身赴任は、一からの支店開設(現在は3名)・人が居ないなどの条件下、
あれもこれもしなければならず、ほぼ初めて「裏方」を常時体験している。
具体的には、施工開始前の搬入経路の養生・現場全面養生・墨出し作業・
日々のゴミ片付け・資材什器の搬入・施工終了時の大量の廃材の搬出と積込……
それらを、永く見て知りながら自身が行なう事はほとんどなかったのだ。
だが、これが「奇妙な心地よさ」でもあるから不思議だ。
ここを知らないまま、自主経営時代の多くの施工例(中には名の通った店もあるのだ)を、
我が実績のように考え自惚れていたのだ。
だから、今回(06年~)の体験はぼくにとっては、実に良かったし、
リタイアを間近にした時間に、こうした経験を得たことは貴重なのだ。そう考えることにしている。
労働が細分化され、働く者が労働の先の全体像が見えない(想い描くことさえ不可能な)
構造の中では、人々が共働概念を持つこともまた困難な現代社会・・・・そこが恨めしい。
以前、大手金融機関に働く知人がある時「我々虚業は・・・」と自嘲気味に語ったのだが、
ぼくは、そこにある誠実を感じたものだ。
現代社会は人間の労働を、人から遠いところへと持って来たのだなあ・・・とは思う。
だが実は、「現場性」や「全体性」というものは、働く者が本来乞い願っている要素かも知れない。
であるなら、労働の細分部門性・専門性・個別性を不断にシャッフルして、その乞い願う要素へと
仮解放する手立てを「労使」が試行しないことには、労働を人に取り戻す道は遠い。
効率や品質維持に影響が出ない範囲の現場体験を工夫してよいのではないか?企業にそんな余裕はないだろうが・・・
製造過程や施工過程、運搬や在庫管理の「現場」に一時関わる・・・それだけでもずいぶん違うのではないか?
いや無理か・・・? グローバリズムは「労働の原圏」のより一層の解体過程でもあるのだ。
熊沢誠先生にこの辺りの「論」があったように思うのがだが思い出せない。
もちろん、ぼくは、元々不足する体力的にも年齢的にも、「しんどい」のである。
出来ればご容赦願いたいと、その渦中では考えてしまっている。
現場ラストの擬似達成感に騙され(?)、「内装乞食」を続けている。
(「河原乞食」とはよく言ったものだ。一度味わえばやめられないのが「乞食」だそうです)
つぶやき: 新宿現場足捻挫。 ふと母を想う
工事は進み、終盤に差し掛かっている。ホッとしたその矢先、
徹夜ボケか、右足首を軽捻挫。床に零れた塗料に脚を取られたのだ。
怪我をするのは、えてしてこうした気が緩んだ時なのだ。
あ~ぁ、又やってしまった。
幸い、4~5日で治まりそうな軽度な捻挫だと思う。
足首を捻挫するのも、脚があるからのことだ・・・・・・と思うことにしたい。
脚を引きずり、始発電車へ急いだ。
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昨秋満90歳を迎えた母は、現在某市の「特養」に入居している。
体力的には年齢相応なのだが、なかなか頭脳明晰(?)で衰えを感じさせない。
昨秋新型インフル騒ぎで遅れた卒寿の祝会を、今秋することになっている。
父母は、92年から私の家に同居していたのだが、
98年に私は20年維持した会社を破産させてしまう。
母は、夫(私の父)の死去、孫も成長し昼間独りの孤独と不自由、
息子家族の、家屋からの法的立退き・・・などを前にして、
同年某市のケア・ハウスへの入居を選択する。
入居直後の母の歌。
『枯れ庭に 白き水仙匂いたち 独りの冬を誇らしげなる』
ハウスでの時間を独りで生きる、その覚悟を水仙に託して詠ったと思えるこの歌は
詩人:清水啓三氏から絶賛された。
本人は「ワテは水仙の凛々しさを詠ったまでやけど・・・」とアッケラカン。
幸い近くに住む私の弟夫妻が寄り添い、
兄夫妻・私の女房、各孫たち・・・が、頻繁にハウスを訪れ、
ハウスでの母は、本音か強がりかは微妙だが、「ちょうどええ感じや」と
家族との程よい距離を楽しむように、元気に振る舞い、歌会を立ち上げ、そして暮らした。
体力の衰えと、いくつかの病もあり、先年ケア・ハウスと同系列の「特養」に入居する。
2008年夏、母は「閉塞性動脈硬化症」←http://www.gik.gr.jp/~skj/aso/aso.php3
の発見が大幅に(一昼夜)遅れたことから、左脚膝部より先が壊死状態となり、切断に至った。
現在、片脚を失った失意と不自由を克服して、命の最後を「生き抜いて」いる。
【08年夏。足切断の母を見舞ひて九首. 品川宿康麿】
病床に身を起こし居り膝撫でて
「これ可愛いねん」と 母のつぶやく
包帯に丸く小さくくるまれし
膝切断部 「ぬいぐるみ」のごと
膝切断部 「ぬいぐるみ」のごと
膝先を可愛いと言ふ母 遠き日の
恋人形探す 三歳の童女
乳児期を乳母の許で育った母は、
ゆえあって、三歳で実家に戻った。
生母になつかず、実家に馴染まず、
いっしょにやって来て大切にしていた人形を抱いて、
乳母恋しと毎日泣いたといふ。
その人形が、ある日を境に突然姿を消す。
その日の記憶は鮮明で、母の歌集に
「みれん断ち実母に返すが此の稚児の 幸せならんと諦めし乳母」
「やすらかな寝息たしかめ帰りしとう 若かりし乳母とわれとの別れ」
「乳母里より付き人のごと添いて来し 田舎人形夜ごと抱きしよ」
「いつの間にか姿消したる縞木綿の 人形恋いて泣きし幼日」 とある。
(私は、角田光代:著『八日目の蝉』を読んだ際、会ったことのないこの乳母とその母性を強く思い浮かべた。)
誰が何を想って棄てたのか?と問うている。
三歳児の記憶としては、あまりにも重く酷な記憶だ。
以来、互いにとって「不幸な母子関係」が永く続くこととなって行く。
切断部抱く母の背に戦禍見る
子のなきがらに すがる母親
無いはずの足先疼くと母訴う
「わて諦めても脳憶えとる」
「わて諦めても脳憶えとる」
無き足が疼くは人の想いに似たり
断ち切り渡る 我が師の海峡
母子違和の連鎖絶たむと育て来し
四人の男児(おのこ)初老となれり
ミスや過誤言い募らざる老の意に
我が半生の 驕慢を知る
生家にも嫁家にもつひに容れられぬ
ベルリン-共同から: ドイツ市民 ネオナチ・デモを阻止
第2次大戦末期に英軍のじゅうたん爆撃で廃虚となったドイツ東部ドレスデンで、
空襲から65年を迎えた13日、極右ネオナチが追悼を利用したデモ行進を計画したが、
1万人以上の地元市民らが「人間の鎖」で阻止した。
空襲をナチスのユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)になぞらえ「爆弾によるホロコースト」と主張するネオナチなど約5千人が、ドレスデンの新市街などに集結。
これに反対する市民らは、戦災の象徴・フラウエン(聖母)教会がある旧市内への極右の侵入を阻止するため、人間の鎖をつくったり座り込みをした。衝突回避のため、数千人の警察官が出動。双方の計約30人が拘束され、警官15人を含む計約30人が軽傷を負った。市内各地では同日、反ナチスのシンボルの白いばらを献花するなどさまざまな追悼行事が行われた。
日本ではどうか?
排外主義を前面に掲げた、聞き慣れぬ(最近はそうでもないのが困る)名称の会が、若者を中心に、
渋谷駅頭などで街頭行動をしている。民主党:小沢幹事長なども「中国の手先」「参政権付与は売国奴の言い分」として糾弾対象だ。
こういう動きが、逆「草の根」として育つ可能性・風土を、変えて行く言論と行動の側に関わっていたい。
若者が晒されている、「使い捨て派遣」や「即戦力新人」の強迫を強いる雇用状況・・・、
彼らのやり場のない憤激が、排外主義へと向かう世情を危惧する。ほくそ笑む日本版「ネオ・ナチ」が見えるから・・・。
つぶやき: 失われた記憶と蘇える記憶の交差点
数年前に生れた「K大校友連絡会」という何とも愛校精神(?)に溢れ、同窓会チック(?)な名称(苦肉の命名か?)の会がある。
戦後間もなく生を受けた、つまりは還暦前後の男女の、かつて語り行動した「原初の想い」に照らして
「今、なさねばならぬこと」への強い想いから、「9条改憲気運」への異議申立てから押し返しへ
辺野古問題から日米軍事同盟・・・戦後体制そのものへ・・・などを考え行動する会のようだ。( http://www1.kcn.ne.jp/~ritsu/ )
たぶんに、かつての錯誤・無知・無恥を噛み締める者どもの会のようである。
遅いか? そんなことはない。われら、残された時間に、
己を含めた醜悪と、それでも伝えるべき過去・現在・未来と人の社会について語らなアカンやろうな。
一生一代一仕事!
あるとき、女房がその集まりで学生時代には会ったことのない女性に出会って親しくなった。
話すうちに、彼女が夫たるぼくと同じ街で育ち、同じ年の生まれだと分かり、
さらに聞くと同じ小学校出身だと分かった。 曰く「あんたと同じ小学校で同学年らしいで!」
さらに聞くと同じ小学校出身だと分かった。 曰く「あんたと同じ小学校で同学年らしいで!」
女房がセットして、ぼくや友人が同席しての食事会となった。
話してみると、何と小学校の1・2年で同クラスだと分かった。が、互いに全く記憶に無いのだ。
帰って、写真を探し出し見てみると、間違いなく同級生だった。
古い写真を凝視し、記憶を辿る・・・・思い出せない。
が、入学時のクラス写真にはぼくとその女性の面影を湛えた女の子が写っている。
1954年(昭和29年)。敗戦・貧しさひもじさの名残り、占領終了から数年、復興の先にある未来・・・・・識るはずもないそれらを両手に抱え、 無邪気とはいえ、まだ学校に慣れない不安と緊張の中で一年生が写っている。
ひとクラス60名近く。 教師の、凛々しく、教育への気概を秘めた表情はどうだ!(小川真由美に似ていた)
その女の子のことは思い出せなかったが、2010年現在だから言える「後出し希い」を想い、時代の空気を思い出せた。
「戦後」と呼ばれる社会のいくつかの可能性を・・・、幼児にとっての昭和29年という時間を・・・・・・・
失われた記憶と蘇える記憶の交差点…それは、私的記憶(例えば、恨みつらみ・悔恨・謝罪・感謝・自責・自負・片恋・などなど)を、
「公的記憶」へと解放(昇華)する舵切り位置を示す海路図上にあるのだろうか?
ぼやき: 民主党政権潰したい連合・・・
東京新聞はまともである。
小沢関連逮捕劇に紙面を割いて、四人の識者の声を載せている(1月17日、朝刊)。
【いずれも要旨】
*魚住昭氏:
『検察はなぜ強引に突き進むのか。理由は二つある。一つは、リタ-ン・マッチ、意趣返しだ。
去年三月、検察は西松事件で大久保秘書を逮捕したが、これは大失敗だった。
世論は検察捜査の公正さに強い疑問を持ち、総選挙の民主大勝利に貢献したとまで揶揄された。
小沢関係の事件をやって汚名をそそぎたい、そんな不純な意図が紛れ込んでいる。
二つ目は権力闘争。検察を中心とする「霞ヶ関」から国家の主導権を政治に取り戻すのが、
小沢・民主党だとして、これを阻止したい「霞ヶ関」全体の意思である。捜査の最終的目的は、
小沢失脚と民主党政権の瓦解である。去年の選挙の結果が捜査によって無に帰す。
そんな政治的な捜査があっていいのか。』
*青木理氏:
『小沢という政治家は不快だ。しかし、小沢と対峙する検察組織には、さらなる強い嫌悪を覚える。
過去に検察は組織内部の不正を告発しようとした幹部を口封じのために逮捕するという
信じ難い挙に出た「前科」もある。もうひとつの問題は、本紙を含むメディアの検察に対する姿勢だ。
検察捜査のお先棒を担ぐ垂れ流しの報道姿勢には辟易させられる。』
*若狭勝氏:
『今回の事件は悪質性が高い。虚偽記載の額は少なくとも四億円に上る。「ゼネコンからもらった金で
土地を買った。だから正しく記載できなかった」という動機が見て取れる。「政治を浄化する」という
法の趣旨から言っても捜査を尽くさなければ検察の職務放棄と批判される。』
*大谷昭宏氏:
『政治家は国民の代表であり、罰すべきなのか慎重に判断する必要がある。厳密に調べれば
不記載・虚偽記載は与野党ともに次々見つかるだろう。法に触れれば何でも捜査できるとすれば、
検察の意に沿わない党や議員に対し、常に司法権が行使えきることになってしまう。
ダム建設などで汚職がなかったかの確認が先だ。不記載・虚偽記載を追及するのはその次の段階。
なのに、ゴールから事件に入っている。何としても手を付けたいという恣意を感じる。
その背景に、外国人参政権・捜査の可視化・検事総長の人事などをめぐる動きがある。
捜査というよく切れる刀は抑制して使うべきだ。』
ともあれ、民主党政権潰し、アメリカ及び軍事筋、沖縄基地固定強化派、霞ヶ関その一員検察、
そしてマスコミ・・・・様々な連合力が背後で大きくうねっていることだけは間違いないと思う。
つぶやき: 新宿。高層ビルから「富士」、45年前の酒
正月、8日から2010年最初の仕事にかかっている。
当方にしてはデカい現場、西新宿・高層ビルの37階、800坪のオフィス施工だ。
南側の壁面造作が終わり、今日から北側の部屋に移動した。
一月・冬晴れ・日曜日・・・、好条件に「富士山が見えるはず」と
朝一番8時に現場ビル北西窓から視ると、
果たせるかな、北西方向に大きな富士山が白く深く渋く、輝いていた。
東京の人は無関心でも、東京以外の人=おのぼりさんは、
クッキリ見える富士に例外なく感激するそうだ。
銀渋の富士、無言の富士に、ご多分に漏れず脱帽。これ、何なのか・・・。
機密性の高い高層ビルの窓は外の雑音は遮断されていて、
文字通り「無言」の富士だ。
江戸の人々が富士に払った敬意が分かる気がした。シャッターを切った。
施工は区切りまで仕舞えず、7時終了となった。
帰りに新宿駅・線路沿いの「思い出横丁」に立ち寄り、モツ煮込みと湯割り焼酎。
昔(65年秋・高三)、弟の先輩で日大芸術学部映画学科在学の人を紹介してもらい、頼って上京し、
江古田の映画学科に体験入学と称してもぐり込み、授業を味わった。
夜この横丁に連れられ、呑めない酒を呑んだことがある。45年前になるのか・・・。
様々な事情で、その冬、大学受験はせず、その後パチンコ店などで住込み店員として転々とするのだが、
そのまま日芸に行っていたら、日大闘争に関与したのだろうなぁ・・・
http://www.z930.com/index.html (人は思うだろう。この記録収集努力に見える肯定性や、楽天的というかプラス志向、 甘いのう、と。
が、それが日大なのだ。東大的自己否定とは一味違う、全共闘のもう一つの一面だ。ぼくらはそのどちらにも徹せなかったに違いない)
森田童子が言う『もう一度やり直すなら、どんな生き方があるだろうか・・・』 ← 戦後歌謡曲空間「無許可遊泳」:森田童子の磁力に抗して
つぶやき: 太陽の国 -天皇在位20周年慶祝-
リダイアリー
(昨年)11月12日、天皇在位20周年慶祝式典があった。
政権(民主党)の主だった面々の参加があり、組曲『太陽の国』が演奏された。
秋元康の総合プロデュースで、序曲「太陽の種」・舞踊「太陽の芽」・歌唱「太陽の花」の
三部構成で成っており、EXILEが二部の舞踊と三部の歌唱を演じた。
秋元康に対しては、映画『象の背中』にイチャモンを吐いたことがある。
映画『象の背中』(原作:秋元康)を観た。肺癌から全身転移で逝くことになる夫(役所広司)、その妻(今井美樹)、夫の愛人(井川遥)、 仕事関係(益岡徹、伊武雅刀)や高校時代の同窓生(高橋克実)、子供たち、故郷の兄(岸部一徳)・・・、
謝っておきたい人(笹野高史)、昔、想いを告げられなった初恋の人(手塚理美)(実際会いに行く)・・・
身につまされるストーリーなのだが、そして役所はぼくなんか
とうていそのように振舞えまいと言えるほど立派なのだが、優秀サラリーマン然として、
夫婦のドロドロも親子のなじり合いも、未然に防止するその立派さには脱帽だ。
「最期の半年の中で夫婦として向き合う」(案内パンフより)と言われても、
都合のいい妻であり、物分りのいい愛人だなあ、と皮肉の一つも言いたくなるのはぼくだけか?
エリートサラリーマンが周りを意識して語る「我が家」でしかない。
巷では、23年ぶりに復縁した玉置浩二と石原真理子が「今度は迷惑をかけないように願います」(お前に何の迷惑をかけたと言うのだ?) とそれを食い物にして来た芸能記者からバッシングを浴びている。たとえ近々また別れたとしても、 石原より、この妻や愛人の方が人として尊重されていると、断言する気にはなれなかった。
剥き出しのドロドロ関係と奇妙な復縁を演じる玉置・石原カップルの23年間、
癌による最期の半年を過ごしたこの夫妻の、それまでの23年間、そこに軽重はない。
謝っておきたい人(笹野高史)、昔、想いを告げられなった初恋の人(手塚理美)(実際会いに行く)・・・
身につまされるストーリーなのだが、そして役所はぼくなんか
とうていそのように振舞えまいと言えるほど立派なのだが、優秀サラリーマン然として、
夫婦のドロドロも親子のなじり合いも、未然に防止するその立派さには脱帽だ。
「最期の半年の中で夫婦として向き合う」(案内パンフより)と言われても、
都合のいい妻であり、物分りのいい愛人だなあ、と皮肉の一つも言いたくなるのはぼくだけか?
エリートサラリーマンが周りを意識して語る「我が家」でしかない。
巷では、23年ぶりに復縁した玉置浩二と石原真理子が「今度は迷惑をかけないように願います」(お前に何の迷惑をかけたと言うのだ?) とそれを食い物にして来た芸能記者からバッシングを浴びている。たとえ近々また別れたとしても、 石原より、この妻や愛人の方が人として尊重されていると、断言する気にはなれなかった。
剥き出しのドロドロ関係と奇妙な復縁を演じる玉置・石原カップルの23年間、
癌による最期の半年を過ごしたこの夫妻の、それまでの23年間、そこに軽重はない。
その時間は当人たちだけのものだ。 と。
今回、その秋元が奉祝曲作詞と聞いて「奴らしいな」と思っただけだった。
ところが、観たTVニュースはこう言ったのだ。
『「太陽の国」というのは、申すまでもなく「日出る国」から来ています。天皇家の祖先聖徳太子が
大国「隋」にたいして堂々と「日出る処の天子」と述べたあの故事に由来しています』 ん?
ぼくの持論がムクムク。在位20周年を奉祝するのは勝手だが、「日出る処の天子」について、
誤報を振り撒くのは止めてもらいたい。何が「申すまでもなく」だ!← 交遊通信録: たそがれ誇大史② 消された「倭国の記憶」
秋元は天皇・皇室を称え、同時に「日出る処の天子」(何故記紀に記載なく、中国史書にしかない? 記載された「一書」は何処に消えた?)を巡る
謎を封印し、近畿天皇家にまつわる事跡だと決め付ける役割の一翼を担っているのである。平然と・・・。(09.11.20)
サブカル「軍国礼賛」、タレント「皇国史観」、文化人「歴史改竄」・・・その波及力、侮ってはなりませぬ。
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上記リダイアリーをブログに転載して青物横丁の喫茶店へ歩く。スポーツ紙を観る。
昨10日。大相撲初日、またぞろ内館牧子女史からお小言。
朝青龍の懸賞の受取方が、作法にもとると言っておられる。感謝と礼儀を込めて
丁寧に手刀を切って受け取る。ぞんざいな鷲掴みは無礼だ。
それは、そうだろう・・・、その通りだと思う。作法の問題だ。
『手刀は神事に基づく作法という説もあり、左は「神産巣日神」、右が「高御産巣日神」、中が「御中主神」、いずれも五穀豊穣を司る神様への感謝の意を表したものだということです。
ただ木村庄之助氏は「この説は後付けで、第一、神様を片手で拝むなどおかしい」とし、名寄岩が「ありがとうございますという感謝の気持ちを表したくて、「心」という字を手刀で書いている」という話に皆が感動して広まったという方が、よほど信憑性も高く良い話だと語っています。』
(http://blog.ko-blog.jp/aburajin/kiji/9010.html 油・量り売りのお店「油甚」さんHPより)
(http://blog.ko-blog.jp/aburajin/kiji/9010.html 油・量り売りのお店「油甚」さんHPより)
ところが、新聞によれば、女史は「両陛下の前で非礼である」との言い分で吠えている。
初日天皇皇后が何年ぶりかの観戦だそうで、普段とは違うのだぞと大いに怒っているのだ。
これが、この脚本家の正体なのだ。文人(?)に於いても敗戦後65年は無効にして、戦前と地続きなのか?
創作の根本=至高の権威に照らして自己の営みの証しがあるのではなく、
創るということそれ自体の犯すべからざる自律を目指す=を考えている者の発言ではない。
駄エッセイ・歌遊泳: カルメン・マキは母になったか?
『戦争は知らない』(作詞:寺山修司、作曲:加藤ヒロシ)
「戦知らずに」「二十歳になって」「嫁いで」『母になるの』と唄った、69年少女は母になったか?
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68年~70年に世に出た歌で一番好きな曲だと言った(いや白状した)ので、
この歌の歴史を調べてみた。
ユー・チューブで坂本スミ子版に辿り着くと、歌の来歴が書いてあった。
『戦争は知らない』 作詞/寺山修司 作曲/加藤ヒロシ 歌/坂本スミ子 東芝音楽工業
1967年2月発売。何と坂本スミ子が最初なのだ。
1968年フォーク・クルセダーズがカバーしてヒット。
その後、広 川あけみ、シューベルツ、ザ・リガニーズ、で、その後カルメン・マキ版(69年)が出て、
森山 良子など多数のアーティストがカバー。フォークの名曲として今に 歌い継がれる。・・・だとさ。
カルメン・マキ:1951年生れ。68年、たまたま友人と劇団「天井桟敷」の舞台を見に来て感銘を受け、即入団決意。
それまで、今で言う「不登校」に近い状態だった少女の一大決心だったそうだ。その不登校時代に、話を聞き、
親身になって寄り添いケアしたのが「キューポラのある街」の作者:早船ちよだという。
(これは、早船さんに近い筋と親しい人からの情報。まず、間違いない)
69年 『時には母のない子のように』で 歌手デビュー。
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『戦争は知らない』の各版を採録してみる。
カルメン・マキ:http://www.youtube.com/watch?v=FpRowO6AVCs&feature=related 本田路津子:http://www.youtube.com/watch?v=F9e74o5clX0&feature=related
ここに出たものは、カルメン・マキ以外はアップ・テンポで、カントリー風に流す反戦フォークですか?
カルメン・マキの歌はゆっくりしていて、ナチュラルで透明感(といってもやや陰りのある)に充ちているが、
ナチュラルというのは「普通の子」や「素直な子」の代名詞なのではない。
媚びたところがない姿勢には、逆に大人や世の中との「非和解」の意志が棲んでいそうで、
どこかそっけなく、かといって投げやりではなく、歌詞やメロディにもしがみつきはしない距離を保っている。
これは、もう、あの時代のアレコレ全てを浴びて生きる少女像(寺山主観の)なのだ。
寺山が気も狂わんばかりに執着(いや全く知りませんが)したとしても不思議ではない。
この少女の持つある「価値」と重なる存在との「交信」を乞い願ったたことはあるか?
捉まえた瞬間から消滅に向かうはかないものを追いかけたことがあるか?(ぼくには記憶が**)
カルメン・マキは、『時には母のない子のように』 『山羊にひかれて』、そしてこの『戦争は知らない』までだけは、
だが、思うに、1935年(昭和10年)青森県弘前生れの寺山を支配する、
41年父出征・親戚家・45年青森大空襲・父戦死の公報・敗戦時10歳…という
「寺山の戦争」からの立ち上がりと、中学期には始めていた俳句・青森高校・早稲田・訛り・
競馬・劇団天井桟敷・・・「戦争の過去と未来」への詩的(そう言うしかない)総括を
仮託された69年少女(いかにも荷が重い)が「お嫁」に行き「母になるの」だから、
そのとき少女は少女ではないという自明を、この歌詞は最初から背負わされている。
つまり、歌詞の「思想世界」と歌う少女の「現実世界」が、
いずれ衝突を起こし、歌唱そのものが不可能になる。 短い歌唱可能時間の緊張の上でこそ、
少女であって母でもある「不可能」を抱え、仮装カルメン・マキの歌はどこまでも輝くのだ。
寺山は、「駒場祭」ポスター:[背に代紋]のお兄さんの「とめてくれるなおっかさん」に応答してか、それと対を為すように「おっかさん」予備軍に「母になるの」と宣言させている。母性への依存と回帰(寺山がそうなのかどうかは知らない)かと嘲笑われそうだが、「戦争」の「知らな」さへの、世代を貫通する悲惨への、歴史としての戦争への、その理解に於いて、後のフォークル『戦争を知らない子供たち』(71年、作詞北山修)の軽薄さとは違い、なるほど寺山なのか・・・と思えた。 寺山修司:『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』
(NHK「あの人に会いたい:寺山修司 」 http://www.youtube.com/watch?v=GAfwMovC0_0&feature=related)
戦争期を知らないフォークル世代の「知らない」位置と、同じく「知らない」少女の「物語」に仮託して自らの戦前~戦後を貫く「戦争」を語ろうとした(無理があるが)寺山の「知っている」位置は、実体験の差であるのは当然としても、それ以上に想像力・構想力・思想力の差だ。
「平和の歌を口ずさみながら」や「今の私に残っていろのは♪」のところは、当時からムズムズと居心地悪く、厭だった。 ハッキリ言って『戦争を知らない子供たち』は嫌いなのだ。
「父」が国家に至る縦・制度・社会的属性を象徴すればこそ、「戦争」で「死んだ」(それを喪った)「悲しい父さん」を「想えば」、あゝ「荒野」に赤い夕日が沈むのです。 で、今寺山の幻想上の少女は「母になるの」です。
「見ていて下さい」は、「他」から望まれ・指示され・誘導されて在る存在を止め、自らの意志で「自身の姿」を決める存在になるという宣言だと思う。 それを仮に「母」と呼ぶなら、それは非縦・非制度・非属性であり、ここで昔太宰が青年吉本隆明に語ったという「男の本質」=「マザー・シップ」の意味が浮かび上がる。←つぶやき: 太宰と吉本 生涯一度の出逢い その論旨は、吉本自立論の根幹に通底していると思う。
ところで、ハーモニカだけのほとんどアカペラ状態の、この歌唱・この質感はどうだ!
上手い、実に見事だ。そこらのどんな歌手も歌えまへんで・・・。
興味ある方は何らかの方法で、その後のカルメン・マキを調査・検索してみて下さい。
70年にロックに転向。マキの歌唱は高く評価され、
伝説の『カルメン・マキ&OZ』(75年)が当時としては異例の10万枚売上達成・・・・・・とある。
ぼくはロックが分からないのだが、寺山的カルメン・マキ像からも、初期ファン層の期待像からも、
離陸して立っていた、当時の「早すぎたロッカー」カルメン・マキに会いたかったなぁ~。
『時には母のない子のように』:http://www.youtube.com/watch?v=6C1YIEJYtu4&feature=related
『戦争は知らない』:http://www.youtube.com/watch?v=FpRowO6AVCs&feature=related Carmen Maki & OZ 『空へ』:http://www.youtube.com/watch?v=d9JyELDnLNk&feature=related
Carmen Maki & OZ 『閉ざされた街』:http://www.youtube.com/watch?v=j7W_zLuoa48&feature=related
Carmen Maki & OZ 『朝の風景』: http://www.youtube.com/watch?v=Nb6ubnH_cMk&feature=related
押し付けられた少女像を自己埋葬して、彼女は「母にな」ったのだ。
なお、彼女には 日本人とアイルランド人とユダヤ人の血が流れているそうです。
ライブ活動も健在、ホーム・ページは → http://www.carmenmaki.com/
一月の神宮前ライブ 行こうかな・・・・・・・・・・
つぶやき: 太宰と吉本 生涯一度の出逢い
リ・ダイアリー 08年11月。
東京では、「東京人」という薄い雑誌が、どこの書店にもある。その月は太宰治特集だった。
表紙を見ると「吉本隆明」が何か言ってるようなので購入した。
吉本が無類の太宰ファンであり度々太宰を論じていると知っていた。
電車の中でパラパラ捲ると、吉本の写真付きの記事があった。その老人ぶりに驚いた。
吉本(現在84歳)は戦後間もなくの学生時代、
学生芝居で太宰の戯曲『春の枯葉』を上演しようとなり、仲間たちを代表して
三鷹の太宰宅を訪ねる。太宰は不在だったが、幸い太宰家のお手伝いさんから
聞き出し、近くの屋台で呑んでいた彼を探す出す。
当時の人気作家と無名の貧乏学生=のちの詩人・思想家の出会いだ。
そこで、こう言われたという。
『「おまえ、男の本質はなんだか知ってるか?」 「いや、わかりません」と答えると、
「それは、マザー・シップってことだよ」って。母性性や女性性ということだと思うのですが、男の本質に母性。不意をつかれた。』
もう一つ。選んだ戯曲『春の枯葉』について語ってくれたという。
『中に、<あなたじゃないのよ、あなたじゃない。 あなたを待っていたのじゃないのよ>
と流行歌を歌う箇所があるが、 「<あなた> というのはアメリカのことを言ってるんだよ」って教えてくれた』
翌48年、太宰は心中する。
吉本は親友奥野健男と二人だけの追悼会をしたという。
マザー・シップ・・・。ふと、取り上げてきた、石川節子・与謝野晶子・マルメンマキ『戦争は知らない』・『カナリア』のユキ:谷村美月、 清作の妻、サイドカーのヨーコさん、… 彼女たちを思い浮かべている。
太宰と吉本の60年余前の、たった一度の出会い。ええですなぁ~。
当時の三鷹駅近くの風景写真も添えられていたが、
この両師の安屋台での出会いのエピソードだけで、
戦後の風景や香り、街行く人の表情、
占領下の天皇・皇国主義者・戦後政権から「解放軍」と規定した日共まで・・・
公民挙げて例外なく浸った、強大なものへの「完全脱帽」(加藤典洋)、
敗戦直後この国に「在り得たはずの」幻の「国のカタチ」その可能性・・・『敗北を抱きしめて』が描く人心・・・・多くのことが浮かび上がる。