Archive for the ‘ほろ酔い・交遊 通信録’ Category
歌「100語検索」 ③<夜>
夜
20年前…。 酒が進み酔うと必ず浜田省吾の『もうひとつの土曜日』を歌い、最後には泣き崩れるSという後輩がいた。 10歳近く年長の、夫と別れ高校生の子も居る女性への痛々しい恋だった。周りは「実らぬ恋に、恋してるんだ」とあまり本気にしなかったが、不思議にもぼくと女房は、その女性と後輩Sのファンでもあったので(女房など青年啄木に接する晶子気分ではなかったか?と思う)、痛々しい恋に付き合うこととなる。その恋は、その女性がある男性と一緒になることで、「予定調和」的(?)に敗れるのだが、浜田の透き通った歌唱を聞く度に後輩Sの原形のような恋の気分が押し寄せて来る。人の恋路に声援を送ることなど、この時以外、後にも先にもないことだった。 恋・・・、人は何故あんなにも一途になれるのだろう。 度し難い「視野狭窄」・我への没入、究極の身勝手・「私利私欲」が、そのまま比類なき「無私忘我」・奉仕でもあるという逆説的時間。 不思議な事態だ。詩人の営みの「ふるさと」、遠い原初の出生地もこの界隈ではないだろうか?
本日のお題は「夜」。 それぞれの「夜」は、もちろん後輩Sの「恋」よりは人生の蹉跌にまみれている。 50代半ばに差し掛かった後輩Sの「夜」はいかなる相貌をしていることやら・・・。 久しく会っていない。
『さすらい』 http://www.youtube.com/watch?v=826uPeLW-4A 小林旭 『真夜中のギター』 http://www.youtube.com/watch?v=V74KZEf2alo&feature=related 千賀かおる 『見上げてごらん夜の星を』 http://www.youtube.com/watch?v=eLmhRMl4kJk 坂本九 『夜明けの歌』 http://www.youtube.com/watch?v=n2p03Tx9EPs 岸洋子 『夜霧のブルース』 http://www.youtube.com/watch?v=pENmIDtJ4Do&feature=related ディック・ミネ 『夜霧の慕情』 http://www.youtube.com/watch?v=7oC5Gbac3eU 石原裕次郎 『夜霧よ今夜もありがとう』 http://www.youtube.com/watch?v=3uctHkc3It 石原裕次郎 『15の夜』 http://www.youtube.com/watch?v=AiD78w0AqeQ 尾崎豊 『イヨマンテの夜』 http://www.youtube.com/watch?v=Q2odR2ccZFs 伊藤久男 『夜風の中から』 http://www.youtube.com/watch?v=hZXDHCVmc3Q 中島みゆき 『もうひとつの土曜日』 http://www.youtube.com/watch?v=XZWuTd3ItBo&feature=related 浜田省吾 『君が、嘘を、ついた』 http://www.youtube.com/watch?v=v5rT3axq1EY&feature=related オフコース 『夢は夜ひらく』 http://www.youtube.com/watch?v=sngqSw63eE4&feature=related 藤圭子 『赤坂の夜は更けて』 http://www.youtube.com/watch?v=4NzyRn8U8z8 西田佐知子 『長い夜』 http://www.youtube.com/watch?v=f8GDv9iYjwM 松山千春 『リバーサイドホテル』 http://www.youtube.com/watch?v=E7TCf1csQeQ 井上陽水 『夢一夜』 http://www.youtube.com/watch?v=tnTqewSREv4 南こうせつ 『夜明けのスキャット』 http://www.youtube.com/watch?v=gaLFGctaKyM 由紀さおり 『雨上がりの夜空に』 http://www.youtube.com/watch?v=oIBBbprepQg 忌野清志郎 『抱きしめたい』 http://www.youtube.com/watch?v=8CHvfSHogBk Mr.Children 『アザミ嬢のララバイ』 http://www.youtube.com/watch?v=aZUp8MUmM-g&feature=related 中島みゆき
歌「100語」検索。 ②<空>
空
先週、取引先のある女性社員が退社した。彼女は、ぼくの社への仕事発注の窓口の一人であり、何度か仕事をいただき、現場の労苦を共有した間柄だ。永年考えて来た「やりたいこと」に転進するそうだ。 是非送別会に出席したかったのだが、現場事情で果たせなかった。 伝え聞くところでは、彼女は送別会の最後の挨拶で 「空のようでありたいです。だって、歌の歌詞でも空だけは特別でしょ、いつも人間の夢や希望を表している。そんな言葉は他にありません」 と語り、続けて、号泣して仲間への感謝を述べたそうだ。実際、その会社は「仲間」意識「共助」風土が生きている今どき稀な会社なのだと思う。
彼女には特別の思い出がある、2年前のことだ・・・。当時、確か27歳だと聞いた記憶がある。 ぼくが「大人を示そう」と柄にもなく無理をして、我が半生(おっと4/5生だが)でたぶん唯一の、「大見得」を切って演じた「品川ジジイ:奮闘キザ篇」の一幕だ。 施工引渡しの日、お施主様・元請担当者である彼女・総合下請会社の管理者ぼく・現場施工の各工事者、皆が笑顔で「出来映え」に納得して談笑していた。と、彼女が施主から別室へ呼ばれた。嫌な予感・・・。 数分後、彼女が沈んだ表情で出て来た。打合せや施工に不備があったのだろうか、別室で施主側担当者から詰め寄られたようだ。 やがて彼女はこちらへやって来て、泣き顔で言う。 「品川宿さん、すみません。出直しになりますけどやって下さい。図面確定後に、ドアがギャラリ付き(通気の為)に変更になっていたのです。それを私が伝え忘れてました、ゴメンナサイ。」 口頭約束は、図面化または書類化しておかないとこうなる。その穴埋めは安くはない。小さく短工期の現場ほど、それが抜けてこの種の失敗が起きやすいのだ。かく言うぼくにもこの種の失敗は山とある。今回、取り返しの付かない重大ミスではなかったのが不幸中の幸い。
3日後にドアを実費の半額(つまり当方も負担)で取り替えることとし、帰路、駅のガード下の居酒屋での「ちょっと一杯」と相成った。
「私、この仕事に向いてないみたい。キャリアもないし、思い違いや失敗ばっかり。品川宿さんにも迷惑かけてしまい申し訳ありません。仕事の成約に汲々として、押さえるべきいろんなことがしょっちゅう抜けてしまうんです。 ワタシ、最低!」。 ここで、品川ジジイが、下心ゆえに(でもなかったのだと信じて欲しいが)キザな迷セリフで「人生を語る」(?)わけだ。 品川ジジイは、労組運営・労組による会社経営ではついぞ出来はしなかった姿勢、その欠落・空白を埋めるように、歯の浮く科白を吐くのだった。 「思い違いや失敗の数こそが、(現場施工の)この仕事の蓄積、つまりキャリアです。もし、ぼくに、あなたより多く持っているものがあるとすれば、それは思い違いと失敗の数だけ。心配ご無用。あなたは今日、確実にひとつのキャリアを積んだのです。」(臭)。{けど、本心ですよ} 真っ赤になった女性社員の目は潤んでいた。 (品川ジジイは、一度やってみたかった、篠原涼子登場のオリックスCMの上司的役回りを、ぎこちなくとも精一杯果したという訳だ。)
一年後、彼女は連続して女性トップの成績を上げ、部下を三人持つ立場になって行く。その彼女が先週退社した。よほどの「やりたい」ことがあるのだろう。 それとも・・・。 が、彼女ならきっと乗り越えて行くだろう。そのうち、ゆっくり呑みたいものだ。 ***************************************************************************************************
本日のお題は「空」。17曲にもなってしまったが、確かに「空」は特別です。
『悲しくてやりきれない』 http://www.youtube.com/watch?v=8JG0S9v2Yg4 おおたか静流 『青空』 http://www.youtube.com/watch?v=yXrj2DyJhlQ ザ・ブルー・ハーツ 『雨が空を捨てる日は』 http://www.youtube.com/watch?v=5YwbH38eh8g 中島みゆき 『空に太陽がある限り』 http://www.youtube.com/watch?v=Z2B1tVf_5fA にしきのあきら 『紅の翼』 http://www.youtube.com/watch?v=hBB9fNzmCy4 石原裕次郎 『夢をあきらめないで』 http://www.youtube.com/watch?v=PW_kP5uwp7A 岡村孝子 『熱き心に』 http://www.youtube.com/watch?v=_rxCSH43QT8&feature=related 小林旭 『異邦人』 http://www.youtube.com/watch?v=cIsCifnFy9Y 久保田早紀 『島人ぬ宝』 http://www.youtube.com/watch?v=h9Lg3dHFfsM BEGIN 『学園広場』 http://www.youtube.com/watch?v=ap-UabxvIR0 舟木一夫 『赤い風船』 http://www.youtube.com/watch?v=VDpExFJNVRI 加藤登紀子 『星空のディスタンス』 http://www.youtube.com/watch?v=3ZaRYf2ebyA アルフィー 『星屑のステージ』 http://www.youtube.com/watch?v=3E0uI2WZZTo チェッカーズ 『翼を下さい』 http://www.youtube.com/watch?v=34JsHTl9oFU&feature=related 赤い鳥 『空も飛べるはず』 http://www.youtube.com/watch?v=h-kQw4JqCHE スピッツ 『この空を飛べたら』 http://www.youtube.com/watch?v=Gyh4Q7y7YME 加藤登紀子・中島みゆき 『芭蕉布』 http://www.youtube.com/watch?v=StMZxCpre-k 夏川りみ *添付画像は、1956年:フランス映画 アルベール・ラモリス『赤い風船』より
歌「100語」検索。 ①<河・川>
川・河
Kと呑んだ夜、隣の席の男が、カラオケでたまたまその歌を歌い始めて、 『深夜放送から流れるこの歌の歌詞に、ある川の名があったんや』とKの話は始まった。 『それは何度か聴いていた歌だったが、広く知られるようになって日も浅く、俺は川の名前までは知らなかった。その時、彼女はその場の危機をかわすように、「あっ、○○(街の名)だ」と言ってラジオに耳を傾けた。その10数年前、彼女が住んでいた街の名を口にしたんや。会話は途切れ、俺の動きが制された。 女生徒だった彼女の日々を想像して、俺はふと我に返った。 翌朝、俺は大雨の中を猛スピードで帰宅したのだが、約束の時間を20分も過ぎていて、妻と二人の子はもう保育所へ出かけてしまっていた。 その大雨の中、保育所へ急ぐ途中に横転して子二人と共にずぶ濡れになったと妻から聞かされた。やがて放り出された。別れた女房は同じ職場に働き続け、子二人はとっくに独立して、もう孫もいるよ。』 『この歌を聴くと、今も、その街の名・その川が流れる街の女生徒だった時期の想像の彼女・大雨・ギリギリまで待っていただろう妻・ずぶ濡れた妻と二人の子の姿が浮かぶんや。大事故にならなかったのは何よりだが、この歌、どうもいけません』 とKは苦笑した。30年は永いのか短いのか・・・。
ぼくと同い歳のK。永い独り暮らしの不自由に、何故か次々相手を見つけ、「楽しんでるよ」と言い続けた虚勢にも、ようやく陰りが見える。 永い付き合いで、その日初めてこの話を聞かされたということが、何よりもそれを雄弁に物語っている。 主観的には、別れた妻とも、二人の子とも、その川が流れる街の元女生徒だった去ってしまった彼女とも、「切れて」「繋がる」「生」を生きたいと生きたKの30年だったのだろうとは思うが、相手からはとうに切られているのだ。 Kの方では身勝手にも流れることなく、なお澱んで留まっているとでも言うのか? 全ては、川のように流れ行くばかりではないと言うのか?
『河は呼んでる』 http://www.youtube.com/watch?v=h0qg8-Sp3X8 (同名フランス映画主題歌) 『イムジン河』 http://www.youtube.com/watch?v=GOFFjpyVmvI キム・ヨンジャ 『川は流れる』 http://www.youtube.com/watch?v=D6xqNUHpW34&feature=related 仲曽根美樹 『北上夜曲』 http://www.youtube.com/watch?v=cpOunPFAMsk マヒナスターズ 『船頭小唄』 http://www.youtube.com/watch?v=CVwG3MAS8CE 森繁久弥 『神田川』 http://www.youtube.com/watch?v=jNxm4euZ52o かぐや姫 『千曲川』 http://www.youtube.com/watch?v=j8G1lhBOxBM 五木ひろし 『青葉城恋歌』 http://www.youtube.com/watch?v=69cGLlcfH3U&feature=related 佐藤宗幸 『雪国の町』 http://www.youtube.com/watch?v=AnGy9PZIoII 石原裕次郎 『川の流れのように』 http://www.youtube.com/watch?v=3wmIrAFKLs0 美空ひばり 『織江の歌』 http://www.youtube.com/watch?v=lsNTZ3SWqdc 山崎ハコ 『黒の舟唄』 http://www.youtube.com/watch?v=DXhdgOI_tXk 野坂昭如 『すべての人の心に花を』 http://www.youtube.com/watch?v=FPGMsifqRgg&feature=relate おおたか静流
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」方丈記
先輩・友・義兄の 「生還と闘い」
先輩・友・義兄の「生還と闘い」。 某一泊旅行
奇跡的に生還し、現在は術後の「闘い」に在る三人の人を見舞い、その「生」への強い意志に出遭い逆に励まされたこの一週間だった。 それぞれ、心筋症・脳梗塞・咽頭癌である。
W氏:( http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re37.html#37-2 ) 永く心臓疾患を抱えておられたのだが、3月頃から体調を崩され、心筋症の再発・心不全で6月初めに入院。「植え込み式除細動器」(http://www.medical-aid.co.jp/topics/topics08.html)という装置を埋め込む大手術を乗り越えられ6月末退院された。 ぼくらの労働争議(76~)、ぼくらの自主経営(77~98)、身内の某市議選立候補(90)、ぼくの某「駄小説」執筆時の助言・資料提供(06)・・・など 節目節目でお世話になりご指導ご助言いただいた大先輩だ。退院直後でもあるので短時間だけご自宅にお伺いした。 以前から聞き及んでいたライフワークを書き上げると熱く語って下さった。それは、ご郷里=小藩「宇和島藩」の「明治維新直後の農民一揆」の顛末の掘り起こしだ。要求をほぼ認めさせた闘い、民の自営・自治・共助のコムミューン的思考と蜂起、民の側に立った幾人かの富農・庄屋、調停に力を注いだ初期自由民権派インテリ層、それらの陣形、新政府・新知事の協定破棄と弾圧、その散逸し埋もれた歴史の復権を果たし、民の「党ならざるものによる、大規模叛乱と自治」の可能性と教訓を読み解き、世に問う…。 NHK「龍馬」や、司馬遼太郎的「明治礼賛」へのアンチの体系=総合的な異論だ。 これをまとめ上げたいという「ライフワーク」を、是非モノして下さいと願わずにはおれないのだ。 (W氏、75歳)
F氏: 一年半程前、いわゆる脳梗塞で倒れる。自覚症状があり病院へ行った際に、不幸中の幸い、その廊下で…とのこと。12日間意識不明。 http://square.umin.ac.jp/neuroinf/patient/105.html 右半身が機能不全。歩行や右手機能や会話や味覚を巡る、リハビリに奮闘。驚異の回復を遂げている。 学生期の云わば先輩なのだが、伝え聞くところによれば、ある「事件」の「首謀者(役?)」を引受け、事件の構造と自身の係わり以上の「罰」を科せられ長期間下獄したそうだ。ぼくは、学生期以来深い交流があり、永い悪友・呑み友達でもある。 独力歩行での近隣への買物を当面の目標に、「必ず復帰する」と強く宣言していた。また一緒に呑みたい。 (F氏、64歳)
女房の実兄: 数年前、脈瘤除去の血管内手術を受け、ステントとか言う、血管を拡げるステンレスのメッシュが埋め込まれている(http://www.lab.toho-u.ac.jp/med/int3rd/device/stent.html)。 復帰し、元気に働いていたのだが、今春、咽頭癌を発見。 扁桃腺が腫れ気味…程度と思っていたところ、咽頭癌の第四段階。5月、14時間に及ぶ大手術から生還した。入院中だが、土・日に帰宅が許されている。女房の郷里、山陰の地方都市を訪ねた。 首の横から喉付近に大きな切開跡が痛々しい。下手をすれば頚動脈を切ってしまうのでは…と思わせる微妙な位置だ。舌切断の必要があり、喪った舌の一部に腹の一部を移植したという。元気に会話する姿に多少ホッとする。ぼくは、「素人経営」の破綻前後に「妹の為に」と援助してもらったまま、何も返せていない愚弟だ。しばらく、放射線治療が続くとのこと。快気を希う! 40年前、初対面、*判中の青臭く頭デッカチな男(過*派「随伴・金魚の糞」学生の、そのまたクズレ)と結婚する妹を案じてか 「妹を泣かしたらぶっ殺すからな!」と凄んで吠えた場面、その真剣な表情は忘れられない。 (義兄、65歳)
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帰路、還暦祝いにと、娘・息子が女房に贈ってくれた(当然ながら、三年前ぼくの時には無かったのだが)「三朝温泉:料理旅館一泊の旅」で、 女房はようやく気を取り直して子ども達への感謝に心を切り替えたようだった。 お世話になった人々へのお見舞いと激励・「ライフワーク」への声援・還暦・老いるということ、それらはどこかでひとつのことかも…。 (「年をとる、それは 己が青春を 歳月の中で組織することだ」:ポール・エリュアール) 三朝温泉老舗旅館のとびきり美味い料理と築90年の木造旅館(文化財だそうだ)の趣が、そう思わせてくれた。 お三方の生還と闘いを想い、復帰を希いながら、800キロひたすら運転手を果たした一週間だった。
通信録: 送られて来た「宣言文」に、 当方は「・・・・・・」
知人からメールが舞い込んだ。 『本日、6月23日慰霊の日に「琉球自治共和国連邦独立宣言」が発せられました。』 とだけ書かれていて、「宣言文」が添付されている。 「宣言文」そのものと、半端な添え書きなど書けなかったのだろう送信者の気持ちが ジワリ 押し寄せてくる。
(画像はクリックで拡大可)**************************************************************************************************************************
琉球自治共和国連邦 独立宣言
2010年、われわれは「琉球自治共和国連邦」として独立を宣言する。現在、日本国土の0.6%しかない沖縄県は米軍基地の74%を押し付けられている。これは明らかな差別である。2009年に民主党党首・鳩山由紀夫氏は「最低でも県外」に基地を移設すると琉球人の前で約束した。政権交代して日本国総理大臣になったが、その約束は本年5月の日米合意で、紙屑のように破り捨てられ、辺野古への新基地建設が決められた。さらに琉球文化圏の徳之島に米軍訓練を移動しようとしている。日本政府は、琉球弧全体を米国に生贄の羊として差し出した。日本政府は自国民である琉球人の生命や平和な生活を切り捨て、米国との同盟関係を選んだのだ。
琉球人は1972年の祖国復帰前から基地の撤去を叫び続けてきたが、今なお米軍基地は琉球人の眼前にある。基地があることによる事件・事故は止むことがない。日本国民にとって米軍の基地問題とは何か?琉球人を犠牲にして、すべての日本人は「日本国の平和と繁栄」を正当化できるのか?われわれの意思や民族としての生きる権利を無視して米軍基地を押し付けることはできない。いまだに米国から自立することができない日本国の配下にあるわれわれ琉球人は、絶えず戦争の脅威におびえ続け、平和に暮らすことができない。
琉球人はいま、日本国から独立を宣言する。奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島からなる琉球弧の島々は各々が対等な立場で自治共和国連邦を構成する。琉球は三山時代(14C半ば~15C初期)を経て、1429年に琉球王国として統一された。その後1609年、薩摩藩は琉球王国に侵略し、奄美諸島を直轄領とし、琉球王国を間接支配下に置いた。1850年代半ばに琉球王国は米・蘭・仏と修交条約を結んだ。1872年に日本国は琉球王国を一方的に自国の「琉球藩」と位置づけ、自らの命令に従わなかったという理由で1879年、「琉球処分」を行い、「琉球王国」を日本国に併合した。その後、琉球王国の支配者たちは清国に亡命して独立闘争を展開した。日本国に属した期間は1879年から1945年、1972年から2010年までのわずか104年間にすぎない。琉球が独立国であった期間の方がはるかに長いのである。
太平洋の小さな島嶼国をみると、わずか数万の人口にすぎない島々が独立し国連に加盟している。これらの島嶼国は、民族の自立と自存を守るために、一人ひとりの島民が「自治的自覚」を持って独立の道を選んだのである。国際法でも「人民の自己決定権」が保障されている。琉球も日本国から独立できるのは言うまでもない。
これからも日本政府は、「振興開発」という名目で琉球人を金(カネ)で支配し、辺野古をはじめとする基地建設を進めていくだろう。長い歴史と文化、そして豊かな自然を有するわが琉球弧は、民族としての誇り、平和な生活、豊かで美しい自然をカネで売り渡すことは決してしない。平和運動の大先達・阿波根昌鴻は「土地は万年、金は一年」と叫び、米軍と闘った。われわれ琉球人は自らの土地をこれ以上、米軍基地として使わせないために、日本国から独立することを宣言する。そして独立とともに米軍基地を日本国にお返しする。
2010年6月23日 慰霊の日に 呼びかけ人 松島 泰勝 石垣 金星
交遊通信録&歌遊泳: M氏の 『戦争は知らない』、五月の工場
音信不通の先輩Mさん。
今日、東京は2時を過ぎても快晴でした。五月の蒼い空を見ると、あなたを思い出します。どこでどうしています?
70年が明けて月が変る頃、ぼくは行き場も無く、後年妻となる女性の狭い下宿屋に転がり込んでいた。
ある日、ぼくの部屋にも来たことなどない先輩Mが唐突に訪ねて来た。ひと時雑談を終えると、
先輩Mは、ぼくに「今後は、お前とは会えないと思う。最後なので歌を唄う」と言って、『戦争は知らない』を唄い始めた。
聞いたことはあったが、通しで聞くのは初めてだった。突然のことであっけにとられたのだが、意外に上手かった。
誰の歌かと訊くと、カルメン・マキだと言う。Mは四番まであるその歌詞を、最後まできちんと唄ったと思う。
ぼくたちは大きく拍手し、Mは黒い顔を赤く染めて照れていた。部屋の主はお茶の一杯も出したのだったろうか・・・。
当時、MはK大「*共*」の重要な役をしていて学内「有名人」だったのだが、最後に苦い表情で改まってこう言った。
「俺、卒業するんや。苦労して大学へ行かせてくれたお袋、年老いたお袋に、卒業証書見せんならんし・・・。お前なら解ってくれるやろ。」と。
誰彼が「卒業試験粉砕」などと言っていたのだったか、あるいはK大「*共*」の要求や闘争が店晒しのさ中に卒業とは何事か、
それも重要な役のMが!との学内「世論」があったのだろうか? 「お前なら」と言われては困ったが、
ぼくに「解ってくれる」雰囲気が漂っていたのだろうか・・・? ぼくにはMの選択を非難する気は起こらなかった。大学というものにも、
卒業ということにも、何らの執着もこだわりも持たなかった当時のぼくは、ただ「ふ~ん、そうなのか」と思うばかりだった。
それはそれでいいじゃないかと受け止めたと思う。 いや、それ以前に進退極まった自身のことで精一杯だった。
だが、こだわりや執着があるのに、苦渋の果てに卒業を拒否した人々にとって、それは許せないことだったようだ。
その日その部屋その場面の記憶は鮮明なのだが、Mが仲間に、とりわけぼくに、何故、何を言いに来たのか、よく分からなかった。
やがて大学を除籍となったぼくは、後年、勤務先で労組を結成し争議となり、77年2月、組合つぶしの破産に直面する。
風の便りにMが南大阪の工場で「破産法」下の職場占拠闘争を闘っていると聞き、晴れわたる1977年の五月、破産争議のイロハを聞こうとMを訪ねた。
職場占拠の防衛戦に必要な各種法的対策、自主経営企業設立の方法、破産法闘争のありとあらゆる智恵を授かった。今も感謝している。
そこで初めて、Mが大学卒業を高卒と「詐称」し、いわば目的意識的に「労働戦線」を選択して南の工場に就職したという経歴を知った。
そのことを特段立派だと思ったのではない。その時の心は、卒業試験を受けるというMの選択を追認した心と、ぼくの中で繋がっている。
それらはいずれも、明治以来、(亜)インテリ層(?)青年が直面した、「現代」に普遍的な岐路であり選択だったと言えなくはない。
人の、たぶん切実であろう選択にはそれ相応の重量があり、その重量を背負う、あるいは背負い切れない、それは当人だけの荷物だ。
Mの卒業を非難した人の多くがやがて卒業し、学生当時の言葉と行動からも「卒業」して行ったことも事実だ。
けれど、人々が、その卒業が生きて行く為に必要な条件の一つであるような現実を生きながら、なお「卒業」しない事柄を抱えて生きる限り、
そしてぼくらが、何事からも「卒業」しないような「愚かさ」からは「卒業」すべきだと痛く自戒する限り、そこに軽重は無く、
それぞれの数十年はいわば「等価」なのだ。ぼくとMなら、自主経営企業をそれぞれの理由で破綻(ぼくの場合は破産)させたのだ。
カルメン・マキ『戦争は知らない』を聞けば下宿屋の光景が浮かび、五月の青空を見れば油にまみれたその工場内部を思い出す 。
その両方に、その日のMが居る。
両方を繋げば、「学内闘争は気にはなるし、立場もよく承知している。が、自分は卒業もして労働戦線の生産現場へ行く」そう言いに来たのだと、
「欺瞞的」だと受け取られまいとしてか「高卒で行くのだ」とは言わなかったのだと、ようやく理解できる。
もっとも、「労働戦線」という言い回しは、当時も今も好きではないのだが・・・。
Mさん、どうしてます? 芋焼酎呑みましょ。何がどうであれ、会社破産後の自主経営を、
破綻させてしまった者同士として・・・。
今度はぼくが言いましょう、「あなたなら解ってくれるやろ」と。