Archive for the ‘ぼやき つぶやき 駄エッセイ ’ Category
子育ての 「私」性と「公」性-後編
若い母親よ、苦境を越えてくれ
当事務所まで来てくれたのは、区の***部**係のA氏、提携の外部団体****のB氏。 なるほど、子ども・子育て・家庭と冠が付くここでも民間委託・外注なのか? 区職員が云わば管理職・デスクワーク、外部団体が現場というか直接案件に接する配置か? ならば、いわゆる丸投げ・下請けではないのか? 人減らし・効率化(という名の営利企業的運営)ではなく、逆に官的対応・官的感性では至らなかった面を補うべく、官民の複合による活性化へと向かう試みなら言うことは無いのだが・・・。 我が事務所で一時間、目撃した状況を説明し、区や学校が出来ることの可能性について話した。これまで、当案件の通報はなかったと言う。 数日内に問題の時間帯に四辻に来てみます。学校を特定し、個人を特定し、まず母親本人・学校と話してみます。おうおう、中々スピード感あるやないか。
ぼくの顔つきが強面(?)だし「疎か(おろそか)」に扱っては後が大変そうだからか、男性高齢者からこの種の通報は珍しいからか、 官・民の二人は真剣に聞いてくれた。 母子のプライバシーもあり、詳細のご報告は「概略」しか出来ないと思いますが、ご了承下さい。ああ、結構ですよ。あの子への暴力が無くなり、事態が母子が前進する方向へ動くのなら、固有名詞・プライバシー絡む詳細、そんなことはどうでもいいんです。
学校・本人・夫と話し合えた、と電話で報告があった(夫はいたのだ)。夫は毎日早朝出かけるので事実を知らなかった。夜は大きなトラブルも無く、隣近所とも上手く行っている、と言う。 それが、事実なら朝の通勤前の慌しい時間帯だけに起きているパニックなのか? なら勤務先に、子の登校時グズルことのみ話して出社時間を・・・と言おうとすると、「勤務先と話すように勧めました。」 日を次いで報告を得たいが、気になりながら一現場終了を得て通例通り10日間ほど帰阪した。
6月中旬、「集団登校にはまだ加わらないようです」「2:1の割合で、父親も送るようになりました。父親も勤務工夫を勤め先にお願いしたそうです」と連絡がった。下旬、また帰阪した。
7月中旬、A氏B氏の再訪を受けた。「母親の勤務を30分後ろにずらしてもらえました」と報告があり話し込んだ。通学時だけなのか、日常がどうなのかを密かに調べた苦労など、この「公」務員、中々やるじゃないか、と思わせる話がいっぱい。夫の経済的・仕事内容の苦境・学校との話し合い、夫婦ともの勤務先の件、・・・・・・容易ではないだろう。働くための条件は、子育てに直接大きく絡んでいるのだ。 女子プロレスラーのように大柄なあの母親は「誰かが通報してくれないか」と思っていたそうだ。きっと、止めに入った関西弁の中年男性だと思いますが、もう大丈夫ですとよろしくお伝え下さい、と・・・。夫婦で号泣なさったそうです。
一度離婚して同じ組合せの再婚だそうだ。「昨秋からの復縁で失敗してはならじと肩を怒らせて生きていたかも・・・・・・。夫とも話し合えました。」と言っているそうだ。A氏が言う、「息子が、学校生活に馴染めず毎朝登校を渋る事実は、夫に知られたくなかったんですな」 離婚・再婚に付着している、本人だけが知る「負目」「事情」「愛憎」は知るよしもない。たぶんそこに、人には語れない・人には解からない、夫婦の歴史があるのだろう。だが、子はそんなことからは解き放たれて生きる権利がある。そして、偉そうなことは言えないが、夫婦ちゅうものは、そうした「負目・遠慮・背伸び芝居」を続けていては、再崩壊やで、と思った。 もし、報告の通りなら、いい方向に向かっているのだろう。この母子のようには行くことは稀なんですか? まぁ、いろいろですね、今回ご亭主がマトモな人で助かりました、だそうだ。いつもこうは行かないだろうし、このケースも先がどうなるか不安だ。 もし、母親が言っている通り「誰か通報してくれ」「多くの他人に諭されて立ち直りたい」が事実なら、この母親はギリギリ踏みとどまる理性いや母性を持っていたのだ。 頼むよ、しっかり自分と息子を生かすんやで! 関西弁爺のお希いです。
************************************************************
ともあれ、A氏B氏の動きが無い(または遅い)なら、こうはならなかった。
「公」の仕事ぶりに謝意を抱いたのは、昔、労働争議(組合否認の偽装破産VS職場バリケード占拠)のさ中、当方には5歳児・3歳児・1歳児と子が三人おり働けなかった妻が、無収入回避の為に勤めるに当たり、中途入所(しかも仕事が見つかる前から)という弾力的運用で保育所入所を措置した某市の福祉事務所長の英断・・・、あれ以来だなぁ~~
「私」の決意や努力が、「公」の誠意と理ある運用に遭遇する時、「公」「私」の本来あるべき形が見えるのかも。 いや、奇妙な効率主義や「指図務」さえ無ければ、市民と本来の公務員は、そのように響き合って在ることを求め互いに呼び込むのではないか・・・。そう思いたい。
どないなってまんねん あれとこれ
おい、どないやねん?
「エネルギー政策意見聴取会」に電力会社社員。「原発事故で人は死んでいない」??? 。 福井志賀、大飯の直下に活断層。 六ヶ所核廃棄施設直下に活断層。
オスプレイ、安全確認されるまで運行しない(カーター米国防副司令官)? 釜山を出航してよう言うなぁ! 「***まで陸揚げしない」やろが! ちょいガス抜きして、近い将来、安全確認する、と言うてまんねんな! 10年4月、アフガンでのオスプレイ事故、米空軍事故調(ハーベル元空軍准将)へ空軍から圧力。 野田首相 『米国が決めればどうしようもない』と発言。米フリーパス論だ。 参考TV番組: http://www.youtube.com/watch?v=a40kSHHRD1c&feature=youtu.be
プロ野球選手会、WBC不参加表明アッパレ! 米大リーグ及び選手会が上がりをボッタクリ。しかも、負担の多い出場に狩り出されるのは日本・中南米選手。アメリカはベースボール縁日の出店地割胴元か? これTPPと構造そっくりですな。
橋下スキャンダル、出来れば政策論争か弁護士稼業にまつわる弱者虐め事実での逆風を期待したが、この際女性スキャンダル・擬似恋愛沙汰・下ネタでもOKとするか・・・。しかし、ミッテラン元フランス大統領の隠し子騒動に悪乗り攻撃しなかったフランス国民の例もあり難しいところで。 あるアンケートでは女性支持が20%減だそうで・・・。
つぶやき: 子育ての 「私」性と「公」性
虐待に遭遇して。 街・子育て・生活・仕事・・・八方窮した母、 学校に馴染めぬ二年生。
若い母親(多分30代半ば)による児童(小学校低学年)虐待というか、連続して行なわれる幼児への暴力を目撃することになった。
事務所横にある駐車場の前の四辻交差点を、通学児童が8時15分前に毎朝集団で横切るのは知っていた。 5月下旬、たまたま進行中の仕事現場のビル側都合で、昼前に変則現場入りで、駅に向かう時間帯と通学時間が重なることになった。背中に集団登校の話し声などを聞きながら、駅へ向かうこととなった。 現場へはもう少し遅く出ても間に合うことが分かり、翌日はゆっくり出かけた。集団登校から遅れること10分、泣き叫ぶ男の子の声を聞いた。泣き方が尋常ではなく、女性の怒声が響き渡っている。気にはなるのだが、後ろ髪引かれる想いで背に声だけを聞かされ駅に向かい、その母子の姿を視ることは出来なかった。
さらにその翌日、又しても同じ泣き声と怒声、ドンやパチンというような殴打らしき音や鞄か何か持ち物が散乱する音などが聞こえた。その日は現場に遅刻を覚悟で、駅への歩を止め、声と音のする交差点方向へ戻り始めた。やや歩くと20Mほど先に母親と男の子を見つけた。母親が逆上している。殴る蹴るに及んでいる。「早く行けぇ~」「グズグズしてるからみんなに遅れるんだよぉ」。男の子は民家の外壁に当たり、肘から少し血を流している。顔が腫れているように見えた。母親の横には妹だろうか男の子より幼い女児が立ち尽くして居る。また、男の子の頬に母親のビンタが飛んだ。男の子はもう泣き叫ぶしか出来ない。妹はどう対応すればいいのか分からないまま、「お兄ちゃん可哀そう・・・」という言葉を噛み殺して口を横一文字に閉じて、堪えている表情。 ワシが制止しよう、声をかけよう、いや難しいな~かえって逆効果か?他人が子の側に立つことで子への怒りが倍化しまいか?と躊躇しながら母子に向かおうとすると、近くを通りかかった年配の通勤女性が何か語りながら母子の間に入って行く。 「お前が同情を引こうとオーバーな動きすっから、云々・・・」案の定、他人の制止が子へのさらなる怒りを呼んでいる。通勤女性は見るに見かねて意を決しての行動だから下がらない。 「お母さん、昨日も一昨日もじゃないですか、そんなに一方的に・・・」と言ったきり涙ぐんでいる。 遅れて加わったワシは「オカアはん、ちょっと待ちなさい!ともかくそこまで殴ることないやろ。一体何やねん?何でやねん?どないしたいねん?」 「家事も、仕事も、妹の保育所も、何もかもこいつにムチャクチャにされてんだから。あんた、口出すんならこの子の学校嫌いと付き合ってみなよ。何もできなくなるからさ!」
母親の興奮状態は変わらなかったが、四辻近くの数軒の母親やお婆さんが出て来て母親を囲んだ。顔見知りらしき人が、男の子の肩に手をやり学校方向へ歩き始めた。母親は妹と別方向へ歩き始めた。 ご近所さんから大体の話を聞いた。 母子は、昨秋転居して来た。兄は二年生、妹は保育所の上から二番目の組。兄は新しい学校(この区の小中一貫公立校だ)にまだ慣れず毎朝グズグズして集団登校に間に合わず、毎日のようにこの四辻でグズって大事になるらしい。小学校へはこの四辻別れ道で右折れし、保育所へは直進。兄の言い分は、あと70Mほどの保育所まで母親といっしょに妹を送りたい、それからちゃんと小学校へ向かうよ。だから、この四辻で独りにしないでくれ! 母親は、保育所へ向かい、またこの四辻まで引き返して・・・ということなど、兄ちゃんにも自分の仕事にも、時間的に精神的に出来っこない。さっさとここで学校へ向かえよ!となる。 学校に行きたくない兄ちゃんを、ならばしばらくこのように対処して・・・などとする代案など思い浮かばない。代案があったとして、母親にはそれへの準備、その運営の手間暇、その余裕が無い。今日も、仕事の時間が迫っていて落ち着かない。あゝ、負の連鎖だ。
大都会で、しかも転居して来て半年、まだリズムを確立できないこの母子は、他の母子がそうであるように、自分たちの力でこの難局を乗り切るしかないのか。「公」が何か手伝えるだろうか。小中一貫制、私学に勝つ? 教師偏差値の底上げ? 児童の学力アップ? おい、品川区、品川区よ「オレの話を聴け!」
あえて言うが、 孤独で、行政が持つ「手伝う」方法と力に不案内で、己の力量と課題の不釣合いに圧し潰れそうな窮状が「兄ちゃんへの暴力」となってしまうこの母子に、 母親が手伝ってくれと言うまで手伝わないのではなく、何か手伝いましょうか?何を手伝えば助かりますか?と、 行政の側から声をかけなアカンのとちゃうんか!
あれこれ想像した。 母子家庭か? 兄妹の父親は同じなんか? 父親はいるのか? いるならどうしてるんや? 妹はその父親の子で、兄は前夫の子か? 複雑な事情が絡んでいるなら、オカアはん、この子死んでしまうで。あんた、この子を殺してしまうで。ワシは大阪から単身赴任で来てるねん。孫もおる歳や。よそ者やから、近所にアレコレ言う付き合いもない。現場の都合で、この出来事に遭う機会もたぶんこの先はあまりない。そやから、安心してブチ撒けなさい。聞きまっせ。
仕事・育児・家事あんたも大変やろけど、この子も大変なんや。学校に馴染めず、多分クラス・メイトや担任にもなつけず、オカアはんあんたよりシンドイかも分からんぜ。学校・クラス・友達との回路を開けない・築けないこの子の拠り所、最後まで味方に立ってくれるのは、オカアはん、あんたやろ。子にとって母親は最後のセイフティネットやぞ! 独りで無理なら、勤務先・区・都・国・ご近所、誰の力を借りてもええんやで。
その日、8時まで予定の現場の管理・あと仕舞いを大工の棟梁にお願いして2時半に早退した。 昼までにこの区の「子育て支援児童家庭相談」「子ども未来事業」「家庭あんしん」などの部署名称を掴み、緊急電話した。臨場感の下で話したいと、四辻まで来て欲しいと要望し、4時に我が事務所兼社宅へ来てもらった。
あれから約二ヶ月。 ようやく、当ブログに書く気になる展開とはなった。「公」務員の誠実と矜持に出会えた。若い母親の宣言も聞かせてもらった。 詳細は次回。
さよなら原発10万人集会 代々木公園
「脱原発」を訴える大規模な市民集会「さようなら原発10万人集会」が16日午後、東京・代々木公園で開かれた。ノーベル賞作家の大江健三郎さん(77)らが呼びかけた署名運動「さようなら原発1000万人アクション」の一環。約17万人(主催者発表)が全国から集まり、原発の再稼働に踏み切った野田政権に方針撤回を迫った。
「たかが電気のためになんで命を危険にさらさないといけないのでしょうか。子どもを守りましょう。日本の国土を守りましょう」。集会は午後1時、呼びかけ人の一人、音楽家の坂本龍一さん(60)のあいさつで始まった。 続いて壇上に立った大江さんは、6月15日に約750万人分の署名の大半を野田佳彦首相あてに提出した翌日に野田政権が関西電力大飯原発の再稼働を決めた経緯に触れ、「私らは侮辱の中に生きている。政府のもくろみを打ち倒さなければならないし、それは確実に打ち倒しうる。原発の恐怖と侮辱の外に出て自由に生きることを皆さんを前にして心から信じる。しっかりやり続けましょう」と訴えた。 落合恵子さん、鎌田慧さん、澤地久枝さん、瀬戸内寂聴さんらの顔が見える
ぼやきでは終われないぜ: 元知事の正体
強引な庁舎移転計画失敗の大損失を隠すために、次々繰り出す「攻撃的言辞」
TVニュースに登場している橋下大阪市長(知事時代からの)の、敵を作り出しその欠点や不備だけを一方的に責め立てる手法にウンザリしながらも、またしても画面に向かって反論していた。例によって「生活保護不正受給」の話だ。長妻昭、民主党副幹事長(元厚労相)が相手だった。 彼は言う。貴方のような国の機関に座っている役人は、不正受給を摘発するに必要な「摘発した不正額を上回る」費用と戦力を割かれる職員の貴重な時間など、我々現場の苦労を解かっていない。摘発した金額は自治体に回収義務がありそれを前提に国からの次の支給額から差っ引かれる。自治体が一方的に負担を背負うことになり、じゃあ摘発なんか止めておこうとなる。そうでしょう? このように何かにつけ政府は形式主義、馴れ合い、無駄ばかりなんです、と。言動と実際の行政運営には職員不信を公言しながら、ここでは「我々現場云々・・・」と場所移動だ。弁舌の巧みさと言うか一種の技術だ。 この摘発を巡る指摘は正しいというか「その通り」だが、長妻氏がその構造に無知である訳はなく、こういう論難スタイルはTVの短いやりとりでは、「ちょっと待ちなさい。私に限らず、福祉行政を担ってきた者はそうした構造は百も承知しており、その改善にはまず、云々・・・」と以下説明をする間もなく司会者は橋下の威勢の良い言い放しで、マイク順番を断ち切る。大体そういうパターンだ。攻撃する側はワンイシューで責め続け、反論側は問題の整理説明に時間を要する限り「弁明」に聞こえてしまうから苦しい。
ふと「この手法、この論法はどこかで見たぞ」と思った途端、何やら胸と背中にキリキリと鈍い痛みが走った。そうだ、身に覚えがあるのだ。聞き覚えがあるのだ、責め続けるだけの論法を。60年代末前後に確かに見た。自らもそこに居たのだ。 逆に問われ質され責められる局面には、全く弱く、弱さを知っているからひたすら責め続けられる課題を、次から次へと繰り出せる攻撃課題を機関銃のように連射していた。 攻守逆転が予知される場面では素早く、「論点を反らすんじゃない」「今は、その課題を論じているじゃない。誤魔化すな」と予防線を張り・・・、という具合。全共闘がそれだった。 (もちろん、根本思想も少数者・弱者への想いも、人権感覚も、全く逆だったとは思うが、その「手法」は似ていたと認めたい。本来、思想と手法は当然深く関連している。ならば、根本思想などと他言するその思想そのものが、極めて表層的であったと認めざるを得まい) 彼の土俵で、ディベート式の「口論」場で守りの相撲しては勝ち目は無い。こちらから攻めるべし。
橋本徹。97年弁護士スタートは、左派というか人権派樺島弁護士事務所だった。ボス弁とは仲が悪かったと述懐している。98年、自身の事務所を開設。消費者金融大手の「アイフル」の子会社、商工ローン企業「シティズ」の顧問弁護士となる。「シティズ」は、「利息制限法による引き直し計算とそれを前提にした特定調停・個人民事再生に応じない」、弁護士・司法書士・被害者の会からは極めて問題のある企業として知られていた。この時代を含め法廷で8年間負け知らずと豪語している。が、何に負けなかったのか? 弱者に負けなかったと嘯いているのだ。吐き気がする。 高金利であろうが「借りたもの返さなければならない」という「真理」の片面だけに立った弁護活動の思想は、そのまま今日の府政・市政に反映している。(もうひとつの「真理」とは、利息制限法の範囲であっても度を過ぎた高利は自然法に反するということ)。例えば、橋下府政and市政の実際は下記のごとし。
【教育】【文化】【公務員】【労働現場】 1年期限の講師を急増、私学経常費助成を大幅削減、学校警備員補助を廃止、府立高校教務事務補助員等を雇い止め、青少年会館を廃止、跡地を長谷工に売却、センチュリー交響楽団補助金を廃止、国際児童文学館(吹田市)を閉館、国際児童文学館(吹田市)を閉館、青少年野外活動センターと府民牧場を廃止、クレオ大阪(大阪市立男女共同参画センター)5館廃止案、放課後児童健全育成事業(学童保育)の見直し(廃止検討)(西成の「こどもの里」HP=http://blogs.dion.ne.jp/kodomonosato/archives/10725887.html )、職員給与7%カット、組合事務所貸与の中止、その弾圧の民間への波及 などなど 【福祉】 高齢者住宅改造助成と見守り訪問を廃止、障害者・福祉団体への補助金を廃止、救命救急センターの補助金削減、公害患者死亡見舞金を廃止、ピースおおさか補助金を削減、軽費老人ホーム(ケアハウス含む)運営助成費を改悪、などなど
私学助成削減の再考を求めて来庁した高校生に、「変えたいなら、勉強して君が知事になって変えればいい」と言い放ったのは有名。 一方で、弱者のささやかな希いを不充分でもやっと事業へと繋いでいる予算をカットしながら、一方で、特別顧問・参与なる民間人を大量に任用しており(顧問:前市長時代3名→16名、参与34名、計50名)(誰かがNKB48と名付けた)、報酬も増額している。職員も議員も不要だと言っているに等しい。議会や「もの申す職員」は不要で、首長様の言うこと忠実に実行する職員と、首長様の意向を具体政策に「翻訳」してくれる「ある方向性」を共有できる識者・学者・弁護士・会計士が居れば充分。彼にとって、新知事を含め「匿名」のロボットでいいのだ。 言わせてもらうが、「こどもの里」はじめ、削減・廃止の各施策・事業の費用は、府庁舎移転の失政による損失に比べてどうなのよ?! あんたが二度の反対決議を押して強行した 府庁移転計画・WTC購入(85億円)・WTCの改修工事(30億円)、3・11に地震で震度3だったが揺れが10分間継続ビル内360ヶ所破損 、専門家から府庁舎として使えないし防災拠点などとても無理との指摘を受けた。東南海地震では「倒壊の可能性も検討すべき」とも言われている。また想定される津波ではWTC地域は水没すして電気系統パアです。 あんたが言う、「二庁舎並存(上町現在地とWTC地域)」で被る損害は、今後30年で1200億円だという。 橋下君、そのマイナスを取り戻すために、あれもこれも縮小・削減・廃止してるのですか?http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/47728cd2ca711e56d63330d4a35e6783 府政の財政の実際についても、 『橋下府政の3年9ヵ月で府財政は劇的に好転したと信じる人も多い。しかし今、府の財政指標を眺めてみても、「再建した」と言えるような改善は見えてこない。それどころか、借金は増え続ける一方だ。なぜ、これほどイメージと実態がかけ離れているのか。「橋下改革」とはいったい何だったのか。ほんとうのところを検証するべきだろう。仮に黒字になったとしても、それで府財政が健全だという話にはならない。ここには府債残高とその返済能力、資産などはまったく考慮されていないのだ。それを知ってか知らずか、「11年ぶりの黒字」「改革の成果」と橋下の手腕を讃えるような報道が「改革者」のイメージを作ってきたといえる。』 と詳しくその実態を示すレポートがある( http://gendai.ismedia.jp/articles/-/26964 )。 マスコミが自ら作ったイメージの間違いを認めたくないばっかりに、イメージの拡大再生産を計っているのだ。
橋下政治を要約すれば、
もっと儲かるはずの強者の利益が、弱者への配慮によって損われる「理不尽」を阻止し、
市場原理主義に基づき、社会福祉施策を縮小・廃止し、教育に政治介入し、
公務員に対する強権政治で公共の仕事を縮小させる(つまりは「公」の任務の放棄) 差別・選別・排除の政治である。「公」を解体する使命を帯びた政治である。 次に来るのは、橋下維新派の支持階層・支持者自身が排除され直接被害を被る政治体制なのだ。 そこを解かり易く人々に届ける努力を怠ってはならない。 取り返しが付かなくなる前に・・・。
つぶやき: (元)生活保護受給者から 怒りの通信
元:生活保護受給者(知人)から怒りの通信
肝炎発病(証拠は無いが、注射針使い回し等による「公」的伝染の可能性大)によって労働ママならず、治療・通院・入院に明け暮れ、焦燥と失意の20代を過ごし、数年間の生活保護受給によってようやく「生」を「現実」へと繋いでいた経験のある知人から、怒りのメールが届いた。
自民党「生活保護に関するプロジェクトチーム」(某女性議員ら)が、某芸能人の母親の生活保護受給への疑義を声高に叫んでいる。不正受給撲滅・不適切支給根絶・親族の扶養の奨励を訴えるキッカケにしたいと言うが、不正と呼べるかどうかは曖昧で、自民党の方針「生活保護給付水準の10%カット」「食費・衣服費の現物支給化」「支給期間の有期化」などの社会保障の抑制政策への地ならしの動きと見える。 そもそも親族の扶養(成人した子の親に対する扶養)は「その者の社会的地位に相応しい生活を成り立たせた上で、余裕があれば援助する義務」であり、その程度は「話し合い合意」をもととする、となっている。 制度上の「許容範囲」を知らぬ振りして発せられる、「受給憎し」が先行する感情論は、「吊るし上げ」「見せしめ」としての役割を担って登場している。 それはあたかも、あっちもこっちも不正受給であるかのような、「扶養」「援助」しない受給者の親族は「不心得者」であり、常套句「非国民」と言いたいに違いない、強迫言説だ。
このご時世、税や社会保険の支払にさえ窮する勤労者は、職を失う可能性に日々晒され、ローン(でなければ都市部なら高額家賃)や、医療費・教育費等々に追われ、生活保護受給者が近親に居たとしても、「扶養」「援助」し難い状況に違いない。この知人の場合、兄弟などに所定の用紙に「援助無理」の一筆を書いてもらい、それを依頼するそのこと自体が「言いようの無い負目・屈辱感・無力感」として作用し、それこそカラダと心にこの上なく悪いことだったと振り返っている。 また酷暑を越える為のクーラーを「贅沢品」と指摘されたり、再入院に備えたほんの僅かの預金を「財産ゆえ減額の対象」と、こころない岡っ引役人に言われたりと地獄の日々だったという。
知人は、幸いにして闘病10数年の後、インターフェロン治療が奇跡的に効き、ほぼ完治し社会復帰した。 知人は言う。生活保護受給に絡みつく厭な思い出は千も万もあるけれど、生活保護制度には感謝している。「公」務の何たるかを承知している、「まっとう」な「公務員」にも出会えた。制度とその公務員のお陰で、自分の「生」と現実社会との関係を断ち切られる寸前で、皮一枚繋がって来たのだ。制度を活かすも殺すも、運用する人間の智恵・感性・心根だとつくづく思うなぁ・・・、と。
知人は、やがて生活保護受給を終了し、知的障害者・重度身体障害者の支援施設の職員となり、25年以上になる。 某女性議員が某芸能人に返納せよと言ったとか言ってないとか、だそうだが、知人の場合、「公」から受けた「自立準備期間の生活資金」を、そうやって「公」(的取組み)へ返している。いや、受給期間からすれば、十二分に返した。某芸能人が返すべきは、当初扶養援助がママならぬほど、どれほどの不安定収入だったか、そして生活保護がいかに「生存」の最後の砦だったか、などの制度の意味「公」論を説いて社会に返すことだ。 その上で、40万のローンを支払い、母親はそのマンションに住み・・・というのは彼のその後も続く高収入からして、いささかクエスチョンではある。制度を広く論議するサンプルを提供するをもって、応えたとぼくは理解しよう。
某女性議員よ! 貴女は、某芸人の母親の件にこれほど大声で居丈高に叫ぶが、では聞く。 貴女は、厚労省の覚えも目出度き、北九州方式(数値目標をノルマとして決め、保護件数を抑える)が、2006年4月~5月の二ヶ月間に、申請に際し、申請書を交付せず、受付自体を拒絶し、3名もの餓死者を出した事件に対し、今回の「口撃」の100分の一、いや万分の一でも、やがて「自民党・生活保護に関するプロジェクトチーム」の主要メンバ-となる「知性」(?)の一片を動員して発言したのか? マンションを売却し、40万のローン負担が無くなれば、某芸能人は母親を扶養出来ただろうが、それは制度と個別の事情を精査した上で発言したい。けれども、40万に目が行き、時間と労力を使う者が、一方で餓死者を作る(間接的殺人だ)という反福祉構造には何ら反応しない・・・、これは、どうしても理解納得できない。
生活保護受給者は、スウェーデン:4,5%、 フランス:5,7% イギリス:9,27%、 ドイツ:9,7%、 アメリカ:13,05%、そして日本:1,57%だそうだが、であるなら、日本は極めて低い水準ということになる。日本が、生活保護野放し天国かのような悪宣伝は誰がしているのだ? また、いわゆる「不正受給」は、総額年間129億円(これ自体大変な数字だが)で、しかも支給総額の0,4%である。 不正受給・不適切給付を野放しにせよと言いたいのではない。騒ぎ立てる「問題点」「疑義」と、餓死という間接殺人を前に、「公」は何処(いづこ)にありや、「民」は何を為すべしや? と自問しているのだ。制度には、必ず不備や瑕疵があり、不正があったり不具合がある。それは、糾され是正されねばならない。だが、その「不正」と、制度の目的・趣旨を根底から否定する「不正義」とは全く違うのだと強く言いたい。
ニート攻撃があった(今も言葉を変えてある)。不安定雇用形態を推し進める側の意図ある悪宣伝だった。 公務員バッシングが続いている。人口当たりの公務員数は日本は極めて少ないことが明らかだ。効率万能・数値化のハシズムは、「公」務を、公務員を、解体しようとしている。公務員が「公」を行なえない。( http://www.yasumaroh.com/?p=14034 ) いま、某芸能人バッシングから、生活保護受給バッシングへ、保護費削減へ、あらゆるセイフティネットの解体・放棄へと進み始めている。その全体構造を忘れないでいたい。*********************************************************************************************************************************************************
小説『舟を編む』(http://www.yasumaroh.com/?p=14019 )、映画『オレンジと太陽』(http://www.yasumaroh.com/?p=14566 )、この度の「生活保護バッシング」・・・。「公」とは? と思い続けている。 国家ではない。国家意志や宗教や政党ではない。特定の思想でも、特定の団体でもない、真正の「公」。 殖産興業・富国強兵のスローガンの下、国家形成を急いだ明治国家が国民国家の完成をみたのは、1905年「日露戦争」勝利(露の極東支配を阻止したい英・米の意向の産物だそうだが)による国威発揚のピーク期であり、残念ながら「戦勝」を土台にした『極東ロシアの一部を分捕るまで下がるな』とポーツマス講和に反対した市民・新聞などの軍国・皇国ナショナリズムとワンセットだった。 明治の知性は、武士道・大和魂・軍国日本・天皇などに依りかかることなく、「公」を追い求めた。「私」・・・、排他的でなく、競争ではなく、物理的私利ではない「私」の追及が、つまるところ「公」への入口だと見定めたと思う。「公」論議はともかく、近代的自我と国家との相克、社会的「公正」実現を希求するゆえの政治思想、戦争・侵略・欧米スタンダードへの抗い 等々・・・、100年前に明治人が立向かい、その後100年「現代人」が迷走た課題は、現在もそのままそこに在るのではないか? 今、2012年(1905年から、100年と少し)、100年を経た我等が「公」が見えぬ「ていたらく」ゆえ、明治国民国家が歩んだように(もちろんカタチと位相を異にして)「公」ではないものによってことが進みかけている。ヤバイ! 大飯再稼動、沖縄普天間-辺野古、ハシズム、大連立・・・ 殖産興業・富国強兵・日清日露戦・大逆事件・日韓併合・大正デモクラシー・軍閥・国際連盟脱退・二二六・対中戦争・太平洋戦争・沖縄地上戦・原爆・敗戦・沖縄処分・焼跡闇市・朝鮮特需・60年安保・所得倍増・高度経済成長・東京オリムピック・一億総中流・モーレツ・60年代末叛乱・沖縄県再発足・国鉄民営化・総評社会党解体・バブル期・バブル崩壊・規制緩和・雇用形態崩壊・年金瓦解寸前・阪神大震災・オウム事件・セイフティネット再編・少子高齢化・東北大震災・原発事故・・・・明治国民国家の100年は終わったのだ。民主党政権はその曲がり角に登場したはずなのだが・・・
先日、関川夏央著:『「一九〇五年」の彼ら-「現代」の発端を生きた十二人の文学者-』(NHK出版:\780)を読んだ。十二人の、悪戦苦闘の意味を少しは知りたい。「公」へのヒントをもらえるだろうか。 帯にはこうある 「私たち現代人の『原形』がここにある」。 十二人の氏名は、右画像クリックで判読出来ます。
-現実とヴァーチャルの間(はざま)で- 友人Aの40年
事件から40年、 あるシンポジウムに参加して
40年前1972年、世間を震撼させた事件があった。そこに至る経過や事情は長くなるので省略する。60年安保闘争時の全学連主流派(いわゆる安保BUND)以降の歴史をここで述べる知識も資料も時間も力もないので・・・・・。 後年「あの事件によって若者の政治離れ、闘い離れが加速した」と言われた某事件だ。籠城・銃撃戦はTV中継され日本中を釘付けにした。若者を「離れ」させたと言われるのは、銃撃戦のあと明らかになった山岳ベースでの「仲間殺し」によってである。誰も皆、我が耳と目を疑い「そんなはずは・・・」と絶句したのだ。 5月13日、目黒区民センターで、事件の当事者(生残り、従って加害の実行者でもある)たち。事件を起こしたのは、二つの異質な組織が合流して成った新党だが、その一方の組織の創設者=初代議長(合流時獄中)、この事件に発言してきた表現者・識者、そんな面々をパネリストにシンポジウムがあるという。合流前の、そのパネリストの元議長の組織に一時期関ったという、友人Aと会場へ向かった。 400弱の席は六~七部の入り。金廣志氏の名司会もあり、切り口を変えての五時間強に及ぶロングシンポだった。 ぼくの関心は、もちろん「前段階武装蜂起」や「先進国に於ける継続的な武装闘争」「山岳ベース方式」の当否、出自や思考スタイルの違う組織の合流=新党という無理の実際、中心メンバーの資質・性格・欠陥に事態の因を求める類の謎解き、そもそもそうやって作り出す社会の姿は?・・・、 などには無い。 40年というぼくの時間の中で、それらの設問とは別のところで、ぼくはぼくなりに事件を考えて来た。 権力・国家の「論」が過剰に語られるわりに、「社会論」は手薄だったし、こちら自身がそれらの設問には答える知恵も知識も経験もなく、やがて現実の仕事や生活、多少は関った労働現場の「闘い(?)」を通じて自分なりの「気付き」や「見定め」を苦く得て来たはずだ。 山本直樹による劇画『レッド』(講談社、現在第6巻)が、2010年文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞したという。ビックリだ。文化庁に「何するねん」と異議を唱えたいのではなく、事件は確実に間違いなく「歴史化」され文字通り「劇画化」されつつあると思うのだ。ゲームソフト化されつつあると言えば極論に過ぎるが、ヴァーチャルな体験として若い読者に届いているかのようだ。パネラーの言によれば、『新撰組みたい、カッコいい』 『新撰組にも同志殺しがあったよね』 などと登場人物の誰彼を土方・沖田・他隊士に擬えての「ファン」まで存在するのだそうだ。 劇画『レッド』は、事件を克明に追っているのだそうだが、発言者から、社会はこの劇画に賞を与える程、余裕をもって成熟しているのか、あるいはあの事件は劇画のモデルほどの意味合いだけは頂戴したということか、と皮肉自嘲発言があった。 シンポのまとめも感想も書けそうに無いので、以下いくつか耳に残る発言を拾って報告に代えることとする。
☆ 後年(すでに今が後年だ)、あの時代を逆照射する凍るような光源として語られ研究されるのは、たぶん「東アジア反日武装戦線」であり、集団性の病理と政治にまつわる暴力の暗部として刻印されるのは、 「革共同両派間+革労協」の死者総数100名を越える「内ゲバ」であって、それらは陽が差す表には出て来ないし、ましてや当事者が実名顔出しで語ることなどないだろう。 当事件の当事者は、その意味で立派と言うか、BUNDっぽいというか、壇上で懺悔せよと言いたいのではないが、何を抜け抜けと・・・に類する声も聞こえて来ように、そこを越えて「伝えよう」とする姿勢は認めたい。
☆ 若松映画作品の数々の受賞や、山本氏の劇画の受賞によって市民権というか「表」の歴史物カルチュアにされてしまう危うさを思う。「表」ということは、市民社会に認知され、いわば文化の消費過程に組み入れられるということであり、消費される文化に相応しい重量が与えられるだろう。けれど実は、当事件というのは消費させてはならない種類の事件なのだ。 「武装」や「山岳ベース」という、市民社会からすれば「異端」であるはずのものが、映画や劇画それも賞を取るという「成果」を得て、逆に「市民社会」へと回収されて行く。そこに事件の「劇画化」、ゲームソフト化が深く進行してはいまいか? 若松映画のラストで当時未成年だったKが「(負の連鎖を断ち切る言動を行なう)勇気がなかったんだよぉ~」と叫ぶが(あれはフィクションだそうです)、観客はそれによって救われるというか、感情の落とし所を与えられる。闘う者の「善意」や「熱情」の片鱗を確認するのだ。だが、あの両組織(後の新党)のメンバーは間違いなく、当時の若者の一般値よりは揺るぐことないピュアな「善意」と、社会変革と自己精進への「熱情」や「無私」の精神を持っていたと言い得る。 『地獄への道は善意で敷き詰められている』(サミュエル・ジョンソン?)と言われるように、闘いにかかわる者にそれらは前提だ。にもかかわらず、ある病理の連鎖に至ったのだ。だから、救いようの無い読後感の落とし所など実は無いことを承知した上で、この事件を我が身に引き寄せて、誰もが考えて来たと思う。我が身には、社会性や共同性の回路を持つことなく対処できるはずもない仕事・労働・闘い・政治・他があり、そこは当事件から考えたテエマと重なる事柄・出来事に満ちている。個人生活でも、家庭・家族・夫婦・男女間にもまた、違う位相で事件と近似質の病理が陰を落としていたことを誰もが知っている。
☆ オウムとは大いに違うのだが、似ていると思う。 当事者はかつてこう語っていた。「まずい、このままでは壊滅する」と感じながら「間違っている」「止めささなければ」と言えなかったのは、「この事態を受け止め、耐え、超えられないのは、自分が未熟であり不充分だからだ」と思っていたからだ、と。倒錯しているが、ある種の異形の「誠実」でさえあるのだから厄介だ。当時の私たちの男女関係にもそれがある。当時の(今も?)女性の多くが、男の理不尽な要求や横暴に遭って進退極まれば、事態の自己納得を確保するに、未熟でいたらない自分に非があるとする方法論を採用して生きたのだ。 この心理、思考停止・判断停止の構造はオウムと似ており、またもう一ついえることは相互性ということ。麻原と信者は互いに求められた姿に似せて自己を作って行くのである。事態は相互的なのだ。こうした集団・組織と個人の相互性に関して、よほどの自覚的理解を持たない限り、人はしばしばオウムなのだ。 組織と運動に巣食うスターリニズムなどと簡単に言うが、スターリニズムを持ち出すまでもない。 ナチス、スターリニズム、軍国日本、戦争体制の構造と似てもいるのだ。日露戦争後のポーツマス講和への対応。 国家予算の四倍を使い果たし財政破綻に加え、国際力学からも現実的対処に動いた政・軍に対し、国民と新聞の側が不満と怒りを表明したのだ。「極東ロシアの一部を分捕るまで下がるな」、と。 昭和軍国への道は、相互性の産物だ。
*************************************************************************************************************************
同行した友人Aは、この合流組織=新党の片方の組織といささか関係があったのだが(だから元議長を見つめていたなぁ)、そのAが語った。 事件の「劇画化」と言うが、ひょっとしたら、もともと自分にとって、丸ごとひとつの「劇画」ではなかったか? つまり、驚くような単語を使いながら、自分はその正確な意味を問うことを保留又は無視し、リアルな現実であって同時にフィクションのような、つまりは壮大な「ゲームソフト」の中に浮遊していたのではなかったか? Aは、決して提唱者や組織が「ゲームソフト」の製作者だったと言ったのではない。自分にとっては、「ゲームソフト」的だったのではないかと言っているのだ。 例えば、「武装」と言う。それは、どのようなことであり、人を殺傷することを前提に語っているのか? 例えば、「蜂起」と語る。それは・・・・・・ Aはまた口を噤んだ。 Aを正視できなかった。 Aは初めて当時の己の理解そのものがヴァーチャルだったと言ったのだ。当時の自身の言動はゲームソフト上のことだったのか?と。40年以上の付き合いで初めてのことだった。 Aは、自身と関係者、関りのあった組織を揶揄するためでなく、総撤退するためでなく、残された時間に今日の課題と自身に意味あるコミットをするために、そう言ったのだと思う。言い換えると、ぼくにそう明言するのにAは40年を要したのだ。
本日5月15日は、沖縄県再発足の日(72年)。期せずして40年だ。沖縄の40年はヴァーチャルではないリアルな米軍基地支配の40年だ。普天間の辺野古への移転など現実的ではないと米までもが言う中、民主党政権は辺野古を言い張る。 民主党政権は大飯原発の再稼動に向けギアチェンジに入った。福島第一原発事故の収束はまだだ。震災津波を含め被災地の復旧は遠い。自民党は憲法改正草案を出した。元大阪府知事:橋下大阪市長の競争と統制の強権政治は「数値化し競争させる」と要約できる公務員叩き・教育解体を推し進めている。「ハジズム+近似勢力の集合」or「民主+自民の連立」、その二者択一という最悪の選択になどならぬよう、何をなすべきなのか、何ができるのか・・・・、
友人Bが、昨秋から宮城県の震災津波の被災地に月に一度一週間、ボランティア活動に出向き始めた。家屋に流入した汚泥・ゴミ、道路・河川に散乱する瓦礫、その撤去と整理だ。Bも又、Aとは違う混迷を経て、本籍地(所属団体)を離れて久しい。東北の被災地で若い人に出会い触発され、変わって行く己を自覚的に捉えることが出来る関係を綴った、気恥ずかしくも瑞々しいストレートな言葉に触れたことがある。 そのストレートさを誰かが揶揄していたが、ぼくはそこに数十年のBの左翼体験(所属した団体の解体、事情で指弾を受けた蹉跌、追われる様に去った運動体)への自省的な想いのほとばしりを嗅ぎ取り、Bが東北被災地での出会いと行動から得たものを語る心情を不快感なく受け止めている。 一方、組織や指導者、綱領や方針ではなく、自分自身の理解・対処が「ゲームソフト」的であったと語ったA。現代ゲーム世代若者を嘲笑いはできない、自分がその先駆けやと苦笑したA。 ぼくにとって、AもBも得難い友人なのだ。彼らは、何かを辞めたのか? 変わったのか? 放棄したのか? そうではなく、「遅すぎた表明」であれ、 そこには自分の言葉と歴史がある。これからも刺激を受け合う、友でありたい。
【事件との関係文献】 {当事者の回想録・書簡集・歌集など} 植垣康博、坂口弘、永田洋子、大槻節子、加藤倫教、坂東国男、森恒夫、吉野正邦 らによる多数の出版物。 {出版社の特集など} 『情況』 『朝日ジャーナル』 『月刊現代』 『序章』 『流動』 『別冊宝島』 『文芸春秋』 『インパクション』 『マルコポーロ』 他 {学者・文人言説、映画} 上野千鶴子『連合赤軍とフェミニズム』、 小熊英二『1968【下】16章』、 柄谷行人『意味という病』、 大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍』 大江健三郎『連合赤軍事件とドストエフスキー経験』(壊れものとしての人間)、金時鐘(『新文学』72年5月号の文章)、別役実『連合赤軍の神話』、 寺山修司『「連合赤軍」をこう思う』(深沢七郎との対談)、 立松和平『光の雨』、 平岡正明『連合赤軍 革命は魔道である』、 小嵐九八郎『蜂起には至らず・新左翼死人列伝』、 保坂正康『悲しきテロリスト・坂口弘』、 塩見孝也『赤軍派始末記・元議長が語る40年』 映画: 高橋伴明『光の雨』、 原田真人『突入せよ!「あさま山荘」事件』、 若松孝二『実録・連合赤軍』 劇画: 山本直樹『レッド』、 詩・音楽: 鮎川信夫:詩『MyUnitedRedArmy』、友部正人『乾杯!』(セカンドアルバム『にんじん』に収録)
つぶやき: ブラックは誰だ
関越自動車道 深夜高速バス事故(4月29日 午前4時40分)
安全・人権などに基づいて在った故あるクリアすべき基準・制限の撤廃を、『規制緩和』と名付け推進した者たちが、事故以来TVなどでこの度の重大事故の因を「悪徳業者」と「悪徳運転者」の「ブラック性」に押し込め、私的な責任論へと誘導する発言を展開している。 冗談ではない。彼らが、「悪徳」だとしても、そうした「悪徳」者が参入できる産業構造・業界システムこそが、そしてそのように門戸を開いた『規制緩和』という名の、競争原理万能・新自由主義こそが事態を招いた根本原因だ。「安い」だけを求めて走る「賢くない」大多数のそして当然の反応の我ら消費者に応える為の「低価格」は、安全と人権を踏みつけることでしか実現できない。出来なければ、仕事は来ない。そうした、瀬戸際運営で零細業者は「悪徳」を承知の上で、過酷な価格設定と過少人員で請負い、産業と業界を泳いで来た。 手のひらを返して業者・運転者を責め立てるマスコミよ。あなた方は、国土交通省の一人運転の限界設定基準、670kmがドル箱コース:大阪~ディズニーランド路線をクリアする疑惑の数字であることに端的に表れている構造的癒着を、これまで一度でも糾そうとしたことがあったのか? まずは、そこを自省的に語りなさい!
1980年代以降の規制緩和の数々を思い起こしてみる。 電電公社民営化・国鉄民営化・タクシー台数制限撤廃・酒類販売免許・バス運送事業新規参入・労働者派遣事業法緩和(製造業OK)・貨物自動車運送業・郵便事業民間へ開放・農業への株式会社参入・医薬部外薬品の販売緩和・他々 2005年4月25日のJR福知山線脱線事故は、事故原因究明の中から、不充分ではあってもJR内の常軌を逸する懲罰的「日勤教育」の実態を、明らかにして行った。この「日勤教育」に関与し(あるいは目を塞ぎ)、推進したJRの幹部・管理職・全ての岡っ引き中間管理職とエセ労組役員、お前達こそが107人の尊い命を奪った真の下手人だ!(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8B%A4%E6%95%99%E8%82%B2)
競争はいいことだ、儲けることはいいことだ、それによって社会は前進し、事や人は進歩する。安全と人権に要する無駄なコストは排除されるべきだ、消費者こそが主役だ・・・・・。新自由主義の荒波は、製造・雇用労働・流通・購買を越え、福祉・教育・公共サービスを直撃し、大阪発の「ハシズム」は肥大しているかに見える。 だが、こうした倒錯が、財界やその推進者が消費者に云わば「マッチポンプ」役を押し付けて成る、同道巡りのインチキ構造だと、賢い消費者は気付いている。 肝要なことは、何を隠そう実は、消費者とは生産者なのだ! という紛れも無い事実だ。自らマッチポンプ役を引き受けることは無い。事と物の安全と生産者の人権を脅かす構造を、消費者としての声だけでもって肥大させ生産者である自らの首を絞めなければならい理由は一切無い。
ネット紙上の各種コメントには優れた指摘も多く、ホッとしているが、こうした声の社会化・結集を望みたい。 曰く『ブラック企業を生み出しているのは、ブラック消費者ではないでしょうか?』 その通りだし、そこへ誘導する規制緩和・新自由主義経済こそがブラックの根っ子ではないだろうか?
異論: 教育の舟は誰が編む
公立小学校選択制・教師相対評価・教育目標知事決定 で教育の舟は編めない
-三浦しをん『舟を編む』を読んでハシズムを想う-
大阪方面の知事いや元知事・現市長が、次期衆院選に向け候補者を大規模に立てると新聞記事にあった。弱点を補うべく都市部・地方でくまなく集票するため、新興ひらかな政党や某宗教政党や某知事と連携して一説では候補者300人以上を擁立するという。 官僚批判を、公務員一般バッシングにスリ代え、選挙民から喝采を浴び、ムダ・非効率・利権だ・時代遅れだと、「公」の事業と要員を攻撃して、つまりは「社会民主主義的・的」要素が多少なりともある施策を葬って、競争と選別を軸とする「選民」による「効率」の行政を打ち立て、統制と新自由主義的競争のハシズム「社会」を作るのだそうだ。 公務員の給与や労働条件を、民間並みにすると言っては、あたかも「公務員が給与面でも労働条件面でも不当に恵まれている」との誤情報を刷り込まれ、「不当に買い叩かれ、不当に労働条件を下げられ、不当に雇用形態を改悪され」続けている選挙民に支持されたのだ。 民は、己に被さる「不当」な、労働・雇用・生活を巡るこの10年の実質低下への異論と抗議を、「公務員叩き」へと誘導する「独善的指導者」に同意したかに見える。
しかし、 ◎ 新市長は、選挙結果を「民意」だと大声で叫んでいるが、誰も個々のイシューについてフリーハンドの委任などしてはいない。官僚批判・ムダ排除・利権排除は当然だが、例えば教員への五段階相対評価と最下級評価(5%)連続二年で解雇などの強権統治はどうだ? どないもならん教師は確かにいるだろう。けれども、評価者(校長や保護者や生徒が想定されている)は、あらかじめ設定された5%を作り出さねばならない。不当だ。しかも教員という勤労者の生殺与奪の権能を、はたして保護者という学校教育現場に不案内この上なく、かつ俗情に塗れた者に委ねてよしとするのか? 私は反対だ。 この「保護者」なる存在のいかがわしさを語る論者に、新市長は「民主主義の否定だ」「民主主義を語りながら、選挙民すなわち市民をバカにしている」とご都合主義民主主義言辞で答えていた。教員によらず「公」的業務・職種に就く者の、カッコつきであれ公共性・中立性・不偏不党性の確保や、質や意欲の確保は、まどろっこしく非効率に見えて可能な限り権力の恣意性や、民の熱狂と俗情に影響されないシステムによってのみその可能性を構想できると思う。それでも可能性であって、もちろん不備満載だ。非効率は、効率が持つ危険性や独断や専横に比べれば、人間社会の歴史に晒された知恵だと私は思っている。この効率万能・まどろっこしさなき制度とは、つまるところ某国の独裁政治制度に行き着く外ないのではないか? 自称『左翼』こそ、今一度「プロレタリア独裁」「正しい党による一党制度」「選挙の否定」「政権から自立した労働運動や市民運動」の意味を噛み締めねばならない。 ◎ 教育目標は知事が決める・・・?。曰く「選挙という民意に晒されない教育委員会など、ノンリスクで無責任。決定権能は選挙の洗礼を受ける者の手にあるべきだ」果たしてそうか?少年の頃、アメリカ西部劇のヒーロー:保安官が選挙によって信任される構図をみて「これはヤバイ」と直感的に思ったものだが、治安を担う者が選挙に晒されて在ることの非中立を思って『OK牧場の決闘』などを相対化して観ることが出来た。選挙という流動的な事態によって「教育目標」や教員の「処遇」が数年でコロコロ変わることの何処が民主的なのか私には理解できない。 知事に権能を・・・はヤバイが、選挙・民意と本気で言うなら(戦後の民主的諸改革によって公選制だった教育委員は、1956年首長による任命制に変えられたのだが) 教育委員そのものを公選制に戻すと主張しなさいよ。それなら分かる。複数委員の合議は一人の首長の独断のような一方的な言い分の支配とはなるまい。 ◎ 公務員は「不当に恵まれている」のか? そもそも人口当たりの公務員の数はどうなのか?(公務員が担う分野に差はあるが)人口千人当たりの公務員数の統計(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5190.html) を観れば欧米に比して日本は韓国などとともに著しく少ないことが明らかだ(約80人対約40人)。この30年、保育・清掃・介護・道路・公園管理・学校給食などを民間委託し続けいわゆる先進国の約半分という状況だ。この上「ムダだ」「効率」云々で給与カット・人員削減と来れば、質の低下・人員の離反・意欲の低下・そして「非効率」の先の「行政機能麻痺」と、残った公務員への超人的労務過多が待っている。 このことには言いたいことがある。「民営化」の野放しが招いた事態は、「非効率是正(?)」への賛辞ではなく、残った人員への更なる「虚像の高給与叩き」と「非効率批判」であったという事実だ。民営化は誰が支えているか? 効率とコスト圧縮目的は、当然ながら請けた民間企業の「無権利労働」「低賃金」「材料変更」「過重労働」によって支えられ、かつその民間企業のパート・派遣によって支えられている。民営化のツケは、民間下請け業者の野放し無権利と公務員自身に跳ね返っている。これ以上の民営化を阻止し、民営化には厳しい条件を義務付けることが肝要だ。 ◎ 小中学校選択制については、選択制を採用した自治体で「元々あった格差を固定拡大した」「元々在る地域偏見は拡大している」「少数の勝組校(人気集中校)と、不人気校を作っただけ」「地域で子供を育てるという地域の教育力(ただでさえ風前の灯火だが)が解体風化する」などと再検討されている。そもそも、なぜそれほど公立校間「競争」を推し進めなければならないのか? 教育が困難なのは、学校だけではない。家庭・地域社会・労働現場・他、いずれも社会の縮図に違いない。とりわけ小中公教育が攻撃されるのは、教育への不満・不安に「これこれが悪いのだ。そこを正せばいいのだ」と「悪者」を作り出し、単純明快な論調で「選挙民」の支持を得る。その支持を持続するためには、不断に「悪者」を作り出し続けねばならない。日教組・評価最下級の教師・非選択校区制・・・次々と悪者を作り出し、声高に喧伝する。競争と言うなら、世界規模学力テストで何年間か首位・高順位を続けるフィンランドの義務教育は、学校選択制だろうか?(当方、高成績至上主義者ではありませんが) 調べてみたいが、公権力の非介入、教科の工夫(社会と理科と算数の同時進行授業とか)、学校への大幅な裁量権付与、教師による教科書選定などなどは記憶している。公立小中校の選択制・競争が学力の一点に於いて成果(?)があるにせよ(ないと思うが)、その競争は学校内競争を生み、ますます物言わぬ教師を作り、教員間競争を生み、「競争に勝ち抜く」少数の子と、圧倒的多数のよき意味での競い合いさえ忌避する子を生むだろう。いいことは何も無い。勝組に留まることだけを家訓にしている新自由主義社会を是認し推し進めたい親子だけが「これはいい」と叫ぶのだろう。学校そのものが、学校間競争に汲々とし、ランクアップを最大課題とするような風土下で、「他者を労わる心」「共働の意味」「選別よりも助け合い」「競争よりも共走」といった民主主義の基本を、子供たちは、どこで学ぶのだろう。学校はそれらの総否定=選択制・選別・競争=の只中にいるのだから。
ハシズム派の人々に、『舟を編む』から一文をお贈りして、今日はここまでにします。 『言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するんですね』 『言葉は、言葉を生み出す心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものです。自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟』 ところが、『舟を編む』を読んで人に勧めたりしている若者がハシズム支持だったりするから話はややこしい。職探しに汲々としている若者が、「変えてくれそう」「実行力ありそう」「楽して恵まれてる奴(公務員もそうなんだ)の不当な利権を剥してくれそう」とそのハシズム攻撃的言辞に期待したりしている。ハシズム現象の何たるかを掴む「理解力」「読解力」を持つこと、その「人間力」を育むことこそ、教育本来の仕事だ。その回路は競争になどない。そんな意味では、本書は格好の書物だ。
教育の舟は誰が編むのか? 現状がそもそも、教科書検定制度や職員会議からの意思決定機能剥奪、日の丸・君が代の強制、他、文科省+どこかが編んでいる。その強化変更の舟を、選挙に晒されるような、私的な存在に編ませてはならない。
読書: 三浦しをん著 『舟を編む』 -元始 教育は「私」に在った-
三浦しをん著: 『舟を編む』(2011年光文社、¥1575)
辞書編纂という地味で壮大な作業に取組む人々の悲喜を、三枚目の構えで描いて一気に読ませる。この作者のものは『まほろ駅前多田便利軒』しか読んでいないので作者については語るものを持たない。 が、言葉との格闘、言葉の自律・自立、言葉の「公共性」、社会・国・権力・政党・宗派を超えた「公」的普遍性・・・という重いテーマが、文体とストーリー、会話とエピソードのある種の軽妙な技法によってかえって浮かび上がって秀逸。 実は、七〇歳を前にした実兄から「読んだら?」と薦めのメールがあって、『まほろ』の好印象もあって読んだ。
【本の帯より】 玄武書房に勤める馬締光也。営業部では変人として持て余されていたが、人とは違う視点で言葉を捉える馬締は、辞書編集部に迎えられる。新しい辞書『大渡海』を編む仲間として。 定年間近のベテラン編集者、日本語研究に人生を捧げる老学者、徐々に辞書に愛情を持ち始めるチャラ男、そして出会った運命の女性。 個性的な面々の中で、馬締は辞書の世界に没頭する。言葉という絆を得て、彼らの人生が優しく編み上げられていく・・・・。しかし、問題が山積みの辞書編集部。果たして『大渡海』は完成するのか・・・・。
企画から出版まで十数年という歳月と人材を投入し、出版社の気概とステータスを賭け、権力に阿(おもね)ることなく、流行り・俗情・熱狂・強権押し付け に迎合・屈することなく、言葉の持つ「公」を維持し追及する人々。『舟を編む』とは、文中に登場する言葉 『辞書は、言葉の海を渡る舟だ』 『海を渡るにふさわしい舟を編む』 からの命名だが、そのこと自体「なるほど」だ。 言葉の大海原へ、支配勢力・時の権力の水先案内、宗派・党派の教条や意向、などを求めず、舟の乗り手たる「民」を信頼しても過剰に影響されることなく舟を編む。その作業には、どのような資質が求められるのだろうか。 文中にこうある。持てる時間のすべてを注ぎ、自身の生涯をかけて大槻文彦が完成させた、日本の近代的辞書の嚆矢(こうし)とされる『言海』から料理人という言葉を引く場面。 『料理人:料理ヲ業トスル者。厨人。 この「業(わざ)」は、務めや仕事といった意味だろうが、それ以上の奥行きも感じられる。「天命」に近いかもしれない。料理をせずにはいられない衝動に駆られてしまうひと。料理を作って大勢の腹と心を満たすよう、運命づけられ、えらばれたひと。』 『職業にまつわる「やむにやまれぬなにか」を、「業」という言葉で説明するとは、さすが大槻文彦だ。馬締は感じ入るのだった』
思い出す。かつて、金時鐘について鶴見俊輔がこう評した。『感情そのものが批評であるような地点に立つ詩業』。なるほど「業」だ。確かに、ぼくが師と仰ぐ幾人かの方の営みは正に「業」である。それは、「やむにやまれぬなにか」を「大勢の」頭と心と感覚と体に伝えようと、それこそ生涯をかけて取組んでおられる「業」なのだ。それは又、お上に庇護され、あるいはお上の代弁者となり、お上の厚遇(財や機会)を得る、などとは無縁のものだ。そして又特定の宗派・党派・営利団体との距離は「業」の生命線でさえあえる。 「業」はこうして、「私」に立って営まれながら、最も「公」に近い位置へと本人と我らを導く舟だ。辞書編集者の資質とは、このような辞書「業」を身に刻むことが出来る者に備わるもののはずだ。ラスト近く、老日本語学者と馬締が語り合う。 『「オックスフォード英語大辞典」や「康熙(こうき)字典」を例に挙げるまでもなく、海外では自国語の辞書を、国王の勅許で設立された大学や、ときの権力者が主導して編纂することが多いです。つまり、編纂に公のお金が投入される』 『翻って日本では、公的機関が主導して編んだ国語辞書は、皆無です』 『大槻文彦の「言海」。これすらも、ついに政府から公金は支給されず、大槻が生涯をかけて私的に編纂し、私費で刊行されました。』 『これでよかったのだと思います』 『言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するんですね』 『言葉は、言葉を生み出す心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものです。自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟』
かつて、友人(清百合子さん)が『私塾の歴史』という大著を出した。『元始、教育は「私」に在った』を、記紀時代にまで遡り、奈良時代・平安~江戸寺子屋・明治自由民権へと、「教育」の脈々たる「私」の系譜を辿って解き明かした。公的機関とか公共サービスという言葉に冠されている公はおおむね、「権力の」とか「政府の」とか「地方自治体の」と訳し得る公だが、権力や国家を含む「私的な」存在を越えた「公」は何処にあるのだろう・・・。 実は「私」に立脚し、私費での刊行もいとわない「私」の営みこそ、もっとも真の「公」への可能性を持っている。その「公」こそ鴎外・漱石・啄木の明治以来、人々が探し求め、「天皇」だったり、「軍国政府」だったり、「大和魂」「武士道」「特定宗教」だったりしながら日本人が掴みあぐねているものだ。漱石はこう言っている。 『東郷大将が大和魂を有(も)つて居る。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有って居る。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を持つて居る』 『大和魂はそれ天狗の類(たぐひ)か』(『吾輩は猫である』)
ヨーロッパの「公」、権力・国家といった移り行く私的な存在を越えた「公」は、やはりキリスト教の「神」なのだろうか。少なくとも、ぼくはたかだか百数十年の国民国家形成後のつまり明治以降この国に公であると宣して舞い降りたものども(マッカーサー以降の危うい「民主主義」を含め)、「公」たり得ないと思う。それは、多くの「業」によって今後育まれるはずだ。ぼくに「業」と呼べるものは無いが、師(ブログ:プロフィールの「勝手に師事・兄事」欄に記載)の「業」を案内文献・水先案内として、「公」を求めて歩きたい。そして「公僭称」には断固として抗いたい。
『舟を編む』一冊からハシズムと呼ばれる潮流の旗振役市長(元知事)の主張を思い浮かべている。公立小中学校選択制・教育基本条例・教員相対評価と二年連続下位者の解雇・教育委員会の改組・教育目標設定の権能を知事へ・公務員の人件費カットと人員削減・福祉と教育への競争と選別原理の持ち込み・・・・などを思い浮かべている。【次頁『舟を編む』からハシズムを想う】 ぼくに本著を薦めた実兄、三浦しをんさん、本ページ中に紹介した清女史、そしてハジズム頭目、偶然全員早稲田卒。 早稲田卒者には異論もあろうが、早稲田卒者の書き手・創り手を列挙すれば、不思議と『私塾の歴史』の論旨に通底する精神を維持している人たちに充ちている。(列挙しようと思ったが、無意味なので中止) 早稲田卒の歌人の歌を・・・。 『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや』 寺山修司