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11月沖縄県知事選 伊波勝利を希ふ
11月28日投開票の知事選に向け、社民党県連、共産党県委、社大党の県政野党3党でつくる候補者選考委員会(委員長・新里米吉社民党県連委員長)の出馬要請を受けた、宜野湾市長の伊波洋一氏(58)は、20日に受諾することを決めた。同日午後に宜野湾市内で要請を受諾後、選考委と選挙母体の発足に向けた協議を始め、早ければ来月上旬にも12年ぶりの県政奪還を目指して正式に出馬表明する見込み。
伊波氏は今月7日、選考委の要請に「普天間問題の解決のために前向きに検討したい」と述べ、出馬の意向を示していた。さらに、11日に宜野湾市内で開いた後援会の会合でも「16日から20日までの間に表明したい」との考えを示している。野党3党は、米軍普天間飛行場の県内移設反対を知事選の最大の争点に位置付けている。
伊波氏は「基本的に私の立場と変わらない。必要であれば補強する」と評価。在沖米海兵隊の撤退や普天間飛行場の早期閉鎖・返還などを日米両政府に求めることを盛り込んだ選考委の基本姿勢を土台にする考えを示している。
県知事選には現職の仲井真弘多氏(70)も出馬に意欲を示しており、来月上旬にも正式表明する見込み。一方、民主党県連(喜納昌吉代表)や浦添市長の儀間光男氏らもそれぞれ、独自候補の擁立に向けた動きを活発化させている。
品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ③/3
<『水城』『大野城』『嶋門』に囲まれた『倭都』の防衛網>
②の冒頭に述べた中国「冊封制度」は、小国支配の技術的方策なので、当然一地域一王権が望ましい。唐は、朝鮮半島では、北の強国高句麗との攻防を繰り返す一方、新羅と百済が互いの覇を競い互いに唐のお墨付きを求める構図の中で、660年、百済を唐+新羅によって滅亡させる。唐が、半島南部を新羅によって冊封せんとする構図だ。 (5世紀475年の百済第一次滅亡は、南下拡張する高句麗によるもの)(478年、倭王武はこの高句麗の南下を「非道」と宋:順帝に申し出ており、実際百済と組んで半島へ出陣していたようだ)。 5世紀以来の、百済との同盟から、倭は質たる余豊を帰し(百済最後の王となる)、百済再興を企てる。百済救援でもあるが、ここをやり過ごせば唐が次は倭を攻めるだろう、地位をヤマトに奪われるという恐怖がそうさせたのだと思う。かつ、「ヤマト:継体の反乱531」(教科書では「磐井の乱」)の例に見るまでもなく、ヤマトが列島盟主の座をうかがっている・・・。そうした東アジア史全体構造の中で、663年、「百済・倭連合vs唐・新羅連合」の戦争「白村江の戦」が勃発した。 だから、その敗戦の後さらなる攻撃に備えて、「水城」が造営されたとしても故なしとはしない。 だが、では東アジアの動乱の5世紀以降(つまり拡張と進撃の5世紀「倭の五王」の時代、百済と同盟して半島へ出撃・その隙にヤマト:継体に攻められた6世紀「磐井の時代」など)には、「倭都」は無防備都市だったと言うのか?
「水城」の天智期造営説に割り切れないものを感じていた研究者に、1995年ニュースが舞い込んだ。 発掘調査で、堤(土塁)の内部に石積みの「別の水城」が出て来た。近畿天皇家の事績として来たアカデミズム塔の先生方は何と「見つかった古い水城が天智期のもの。これまで天智期のものとして来たのは、奈良時代の増築・修復の跡」と言い出す始末。これなら、何でもありだ。記紀に合わせて、古代史脚本がある。出土物品も文書も伝承も、外国の史記も、その脚本に合うよう理解したり、脚色したりする。「ほら、記紀と一致するではないか!」と言うわけだ。これが学問か? 「魏志倭人伝」の行程・距離・方角、「倭の五王」は近畿天皇の誰かだとして強引かつ法則性も無い比定(*3)、「607年の対隋国書、日出処の天子は聖徳太子」なる無理無体……、それらと同様の常套手段だ。 ところが、朗報が届いた。九州大学理学部「放射性同位元素総合実験室」が「古い水城」の年代を特定した。 西暦430年+-30年! 「倭の五王」の時代だ。天智こそ「増築・修復」役(倭からの任命での)なのだ。 では、本来の「水城」は、いつ、どのような目的で、どういう機能を備えた「城」だったのか? ここで、「大野城」の特異性とワンセットで構想しつつ、「嶋門」から「倭都」現:大宰府周辺を俯瞰すると、そこに一大城塞都市ぶりが浮かび上がる。
左:現在の「水城」跡。手前(西:春日の丘陵)から、正面(東:「大野城」)に向かって一直線に堤(土塁)が延びる。壮観だ。 右:「倭都」俯瞰図。「倭都」が人造湖と化す「水城」の機能も、「大野城」の位置取りもよく解かる。左上(北):博多湾に「嶋門」。 写真・イラストとも「九州歴史資料館」1998年発行:『発掘30周年記念誌:大宰府復元』より (クリックで拡大可)
「倭の五王」の攻撃性・拡張性は前頁の②で見た通りだが、彼らと「倭都」は、攻撃性・拡張性がもたらす予想される「リ・アクション」にも備えていたようだ。山が丸ごと城である「大野城」には、何箇所にも食糧備蓄倉庫としか考えられない、高床式大倉庫(の敷石現存)がある。ある研究者が穀物などを備蓄したとして、数万人が数ヶ月籠城出来る規模だと試算し発表。しかし、数万人が籠城とは如何なる事態か。また、空っぽ同然になる倭都は? と疑問が残る。 そこで、「水城」の機能だ。「水城」は堤(土塁)造営用土砂採取の為に掘って出来た溝に、御笠川の水を溜め「堀」にするゆえ「水城」なのだとされて来た。つまり、「水」は堤(土塁)の北:博多湾側にある訳だ。 これに対して、幾人かの論者と品川ジジイは「倭都」を空っぽにする戦術を空想した。「水」は、堤(土塁)を挟んで南:倭都側にあり、と。(堀はあって当然。堀・湖併用が答えか) すなわち、「水城」はダム、倭都は一時「人造湖」となる。御笠川の水は、ダムに堰き止められ、倭都に水が溜まり人造湖と化す。ゆえに全員退避。 最も有効な瞬間に、ダムの堰を開放、一気に大量の水を放出、水攻めを成し、「大野城」からは籠城組が山おろしの追い討ちをかける。この戦法は、対馬などからの狼煙通信などで、いち早く船団の規模を把握し、かつ博多湾岸での上陸阻止戦でもなお防げないと判断せざるを得ない危機の場合の、万が一の「捨て身の」戦法だ。「捨て身」ゆえ、一億火の玉、官・武・民挙げての総動員態勢なのだろう。(「水城」が実際の機能を果たしたことは、元寇の際も含めて、幸いにして一度も無いそうだ) いずれにせよ、「水城」は、近畿天皇家が都から遠い「辺境」の「一地方」を守る為に造ったのではなく、都督府所在地=「首都」を守る為の幾種もの防衛施設のひとつだったのだ。
663年夏8月「白村江」敗北から倭国は崩壊に向かった。それから約1280年後の1945年、同じ、倭国のDNAを引き継ぐ者の拡張性・玉砕主義・総動員態勢や半島への係わりが、同じ8月に倭とヤマトの末裔支配層の「懲りないDNA」に敗北と焼跡を進呈した。 20世紀の国体は奇妙な形で護持された(?)のだが、「倭国」が、671年、数千人の唐の戦後処理交渉団(?)とどのような交渉をしたのか、謎の内戦「壬申の乱(672)」を経て「倭国消滅」「政権移行」「親唐政権」を成し、国際舞台への「日本」登場へと繋いだのだとしたら、それこそ小国「東アジア合衆国」たる者の智恵かも知れない。
☆701年。唐、列島を代表する王権として大和を認知。呼称を「倭」から 「日本」に改める。(旧唐書:《倭伝》のあとに《日本伝》あり。) 『或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたり』
黙して視ていた観世音寺の梵鐘は、これら全てを知っている。 (観世音寺は、都督府に隣接しています)
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*3 「倭の五王」はそれぞれ 讃・珍・済・興・武 と名乗り、宋書には上表文や在位期間・親子関係・兄弟関係などが詳しく記載されている。この時代の該当する近畿の天皇は、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略と、いわゆる河内王朝とも呼ばれる古市古墳群・百舌古墳群に眠るとされている大型古墳時代の七名だ。 413年から478年の間に東晋と宋に9回朝貢・遣使しているので、「日本書紀」によってその時間帯に絞って比較すると、允恭・安康・雄略の三天皇となり、どうにも合わない。そこで、近畿天皇の誰かでなければならない人々は、宋書記載の年代や親子兄弟関係(が近畿天皇家のそれと合わないので)を無視したり、恣意的に和風諡号・漢風諡号から無原則に一音一字を採る(例えば「応神」の和風諡号は「ホムタワケ」だから、「ホム」の意味から「讃」。「仁徳」の和風諡号は「オホサザキ」だから「サ」音から「讃」。などなど)。 意味から辿ったり、音から決め付けたり各仮説入り乱れて言い合っておられます。 いくらひねっても無駄!「倭の五王」は近畿天皇家ではありません! 普段は記紀偏重の先生方が、宋の冊封を受け朝貢・遣使し堂々と語る「倭の五王」に限り、それを近畿天皇家の事跡として取り込みたい一心で、記紀に無記載には口を閉じ、偉大(?)な事跡に拘るのは無原則といえばあまりの無原則。天皇家とは無関係とした江戸時代の学者の方がマシかも。
-以上、06年稿を加筆修正-
<予告> 上記の「倭都」「水城」の説明文に、「御笠山」「御笠川」「春日」などの語が登場します。それらの語は、 『天の原 ふり離けみれば春日なる みかさの山に いでし月かも』(『古今和歌集』巻第九)にも登場。 阿部仲麻呂が唐の明州(現:浙江省の東海岸)の宴席で故郷を偲んで詠んだことになっています。 これへの古田氏の異論に刺激され、想像たくましくして現地(博多湾外~壱岐、アマ原圏)へ向かい、確信的直感(つまりは主観)をもって辿り着いた仮説を述べさせてもらいます。標題はズバリ『天の原はどこだ?』です。
品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ②/3
<『都督府』遥かなり>
都督は各小国に一人、都督府は一ヶ所。 (古田武彦説を基礎に)
中国「冊封制度」(コスト高の進駐しての直接完全統治ではなく、朝貢し恭順の意を示せば、その地の覇者を大中国の役職者に仕立て、属国として大中国の末席と見なす。小国の覇者の側も地域支配権を保障されるメリットを求めた。倭人伝登場の「邪馬壱国」女王卑弥呼の朝貢もこの制度下の事跡。)に基づき、倭国の王は外交を進めて来た。「倭の五王」の時代には、その役職名は「都督」であり、上表文はまず「使持節都督**倭王*」と名乗り、次いで本文に入って行く。「都督」は東アジアに広く知られる有名な語であった。常識か。 宋:順帝へ出された有名な「倭王武」の上表文(478)は、高句麗非道を訴え高句麗侵攻のお墨付きを求めることが主眼なので、同盟国「百済」、敵対「新羅」を我が支配下と書き「渡りて海北を平らぐること九十五国」といささか背伸びしているが、半島南部の覇権空白を言いたかったのだろう(全くの絵空事というわけではない)。だが、やはり常套肩書「・・・都督・・・倭王」を自称して、次いで言う。 『自昔祖禰躬[*環]甲冑 跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國』 「昔より祖先自ら甲冑をつらぬきて、山川を跋渉し寧處にいとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十五国、渡りて海北を平らぐること九十五国」 これは、三つの側面から「倭の五王」が決してヤマトの王ではないことの証明でもある。 1. 中国天子の歴史認識・倭の所在地理解と矛盾しないこと。歴代中国王朝の「倭」認識の延長上で把握されている事実。つまり「楽浪海中倭人あり」(漢書地理志)、 「建武中元二年(57年)、倭奴国 奉貢朝賀す。使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」(後漢書倭伝)【「倭」の極南界との表記。注目】、 「魏志倭人伝」等々の、あの、「倭人」「倭奴(イド)国」「邪馬壱国」の国であるとの双方の共通認識を前提として成立した上表文である。 「都督」は大中国の一地域統治者の一役職との大義名分であるから、任命者がその居所を知らぬでは、制度の根幹が揺らぐ。中国天子は、当然倭都=都督府の所在地を知っていた。 2. 天智紀に、他所にもあるかのごとく「筑紫の都督府」とあり、「都督」は市民権を得た語と言うか、注釈なく通る語だった。かつ、大宰府以外を都督府として指すことは無い。現代で言えば「首相官邸」を「東京の首相官邸」と言うがごとき表現だ。「大阪の首相官邸」など無いのだから。言いたいのは、ヤマトも「九州に都督府あり」「都督府は一ヶ所」と知っていた、という蓋然性。 3. 何よりも、倭王武が示す自国の自称拡張史だ。この地理観、自身の場と列島・半島との位置取りは、ヤマトではあり得ない。北へ海を渡るって、海は遠いぞ、どうしろと言うのか?
その「倭の五王」の直接の系統か別系統かは別にして、「倭王武の上表文」から約半世紀後の530年前後(531らしい)には倭王磐井(倭武など倭王の名から類推するに「倭・ワイ」ではないか)への近畿王権オヲド(継体天皇)の反乱(*1)があり、約130年後の607年には、倭王=「日出処の天子」=多利思北孤=タリシホコは、隋の煬帝に『日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや云々』で有名な国書を送る。 学校では何故か上記迄しか教えないのだが、その後段には『阿蘇山あり、その石故なくして火起こり』と自慢げに書かれている。阿蘇山を特筆する者の心情・自国把握・地理観や如何?(*2) もはや、疑いようもない。九州、大宰府こそは、「倭国」の都、都督府、「遠之朝廷」だ。 海峡人・倭人・伽耶人 が福岡県前原:日向峠近くのクシフル岳下の平野部(前原市:吉武高木遺跡、糸島郡:三雲遺跡、春日市:玖珠岡本遺跡。九州北部の出土物は、紀元前一世紀ころにガラリと一変する。金属器・金属祭器武器・鏡の多出土)に「降臨」し、やがて「邪馬壱国」を経て大宰府に倭国を建設した。その流れは、系統の連続性は別にして、5世紀「倭の五王」、6世紀「磐井」、7世紀「多利思北孤」へと継がれた。
その「倭国」の崩壊と近畿天皇家の列島覇権掌握に至るドラマは、「白村江の戦663」の大敗北が因である。 当時の「倭国」がその攻撃性・拡張性ゆえに持っていたに違いない、重防衛の都市建設はどうだったのか? 御笠山(現:宝満山)を水源とする御笠川は、大宰府の平地を流れ、東:「大野城」の麓と、西:春日の丘陵に挟まれた狭い地峡を抜けて博多湾へ向かう。この地峡の、大宰府市と大野城市が交雑する市街地を、旧国鉄・国道3号線・西鉄・九州自動車道などが南北に走り抜けている。それらを横断して堤(土塁)が東西に伸びている。21世紀筑紫大宰府に姿を留める堤(土塁)の、巾80M・高さ10M・地峡の端から端までの延長1.2キロの偉容は、今日でもハッキリと確認できる。(次頁写真参照) 『水城(みずき)』だ。 「水城」は、664年、前年663年8月「白村江の戦」敗北から、唐・新羅の追撃に備え、中大兄皇子が指揮して百済からの亡命技術者の支援で造営したことになっている。近畿天皇家の皇位継承者(この時点は斉明崩御661の後の混乱?で即位せず)が、近江大津に遷都して即位(667)するまでの間に行なった事績ということになっている。 ヤマトの都は、近江への遷都前は「飛鳥」だが、次期天皇が己が都ではなく「都ではない一地方都市」防衛の土木事業に邁進…?。 列島の覇者なら地元九州に命じなさいよ。あるいは、己が都の防衛策を講じなさいや。逆に「倭都」の主に命じられたのなら分かる。 元々、倭の要請で出陣し 永く筑紫:朝倉に陣し、斉明崩御での「喪」を理由についに半島へは行かなかったのだから…。 一方「倭国」は、戦場で倭王=薩夜麻=サチヤマを奪われ(唐の捕虜となる)、多数の死者を出し、大混乱だっただろう。671年には、唐から数千人の使節団(?)が来倭。敗戦処理の交渉などでの苦い時間だったか。文字通り「国敗れて山河あり」の有り様ではなかったか・・・? 天智亡き(672)後、どういう勢力と勢力の攻防だったかは百説あるが、天智の皇子:大友皇子勢と、アマの音を持つ大海人皇子勢の「内乱」=「壬申の乱672」が勃発。大海人皇子側の勝利、天武天皇へ。この内乱が親唐又は唐に敵対しない政権の誕生だったとの傍証はある、との説もある。
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*1 奇妙な即位(仁徳五世の孫、越の豪族、507樟葉で即位、19年間ヤマト入りしないなど)(ヤマトの政治空白・混乱を示していると思うが如何?)をしたオヲド王(継体天皇)は、筑紫の君磐井との戦い(531)を前に、重臣トップの、物部アラカヒに向かって言う。(この戦に勝ったら)「長門より西汝制(と)れ、長門より東朕制らむ」(日本書紀・継体紀)ん? ん? 長門(山口県)より西が磐井の支配地域なのは当然だろう。だが、よく読むと「長門より東」(安芸辺りまでだろうか・・・)にも磐井の勢力圏があると告白している。この時期「倭国」は百済と結んで新羅との戦闘状態だったが、その間隙を縫ってヤマトが攻めたようだ。 *2 中国には活火山知識無いだろうと知っていた(?)か。どうであれ、ヤマトの王者が阿蘇を誇るのは不自然極まる! 聖徳太子は天子ではない。彼は女帝:推古の「摂政」である。国書において地位・肩書を偽称・僭称するか?あまりにも不自然だろう! また、「後宮」に女官数百人と自慢しているが、推古女帝に後宮?
-以上06年稿を加筆修正-
品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ①/3
<「日出処の天子」が打たせる鐘>
-以下06年稿に加筆し、一部修正したものです。-
10世紀初頭、901年大宰府の地に在った菅原道真は、都督府跡に立尽くし、観世音寺の鐘声を聴きつつ、ある諦念の中でこう詠んだ。 「都府楼はわずかに瓦の色を看、観世音寺はただ鐘声を聴く」(和漢朗詠集) 道真は、冤罪による左遷という自身の身の上を嘆き、その地の悲運に重ねていた。
10世紀初年においてなお、往時の輝きを奪われた大宰府は荒涼たる気配の中に佇んでいたのだ。 観世音寺の鐘は日本最古の紀年銘文ある梵鐘とされ、同じ鋳型で鋳造された兄弟鐘が妙心寺(京都市右京区)にある。材料の銅は成分分析や伝承から福岡県香春の産とされる。香原=カワラは「サワラ」の音からの命名に違いないが、香春岳は古代から銅の産地だ。大阪府茨木市沢良宜(サワラギ)などの例も同様に、サワラ=銅は古代史家が一致して認めるところだ。
妙心寺の梵鐘は、『徒然草』でも言及されていて、雅楽の「黄鐘調」(おうじきちょう)に合う美しい音色だという。梵鐘には鋳造年銘文が刻印されていて、戊戌(つちのえいぬ)から698年と比定されて来た。 698年? 「白村江の戦663」の大敗北、中大兄皇子の王権奪取~近江宮遷都(668~天智天皇。没:672)、壬申の乱(672)、大海人皇子の勝利・即位(天武天皇)(673~)、持統女帝(690~)藤原京治世~名高い内紛劇(大津皇子抹殺など)、697軽皇子への譲位(文武天皇)… その翌年ということになる。 観世音寺の梵鐘鋳造を含め、近畿天皇家の事績とするのが何かと丸く治まるということか? この戊戌の歳が60年前の638年だとすれば、何が不都合なのか。いわゆる「大化の改新645」(中大兄皇子が、母:女帝皇極の愛人=蘇我入鹿を斬った事件=乙巳の変)より以前であり、近畿王権は政権基盤建設途上であり、彼らの正史に照らせば、638年の九州に大伽藍・名梵鐘が在ってはならないのだろう。 逆に、九州「倭」の経過を辿れば、638年鋳造の方に歴史的整合性がある。 607年、隋皇帝:煬帝に国書(阿蘇山あり、その石故なくして火起こり)を送った倭王=日出処の天子=多利思北孤=タリシホコは、仏教に深く帰依し、その信仰を次代・次々代へと引き継いでいた。 観世音寺の兄弟梵鐘の一つ、妙心寺の梵鐘は運び去られたものだ、観世音寺の伽藍は解体・移築され法隆寺となったのだ、法隆寺釈迦三尊像は観世音寺に在ったのだ、その光背銘にはヤマトにない年号(九州「倭」年号)が書かれている、等々言われている。 【移築?バカな! などと言うなかれ、元興寺は飛鳥寺の移築だとあんたら言っているではないか!】 【詳細は別機会に】
北部九州の「倭」や倭都の事物は、では何処に在るのか? 移築・移設・抹消されず残るものなどあるのか? あるのだ! 古からの外国(中国・朝鮮半島)の史料・資料、出土物品、伝承・風土記、当時の東アジアの常識、当時の地政学的地図、さらに「歌」、そして動かしえない土木遺構・建造物・城砦石垣・等々(多くが喪われたが…) ぼくらが、大宰府政庁跡遺跡を訪ねて出会う、跡地公園にひっそりと立つ石碑の「都督府古跡(こし)」という表記、「都督」とは何か…。 次頁はそこからです。
品川塾誇大史: 人麻呂の海峡。『遠之朝廷』『神代』そして『嶋門』
嶋門を見れば・・・【古田武彦説を中心に】
以前、韓国への短い旅行をした際、帰路思うところあって釜山からのジェット・フェリーを選択した。 気持ちは、半島最南部「伽耶の地」(洛東江両岸、現:金海付近)から、「神代」の人々がやって来たルートの擬似追体験だった。天孫降臨と言われる勢力移動が、このルートであるかどうかは定かではない。 ただ、「古事記」に書かれている 「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(クシフルタケ)に天降りまさしめき」 「此地は韓国に向かひて 真木通り 笠沙の御前にして 朝日の直刺す国 夕日の日照る国なり」 (出自の地と到着の地とを自画自賛しており、降臨の地が福岡県前原市近辺:日向峠近辺だと示している) との文言から、 伽耶にも「楽浪海中」各島にも勢力を持つ倭人末裔の大挙移動の地は、北九州:博多湾岸のいずれかの地だと確信して来た。
通説(宮崎県・日向・高千穂)への異論: 古来、九州全体を筑紫と呼ぶことはない。筑紫は福岡県方面だ。日向は「ヒュウガ」に非ずヒナタ(ヒムカかも)であって、前原市に日向峠あり。その東方にクシフル峰あり。その連なりの高祖山・飯盛山からは、晴れた日には対馬が見える。南九州の日向、高千穂ではまるで見えない。ましてや明治に命名された韓国岳など無関係。伽耶の本拠地たる現:金海に亀旨<クシボン>峰あり。この亀旨峰に、始祖たる六人の童子が降臨したところから始まる伽耶六国の建国神話あり。降臨地名称・降臨形態その酷似をどう見る? 他の案件(魏志倭人伝、邪馬壱国、倭、百済・新羅との関係、倭の五王、倭王磐井への近畿連合王権:継体の側の叛乱、日出る処の天子、白村江の戦、他)も合わせて「北九州:倭」は動かしがたい事実だと考えて来たところだ。 話は長くなるので、詳細は「品川塾:誇大史」を参照あれ。← http://www.yasumaroh.com/?p=1946 さらに詳しくは各種古代史書籍読まれたし。 で、「神代」の降臨ルートと、後代のある歌=柿本人麻呂歌「大王の遠の朝廷と・・・」の原風景を視たくなっての、海路選択だった。
その人麻呂歌についてだけ述べておきたい。 『大王之 遠之朝廷跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所思』 (おほきみの とおのみかどと ありがよふ しまとをみれば かみよしおもほゆ) 通説意訳: 天皇家王権の、遠い地方出先機関である大宰府と頻繁に往来する際 関門海峡を通過しては、 天皇家のご先祖様が瀬戸内海を縦横に行き来なさった往時が偲ばれるのだ。 反論:【「遠の朝廷」が天皇家の出先機関なら、各地に「遠の朝廷」が在ってしかるべし。が、万葉では大宰府以外を指す事例無し。また、関門海峡はご存知の通り、長門と呼ばれるほど細く長く潮の流れは速く、まるで大河のようだ。「嶋門」の趣ではない。】 左:赤線が倭人降臨ルート、黄線は人麻呂「遠之朝廷」訪問ルート。(倭都防衛の「水城」みずき(白に赤線)後方の青丸が「倭都」) 右:赤線黄線の交差点海上の紫丸域から博多湾方向を望む。湾の手前に構えているのは、倭都の入口「嶋門」。左:志賀島、右:能古島 (資料作成・写真とも by 2001 yasumaroh) (両資料ともクリックすると拡大します。水城など鮮明になります) 上記「水城」(みずき)に関してひと言付け加えたいが、次回にする。
品川塾訳:(上記資料・写真を見ながら構想されたし) 元祖列島覇者=倭王の、遠い(時間的にも)朝廷があった地=大宰府に度々公務で赴く。博多湾に入る際に通る志賀島と能古島の間は、まるで島で出来たの門のようのだ。そこを通るとき、今は亡き倭国の無念を思い、さらに、そのご先祖が半島からやって来られた「神代」(人麻呂がオオクニ出自ならオオクニとアマとの攻防とアマが勝利した「神代」)をさえ思い浮かべて痛いのだ。 我もまた、帰属世界を喪ふことの痛切を知る者の一人だから…。 注釈:【近畿から来ると長門を越え宗像沖を通り、玄界灘から博多湾に入る際、志賀島と能古島の間を抜けて那の津に至ることになる。二つの島は正に「嶋門」であっただろう。現在でも、添付写真の通り、それは文字通り島の門だ。神代とはいつのことか? 何故「嶋門」を見て神代を想うのか?】 この歌は「大王」の「遠の朝廷」と、その玄関「嶋門」と、その祖先の「神代」と、そして人麻呂自身の故地と、それら全てを、時空を超えて一直線に結ぶ壮大な歌だと思う。 可能性 ①:人麻呂は「唐・新羅」に滅ぼされた「百済」からの亡命知識人である。 ②:人麻呂は「白村江の戦」敗北が因となって崩壊した「倭国」出自の歌人である。 ③:人麻呂は、はるか昔「倭人=アマ」と覇を争い敗れた「オオクニびと」の末裔である。
柿本人麻呂が確認されるのは、「白村江(現:錦江)の戦663」(百済・倭連合VS新羅・唐連合)の大敗北、 「壬申の乱672」を経て、大海人皇子が政権奪取(天武天皇673~)して以降だそうだ。 活躍し始めるのは女帝:持統天皇の治世(690~)からだと言われている。人麻呂はどこから来たのか? 何故あんなにもスケールのデカイ歌を詠めるのか、何故倭国の謎を堂々と公に語れるのか・・・? 人麻呂が、誰もが知る倭国の存在と歴史を公言し、その前史たる天孫降臨の実際を示し、近畿天皇家の正史に楯突く内容を秘めた歌を詠んだのは何故か? 倭国の哀史を強調する奥に、人麻呂の自分史と故地の歴史が重なっているのではないか? 自分たちの歴史的運命を、滅んだ倭国史に重ねたのではないか・・・が、品川塾説。 品川塾では、ズバリ、「白村江の戦」で国を喪った百済からの、その後幾十年に集中して続いた大量の亡命者。その中の亡命知識人。それが人麻呂の実像ではないか、と確たる証明なく空想している。なら、同じく「白村江の戦」が因となって崩壊した倭国への格別の想いも解るところだ。 上記①②③のいずれかであればこそ、倭国「真」史を散りばめ、本当の神代を示し、海峡を跨ぐ歌を詠めたのではないか? 人麻呂にとっては、天皇・ヤマト・そして倭王と倭国までもが相対化されていると言われている。 納得だ。 元祖:越境人、海峡に立つ者のアイデンティティを詠いあげている。現代ならジョルジュ・ムスタキ、金時鐘といったところか・・・?
☆人麻呂は北部九州:「倭国」の歌人だという説も、アマとの攻防とオオクニ敗北の古の史実伝承を知る「オオクニびと」の末裔だとの説も有力。 【参考】人麻呂終焉の地は、オオクニ:島根県浜田。【】 、
つぶやき: 菅直人の勘違い
「菅直人の勘違い」と同質のものは、ぼくやぼくの周りにも在る。
参院選を終え、菅首相は敗因について、消費税に関する提起が「唐突だった」「説明不足だった」などと釈明している。 元々「唐突」という「表現スタイル」は、ぼくらの日常においても、自己過信または相手軽視または対話忌避を背景に現出する。菅首相を「正直すぎた」などと庇う向きもあるが、この元・市民運動家は、市民「運動」はしたが「市民」ではなかった者に染み付いた本性が露呈したと言っては失礼か? よくあるのだ・・・、生産現場も営業の労苦も会社運営も経営の困難苦渋も資金繰りの悲哀も知らない「経営学者」、教育現場・子供の実際に触れることもなく教育を語り教師を攻撃して空理空論を説く「教育博士」など…。 ぼくが経験した世界では、労働現場体験の全くない労働組合運動本部の「幹部」、倒産することのない職場に居て、各種リスクを背負って組合結成する者の、首を賭けて争議に臨む者の、その不安と覚悟を軽んずる「強気一辺倒」の「原理主義」労働運動の安全地帯「戦士」、全体を考察し扱う「党」に居るのだから、全体を把握・理解していて当然だと勘違いしている「党」専従の若造……。 ところが、いわゆる経験や現場性「至上主義」が、これまた過信と決め付け思考を育むから厄介だ。何事も「切れて」「繋がる」、その往還…。 難しいことだ。
菅の過信対応が敗れたのであって、政権発足当初のスローガンへの期待は生きている。
税に関して「消費税」アップが必要だとする菅首相の言い分は、一面の正論ではある。 税・医療保険・社会保障費(年金・雇用保険他)の総負担と給付・受益との整合性や、諸外国の水準・経験なども参考にした試行錯誤の上に論議されて当然で、必ずしも「消費税、絶対悪」ではないことは自明だし、日本が個人の総負担が度外れて多いのではないことも事実だ。国家を維持運営するのコストは民(企業も個人も)が納得を前提に負担するしかない。 税の全体と使い方を再設計すべきであるというのは確かにその通りだ。 けれども、税の使われ方・医療や年金・教育や育児・年金制度などの論議と改革が半端な、しかも一方で「子供手当て」がスタートする中で、なおかつ国政選挙前に言うべきことか! 国会論議・閣内論議・党内論議さえなく・・・。これではまるで、彼が「しばらく大人しくしているべきだ」と名指しした人物の手法ではないか! そこには、持論への「過信」と「解ってくれるはず」という「思い込み」と、選挙民への「軽視」が在ったと思う。さらには脱・小沢なる政治的思惑も…。 加えて、普天間-辺野古問題、日米同盟の見直し からの逃避が見え隠れしていた。今回の敗北は当然ではないか? が、間違っても「大連合」へと流れてはならない。 選挙民は、比例区では 民主:1837万 自民:1402万。選挙区では立候補数もありそれ以上が 投票したのだ。決して大敗ではない。 新聞の「惨敗」論調でしょぼくれるのではなく、行政の無駄排除、箱物公共事業見直し、天下り構造改革、コンクリートから人へ、派遣法改正、年金制度改革、子育て支援、日米同盟の再検討・・・当初に言ったことを 【リ・スタート】すりゃいいのです。その為に、政権をいわば「左」から支える存在や、労働運動・社会運動・市民運動が是非とも必要な局面と思うが如何?う~ん
つぶやき: 9条改憲阻止の会ニュース 転載
2010年7月12日 第61号
■ いつもよりは苦渋に満ちた顔の菅首相の記者会見を見ていた。彼は参院選挙の敗因を「消費税を持ちだしたことが唐突だったという印象を与えたのではないか」と述べた。選挙直前に消費税増税問題を持ち出したことを敗因として認めている。彼が弁解がましく持ち上げていたのはギリシャ問題であった。ギリシャの財政赤字問題を他山の石とすべきだというのだ。こういう手法そのものが政治主義的である。ギリシャの財政赤字問題と日本の財政赤字問題は同じようにみえても大きな差異がある。現在のような管理通貨体制のもとではどこの国家も財政赤字を抱えるが
その国の経済的力の基盤とどう関係しているかで意味は異なる。ギリシャの場合は経済力に見合わない過剰な国家財政であり、赤字で信用を失えば継続的な資金調達は不可能になるということだ。EU諸国などの財政支援を不可避とする。日本も膨大な財政赤字であるが、その意味する国債(国家の借金)が自国の経済力とのバランス(均衡)はまだ保たれているのであり、ギリシャのように危機になることはない。そこを無視した財政再建(消費税)議論は唐突すぎるし、思いつきの域をでない。丁寧な説明が不足していたというよりは、問題の理解そのものが不足していたのだ。これには普天間基地移設問題などを選挙の争点から隠そうとした焦りがあったのだ
■ 普天間基地移設問題での旧政権の日米合意{辺野古新基地建設}に決断した理由に鳩山は朝鮮半島での緊張とアメリカ海兵隊の抑止力を挙げていた。鳩山が哨戒艇の沈没事件をめぐる朝鮮半島の緊張を持ち出してきた時の唐突さと、菅がギリシャ問題を持ち出す唐突さは類似している。政治主義的な手法だ。これは簡単に通用しない時代であることを菅や民主党の面々は理解すべきである。参院選挙の重要な争点であるべき普天間基地移設―日米関係見直し問題は首相の交代劇で巧みに隠された。だが、8月末には辺野古新基地の場所や工法が決定される。これで一件落着か。そんなことはあるまい。ここから次のステージの戦いがはじまるだけのことではないのか。「日米同盟―抑止力」という曖昧な言葉がマスメディアでは踊り、挙句の果てに「仕方がない」という言葉が勝手に流されるのかも知れない。あきらめなさいというわけだ。僕らはこの問題はそれこそ、スタートラインにあると言いたい。僕らはこの問題の歴史的意味や展望、積み重ねてきた運動の反省に立ちながら次を準備していくしかない。8月末の日米合意に基づく辺野古新基地の場所や工法の決定を注視し、反撃を準備して行こう。 (文責 三上治)
つぶやき: サッカー・本田選手と横綱・白鵬
スポーツ新聞各紙が、ワールド・カップでの日本チームの活躍に掌を返して「岡田絶賛」を繰り返している。大会直前まで「岡田監督、頼むから辞めてくれ」と絶叫していたのは誰だ? 中島みゆき姉さんは言っている、『闘う君の唄を 闘わない奴らが嘲笑うだろう』 と…。 新聞のその豹変賛辞を素直に読む読者は、大画面の前で日の丸マークを身体や衣服の一部に貼り付け「ニッポン、ニッポン」と絶叫して応援した者の中にさえ、あまり居ないだろう。 新聞のこの姿は、近くは前天皇死去時の「自粛」だらけ、イラク戦争開戦時の報道、小泉旋風時や民主党政権誕生総選挙とその後の「掌返し」や、古くは戦争に際して「聖戦を煽った論調」から「知れ、軍国の恥」と叫んだ敗戦直後の論調の生き写しだ。 もちろん、それと共同歩調を繰り返す「ニッポン、ニッポン」連呼のファンや世論(?)は、同じことの表裏だ。 ところで、ゲーム直後の本田選手のインタビューへの返答は見事だった。 「どうですか、日の丸を背負って闘うというのは?」との若い迎合記者の誘導質問に、まだ息が上がったままの状態でこう答えたのだ。 (記憶なので、正確ではないが…ほぼ再現出来ていると思う) 『ぼくらは、いいゲームを精一杯しようとは思っているが、日の丸や国を背負っているのではない。背負っているものがあるとすれば、それはチームと多くのサッカー・ファンです。』 思わず画面に向かって拍手した。
琴光喜騒動に端を発した「相撲界、野球賭博事件」での報道と、相撲協会の対応やNHKの対応も奇妙な構図だ。 ぼくは、琴光喜は十両に落としそこから再起してもらおうという、貴乃花の言い分に賛成だが、理事会は厳しい判定を下した。 面白いのが、NHKは相撲中継を中止せよとの抗議電話が圧倒的多数だった(とNHKは言っている)が、中止が決まると中継放映せよが圧倒的多数となったという世論(?)だ。 内閣支持率や政党支持率についての、多すぎる「世論調査」同様、いかがわしい限りだ。 ところで、横綱:白鵬は8日、名古屋場所前夜祭での発言で、天皇賜杯授与自粛辞退についてこう言っている。 曰く『過剰反応ではないか?』 (翌日、白鵬は「手天皇の賜杯が欲しかった」と言ったのだと判明) (大江健三郎は、天皇が授与する文化勲章を拒否したのだった) ついでながら「東京新聞」にいいコラムがあったので、転載しておく。
歌遊泳(歌詞研究): 演歌の向こう側と「切れて」「繋がる」ために ⑤/5
初期中島みゆきにおける「ふるさと」
もちろん、歌謡曲は広く聴かれ歌われることを希い、売れることを前提に作られる。 そこに表れる「言葉」は、時代の「気分」「雰囲気」「大衆的抒情」や、日本近現代の人々の生活感や社会観に居座っている「語」群によって構成されている。言い換えると、たとえ「負」の歴史との「共犯」関係に動員されただろう「言葉」であっても、人々にとって「他に置き換えられない」「言葉」である限り、いまなお生き続けている自明の(説明不要の身に沁み付いた)「言葉」たちによって、構成されるしかない。もちろん曲に乗ることも前提だ。ある意味では、詩や短歌以上の制約を生きている。 その「言葉」が担わされた「共犯」性の痛みを共有しながら、自身の心情をその「言葉」によってしか表せないときがある。作者はその自明の「言葉」を駆使しながら、どうにかして、聞き手が思い描く「それまでの」歴史に培われた自明性を覆し、「共犯」性の「再生産」からは隔たった自身の立ち位置を模索して告げているはずだ。それが、ぼくらに届く歌なのだ。 初期中島みゆきの歌詞には、その模索の痕跡があった。
多用されている「ふるさと」「わかれ」「帰る」「忘れる」を拾ってみる。 「いつか故郷に出会う日を」(『時代』)、「私はわかれを忘れたくて」(『わかれうた』)、「遠いふるさとの歌を歌おう」(『海よ』)、「帰ろう」「急ごう」(『遍路』)、「遠いふるさとは落ちぶれた男の名を、呼んでなどいない」(『あぶな坂』)、「ふるさとへ向かう最終に乗れる人は急ぎなさい、と」(『ホームにて』)・・・・・・。 これらの、「センチメンタリズム」「土着的浪漫」を基礎にした「自明」の「大衆的抒情」「語」を前に、聞き手はそれらが呼び覚ます馴染んだ情感に充たされ、違和感なく受け止めるのだ。 が、やがて下記の歌詞によってその情感の仮解体・再編へと誘われ、いささか「うんざり」もした「大衆的抒情」「語」の多用の先に在る、自明「語」観の変更を迫られることとなる。大きな役割を果たしているのは、もちろん「言葉」を支える曲ではある。 前回述べた『あぶな坂』(http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=53790 )の「ここからは見える」の「ここ」に通底する「場」として、いくつかの歌詞を思い付く。 「若い船乗りの夢の行方を 海よお前は覚えているか」(『海よ』http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=23856) 「死んで行った男たち呼んでるような気がする 生きている奴らの言うことなんか聞かないが」 「浮気女と呼ばれても嫌いな奴には笑えない おかみさんたちよあんたらの方が あこぎな真似をしてるじゃないか」 (『彼女の生き方』 http://www.youtube.com/watch?v=1U43icOLJD4 ) 「別れの気分に味をしめて あなたは私の戸を叩いた」「立ち去る者だけが美しい」(『わかれうた』http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=4951 ) 「包帯のような嘘を見破ることで 学者は世間を見たような気になる」(『世情』http://www.youtube.com/watch?v=fOEOiVAD1-o&feature=related『3年B組金八先生』画像と歌 ) 「叩き続けた窓ガラスの果て」「窓の中では帰りびとが笑う」(『ホームにて』http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=11632 ) 「うなづく私は 帰り道もとうになくしたのを知っている」(『遍路』http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=41420) 「泳ごうとして 泳げなかった流れの中で」(『時は流れて』http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=53891 ) こうして初期中島みゆきを見てみると、これらの歌詞との、ある緊張感を伴った同居が可能なものとしての「演歌」語、 つまり「大衆的抒情との訣別」・「回収されることのないもの」・「回帰ではない復権」としての、 彼女が言う「ふるさと」とは何なのかと考えてしまう。 それが、「大衆的抒情」「語」のひとつに違いないと思うからだ。
話は飛ぶ(ように見える)が、そして歌謡曲と詩を同時的に論じるのは無理がある(両方から叱られるだろう)が、 金時鐘(キム・シジョン)が若き日に多大な影響を受けたという、小野十三郎『詩論』にある「短歌的抒情の否定」という命題について、 倉橋健一が語るブログが目に留まった。 『小野さんが「歌」を否定したのだと戦後、誤って解釈されてきた節がある。じつはそうではなく、 小野さんが嫌悪したのは当時の歌人であり、そこで歌われた短歌だった。 決して日本古来の文化伝統としての「歌」そのものを否定したものではなかったのです』 ぼくは、金時鐘の講演か著作で『短歌的抒情との訣別』とか『短歌的抒情と「切れて」「繋がる」』、また『まみれても垢じまない』とか『何十年となく平俗なお上の正義を説き続けている、人気番組「水戸黄門」ぐらいからは離れねばなりません』という言葉に出会ったこともあるので、詩人が身に沁み付いた自身のリリシズム(情緒)と如何に格闘しているかを聞きかじってはいた。 だから、署名「umineko」氏のちょっと浅い論難(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=95709 )に出遭ってビックリだ。 曰く、『抒情や情感を排除することが詩人の目標じゃない気がするんですけどね』 『土砂降りの雨に濡れてしまっては正確な判断が出来ない、だから窓の内側からそれを眺めなさいっていうのは、それでは時代から孤立するだけだ。雨の真ん中でも流されない強さが狭義の「詩人」って気がするんだけど。』 ん?
金時鐘の場合、身に居座り、ゆえに存在を脅かし、拘り越えねばならないもの・・・、それは、根が「朧月夜」など幼い日々に唄った戦前日本の唱歌や、中学で暗記した「万葉」などに発し、身から追い出そうとしても出て行かず、幼少年期の情操的記憶を辿ればそればかりが出てくるという痛切の「公的」受難だ。それは、植民地朝鮮の「日本」語「抒情」を自明として受け容れ(てしまっ)た、元:皇国エリート少年の臓腑に宿る、遡って消し去ること叶わぬ宿業としての「抒情」なのだ。「切れて」「繋がる」とは、境界を跨ぐ者が辿り着いたアイデンティティであり、強いられた「自発」によって屈折の果てに棲み付いてしまった「日本」語「抒情」の「魔力」との格闘だ。 その歴史から、ぼくらは多くを学び知るのだ。 己に何が巣食っているのかを・・・。 そして、逆に、何が「回収」されざる「個」的情感なのかを・・・。 「大衆的抒情」「語」(だけ)を「排除」せよとか、土砂降りを「窓の内側から眺めなさい」などとは誰も言ってはいない。こうした浅はかな論者は、その「魔力」に圧し潰されそうな心的境遇に閉じ込められたことも、まさに土砂降りの中に立ったことも無いのだろう。 金時鐘こそはずっと土砂降りの中に立ち尽くしている。 その雨の、肌を引っかき身を刺す痛さを、骨に沁みる疼きを、想像できないのか?
ところで、初期中島みゆきには、この「umineko」氏のような無理解とは違う、彼女なりの(年齢や生育過程{産婦人科病院の娘}や境遇の制約を越えた)立ち位置(想像力・構想力)が見えるので、曲の素晴らしさと相まって腑に届いたのだった。彼女が、どちらかと言えばウェットな曲の歌詞中で多用する、「ふるさと」という「語」の危うさ(無批判な郷愁・保守・撤退・諦念・課題放棄・マザコン/ファザコン)が気になってしかたなかった。気になって『ホームにて』の主人公に分け入った。 『演歌の向こう側と「切れて」「繋がる」ために①~⑤』の最終として、『ホームにて』仮説ストーリーに乗せて、初期中島みゆき「ふるさと」について述べて締めくくることとする。
『ホームにて』( http://www.youtube.com/watch?v=RcgDe3CcU5I&feature=related ) 主人公は、いまで言えば、それこそ西原理恵子の漫画に登場するような女性ではないだろうか? 保育士(か美容師か看護師)を目指して短大に行ったのだが、父入院もあり中退した。事務員として中堅商社に勤めるも、経理能力などなく、元々の職業的希いもあり仕事に馴染めない。着飾って色恋の話に明け暮れ寿退社で辞めていく同僚、いささか不器用で美人でもない「わたし」。 いつしか「雑用係」になっていた。数年遅く入社した美人のA子は男性社員からチヤホヤされ、まるで先輩づらだ。女が職場に進出したとは言え、30年以上前、70年代末の中堅商社はなお「お飾り女性社員」「職場の華」「男性社員の妻予備軍」をこそ求めていたのだ。 【「わたし」の独白】 けれど、「わたし」に、制度とも言えるその風土を覆す「技能」も「智恵」もない。女の「キャリア」への願望は、その手前で踏みつけられていた。 70年代末に(今はもっとそうだけど)、実家の援助なく女ひとり都会で暮す、その困難が解りますか? 会社を辞めたのは、確かにアパートと自宅との往復しか出来ない経済的・人間関係的「貧困」も理由だし、永く病床に在った父が亡くなった家の事情も、いいかげんな男に多額を貸して返って来なかった失敗も大きなきっかけです。けれど今の、昼のアルバイトと夜の接客業は自ら選んだ道です。男の裏表(いや裏ばかり)も人並みに知りはしました。そりゃ、OL時代より収入はうんと増えたし、大学へ通う弟に職業を隠して支援もしてやれる。 だけど、あの最終に乗らないと、このネオンライト輝く虚飾の街が、「わたし」の出てゆけない棲処となってしまうヨ。(21世紀。今、「単身」「派遣女性社員」の多くがこの周辺を生きている)。 「わたし」、若く見えても、もう来年31歳よ。けれど、遅くはない。来年必ずあの最終の汽車に乗って行き、不足単位を取って保育士になるんです。今度の春から再開するんです。去年も一昨年も出来なくて、「ドアは閉まり」「手のひらに」は「空色のキップ」だけが残って溜まるけれど、それはこの夜の街のネオンライトでは燃やせやしないのよ。残ったキップを燃やせない間は、汽車にも乗れやしないのよ。
ハッキリして来たヨ。「ふるさと」は、後ろではなく前に在る。時間的には過去ではない。距離的には遠方ではない。 実際の「ふるさと」は変わってしまっているだろうし、そこには友はもういない。そして、ネオンライト下を生きる「わたし」を歓迎するはずもない。 けれど、「わたし」が抱いて来た希いが「未来」へ向かおうとするなら、必要なものをきっと見せてくれるハズ。 そうだ、「ふるさと」は明日であり未来であり、困難だけれど「わたし」次第で実現可能な世界への入口だ。 「わたし」が、それと「切れて」、そして「繋がる」べき、「わたし」の歴史と未来、その可能性総体だ。 汽車で行った先には、「わたし」のような人たちがたくさん居るに違いない。 あなたが望むのなら、「わたし」がその人たちと自分とを、「We」と呼んでもいいよ。
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【余談】①(ウィキペディアより) 互いにライバルと認め、仲もいいと言われているユーミンは、 「私がせっかく乾かした洗濯物を、またじとーっとしめらせてしまう、こぬか雨のよう」と中島の音楽を評したそうだ。 ユーミンは「恋愛歌の女王」と呼ばれ、中島みゆきは「失恋歌の女王」と言われているそうな・・・。
【告】:本稿をもちまして歌詞研究:『演歌の向こう側と「切れて」「繋がる」ために①~⑤』を一旦終了します。 閲覧を感謝します。①~⑤通して再読され、上のEメール・タグを開きご感想・異論など下されば幸いです(非公開です)。 ①『「阿久・大野・ジュリー」組が駆け抜けた70年代最後の五年間』 http://www.yasumaroh.com/?p=5779 ②『演歌における多頻出「語」』 http://www.yasumaroh.com/?p=5887 ③『大衆的抒情の一義的「在処」』 http://www.yasumaroh.com/?p=5930 ④『「We」の不在。「我らが我に還りゆくとき」⇔「我らなき我と切れゆくとき」その往還』 http://www.yasumaroh.com/?p=6376 ⑤『初期中島みゆきにおける「ふるさと」』 本稿 http://www.yasumaroh.com/?p=6603
追悼: 1960年6月15日樺美智子さんの死 から50年
6月15日、梅雨入り前の薄曇。 日ごろの行ないが良い(?)のか、巡り合せなのか赤坂の工事現場にいた。 国会議事堂まで徒歩20分圏だ。近いので、昼休みに向かった。12:00から樺美智子さんの追悼集会がある。 50年前の今日、1960年6月15日、日米安保条約の改定に反対する全学連主流派(安保BUND)ら学生が 南通用門から国会内に突入。混乱の中、東大生樺美智子さんが死亡した。警察は転倒による圧死と発表し、 全学連は官憲の暴行による虐殺だと告発した。 60年安保フォトギャラリー: http://www.arekara50.org/gallery/ 安保BUND書記長:島成郎 : http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1101872026/subno/1
12:20に南通用門に着いて、献花・焼香した。 当時樺さんと共に活動していて東大生だったという古賀康正氏、他に蔵田計成氏・三上治氏、塩見孝也氏などから発言があった。いずれも、ひと世代上の人々だが、こんな発言が耳に残った。 『人は二度死ぬ。一度目は生命の終わり。二度目は人々の記憶から消えること。 樺さんを二度死なせてはならない。樺さんが目指したものを記憶から消してはならない』 『50年経って、今ほど日米安保が、戦後そのものが、問われている時はない。あれほどの国民運動だったが、安保体制は沖縄への基地集中という遺産を遺したまま生きている』 『私を含め安保全学連、安保BUNDを構成する者の辞書には「沖縄」はなかったと思う。そのことを真摯に認めたい。50年経ってぼくらが出した回答が「民主党政権」による先般の「日米共同声明」では・・・・。樺さんが生きていたら、きっと「それは違うんじゃないかしら」と言われるだろう』 みなさん、さすがに弁舌達者。 最後に全員で黙祷していると、右翼の街宣車が大音量でやって来て、吠えた。 『祀り上げるよりも、女子学生一人助けられなかった無計画・無謀・無力を恥じよ!』 『女子学生が官憲に殺されたと言うが、テメエら身内同士で一体何人殺したのだ?』 彼らに言われる筋合いはないが、それも遺産だ。悔しく耐え難いことだが、50年の中には間違いなくそのことも含まれている。
昼休憩が終るぅぅ・・・・・・一時半に資材が来るぅ~・・・。あわてて現場に戻った。 右の二葉は献花・焼香して佇む元某派議長S氏。