Archive for the ‘ほろ酔い・交遊 通信録’ Category
10月4日 山本義隆氏講演
山崎君のモニュメントを作るなら、是非金城実氏に作ってもらいたい。氏が言う「民衆史とクロスすることのなかった全共闘」が、2014年、戦争前夜のこの国の民衆の魂を呼び覚ますかどうかは知らないが、五〇年経って山崎氏は在るべき民衆の一員として甦る。全共闘は、政治的にも・思想的にも・文化的にも・民衆史的にも、核にクロス出来なかったと思う。しかし、大学の大衆化という事態の中で、とりわけ人間数の多い我が世代の、マスプロ教育が生んだ「亜インテリ大衆」としての学生であったならば、それ自体戦後的「民衆」の一形態でもあった。
金城氏が「クロスすることがなかった」と語る向こう側に、なみなみならぬ共感と、新たな民衆史に関わる友軍としての期待を聞いてしまうぼくだ。応えたい。
なかにし礼の 人生の軸
なかにし礼の軸
多人数の酒席の後、友人にカラオケに誘われて同行した。友人はなかにし礼作詞の歌ばかり10曲以上唄い、合間に語りかけて来た。友人は前段の酒の席で、なかにし礼を称賛していた。友人にしてみれば、なかにしの、特攻隊帰りの実兄をモデルにしたニシン御殿とその破綻の物語でもある小説『兄弟』、満州時代の血族の体験を基にした小説『赤い月』や、TVコメンタイターとしての言説、ここ数年の「脱原発」「秘密保護法反対」「集団的自衛権行使容認反対」「解釈改憲への警鐘」への発言や、最近の解釈改憲・集団的自衛権行使容認への怒りから書き上げたという「平和の申し子たち」という詩を想定して言ったのではなかった。
むしろ、永年の作詞活動を言ったのであった。「なかにに礼には一本の芯、いわば軸のようなものがある、近年の言動を深く納得出来る芯や軸が」との主旨で言ったのだ。
なかにし礼の作詞になる歌を列挙する。
「知りたくないの」(菅原洋一65年) 「恋のハレルヤ」(黛ジュン67年) 「恋のフーガ」(ザ・ピーナッツ67年) 「花の首飾り」(ザ・タイガース68年) 「愛のさざなみ」(島倉千代子68年) 「天使の誘惑」(黛ジュン68年) 「知りすぎたのね」(ロス・インディオス68年) 「人形の家」(弘田三枝子69年) 「港町ブルース」(森進一69年) 「夜と朝の間に」(ピーター69年) 「今日でお別れ」(菅原洋一69年) 「雲にのりたい」(黛ジュン69年) 「雨がやんだら」(朝丘雪路70年) 「あなたならどうする」(いしだあゆみ70年) 「手紙」(由紀さおり70年) 「夜が明けて」(坂本スミ子71年) 「別れの朝」(ペドロ&カプリシャス71年) 「サバの女王」(グラシエラ・スサーナ72年) 「グッド・マイ・ラブ」(アン・ルイス74年) 「石狩挽歌」(北原ミレイ75年) 「フィーリング」(ハイ・ファイ・セット76年) 「時には娼婦のように」(黒沢年男78年) 「北酒場」(細川たかし82年) 「まつり」(北島三郎84年) 「我が人生に悔い無し」(石原裕次郎87年) など・・・。
全曲に通底する「悔悟・諦念・矜持・反権威・反国家」は、恋歌や女みれんや失意の歌詞群の中に埋もれていて、解りにくく見えにくいかも知れないが、ぼくには並々ならぬ意志として伝わって来る。
「知りすぎたのね」では「恋は終わりね 秘密がないから」と語り、「雲にのりたい」では現象的な恋の成就を逆に「のぞみが風のように消えた」と言い、「あなたといても」「口づけをしても」「悲しい風が吹く 胸の中」とつぶやき、「どうしてみんな恋しているんでしょう」と、浮かれ世情に異論を放ち、当時の若い女性歌手に恋の永遠の悲哀を唄わせて聴き手に届く歌詞を紡ぎ出していた。黛ジュンの厭世感・倦恋感は見事だった。
歌謡史に残る名歌詞「背伸びして視る海峡を♪」、森進一唄う「港町ブルース」。主観的にしか見ることなど出来ない対象を、海峡の片岸から「背伸び」して視る、69年おんなの心理描写はどうだ? 来るはずのない恋しい男を求め、「背伸び」して爪先立って待つ心を想像できるか? 69年を越え70年をどうすべし?と彷徨する自称左翼の若者に、「あなたならどうする?」と問い「泣くの歩くの 死んじゃうの」と迫り、「私のどこがいけないの」と原点死守を促し、「あなたなら あな~たなら・・・」と再起と基礎からの変化を、あなたの組織や団体にではなく個人としての「あなた」に呼びかけている。
名曲『石狩挽歌』に登場する、「笠戸丸」は、敗戦直前に沈没するニシン漁船だが、ソ連参戦の1945年8月9日カムチャッカ近海で拿捕され、船長・乗組員強制下船捕虜の後にソ連軍機の空爆で果てた。『石狩挽歌』は特攻隊帰りの実兄のニシン物語への鎮魂と、満州体験・ソ連軍参戦への想いから「笠戸丸」を登場させたと思えてならない。
さて、ぼくは聞き逃したのだが、上記酒席で、友人のなかにしへのファン心理に対して、同席者から「なかにしには軸が無い」と返されたそうだ。人の「軸」は難しい。
少なくとも、こうは言えないか? 党や組織や団体に属し、あるいは優れていてブレない人物に同伴し、常にその言説に同意し、異議を押し殺し「仁義」を守ることが「軸」なのではない。最近の政治課題で言えば、安倍政権の諸政策への立ち位置は同じでも、例えば選挙への態度は様々だ。堺市長選・都知事選・この秋の「島ぐるみ」の沖縄知事選など・・・。それぞれの選択は、重い判断だと思う。彼我の力関係、今日の課題の優先順位、当面求めるべき陣形に関する苦しい選択だ。もし、「なかにしには軸が無い」と言った同席者が、自らの肉声を語り判断を述べることなく、ある倚りかかりを維持して、自分には「軸」があると語っているのなら、そんなものは「軸」ではない。立場と思考が違っていても、イデオロギー上の「軸」、揺れ動く政治課題上の「軸」を越えた、人生の「軸」を、友人はなかにしの歌詞群の中に見たのである。それは、政治上の都度変容する選択や、やはり部分でしかない政治的主張などより重く、説明しようもない「軸」だとぼくは想う。人の生に「軸」というものがもしあるなら、それは「無い」などと揶揄されても反論できる性質のものではない。思考・生き様・生業・情感・抗いのスタイル・趣向・思想を丸ごと語るか?面倒くさい! 人のことを言うな。皆、己の「軸」を自戒・自省の中で再検討すりゃいいんだ!
翻って、ぼくに、ぼくの「軸」があるだろうか?と思うばかりだ。
ムラと、ある名誉毀損
金時鐘さんの詩と著作の読者/2014年3月5日
いま、ある人の名誉が著しく毀損されている。ある人とは、詩人:金時鐘さんである。
高名な詩人=北川透氏が、金時鐘さんの思想・経歴・立場について、誤認に基づいた内容を自説として公言している。
金時鐘さんの、渡日以来の永い事実経過(金時鐘さんの詩作・エッセイなどの著作・そして思想領域での営みや運動領域での明らか
な立場)を少しでも読めば・知れば(そして、それは誰にもすぐに)解るはずの実像を、不用意にか故意にかは知らないが、誤認し
公の場で発言し、次いでその内容を思潮社が文字にしたのだ。
第3回鮎川信夫賞贈呈式での北川氏のスピーチと、それの『現代詩手帖』(2012年8月号)への掲載だ。この賞には、詩集部門と
詩論集部門があり、金時鐘研究の第一人者でもある細見和之氏の『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』が詩論集部門の最終選考に
残ったが、受賞は、詩集部門では藤井貞和氏の『春楡の木』が、詩論集部門では野村喜和夫氏の『移動と律動と眩暈と』と『萩原
朔太郎』の二著作だった。
(注:ディアスポラとは離散を意味するギリシャ語で、パレスチナ以外の地にすむユダヤ人またはその社会に使われたが、転じて、
原住地を離れ異郷に定住する者などにも使われる。)
北川透氏が細見和之氏の著作への講評の中で、金時鐘さんに触れた部分だ。北川氏にしてみれば、「ああ、そうでしたか」
「どっちでもいいじゃないですか」程度だとしても、金時鐘さんが「思想」と「立場」を賭けて、それこそ「生」の核心に置き、
永い歳月を通して格闘して来た内容に関わる事柄であれば、話は別だ。いい例が思い浮かばないが、脱原発・反原発に時間と労力
を費やし活動して来た者が、「君は反原発を唱えているが、一方で電力会社の原発推進政策の後押しをしているし、して来たじゃ
ないか!」と全く事実に反する(いや全く逆の)非難を受けたような種類の事柄だ。あるいは、労働組合運動の再生・再建に腐心
し、零細企業労働者・下請企業労働者・非正規雇用労働者・コミュニティ・ユニオンの可能性などに言及し活動もする学者が、
「君は基幹産業労働組合礼賛に基づく論陣を張って来たじゃないか」「労働者派遣法を推進したじゃないか」と、全く事実と違う
(全く逆の)論難を受けるようなことだ。一番大切にして来た事柄を、真逆の理解に基づいて非難されるとは・・・、それは放置
できない。何故なら己が生きることの根幹に据えて来たことに触れるからだ、と金時鐘さんは言うだろう。
こういうことだ。北川透氏は、細見和之氏『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』への講評で「金時鐘という詩人をあまりに美化し
すぎて、批判的な問題を突き出すような書き方がなされていない」と述べている。細見和之氏には異論があろうし、美化というの
は全く当たらないと思う。が、ここはいわば「美化と思ったから美化と言った」という類の主観の世界かもしれない。
問題は、北川透氏の金時鐘さんについての言い分だ。(思潮社、『現代詩手帖』2012年8月号)
『金時鐘さんはついこの前まで、北朝鮮を評価していました。』
『細見さんが取り上げている「新潟」という詩集は、社会主義リアリズムの典型を書いた、と本人が言っている詩集です』
『金時鐘さんは』『影響力のある知識人ですね。その場合の思想の責任。これは北朝鮮で抑圧されている人びとに対する責任、
という問題まで含むわけです。』『一人の在日の、非常に困難な思想の歩みを強いられた詩人が、そこで過ちを犯す、矛盾した
ことを書く、十分に説得力のない発言をするということは、ある意味では当然のことです。』
何だ?これは・・・。たぶん、金時鐘さんの詩を読んでいないな、評論・エッセイを読んでいないな、金時鐘さんの思想・経歴・
立ち位置を知らないな、と直感した。何故なら、読んだ上でなお、高名な詩人がこのような理解に至るはずがないと思うからだ。
よく知らず吐いた言葉なら、抗議を受けた時点で調べればいいのだ。そして訂正すればいいのだ。上記の北川透氏の誤読に対して、
細見和之氏が発した反論『私の金時鐘論の余白に』という文章から転記する。
『1955年刊行の第一詩集「地平線」までは、金時鐘さんのなかにまだ朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)への期待ないし「評価」が
あったかもしれない。しかし、それ以降は、とりわけ在日朝鮮人総連合会(総連)からの組織批判にさらされるなかで、北朝鮮
の政治体制にたいしても明確に批判の態度を貫いてきた、というのが私の理解である。でなければ、どうして「帰国事業」に
孤立無援の状態で反対を貫き、日本において宿命の緯度を超えようとする「新潟」のテクストを書き上げる必要があったのか。
さすがに北川さんも半世紀以上も以前のことを「ついこの間」とは言わないだろう。』『いったい誰が「新潟」を読んで「社会
主義リアリズムの典型」に分類しようとするだろうか。少なくとも通念的に理解された「社会主義リアリズムの典型」への徹底
したアンチテーゼと受け止めるべきであって、これは金時鐘さんの表現を理解するうえで基本中の基本だと思う。』全く同感だ。
金時鐘さんの、済州島四・三事件との関係、渡日約65年の経歴を紐解き、詩を読み、エッセイに目を通して浮かび上って来るのは、
社会主義に抱いた原初の私的綱領と、社会主義決定論・官僚的組織運営・金日成神格化との間に横たわる違和・相違、表現や
詩作にいたるまで食い違う流儀と作法、つまるところそれら総体との格闘の姿だった。1970年総連を離れる。だから、時に登場
する北共和国への祈りのような「こうあって欲しい」との言葉は『評価』などではなく、云わば逆説であって無念の再刻印で
あるのだ。詩人なら、その逆説に気付かずにおれようか。その「祈り」の一方で激しい存亡を賭けた論陣を張って来たのだから・・・。
金時鐘さんの已むに已まれぬ真情からの抗議の書簡に対して、北川透氏も思潮社も現在のところ答えていないという(3月3日現在)。
北川透氏と細見和之氏とのその後の遣り取りは、ぼくは知らない。想うのだが、この、北川透氏と出版社の振舞は、「原子力ムラ」
と言われる「ムラ」に似ていないか? 自分たちの世界で評価したり反評価するのは勝手だが、それが外部に晒されることなく、
「ムラ」内部で自己完結する構造の中で繰り返され、「ムラ」以外の者の言い分や資料、ましてや批判評価された者本人の声を
も無視し、調べもせず、だから訂正・謝罪もせず、遣り過ごそうとする。
しかも、問題は、本来そうした苦境と無力に在る者が、ようやく紡ぎだす言葉であるに違いない「詩」、それを扱うはずの詩人と
その出版社によって行われている毀損だということだ。あなたにとって、貴社にとって、「詩」とは一体何なのか?とさえ
問いたい事態だ。北川透氏の言に対して、他の選考委員から異論がないらしいこと、思潮社がそのまま文字化したというその事実。
そこに詩壇という「ムラ」を視るのはぼくだけだろうか?
この高名な詩人と出版社が、訂正と謝罪をまっとうに行うことを願う者です。そうならないなら、金時鐘さんの読者としての
立場から、当然広く社会に事実経緯を示し、「ムラ」の実態を明らかにすべく行動するつもりだ。
「ムラ」に在って、当事者からの切実な抗議に耳を傾けることなく、流れと「ムラ」の空気に同調し『一人の在日の』詩人の苦闘
の足跡を軽んじ詩壇に安住し続けるなら、その姿こそ「凡庸な悪」の類型に在るとは言えないか?
以上、諸兄のご批判ご意見を待つところです。
参考【金時鐘の仕事】
詩集:『新潟』(1970年、構造社) 『猪飼野詩集』(78年、東京新聞出版局)『光州詩片』(83年、福武書店)
『化石の夏』(98年、海風社)『失くした季節』(2010年、藤原書店)
エッセイ集:『さらされるものとさらすものと』(75年、明治図書出版)『クレメンタインの歌』(80年、文和書房)
『「在日」のはざまで』(86年、立風書房。2001年、平凡社ライブラリー)
『草むらの時』(97年、海風社)『わが生と詩』(2004年、岩波書店)
名誉毀損について。ウィキペディアにはこうある。『日本の民法上、名誉毀損は不法行為となり得る。日本の民法は、
不法行為(民法709条)の一類型として、名誉毀損を予定した規定がある(民法710条、723条参照)。
不法行為としての名誉毀損は、人が、品性、徳行、名声、信用その他の人格的価値について社会から受ける
客観的評価(社会的評価)を低下させる行為をいう。
名誉感情(自己の人格的価値について各人が有している主観的な評価)を害されただけでは、名誉毀損とはならない。
例えば、ある表現について本人が憤っているとの事情のみでは、名誉毀損とはならない。ただし、名誉感情を害するような
行為が人格権の侵害に該当する行為であるとして、不法行為が成立する場合はあり得る。』
交遊録: 奥さんを亡くして一年 友の慟哭
堀あや美さんを偲ぶ会に出席して
1月11日土曜日夕刻、昨年1月12日に他界された友人の奥さん「あや美さんを偲ぶ会」に出席した。 学生期、関わった団体は違うが何故か気が合い、ぼくの人生の危機に幾度も力を貸してくれた友人:堀義明のその奥さんだ。出席者は、金城実・服部良一・元草津市長など著名人も多く、学生期の友人は彼が学生期に関わった団体のメンバーで、ぼくだけが「違う団体」系だった。 彼は、学生期にバイト先(確か彼の親の家業の工場だと聞いた)であや美さんと出会い一目惚れ、被差別部落出自の「こいつと生きて行く」と決断選択し、数年後実家の家業を継ぐことや就職(あの凶状持ちに就職と言ってもねぇ)ではなく、決然として彼女の実家地域に移り住む。努力してやがて同盟員として認知され、数年後市会へと打って出る。以来、人権・反差別・沖縄・反戦をメインテーマに議員活動を続け市議会議長まで務めた。特に沖縄への入れ込みは尋常ではなく、地域から何度も大挙して平和行進に参加するなどして、特に金城実氏との親子あるいは兄弟のような濃い付き合いは有名で、酒を含む(いや、それがメインとも言われた)交遊武勇伝の数々はここに書き切れない質と量だ。
あや美さんと彼とは、仲間あるいは同志であったが、それ以上に彼はあや美さんの「大きな息子」だった。 彼があや美さんの実家地域へ移り住んだ前後、過剰に「立派やな」と持ち上げる者、逆に「恋愛から、よそ者の部落入り?どうなん、同情?」と語る者など、ハイエナ・インテリ特有の賛否(?)の「評論」を聞かされもした。 けれど、その後の彼の時間が、そうした生き様に貼り付けられる「レッテル」を超えた深い「真情」に根差した「人生そのもの」だった、そうさせた一番の理由はあや美さんの人柄だ、と思い至る。 彼ら夫婦の闘いの、現場性・清濁混在性・建て前無理性を少しでも知れば、ハイエナは尻尾を巻いて後退るだろう。40数年を共に生きた者の濃い関係は、ハイエナどもが言うような美談でもなければ、順序がどう?でもなければ、何がメイン?でもない。それは、闘いを知る者には解る「すべてが同じことの変容態であり、分かち難い部分」なのだ。丸ごとが、一つのことであった。
彼は、ぼくの危機には必ず馳せ参じてくれた。 70年代末、勤務先職場の暴力的組合つぶしから会社破産・職場バリケード占拠闘争・自主経営の苦境を知れば、学生期の友人の来訪などない中、ひとり駆けつけてくれた。 89年、ぼくの身内が某市議選に立った際、「明日、選挙応援に行くで」と電話があり、楽しみに待っていると、早朝に居住地を出発したに違いない時間に20数人の大部隊でやって来た、それも数日間連続で。選挙のイロハを知らない素人集団に、手取り足取り「地元回り」を伝授した。中河内の〇さん、北河内の〇さんなどと共に、選挙の素人性を諭してくれたが、あや美さんが「最初はこんなもんとちゃうん?」と語られたと聞いた。同盟の運動や彼の選挙や議会活動の酸いも甘いも知っていようあや美さんは、学生か?と思うほどの素人選挙に言いたいことも山ほどお持ちだったと思うが、一切口に出されなかった。身内の選挙結果はもちろん負けではあったが、候補者は多くのことを学び、今日の某活動に生きていると言っている。あや美さんを深く知りたかったと悔しがっている。
彼は、彼女が自身の葬儀の「式の準備をせな」とせわしく動き回る夢を何度も見るという。この一年に、彼は何度慟哭しただろう。 「ああ、あいつはおらんのや。おらんあいつが、あいつ自身の葬式の準備というのは理屈が通らん。そやから、これは夢や」と目が覚めるという。 『生きていてくれ、けれど死んでしまったのだ・・・』、その「ねがい」と「げんじつ」を往還する魂。それは、錯綜混濁して「死者が自身の葬儀の手配をする」という「ねがい」と「げんじつ」を見事に結合させたシーンとなって夢の中で彷徨する。あや美さん、いずれ彼も我々も行くのだ。待っていて下さい。そして、それまでを見守って下さい。 当日配布された式次第に載っているあや美さんの写真には、あや美さんが好んでそこここで書き記した言葉が添えられていた。
『解放は闘いなり 人の世に熱と光のさす日まで』 (ご遺影添付。ご無礼をお赦し下さい)
ほろ酔い交遊録: 聞き流すのも 過剰に関るのも罪なんだ
懇意にしていて、互いに現場推進を巡って相談もし信頼し合って来た職人さん(36歳)が独立すると言う。複数の子を抱え、妻は看護師。その関係で、子を看る時間の確保、早朝からの現場、深夜業・・・その遣り繰りの労苦を見聞きして来た。そうした若い「家庭」の実情に加え人を雇っての起業。その進め方に自分を観るような気分だった。 一般的には無理だ!親方も認めてくれたそうだ。差し障りがあるので職種は秘す。 ぼくの中に、七年前、最初に会った時20代前半に見えたイメージが残っていて、彼は今でも30歳前に見える。独立をどう思うか訊かれたので、いくつか不安材料を言った。 客先は?倉庫は?車は?人を雇うの?資金は?技量への自信は? 懸念材料ばかりを並べ立てた。 話すうちに、会話は「推進」対「阻止」へとエスカレートしてしまい、たぶん傷付けてしまった。
振り返れば、自身30代に、岐路に際して年長者の言を聞き入れず、それこそ女房の反対論も封殺し、結果ことごとく「失敗」して現在(いま)がある。 考えて見れば、彼は36歳。ぼくが、破産法下の職場占拠闘争を開始したのも、その中で労組による起業を果したのも、未熟者が運動体の役を引き受けたのも、いずれも30代だ。 最後に「ぼくに、あなた自身の人生が失敗だったと言ってるんですか?」と返された。
もっと遡れば、学生期、まわり道をして大学へ来て、歳だけ食っていて理論も経験もない無内容を悟られまいと、ガムシャラに動き、客観的には人が避ける「ヤバイ」事象に進んでのめり込んで、「穴埋め」したのも事実だ。そう、無理していたのだ。そのことへの自省はあるが、後悔は無い。
若い人の出発に際して、懸念材料や不備をシッカリ伝え、総論としては応援して送り出す。 これ、至難の業だ。が、応援(何もできないが)はしたい。 起業による負担増は、妻の一層の協力が求められるが、看護師という職種の勤務状況の変化は?と話を進められぬまま彼は会話を打ち切った。 36歳の成人を若く観てしまうぼくも、我が息子より若く見える彼も、罪(?)と言えるか?
いつか、彼の選択が実を結び、ワシの感情移入の愚を含めて笑って話せたらいいのだが・・・。
交遊通信: 『熊取の学者たち~学問のあり方を問う~』
11月22日 熊取六人衆講演会in京都大学
『熊取の学者たち~学問のあり方を問う~』
今日は、40数年ぶりに学生をした。 京都大学:同学会(学生組織)の「熊取六人衆講演会実行委員会」主催の「学問のあり方を問う」を聴講して来た。 京都百万遍の京大キャンパスにいい思い出など有りはしない。が、たぶん、1969年2月13日深夜、某事件で負傷した左足の古傷の傷みより、その傷を負わせた人々と手を繋ぐことへの想いの方が強い。時代は「戦前」であり、「治安維持法」直前に在るのだ。
海老沢徹氏、小林圭二氏、瀬尾健氏(94年没)、川野眞冶氏、小出裕章氏(実験所留守番役で本日欠席)、今中哲二氏。 熊取六人衆と呼ばれている。 アカデミズムの内側に在り、しかも原子炉実験所に居て、政府と財界と大学の要請に合わせるのではなく、「学問とは何か?」と問い続け反原発を訴え続けた六人。老境に差し掛かり発する言葉は重く響き、間違いなく250人の聴衆に届いていた。 ぼくも、幾人かの師・先輩・友人が、老体に鞭打ち、「言い続けた」ことを今なお持続し発展させようとしている姿を見聞きしている。 自然科学・社会科学・人文科学を貫いて在る「学問」の神髄は、金になる「学問」、権力や財界の歴史観・価値観・社会観に沿う「御用学者」の「学問」に在るのではなく、「学」を「問」う孤塁の側にこそあるのだと語る講演者の、その精神に宿る本来の「学」に圧倒される。 「学」の府の姿勢を、「学」の意味を、そして「学」を行う自身を、「問」う。それが「学問」だと聞こえた。
あゝ、「学問」してこなかったなあ~。 大きな階段教室に座り、映画『ハンナ・アーレント』を思い浮かべていた。 今日ぼくは、アーレント教授の講義シーンで、彼女の発言に集中する学生だった。
交遊録: 有朋自遠方來。 『祭りの心は永遠だ!』
「朋、遠方より来たる有り」 (多数説:「朋有り、遠方より来たる」よりこの読下しの方が好きだ。)
神戸に住む友人が、息子さんの結婚で上京した。恵比寿ガーデン・プレイスの工事現場に居て携帯電話が鳴った。 夜現場終了後に会おうや、となった。10年ぶりだ。 昔、ぼくたちのバリケード占拠中の社屋へ来て、「ここは梁山泊だ!」(何たる誤認)と叫び、労組自主経営企業に工事発注し続けた変わり者だ。元々、ぼくらが勤務していた会社の顧客企業の部長で、争議に際し様子を見に来たのだった。 彼は、勤務会社を説得し、会社偽装破産後に職場をバリケード占拠して労組自主経営企業をおっ立てて悪戦の中に居たぼくらに10年以上に亘って発注し続けてくれた。 あれから、永く短い年月を経て、ぼくたちの会社は破産し、今ぼくは東京~大阪を行ったり来たりする出稼ぎ人。彼は、その後個人で企画・デザインの会社をやっている。 聞きつけて、上京に際して連絡をくれたわけだ。学生運動や労働運動とは無縁の人だ。それだけに有難く得難いのだ。 彼は、約束の場に飛び切りの美人を伴って現れた。 ドキドキしてその「関係」を訊ねた。「君が抱いた女性だよ」 ん?
ぼくが?抱いた? ぼくが抱いたのは女房だけ(?)のはずだ。 女性は、彼のお嬢さんだった。 昔、乳幼児の彼女を抱いてあやしたことがある。彼女は32歳。東京で働いている。 話は弾み、予想通り映画の話で盛り上がった。彼は『七人の侍』の全セリフを諳んじている折り紙付きの映画マニア。 お嬢さんは『去年マリエンバートで』が大好きな映画だと言いう。アカン、こりゃ本格派だ。 「昔の、しかも難しい映画にピンと来る貴女の感受性に乾杯!」と言ってビールをグビッ。
研ちゃん。互いに研ちゃん・康麿と呼び合った時間は「祭り」やったね。 過去形ではなく、「祭り」を生きようぞ! 「祭りの心」は永遠だぁ! 「祭りの心」・・・・。厚いのが腹の肉、身に付かないのが立身出世、短いのが身長、重いのが体重、遅いのが歩行、早いのが諦め、緩いのが覚悟、 解からないのが女心、もっと解からないのが男ごころ、そしてそれでも手放せないのが「祭りの心」やもんなぁ。 研ちゃん、お嬢さんにお伝え下さい。「映画や、美味いもん+ビールならいつでも付き合うよ」と。 このブログを読んだ女房に、きっと「シッカリ、いい小父さんを演じ切るんやで」と言わせるだろうほどの、 落ち着いていて、しかもピュアなお嬢さんの圧倒的な魅力のファンになりました。