Archive for the ‘ぼやき つぶやき 駄エッセイ  ’ Category

歌遊泳: カラオケ画像に罪はないが・・・

【あるカラオケ画像】

不定期で帰阪すると、しばしばカラオケへ行く。友人とだったり女房とだったりするのだが、これが中々心身に良い(と思っている)。                                                                                                                 先月、カラオケの背景画像に苛立ってしまった。まあ、聞いてくれ。                                                                                                           元々、カラオケの画像ごとき(?)に怒っても始まらないし、よく観ていると「さっき出た画像やなぁ」といういわゆる「使い回し」もあるがこれはご愛嬌、しかも実は誰もよくは観ていない。                                                                                                                  歌い手本人が登場するパターンがあったり、まぁまぁ歌にマッチしていると思える画もあり、普段は気にも留めず見過ごして来た。

先月、同行者がある演歌を入力した。作詞者が敬愛する阿久悠ということもあるし、八代亜紀の最高作と思ってもいるので、その歌を聴きながら珍しく画像をシッカリ観た。                                                                                                                                                                                                                 都会の若いカップルだ。たぶんホワイト・カラーだろう男とOLの恋物語風の画だ。今風のファッションの男女だ。雨の舗道で何かの諍いからか、プイと去ってゆく女。後日、別れを悔やんでか男を思い出している風。男の職業と雨との関係も、女の不運やうらぶれた飲食街も、つまりはこの歌の核心がアッケラカンと捨象されている。                                                                                                                                                             ドンピシャの画像を配置しろと言いたいのではない。むしろ、画は「そのまま」でない方がいい。                                                                                                                                                 けれど、歌の世界を、今日的に今風に、ホワイト・カラー価値観と21世紀企業社会風土を色濃く投影した映像で包囲しては、唄う青年男女の想像力・構想力・未来思考力を奪ってしまふぞ。                                                                                                                                                 観ているうちに「苛立ち」に似た想いが込み上げてきた。                                                                                                    雨が降ればこの男の仕事は中止で、この女の「いい人」はやって来ることも出来るのだ。                                                                                                                                   男と女の永い月日には「雨」が差配する男女の機微が積もってもいる。                                                                                                                                                    女が唄うのは、インチキ画像を受容れる青年男女が生きる21世紀が棄ててしまった物ども・事ども総体への「粘情」であり、棄てて悔いない世情へのこの男と自分の身に染み付き・覚えている重さを根拠とした「異論」なのだ。

七〇年代末前後に、阿久悠が「消えゆく」ものたちへの限りない哀切を込めて唄い上げた一連の「演歌」の真骨頂を、件の画像が嘲笑っているのなら、ワシはド演歌を唄い続けることで21世紀世情と非和解でいよう。                                                                                                                     ちなみに、雨が降れば仕事は中止 の職業をいくつか挙げてみよう。                                                                                                                       *外部左官 *瓦職人 *生コン打設 *外部大工 *外部塗装 *外部ガラス *外部コーキング *造園業 *植木職人                                                                                                                                                                                                                                        *テント屋 *看板屋 *蜂蜜採取 *河岸の荷揚(強雨) *第三世界の青空教室の教師・・・・・

画像の社会観を易々と受容れる風土が、青年男女を「ひとつ」の価値観・就労観・職業観に「統合」して向かわせようとする「意志」と無縁ではないと思うのは、いささか過剰反応ではあろう。                                                                                                                                  けれども、TPPというアメリカン・スタンダード強迫への抵抗線には、こんなことに敏感である感性もそれを支える力のひとつになると思えてならない。                                                                                                                                       

【雨の慕情】 作詞:阿久悠                                                                                                                                                                   

心が忘れたあのひとも                                                                                                                                                      膝が重さを覚えてる                                                                                                                                              長い月日の膝まくら                                                                                                                                  煙草プカリとふかしてた                                                                                                                                    憎い恋しい 憎い恋しい                                                                                                                            めぐりめぐって 今は恋しい                                                                                                                

雨々ふれふれもっとふれ                                                                                                                                                 私のいい人つれて来い                                                                                                                                                 雨々ふれふれもっとふれ                                                                                                     私のいい人つれて来い                                                                                                                      

一人で覚えた手料理を                                                                                                                                                     なぜか味見がさせたくて                                                                                                                             すきまだらけのテーブルを                                                                                                             皿でうずめている私                                                                                                                    きらい逢いたい きらい逢いたい                                                                                                      くもり空なら いつも逢いたい

雨々ふれふれもっとふれ                                                                                               私のいい人つれて来い                                                                                                                     雨々ふれふれもっとふれ                                                                                        私のいい人つれて来い

ぼやき: 芸能ニュースに興味は無いが・・・(紳助事件雑感)

行列のできる法律相談所 先生方の無恥

島田紳助の突然の引退も、その理由の真偽も、裏事情も「芸能オタク」ではないぼくの知るところではない。                                                                                                  島田の「思い上がったような」日頃の言動と、数年前の女性マネージャー助手を殴打した事件の処理と謹慎と早期の復帰に至る経過への、「不愉快な」思いだけが強く刻まれている。まぁ、それはどうでもいいのだが、今回の事件には想うところあって、芸能ネタに言及させてもらう。                                                                                  10年近く続いていた『行列のできる法律相談所』にご出演の先生方、初期に出演した丸山和也先生、橋下徹先生、北村晴男先生などの、事件へのコメントのことだ。                                                                                                                                                                                                               同情や擁護に彩られたコメントは、友人知人としての感情としては理解できるし、人間:島田を知らぬぼくが異論を吐く立場にも無い。                                                                                                          気になるのは、行列ができると自負(?)する先生方が、島田が事件の解決策を求めてその行列に並ぶのではなく、別の方法を選択したことにほとんど言及せず、異を唱えることも恥じることもない、その姿勢だ。弁護士に依頼せよと言いたいのでも、先生方が「私に任せなさい」と言わなかったことを責めたいのでもない。元々、法の支配の外側(?)の出来事だとして、法律家の取り扱いには馴染まないと、島田と先生方の間に暗黙の了解があったのだろうか。だが、先生方は、まずもって自らの非力・無力・不信頼を恥じてしかるべきだと思うのだ。TVニュースで見る限り、丸山和也先生だけが、弁護士に「相談してくれなかった」事実に言及して、言葉は忘れたが多少はその「不明」を恥じて述べていた。                                                                                                                                                                                                翻って思うに、ぼくが労働運動界などの友人・知人から聞いた話では、労働争議などで現場の彼我の力関係、組合メンバーの意識、組合財政力や世代や家族構成などを無視して、やたら「原則的」「教科書的」「戦闘的」な説を唱える先生、反対にやたら「妥協的」「なあなあ的」「早期決着」を主張する先生が、居るという。 自身の事務所の「存亡」を賭けて案件に臨むことなど無かったとしても、争議を担う個々人の存亡を「賭け」る意思・気概への想像力は持って欲しい、と聞かされた。大きな金が動いた夫婦間案件で、親しい弁護士に儀式的最終局面にほんの数日動いてもらったら、「得た利益のン%は規定通り」とビックリする額を請求され、弁護士報酬規定はそうなのだろうが、それまでの関係性に照らして納得しづらかった、と憤慨している女友達も居た。当事者性と当事者性への想像力の問題だろう。                                                                                         ぼくらが、例えば友人・知人の労苦や成果や悲惨に出遭う時、その想像力を維持できるだろうか? 実のところ、それは難しいことだ。                                                                                                                                他者への評価・批評は、実は己を振り返ることに違いない。ささやかな絵なら絵、写真なら写真、文章なら文章、歌なら歌などの作品、あるいは不祥事や祝事 への賛意も反論も糾弾も、自身を切開することを伴って己の思想を晒す姿勢が含まれていなければ、作者に届くことは無い。というのが、ぼくの感想だ。                                                                                                                                                               ***と尾崎豊の、文字面だけを拾えば似ているかもしれないと思える、ある二つの歌が、実は全く違っているなぁ~、と強く思い直したことがある。                                                                                                                               想像力希薄の極みだった、と思っている。

                                                                

                                                                                                                                                                                                 

交遊通信録: あるメールやりとり  【吉本隆明「反核異論」】異論

知人からのメールを受信した。

 
 —– Original Message —-
From: ****
To: ヤスマロ君
Sent: Friday, August 05, 2011 1:36 PM
Subject: 原発・吉本隆明の意見
けさ(8月5日)の日経新聞朝刊に出ていた記事をスキャンしましたので、添付して送ります。
関心があれば、画像を拡大して読んでみてください。
(縦長7段ほどの記事で、スキャンしづらかったので、上半分と下半分に分けました。)
ただ、吉本氏が自ら執筆した文章ではなく、日経記者がインタビューして記事化したものです。
「発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない」という意見も、傾聴に値する見解だと思いました。
ご参考まで。
 
 
早速返信した。 
   
—– Original Message —–
From: ヤスマロ
To:****
Sent: Saturday, August 06, 2011 12:25 PM
Subject: Re: 原発・吉本隆明の意見 【への異論】

拝復。
ちょっと、言わせて下さい。
 
<敬愛する吉本隆明氏への疑義>
吉本談話拝読。
かねてより巨人吉本の「原子力」へのスタンスは、
古い吉本ファンから「?」を投げかけられて来ました。
吉本『反核異論』(1983年)(ぼくの本棚にも眠っています)を巡って、
60年代後半からの吉本信奉者から洪水のごとき「異論」が噴出し、
左翼知識人・学生等の間で物議を醸しました。                                                                                                                                                  当時、文学者たちが反核の声明を出したり、署名を集めたりの運動をしだしたころからずっと反原発を主張する人に対して                                                                           「ソフト・スターリニズム」とか「反核ファシズム」「反動」などといって批判・非難をつづけている。
今回の吉本談話はその意味では、「想定」内の出来事のようです。
 
学生期とその後の混迷時期(60年代末~70年代初頭)を彷徨っていたヤスマロ君は、
吉本さん発の言辞から多くの「道案内」を頂戴し、自己崩壊を免れました。
ここで言い始めると長く難解(ヤスマロが未消化かつ表現力不足ゆえ)なので
割愛しますが、概ね下記の課題です。
 
*人間の想像力・構想力、つまりは個人性の核心は、
  「社会的決定論」の大枠での影響下に在りながら、マルクス主義者が言うようにその支配下に在るのでは決してない。
*党は、それ自体、個人性の核心と逆立する「宿命」の中に在り、
  党として表現されるべき、集団的課題の只中に在る個人は、
  原理的にはひたすら党解体を目指さざるを得ない、という倒錯状況を
  覚悟して臨まねばならないという「宿命」をあらかじめ背負っている。
  しかし、その上で「協働」「共同」を求める途に立つ回路はあるのだ。
  そこを厖大な論考で説いた。「(大衆の)自立論」「共同幻想論」 などなど。                                  
 *男女・夫婦・家族、単位社会・交遊関係、目的組織・政治集団、民族・国家、
  それらはそれぞれ違う位相・違う複雑多様なベクトルの「歴史性」に由来しており、
  そこにはマルクス主義者が見落としたあるいは見ようとしない、
  固有の因子・歴史・風土・文化が棲み付いており、むしろその因子を
  究明することで、ある地域・民族・国家に生きる「人間」、生活を営む個人の本質に
   迫れる。社会・経済システムが人間に及ぼす力は、ゼロではないが、
  それは、社会にとっては「全体現象」であり、個人にとってはあくまでも「部分」なのだ。
 
などなど・・・。吉本さんは、戦後早くから、上記スタンスに立って、
決定論者との孤高の闘いを続けて来た。
戦後の共産党系左翼との訣別( 『ぼくは出てゆく、冬の圧力の真むかうへ・・・』 )、
60年安保では、安保ブント(全学連主流派)の側に立った数少ない知識人、
68~70年ころ、いわゆる学生叛乱に政治性の外から共感表明・・・・。
吉本さんの思想的営みは、詩作・文化・文明・民俗・言語・サブカルなど多岐に亘り、ぼくなんぞその言説を追って、                                                                                                                     花田清輝・村上一郎・磯田光一・今西錦司・柳田國雄・漱石・高村光太郎などに分け入ったし、                                                                              親鸞をちょこっとカジったのも吉本さんの影響だ。                                                                                                       『荒地』同人の末席に遅れて座り、戦後詩の荒地を切り拓いた吉本さん。                                                                                                                 衣更着信(きさらぎ・しん)という詩人を教えてくれ、巨星:田村隆一の詩を何度も読ませてくれた吉本さん。                                                                                  自身の詩を、繰り返しぼくに読ませた吉本さん。
その吉本さんの「文明論」「科学技術論」が、『反核異論』前後から、
どうにもぼくには「?」でした。
もともと、理科系(東京工大卒)だからか、科学技術への構えが「?」なのです。
 
添付記事にもある説に見え隠れするのは、
人間が切り拓いた技術への過信に近い信奉です。
お説を、皮肉を込めて拡大するなら、
例えば、「遺伝子工学」。例えば「劣化ウラン弾」。例えば「細菌兵器」。
それらを全面肯定するのだろうか? 
もっと言えば、世界資本主義がその混迷ゆえにこそ、いまのところ辿り着いた(とされる)
「グローバリズム」という『帝国』(特定の国ではなく、個別事情を無視して
有無を言わせず世界一元化のシステムに組み込まんとする妖怪)支配もまた、
「発達」してしまった(経済システム「科学」上の)「技術」という一面もあるのではないか?。
 
お説には、
「発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない」とありますが、
そこには、「させてしまったが、きわめて不都合なので変更する」という選択こそは、
きわめて「発達」した「科学技術」である、という「謙虚」が欠落してはいまいか?
人間が切り拓き、発達させた技術への過信を吉本さんから聞かされた、
多くの吉本ファンとともに師の最後の発信を、心から残念に思う者です。
 
制御無理(事実、核廃棄物の処理は未定のまま、廃炉工程未明のまま)では、
「発達してしまった」に届いていない「科学技術」であり、「後戻り」などではなく、
人類史の闇の海原で進路変更の舵切りを迫られている「発達していない」技術でしょう?
吉本さん、最終制御を遂げられない以上(そして、それはたぶん永久に無理)、
「発達してしまった技術」ではありません。見切り発車は、科学者吉本が
採るべき選択ではないと思います。
 
遺伝子工学の発達は、野放しでは、優勝劣敗の風土と新自由主義の猛威の中、
産み分け・優性保持推進を奨励し、「持てる者」たちが「偏差値」高位の
ベイビーを量産するでしょう。それも「科学技術の発達」ですか?
すでに、高収入キャリアシングルウーマンが、婚姻によらない出産を目指し、
高額を支払って闇で「有名大学医学部高成績」の精子を購入して念願の母になっている。
まさに吉本流価値観に拠れば、そうした「新自由主義」の極北こそ、
吉本説「大衆」が、その「生活」と「自立」を賭けて抗うべき思想ではなかったか?
吉本さん! あなたの言う「大衆」とは  誰のことですか?
 
 
【吉本論への異論をひとつふたつ】
 
 
 
 
 
品川康麿
【昨日大腸ポリープを五つ切除(イボを取る程度の軽手術)して、本日休養中】
 
<追記>
友人にして師のような、黒猫房主氏が数年前、カント、フーコーなどを引用して次のような文をくれた。                                                                     『理性の公的な使用』・・・・。いまそれを思い起こしている。                                                                                        「発達してしまった」「科学技術」を「理性の公的な使用」に照らして使用するために・・・。                                                                                           「科学」「技術」は、「公的な理性」の前でそれを超越する万能の存在ではない。
 
『カントが言った「理性の公的な使用」というのは、もちろん「公=国家・組織」のための理性の利用ではないのですが、                                                                   そのような「国家・組織」のための理性の使い方はカントによれば「公共性」を僭称していることに他ならず、                                                            「理性の私的な利用」となります。
フーコーは「啓蒙」とは次のような出来事だと言います。
「カントによれば、啓蒙とはたんに個々人が自分たちの個人的な思考の自由を
保証されるようになるといったプロセスのことではない。理性の普遍的な使用
と、自由な使用が、そして公的な使用が重なり合ったときに、啓蒙が存在する。」                                                                                        またフーコーは、
「人類が理性を使用する、その時こそ、<批判>が必要なのである。」
「<批判>とは、ひとが認識しうるもの、なすべきこと、希望しうることを決定する
ために、
理性の使用が正当でありうる諸条件を定義することを役割とする。」                                                                                                         「 錯覚とともに、教条主義と他律性とを生み出すのは理性の非正当的な使用なのだ。」とも、言っています。』
  
 
 
 
 
 
 
 
 

つぶやき: -ブログ再開-  原発に戦争を思う  

震災・原発に戦争を見る。

少しブログが滞り、心配した数人の方からメールをもらった。有難いことです。当方「たそがれ」の「ろくでなし」、今後もこうしたことは度々あると思います。前回のコメントが3月14日なので、約40日間の投稿ストップ状態。いくつか理由はあるがいずれも些細な私事雑事。                                                                                                                                                   ストックを載せれば維持できるがそれさえおぼつかぬ精神状態。実は、・・・                                                                         パソコンのデスクトップがチラついて正視できない(遠近両用眼鏡はパソコンの半端な距離には不適。中近両用眼鏡も購入することにした)。                                                                                                 ある雑念(煩悩)にさいなまれパニック(我ながら「我を失う」に近い事態であったが、所詮は一人相撲)。                                                                                    震災・原発崩壊に言葉を失う(全てを喪って、なお生きる人々への畏敬と、翻ってそれができないだろう自己への嫌悪)(原発事変に戦争を見る)。                                                                                                                                                    阪神淡路大震災(95年)を遠因として坂を転げ落ちるように破産(98年)に向かった自己体験(どの企業もそれを克服して企業維持したのだ!)の、毎月末の恐怖の資金繰りと断末魔期約二年間の精神状態が蘇えって来ての落ち込み。                                                                                                                  震災に関連して、都内オフィス軽改修工事で繁忙(まぁ、超多忙だった)                                                                                         -これらから、ブログ更新ができない有り様。情けない。軽い「病い」だったのだろうか(苦笑)?-                            

福島の事態から、ぼくは戦争を想起していた。                                                                                                     それを推進した者の手前勝手な理屈と楽観論、「だろう」の積み重ね。その為の総動員態勢。反対し阻止しようとした者の無力感。報道・政財官学挙げた推進論。事故を機に掌を返す見苦しい論説。                                                                                                                                                     余りにも甚大な被災・被害状況に、責任論・「何故なのか」「元々の無理」を問う声はかき消されがちだ。                                                                                                                       ジャーナリズムの、「政権批判」によって自己の「翼賛体質」を覆い隠す体質。例えば、朝日は「本紙の調査により、各原発は震災等により8時間程度の送電不可への対応はあるが、今回のように数週間送電停止には対処できないことが判明した」と自画自賛していても、これまでそうした報道をして来なかったことへの「自責」の論などない。がそんなことは原発反対派は早くから指摘している。地震に関しても、広瀬隆氏などが、ここ10年が地震激発期に来ている、と大型地震の予告とそれへの原発の無防備を早くから訴え、ちょうど一年前の本にして発表していた。共産党の吉井議員は、福島に関して、地震・津波を想定した全く同じ事態を国会質問していた。                                                                                       想定外などではないのだ! マグチュードを恣意的にアップして想定外を演出しても、実は全て想定出来ていたのだ。原発は、核燃料の最終処理方法、廃炉問題、どの観点からもダメ。新たには作らない、順次廃炉する、エネルギー政策の転換を宣言するしかない。民主党政権、どうする。

被災地の、自治体職員・消防・医師・教員・自衛隊・・・、よくやっておられる。この国の教員や公務員の本質的「質」の高さを垣間見る日々です。                                                                                         これらの「誠意」と「善意」と「無私の勤勉」が、どうか「戦争」へと動員されることのないようにと祈り、そして行動したい。ぼくが40日なにも出来なかった類のひ弱な精神では、戦争を繰り返すことになるのだろう。                                                                                                                                                                                             被災地の人々の惨状と立ち上がる気力を見て、「ワシや、これではいかん」とつぶやいた40日でした。                                                                                                                                                        帰阪していて参加した4月10日の広瀬隆氏の講演会は追加開催・それでも立ち見満席となり、中ノ島反原発集会には(4月16日)に3000人が集まった。帰京していて参加できた、芝公選(今日24日)には4500人が結集した。力をもらった。デモは、まずは何よりも己への呼びかけなのだ。                                                                                  おりしも、最高裁では大江岩波裁判に最終結論(4月21日、原告敗訴の「上告棄却」)が出た。己と世を公理・道理に向かわせたい。向かっていると信じたい。                                                                                                                それにしても、今に始まったことではないが大労組よ何をしている。企業が原発を含む「いま在る」体制・諸枠組みの中に在り、その変更が少なからず自身の「基盤」を危うくするその場面に、何も出来ないことを「しがらみ」などと片付けて、容認するなら、一体何の為の労働運動か?                                                                                                             人々にとって大切なこと重要な課題とは、そしてそれへの異論発信・意義申立て・行動とは、元々己が「基盤」を危うくしてしまう要素にも充ちているのだ。安保・沖縄・雇用形態・・・、どれもみな。そうした意味で原発は「戦争のように」準備され・扇動され・実施され・報道され・行き渡り・経済と生産を支配し・大労組企業の存在前提となり・人々の「基盤」に絡み着いている。日本の大企業労働組合は戦争を推進するに違いない、と思うのだ。                

たそがれ映画談義: 現代日本「ばかもの」の系譜

2010年に観た映画-現代日本「ばかもの」の系譜                                                                                                               

昔、『無用者の系譜』(64年、唐木順三)という本を読んだ。西行・在原業平・一遍・兼好・良寛・秋成・芭蕉などを論じて、「何故、日本の優れた思想や文学が、世捨て人=無用者によって作られ語り継がれて来たか?」を説いていた。                                                                                                                                               それになぞらえて当つぶやきの標題を 『現代日本「ばかもの」の系譜』 としてしまふほどに、今「ばかもの」が愛おしい。

某Web誌の恒例のアンケートに答えようと、2010年に観た映画(製作年度不問)から、いくつかの印象深い映画を振り返ってみた。                                                                       毎年、前年観た映画から三作品を選んでコメントする趣向で続いている。( http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/filma08.html )                                                                         『深呼吸の必要』(04年)、『やわらかい生活』(05年)、『ぐるりのこと』(08年)、『パーマネント野バラ』(10年)、『悪人』(10年)、『ばかもの』(10年)、の六作品が心に引っかかっている。                                                                                                                         登場人物は期せずして、いずれも自身の特性や人柄や境遇が「今」という「時代」への不適合ゆえに、生きにくさを生きる者たちだ。                                                                                                                                                                                                                                                            大学偏差値・就職偏差値・就職内定率・排他的競争=強いられる自発性に覆われた職場・過労自死・派遣パートなど非正規社員・・・。時代の要請を受容れる「能力」や「技術」や「智恵」を掴む機会に恵まれなかったか、その要請との和解を拒むしかなかった者たちだ。等身大の彼らに寄り添おうと苦闘する誠実な眼差しに充ちた作品たちだ。各作品には、拒絶する社会の側の病理を問う明確な姿勢があり、拒絶される側への限りないシンパシーを込めた応援歌が響いていた。                                                                                                 三作品を選べとのことですので、下記三作品を挙げておきます。(ストーリーは添付サイトをクリック)

『やわらかい生活』                                                                                                                (05年、原作:絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』、脚本:荒井晴彦、出演:寺島しのぶ・豊川悦司・妻夫木聡・大森南朋) http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD8732/story.html                                                                                                 大東京。上場大企業の総合職、キャリア街道を生きるシングル・エリート女性。                                                                                                       友の死をきっかけに陥った「うつ」、ドロップアウト、孤独・・・、それらを受容れる「やわらかい生活」を求め彷徨いながら、自己再生を「やわらかに」展望する主人公・・・。                                                                                                       寺島しのぶの存在感に救われた作品だった。蒲田というごった煮の土地柄もあってひときわ心に沁みました。

『ばかもの』                                                                                                                           (10年、原作:絲山秋子、監督:金子修介、出演:成宮寛貴・内田有紀・白石美帆・古手川祐子)                                                                                                                                                http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=10193                                                                                              主人公:大学生ヒデは『やわらかい生活』の元キャリア寺島しのぶとは違い、どこにでも居る四流大の学生。社会に出ても入口からしてノン・エリートだ。軽い気持ちで付き合った額子(内田有紀)との関係は、未来を描けぬ者の空疎を埋める時間でしかなかった、と思っていた。                                                                が、額子が結婚すると去って行くや、ヒデの心の空白は仕事・人間関係・日常生活を蝕み、何をしても脱落する者となって行く。強度のアルコール依存症となり、やがてそこから抜け出ようとしていた。                                                                                       別離から十年の後、結婚生活を破綻させた額子と再会する。映画のコピーはこうだ。                                                                                『10年に渡って額子を追い求めた。たとえ変わり果てた姿になっていたとしても・・・』

『悪人』                                                                                                                                                     (10年、原作:吉田修一、監督:李相日、出演:妻夫木聡・深津絵里・岡田将生・満島ひかり・樹木希林・柄本明) http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id336818/                                                                                                                   出版当時に原作を読んで圧倒され、友人知人にせっせと薦めていた。映画化を知り、深津絵里さんはこなすだろうが妻夫木君はどうだろう?と危惧していた。ところが、逆に彼が十二分に役を果たした。彼に賞を上げて下さいと言おうとしたら、先日ブルーリボン主演男優賞を獲った。確か、キネ旬でも賞もらったんじゃなかったか?                                                                                                          主人公:祐一が抱える生い立ち・境遇、人に対して閉じてしまう人格、出会い系サイトで知り合った佳乃(満島ひかり)を殺してしまう経過・・・。妻夫木君は、地方の、無口で社交性などからは隔たって不器用に生きる、学歴乏しい青年の孤絶を見事に演じたと思う。逢う度に祐一から金銭を得ていた佳乃の虚飾の言動と、地位や高収入青年を射止めたいという上昇志向は、カタチを変えて「ばかもの」ならぬ現代人が採用している処世なのだ。観客が抱く佳乃の振る舞いへの嫌悪の感情は、実は自身に棲む佳乃的処世へ向かっているに違いない。                                                                                                                                                                                                                                 やがて殺人者祐一は、その後またも出会い系サイトで知り合った光代(深津絵里)との逃避行へ・・・。彼女は、祐一が初めて触れ合うことができた異性であり、何事かを「共有」できた唯一の人間だった。                                                                                                                                                  祐一が光代に「もっと早く出会っていれば・・・」と言うのだが、芯に届いて痛かった。                                                                                          

【雑感】                                                                                                 『やわらかい生活』の寺島しのぶが、ほぼ掴んでいよう虚構のキャリア生活の相対化、『ばかもの』の成宮寛貴が仮到着した内田有紀との再生活のスタート・・・、それに近いものを『悪人』の妻夫木君は築けなかったのだろうか・・・。                                                                                                                                                                                             否。それが、光代が犯人逃亡幇助に問われることを避けようと、最後に『悪人』を演じる祐一の余りにも哀しい「ばかもの」の情愛表現だった。                                                                                                                     人は、自分一人の力で苦境を脱することはできない。振り返れば、その希少な機会をぼくもあなたも、どこかで得たからこそ今日があるのだ。                                                                                                                                                         祐一とぼく・・・、それは僅かな偶然の違いなのだ。                                                                              『悪人』一篇は、「祐一とは読者・観客のあなた自身ですよ」と告げている。そう告げ得た祐一に光あれ。                                          もしそう思えるなら、我らは、「We」であり、「ばかもの」なのだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   ならば、その「ばかもの」を相手にしてくれたあの方々(某詩人・某教授・某友人・某女房など)も「ばかもの」もしくは「ばかもの」応援者に違いない。                                                                                        「ばかもの」は「ばかもの」に出遭うことによってのみ、「ばかもの」だけにしか見えないものの価値を掴み、                                                                              そこから全てを構想する可能性へと進めるのだ。                                                                                                                               「品川宿:たそがれ自由塾」塾頭を自認するぼくの残された時間は、小賢しい処世の「智恵者」派ではなく「ばかもの」派だろうと思い定めている。                                                                                          『ひとつの事件を、被支配者たちは個別性から解放し、それに歴史性を付与することができる。                                                                                      歴史性とは、自分とは異なる位相で抑圧にさらされている他者への視線を、                                                                                                           現在・過去・未来にかんして獲得しうる、という可能性である』 (池田浩士) 

選んだ三作のうち二つもが原作:絲山秋子だという事実に、この作家の並々ならぬ「今日性」を思う。                                                                      なお、少し前(04年)なので除外した『深呼吸の必要』の成宮寛貴に『ばかもの』で再会したのだが、                                                    この『深呼吸』の出演者(香里奈・大森南朋・谷原章介・成宮寛貴・長澤まさみ・他)が、                                                                     今や各方面で翔いている姿に、ぼくは偶然ではないものを感じている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           映画の持つ「力」を過信している「映画バカ(もの)」のぼくではある。( http://www.yasumaroh.com/?p=9104 )                                                                                               そして、『踊る大捜査線』など「クソ食らえ」のぼくでもある。( http://www.yasumaroh.com/?p=8388 ) 

                                                                                                                   

通信録: ぼくらに棲み付いている「宗主国性」

=前頁続き=                                                                                                                       その女性作家は、有名な『ある神話の背景』(73年)で、いわゆる「聞取り」を重ね「軍命はなかった」論を展開した。                                                                                                                                                               クリスチャンである彼女が「集団自決」の見本(?)として持ち出す話に『マサダ集団自決』というのがあるそうだ。                                                                   

【以下、文芸評論家・山崎行太郎ブログ:  http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/ より】                                                                                                                                マサダというのは、ヘブライ語で「要塞」の意味で、西暦73年、ローマ軍に追いつめられたユダヤ人960名が集団自決した場所だそうだ。                                                                                                    西暦70年にエルサレムがローマ軍によって陥落させられた後のユダヤ人の最後の拠点で、                                                                    三年間持ちこたえたが、西暦73年に陥落、その際、ここに立てこもっていたユダヤ人は、ローマ軍に降伏するより集団自決を選んだそうだ。                                                                                                     曽野は言う。                                                                                                                                    日本人とユダヤ人の大きな違いは、マサダの自決をどう評価するか、において見ることができる。イスラエルでは、マサダの集団自決を、非人間性や好戦性の犠牲者として見るどころか、そこで自決した960人の人々を、ユダヤ人の魂の強さと高貴さを現した人々として高く評価したのであった。しかし沖縄では、集団自決の悲劇は軍や国家の誤った教育によつて強制されたもので、                                                                                                                                                                                              死者たちがその死によって名誉を贖ったとは全く考えてもらえなかった06年4月『集団自決の真実』前書き)-「ある神話の背景」再版-                                                                                                               曽野は、これを美談、自決の鏡としてしばしば持ち出す。                                                                                                                           ****************************************                                                                                                                                       彼女の考えを示す発言:                                                                                                        *大型台風被害について、                                                                                                                                                                                   「一晩くらいの事で何でそんなに避難者を甘やかすのか、避難するなら健常者は食糧寝具くらい自分で避難所に持って来るのが普通」                                                                                                                                                               *新潟県中越地震について、                                                                                                                                                       「避難者は甘え過ぎだ。寝具を担いで逃げるのは当たり前。自分ならガス漏れの心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。                                                                                                                                                                                                                                                                                      必要なものが手元にないのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ」 【その辺ってどの辺だ?窃盗の勧めか! (品川宿たそがれ野郎)】                                                                                                                                         (参照: http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-174.html http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/5123ac27fa4a13fed8c3eee97200a646 他)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

国家の為、天皇の為、民族の大義の為の「殉死」を尊いとするのは、彼女の勝手だが、その「尊い」「殉死」を軍・兵士の「自決」に求める、あるいは自身に求めるのなら同意はしないが、ひとつの考えとして認めよう。                                                                                                                だが、沖縄で、座間味島・渡嘉敷島で死を遂げたのは、指揮官でも日本軍兵士でもなく、強制集団死に追いやられた民間人島民であり、                                                                                                                                米軍上陸に際して日本軍陣形を漏らすスパイとされ日本軍に処刑された島民なのだ。殉死・自決を称えたいとしても、指揮官を先頭に軍民全員がユダヤの大義に殉じたとされる2000年も前の『マサダ』(「史実じゃない『神話』だ」との説もある)と、沖縄の現代の強制集団死には、大きなそして根本的な違いがある。                                                                                                                                                      敗戦を14歳を間近にした13歳で迎えた文学少女の自己解体を押し留める「思想」が、何故、準植民地であった、ヤマトではない沖縄の、離島の貧しくひもじい人々に、いわれもなく被せられ代行を強要されなければならないのか?                                                                                                                                                                                「憶えにくいので」と彼女自身が作った下記の慶良間諸島の島名覚え歌にその答えがあるように感じるのだ。                                                                                     『慶良間ケラケラ、座間味ザマミロ、阿嘉アカンベエ』・・・。(ウィキペディア)                                                                                                                                                       彼女にとって、沖縄-琉球は他者なのだ。本来、自己があって、五分の他者がある。が、ここでは、自己の内部矛盾を、自己の抱え切れないものを 背負わせてOKな他者なのだ。「宗主国」ヤマトの大義を圧し付けても、自己の「殉死」への憧れを代行せよと求めても、何を被せてもOKな                                                                  「絶対他者」、すなわち「宗主国」にとっての「植民地」なのだ。                                                                                                         それは、そのまま、現在の沖縄と日本の関係を映し出している。                                                                                            沖縄の米軍基地を県外へ、と聞けば「本土の沖縄化だ」「全国基地化だ」としか反応できないぼくら自身(ぼく自身そう言って来た)に、                                                                                                                                   「宗主国性」の変異種など棲みついてはいないと言い切る自信は、ぼくには無い。

ぼくは、今、彼女より5歳年長のある女性詩人を思い浮かべている。                                                                                同じく軍国日本の末期に女学生であり、年齢から言えばその女性詩人が彼女たちの前に立ち、軍事教練を仕切っていた上級生だと捉えても、時代と世代の構造としては分かり易い。その数年の差(実は半当事者と少女の違いは大きいとは思うが)を強調したいのではない。その違いを相対化できるか否かの、思想的構えや深度の差を言いたいのだ。                                                                                                                                 優等生であり、四百人の女生徒の軍事教練を率先して推進し、軍務教官から褒められる軍国少女でもあったという女性詩人の、戦後間もない時期の痛々しくも鮮やかな回生の記憶だ。                                                                                                        だが、その詩人は、彼女のように他者に己が美学(?)=『神話』を、しかも筋違いに押し付けて、幼い「美学(?)」の崩壊を回避し続けて生き延びるのではなく、慟哭の自己解体を経て回生を遂げた。  聖心女子大英文科卒のインテリ・クリスチャンよ! その痛苦と誠実を少しは知れ。                                                                                                                                                                                             ーーーーーーーーーーーーーーーー-ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夏草しげる焼跡にしゃがみ/                                                                                                                                                                   若かったわたくしは/                                                                                                                                                          ひとつの眼球をひろった/                                                                                                                                  遠近法の測定たしかな/                                                                                                                              つめたく さわやかな!//                                                                                                 たったひとつの獲得品                                                                                                            (茨木のり子「いちど視たもの」より)

                                                                                                                                              

ほろ酔い通信録: 年末・年始 あれこれ

年末から帰阪している。記憶に残る年末・年始となりそうだ。                                                                                                                                                                                                        

年末:                                                                                                                                                                                          女房の呼掛けで、息子三人(調理人・教員)の妻の親が、「**夫妻の親の会」(仮称)に集まって忘年会をした。                                                                                                                いささか珍しい集いかもしれないが、茨城・奈良・大阪から娘宅訪問を兼ね駆けつけての参集でもあった。                                                                                                                                                                                                                                                                           娘の夫の両親の呼びかけ、その一人は自称「たそがれ野郎」・職業不詳の怪しげな男。その男の息子の女房の親という縁とは言え、                                                                                                                                                              よくぞ参集して下さったものよ、 と感謝の気持ちでいっぱいだ。                                                                                                                                                                                                                     同世代が七人、それぞれ初対面(我が夫婦を除いて)でもあったが、すぐに打ち解けて呑んで食って、それはそれは楽しい会とはなった。                                                                                                                                     盛り上がった勢いで「毎年は無理でも、二年に一度は集まろう」との提案もあり、当方が大社長・高級官僚ではこうは行かないよな、との身勝手な言い分に、女房から「何を開き直った自慢をしとるんや? 老年フリーター君!」と早くも当然の突っ込みあり。                                                                                                                                                                                                                             ともあれ、息子とその妻の組合せの妙への「なるほど」感が倍化した忘年会だった。

年始:                                                                                                                                                    元日、子や孫が我がボロ家に集まり、孫の成長を喜ぶよりは、我が年齢を再確認させられたことだった。                                                                                                                                                                                                           三歳女児の言動に、何故か書いている小説モドキに登場させた女性たちのことばかり想っていた。                                                                                                                                                                                                                      偏差値・体力・職業・収入・キャリア・・・そんなことはどうでもいい(とは言わないが、そして基礎的な「人間力」を身に付けよと強く思うが)、                                                                           それよりも、孫よ!どうか「賢い、いい女」になってくれ! ますます若者が生きにくい社会ではあるけれど、顧みられなくなった価値、浮世偏差値では計れない価値、を生きる「おんな」 になってくれ!                                                                 爺はいつでも応援するぞ・・・とつぶやいていた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

**始め:                                                                                                                                小説モドキ『じねん傘寿の祭り』のこと。                                                                                                                                                              小説モドキで、間もなく(次章で)、裕一郎は亜希と再会する。                                                                                                                                          再会は本島の玉城方面の海岸沿いだったのだが、粗原稿に目を通していた親しい女性読者から、「再会シーンは、是非離島にして欲しいわ」との要望通信があって、簡単に「ええですよ」と返した。その読者は、青い空、澄んだ海を背景にした再会を期待したのか・・・。                                                                                                                                                                                         ちょい書換え変更すれば済むだろうと、ぼく自身嵩をくくっていた。                                                                                                                                                         黒川にはダウン症の息子ユウくんが居り、日帰往復可能な島でないと、辻褄が合わない。しかも、設定されている経済状態からも、飛行機で石垣島日帰り・・・では不自然なのだ。日帰可能な離島で、海が綺麗で、ヒロインが居るに相応しい景色で・・・と難しい。                                                                                                                                                                               美しい慶良間の海を思い付き、「あのこと」を気にしつつ、つい渡嘉敷島にしてしまった。高速艇で那覇から35分だ。船の出航時刻表、ヒロインは何をして食っているのか、景色、土地勘・・・、グーグルアースで調べたり、観光案内HPを繰ったり、と苦労した。小説モドキに、慶良間諸島の「強制集団死」を半端にアレコレ書くつもりはもちろん無いがより知っておくべきだと、知ってるつもり事項を紐解いていろいろ読んでいた。  で、つくづく、「強制ではない」「大義に殉じた尊い自決だ」と主張する某女性作家の幼い日からの「美学(?)」とその処理方法にへばり付き、あまねく国民に行き渡っている「宗主国性」を想った。(次頁へ続く)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             登場人物の再会場面を何処にするか・・・それが、こんなに大仕事だとは思わなかった。渡嘉敷島に変更したばっかりに、いや「したおかげで」、その女性作家の倒錯の意味に出遭い考えることも出来た訳だ。                                                                                                                                                                                                    物語を知っているその読者が、たそがれ野郎が近い離島・慶良間方面を選ぶだろうと踏んで、「離島にして欲しいわ」と要望して、「強制集団死」を熟考させようとしたのだと思えてならない。

                                                                                                                                                         

つぶやき: 自己矛盾? 失言?

行政刷新会議:再仕分け

民主党が作った予算を民主党の行政刷新会議が仕分けする-これは自己矛盾であり、混乱を露呈した。との報道が溢れている。                                                                                                                                                                       そうなのか?                                                                                     ぼくは思う。不備や間違いがあっても、異論があっても、我が党が作ったものだからと無批判に推し進めることの方が「自己矛盾」だと…。                                                                                                      我が党、我が社、我が家に染み付いた「黙契」を見る思いだ。                                                                              あるところで読んだ。「その国の過去500年間で、もっとも永く続いた体制が培った「黙契」が、その国の人心のベイシックな実相である。」と。                                                                                              日本に当てはめると、それは江戸時代ということになるが、お家に仕える武士の処世・お上にモノ言わ(え)ぬ農民・家父長制…                                                                                                       だが、忘れないでいたい。江戸には写楽が在り、平賀源内・関孝和が居り、浪速では大塩平八郎が起ち、全国に一揆が在った。                                                                                                                 もちろん行政刷新会議の構成と権限規定を組み立て直す必要はありそうだ。                                                                                               自己矛盾だと言うのではなく、民に開かれたその継続の道筋を示すべきだ。 

仙石官房長官の『暴力装置』発言。                                                                                                        丸川珠代氏がムキになる真情を理解しないではないけれど、暴力団と言ったのではありません。                                                                                                                    国家の「武力装置」を「暴力装置」と言うのは、国会での答弁に登場すべき言葉かどうかはさておき、言葉としては何ら不当ではない。                                                                    騒ぎ立てるマスコミとは距離を置き、冷静な見解が各種サイトに左右から寄せられているのでピック・アップしてみる。                                                                  

国家の「武力装置」を「暴力装置」と呼ぶのは、何も仙石氏の独創でも暴走でもなく、                                                                       国会答弁に相応しいかどうかは別にして、左翼によらず使用してきた用語だ。                                                                                                                                                                                                      丸川珠代さんらが「暴力団」と言われたように激昂する心情は「彼女ならそうかも…」とは思うが、                                                いささか感情論かなと思う。                                                                                      一部マスコミの大騒ぎとは別に、冷静なコメントが多数のサイトに見えるので採録しておく。                                                                    

『なぜ仙石長官が自衛隊は暴力装置と言っただけで批判されるのか理解できません。
暴力を使って国を守るのが自衛隊なんだから正論だと思います。』                                                     『当たり前。正論を針小棒大に騒ぐなだね。国家に認められた唯一の正義の為の武装暴力装置であり、その運用は慎重に、                                                                     不偏不党を大原則とし自民党のでも民主党のでもなく国家国民の暴力装置であると元自衛官は言った。』                                                                                                     『自衛隊に限らず正当防衛のような違法性が阻却される暴力もあるわけで、                                                         市井の一市民が「暴力=悪」というイメージを持つのは仕方ないのかもしれないが
立法府を預かる政治家がその程度の認識では困ります。                                                                                            仙谷「暴力装置でもある自衛隊はある種の軍事組織でもあるから、シビリアンコントロール(文民統制)も利かないとならない」
これのどこが左翼なのかもよくわからんしね。単純な一般論ですね。』                                                              『自民党の石破茂政調会長も昨年3月、シンポジウムで「警察と軍隊という暴力装置を
合法的に所有するのが国家の一つの定義」と発言していた。』                                                        『マックス・ウェーバーは、軍隊と警察は国家が独占する正当な物理的暴力だと「職業としての政治」で述べている。                                                                         確かそうあったと思うのでまた読み直してみるつもりだが。わしはそれを『戦争論』の中で応用した。
 わしが使っても批判されなかった言葉を、仙石が使ったら大批判され、謝罪に追い込まれる。                                                                                                                単に仙石が左翼だからという偏見からだ。わしも仙石は左翼気味だと思うし、嫌いだが、
「言葉狩り」することによって議論を封じるのは、まさに左翼の常套手段だ 日本の保守派も左翼的性質があるということの証明ではないか。
日本の民主主義は常にこういう調子で、公論に結びつかない。』                                                                                                 (これは、暴力装置のステージアップを意図したものだが)

ともあれ、仙石発言が、上記書込みが言う「公論」を呼び起こすなら困ったことだ。                                                                                                  このドタバタ論戦で、新聞紙上に沖縄知事選・TPPなどの事項が小さく扱われることを、国民の側が「仕分け」したいところだ。

柳田法務大臣の発言は論外だ! 失言ではない。 罷免される前に、自ら職を辞すべし。                                                                    田中優子さんが言う大臣云々の前に、働くことの基本が出来ていない これに尽きる。

      

たそがれ映画談義: 『深呼吸の必要』-「達成感」 の行方

ずっと「達成感」力説篇は苦手だった。が…

10月22日朝日夕刊に、兵庫県伊丹市立天王寺川中学の運動会の取組:「3年生全員146人(組み手は137人)による10段人間ピラミッド」の、カラー写真5枚付き・五段抜き という異例の記事を見た。                                                                                                        YouTube に画像ありとあったので、開いてみた。感心すると言うか、感動に近いと言うか、生徒達の達成感が伝わって来ると言うか・・・                                                                                兵庫県伊丹市立天王寺川中学:組体操「未来への誓い」(10段人間ピラミッド)。http://www.youtube.com/watch?v=PEMdfqZFiR0                                                                                  アクセス殺到である。危ない、事故ったらどう責任を取るのだ、この教師が目立ちたいのだろうと種々の異論もあるそうだ。「達成感」力説篇は時にいかがわしく、しばしば達成「させる」側の魂胆が透けて見えたりもする。ひねくれ者のぼくは、常々眉に唾して「共感」を自制する回路をONにして、それとは距離を保って来た。昔、息子のラグビー観戦で、強豪校相手の残り2分からの奇跡的逆転勝利を観てウルウルするまでは・・・。このピラミッドも 何らかの恣意的な力が働かない限り、その行方は彼ら当事者のものだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

『深呼吸の必要』 (04年松竹、監督:篠原哲雄)                                                                                  

五年近く前、沖縄通から「ええ映画やで。是非観てや」と言われながら見る機会がなかった映画を、先日観た。                                                                                                                                                                                                       04年製作だから6年前の映画だが、『深呼吸の必要』という映画だ。                                                                                                                    沖縄の離島に、                                                                                                          さとうきび刈りの短期アルバイトにやって来た若者たちの物語だ。若者たちは、                                                                                                       それぞれ都会の労働や社会・人間関係に傷つき・敗れ・疲れ、                                                                                       寝床食事付・日給¥5,000で、沖縄の自然も満喫できるかも・・・と癒されに来るのだ。                                                  広大なさとうきび畑に尻込みする間もなく始まるとうきび刈りの重労働。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    その悪戦苦闘と、「逃げてきた」自覚が互いにあって皮肉を言い合う人間模様、                                            短くとも、協働・共助・強いられたのではない自発・「We」 を味わえた時間、                                                                                            若い働き手不在で、毎年若者を募集している畑の持ち主オジイとオバアの人柄。                                                                                                                                      畑全部の刈取りを果たすまでの短期間の物語だ。                                                                                                                   予告編     http://www.youtube.com/watch?v=e_iTzj3_2Gk                                                                                                              メイキング1  http://www.youtube.com/watch?v=JBHGsssZSnQ                                                                                                              メイキング2  http://www.youtube.com/watch?v=KcJpaMINI1k&feature=related                                                   不思議なことに、この映画の出演者(香里奈・大森南朋・谷原章介・成宮寛貴・長澤まさみ・等)は、今、2010年時点では                                                                                                                                                                                                                                                                                         ことごとく売れっ子になっているが、全員が、この映画撮影時の現場での                                                                                                                                                                           解放感・連帯感・達成感とストーリーへの感情移入が、その後の支えになって来たと語っているという。

達成感やそこに至る過程は、利用されない限り(利用を阻止する固い意志がある限り)、                                                                                                   つまり仮想敵を設定せず・排他的でなく・用意された効用を画策しない限り、認めたい。                                                                                                                                                                    軍国モノや、今日的愛国期待モノには、虫唾が走る「達成感」「礼賛」に終始するような「物語」が溢れているのは事実だ。                                                                                                                                                                                                                      この映画への異論もどこかで読んだ。曰く「沖縄の現実を覆い隠している」。                                                   「製作・公開前後とは、まさに、03年11月ラムズフェルドが普天間基地視察、04年4月那覇防衛施設局が辺野古沖現地調査開始、                                                                                                              
04年8月沖縄国際大に米軍ヘリ墜落だ」 などと書いてあった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         辺野古沖のジュゴン保護の観点を「オバサン視点で、安保を覆い隠している」と言う人がいるが、                                                                   先日のCOP10名古屋の論議でも明らかなように、                                                                               それは、グローバリズム産業の農漁業破壊・大規模自然破壊・農漁業支配と                                                             密接に直接間接に関連しているようだ。当然、その推進の両輪の一方であるのが軍事でもある。                                                                                                                                                                                                                       この映画の「達成感」に至る過程で、若者が取合えず味わった協働・共助・解放感・自然・沖縄の心・等々、                                                                                                                                                                                                                                                                     それらの向こうに見えてくるものの中に、異論者が言うことどももあるに違いないが、入口は、多数在ってしかるべし。                                                                                                                                                                      中身も出口も背景も、心ある者ならばそれを視ずに済む行方などないはずだ。 「逃げてきた」? 「オバサン視点」? それでいいのだ。                                                                                                                                                                          

「We」が何故、半植民地と言われる沖縄の、基地のない離島の、約ひと月「だけ」に、 可能だったのか?                                                                                                                    ぼくらと彼らの「行方」には、そのことの理由を日々見せ付けてくれる沖縄と日本の現実がある。                                                                                                                                                                                                              

                                                                                                                                                『「We」の不在』 http://www.yasumaroh.com/?p=6376                                                                                                                                                                                                 『ここに「We」がある』 http://www.yasumaroh.com/?p=8634

たそがれ映画談義: 『踊る大捜査線』-  ♪ 踊る作者に 観る観客 ♪

『踊る大捜査線』に視る奴隷根性と権力性、それは今風日本映画の立位置を映し出す。

10年近く前、TV局が、TVスタッフの手で、TVシステムによって作り上げ、事前大宣伝を経て空前絶後の大ヒットとなった映画『踊る大捜査線』を見たとき、言いようのない辟易感に襲われた。                                                   主人公と彼を取り巻く人物たちの「無自戒」、映画の製作者・監督の「勘違い」、観客たちの反応に見える「軽薄」・・・。とりわけ織田祐二演ずる主人公青島が、柳葉敏郎演ずる同世代キャリア上司:室井に言う下記の科白には反吐が出る思いだった。                                                         記憶は曖昧だが、その趣旨は概ね以下のようなことだった。                                                                          「ぼくら下の者は、上がシッカリしてくれていて努力できるのだ」「だから、上は上でそれを汲み取って出世してもらわないと」                                                                                            一部でキャリア・ノンキャリアの垣根を越えた「解り合い」だとか、働く者の気持ちを「言い当てている」と言われたりしたが、果たしてそうなのか?                                                                  ノンキャリア組の心情がそうした諦念(荒廃?)の中に在るという、今日的職場風土を示す皮肉だと言うのなら頷けもする。 だが・・・、青島君は、明るく元気で、自己と職場を全面肯定しつつ嬉々として立つのだ。                                                                                                                                                                                                                                            

話は飛ぶが、同じ現場刑事でも、内田吐夢監督の秀作飢餓海峡(64年、東映)の伴淳三郎演ずる弓坂刑事には、意地と執念のブツであり刑事人生を凝縮したような仏ヶ浦の「灰」を、幾年にも亘って握り締めている、地を這う捜査員のノンキャリア魂があった。そこには「上は上で云々」などという「代行性」を断じて拒否する、捜査員・ノンキャリア勤労者の「努力や誠実」が在ったぞ。                                                              それは、懸案を上司やキャリア組への委任や委託で終着点とする棚上げではなく、懸案をいわば我がこととして永遠に「抱え込む」気概・矜持に基づいていたのだ。                                                                                                          「下の者」のこの気概の解体・喪失・放棄・忘却こそが、実は「上の者」の支配性より強固な要素として、「権力性」の核心を打ち固めているのだ。国家規模の強権支配は、一握りの支配層の圧政を前提としつつ、民のそうした気概の解体と諦念の上にこそ貫徹されて来た。                                                                                                                                      『踊る』のファンには不愉快だろうが、そのことに無自覚な度合いこそが、『踊る』的映画をヒットさせてしまう社会の、ある度合い=荒廃度合いだと言えなくはない。

 さて、『踊る』自体だ。(黒澤『天国と地獄』のピンクの煙のパクリは、たとえパロでも、論評する気にさえならん!)                                                                                   先日、「日本映画専門チャンネル」で『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたか』なるリレー・トークを観た。10人の「映画通」が語っている。                                                                                                                        多くは、肯定・映画の敗北・当然の帰結・観客が選んだ結果だ・これも映画だ・・・・、との「現実追認」に終始している。                                                                                                   その中で、雑誌『映画芸術』編集長:荒井晴彦だけが「まとも」なことを言っていた。                                                                              気になって、各発言の採録である番組と同タイトルの新書(幻冬舎新書、¥800)を購入した。                                                                                                      以下に荒井発言を抜粋する。

『結局はフジテレビのプロモーションの力でしょう』 『テレビが勝ったのではなく、映画がダメになったのです』 『映画自体が乗っ取られた』 『映画館の大きなスクリーンでテレビドラマを映しているのと同じです』                                                                『僕らの年代は』 『なぜこんなものを映画館でやっているんだというような違和感を抱く』 『若い人たちはその違いを知らないから、何のわだかまりも無い』                                                                                         『「踊る」以降は「映画の監督がつまらん作家性なんか出すより、テレビのスタッフが映画もやったほうがかえって当たる」というわけです』 『「踊る」の亀山プロデューサーは』 『「なぜ彼や彼女は犯罪を起こすに至ったのかを描かなくていい」と言ったそうです』 『「犯人のバックグラウンドを描くな」ということです』                                                                                     『「踊る」以降の作品に描かれる犯罪は、「たまたま、ただのヘンな人が暴発したからおこったこと」になってしまった』 『犯人が捕まったらそれで終り、それで解決でいいということです』                                                                                                               『よくテレビでは「小学生でもわかるような表現じゃないとダメだなんだ」という言い方をします。でも僕は万人にわからせることだけがすべてではないだろうと思う』 『100人のうち10人がわかればいいという映画があっていいと思う』 『わかるのは二人ぐらいでいいんじゃないかと思うし、さらに言えば、たった一人でもいい。究極的には、作った俺さえいいと思えればいいんだ、とも思います』                                                                                            『見やすさだけ、わかりやすさだけが最優先されるのは、本当にいいことなんでしょうか』                                                                    『もちろん徹頭徹尾そういう作り方ではまずいけれど』 『すべての映画を、黙って座ってボーッと見ていてもわかるものにするのはどうなのか』                                                                                                   『今は』『観客の側が勉強して映画を理解する文化がなくなってきている』 『こうなったのは、作り手のほうが、「勉強しなくいいんだよ、考えなくても楽しませてあげるよ」と言ってしまったからです』   『監督や原作の作家が、何を描こうとしていたのかを知ろうとして、その作家の生い立ちなどを別の本で調べたりするうちに、どんどん映画に深くはまっていくこともあった』                                                                                                                                    『作品に匿名性のようなものが生れて、似通った作品ばかり』 『作品に個性がないから、顔がみえない』                                                                                        『そもそも映画は「娯楽」と「芸術」という、相反する要素を持ち合わせたもので』 『作り手は、芸術であるとまでは言わないけれど、全くの売り物だとも思っていなかった。「商品」「作品」の間で行ったり来たりして、悩んでいました』 『今の若い作り手たちは違います。彼らは自分のやりたいことを通すというよりは、お客さんを入れることを第一に考えるようになった』                                                                                                                                       『僕は昔からお客様は神様だと思ったことは一度もない』 『神様はバカ様になった』                                                                               『映画館の闇の中で、僕たちは人生を変えるような、魂を震わせるような何かと出会うことが出来た』                                                                          『今の映画は、ヒットすることと引き換えに、そういった陰影や多様性を切り捨ててしまった』                                                    『亀山プロデューサーは』 『勝つにはどうしたらいいかを考えて、その結果勝ったのはすごいことです』                                                                                                         『平野謙という文芸評論家が「畢竟、文学とは我を忘れさすか、身につまされるか、ではないか」と言っているのですが、映画もそうじゃないかと思います』                                                                                                           『我を忘れさせる映画の典型が「踊る」でしょう』 『映画館を出たら、ああ面白かったとその映画も忘れてしまうのではないか』 『僕は、身につまされる映画を作りたい』 『人に忘れられない映画を作りたい』                                                                                                      『文学や映画をエンターテインメントこそすべてとその枠に押し込めることで、そこにある生き方・考え方・価値観を揺り動かす力を捨ててしまうのはあまりにも惜しい』**********************************************************************************************************************************************

荒井の、いまどきの映画と観客への言い分は、そのまま映画『踊る』への、『踊る』登場人物への異論となっている。それは、現実への視点を欠き(欠かざるを得ない)、現実「回避・逃亡」に終始する、CG満載の近未来絵空事や有り得ないパニックにしかドラマを構成できない米映画作家の今日的立ち位置、その亜流たる日本映画への異論であり、同時に米帝国とグローバリズムへの鋭い文明批評として聞こえて来る。

荒井晴彦:1947年生まれ。1970年、早稲田大学文学部除籍。(なるほど・・・あの時代の、あの毒を浴びた同輩か・・・)                                                                      若松プロ助監督を経て、脚本・監督業。現:『映画芸術』編集長。                                                                                                                                                                                                                           脚本:                                                                                                  『神様のくれた赤ん坊』(78年)、『遠雷』(81年)、『時代屋の女房』(83年)、                                                                                                          『探偵物語』(83年)、『噛む女』(88年)、『眠らない街 新宿鮫』(93年)、                                                                                                         『絆-きずな』(98年)、『KT』(02年)、『やわらかい生活』(06年)                                                                                                                                  監督:                                                                                                              『身も心も』(97年、脚本とも)http://movie.goo.ne.jp/movies/p30683/comment.html

 ☆                                                                                                                                                       『やわらかい生活』はええです。大東京に生きるシングル女性(確か、上場企業の元総合職だった)。                                                         友の死をきっかけに陥った「うつ」、ドロップアウト、孤独・・・、それらを受け容れる「やわらかい生活」を                                            求め彷徨いながら、自己再生を「やわらかに」展望する主人公・・・。                                                                                                                                            寺島しのぶの存在感に救われた作品だった。                                                   蒲田というごった煮の土地柄もあってひときわ心に沁みました。→ http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id324265/                                                         出演:寺島しのぶ、豊川悦司、妻夫木聡、大森南朋

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