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交遊通信録: 民族・国籍・社会・言語・・・

11月6日(土)、NHKのドラマスペシャル                                                                             『大阪ラブ&ソウルーこの国で生きること~』(http://www.nhk.or.jp/dodra/lovesoul/)を観た。                                                                                                                                         当ブログ前回記事の課題への、「袋小路」の袋を解くような、展望と可能性を示してくれた内容だった。                                                                                            副題は-「在日コリアン」の青年と「ミャンマー難民」の女性が大阪で恋に落ちた-                                                                             紹介コピーを転記する。                                                                                                日本有数のコリアンタウンを抱える大阪と、韓国・済州島を舞台に、恋人たちの「ラブ(愛)」と、                                                                                                     在日コリアンの「ソウル(魂)」が激しくぶつかり合う。在日外国人との「多文化共生」を模索する日本の現状をあぶり出し、                                                                                                                      「国籍とは何か…?」「生きていく場所とは何か…?」を問う、大阪発ならではの愛と絆の物語。                                                                                   【ストーリー】                                                                                               大阪・生野区生まれの在日コリアン三世の金田哲浩(永山絢斗)は大学の法学部4年生22歳。母国語は全く話せないし読めない。日本社会で育った三世だ。二世の父・暉雄(岸部一徳)は苦労の末、鶴橋で焼肉店を成功させているが、そんな父の「弁護士になって欲しい」との期待に反発し、哲浩はバンドでブルースハープの演奏に明け暮れている。                                                                                                2010年5月、父の還暦祝いパーティー席上で、哲浩は突然「結婚する」と宣言する。寝耳に水の暉雄は激怒し大喧嘩が始まる。もめる父子に、一世である祖母・順慈(新屋英子)が一族の秘密を明かす。実は、韓国・済州島でおきた歴史的事件「四・三事件」(1948年)を逃れて日本に来たのだ。「国家に背いた」金田家は,永く軍事独裁国家だった祖国、帰れば重罰が待っている祖国に、一度も帰ることがなかったのだと。                                                                             おそらく、事件に関与した者の親族には受難もあったろうし、「迷惑」でもあっただろう。「帰れない」まま60年が過ぎた。                                                                                                           順慈は「結婚を決めるのはお前の勝手やけど、その前に一度祖国を見てきたらええ」「自分が何者なのかを知る旅をして来い」と哲浩を諭す。                                                                                                哲浩の恋人ネイチーティン(ダバンサイヘイン)は、祖国ミャンマーで民主化運動に身を投じ、24歳のとき日本に逃亡。今は難民認定申請中の身の29歳だ。バイト先の居酒屋で会ってすぐに、哲浩は彼女の純粋な魂に魅かれたのだ。だが、「家族に祝ってもらえへん結婚は結婚とは言えへん」と、プロポーズ以来ネイチーの態度はどこかよそよそしい。難民認定がなかなか下りない状況の中で、日本を離れなければならない可能性もあって、ネイチーは結婚に踏み切れないでいたのだ。                                                                                            そんな彼女の苦しい気持ちをどうすることもできないまま、哲浩の渡韓の日は迫っていた。************************************************************************************************************************

 哲浩が済州島への旅に行っている間に、家族はネイチーティンに会いに行くのだ。祖母・順慈(新屋英子)が                                                                                                                                                                                                                               ゆえあって国・家族・社会を逃れた者の肉声として「おお、国に帰りたいやろ。お母さんに会いたいやろう」と、泣いて彼女を抱きしめるシーンがある。                                                                                                                      この祖母の、痛切の体験に裏打ちされた慈愛と結婚を認めようとする思想が、作者のひとつの確信だ。                                                                                    我らアイデンティティの溶解を生きる者からは決して出ない言葉と思想=「帰りたいやろう」。国籍と民族を越えた結婚への了解・・・=が、                                                                                                          民族を損なわれ故国に帰れず民族的を含むアイデンティティに生きようとする者からこそ出るのだという逆説は重い。作者の言い分が届いて来る。                                                                                   もうひとつの確信が、下記のことだと思う。                                                                                迷った末、政治難民認定してくれそうなカナダ行きを選択するネイチーティン。                                                                                                                                済州島への旅で何かを掴んだ哲浩は、共にカナダへ行くという決断をする。                                                                                                 国・国籍・民族・生きてゆく場所……。                                                                                             金時鐘が言う「切れて」「繋がる」・「在日の実存」、それは偏狭な民族主義でも、アイデンティティ溶解の勧めでもない。                                                                                                  

当ブログ、前回記事にある「袋小路」へのひとつの応答だと思って、各種教えられ知りたいと思った。                                                                                                      カナダが行なえることを、日本という国・社会が行なうこと、そこが一歩では・・・?                                                                                『アイデンティティとはたぶん、あらゆる属性を取っ払った「非帰属」の孤立、格闘の果てに誠実に発見した内なる「他者」、                                                                                     そこに立って渇望する「連帯」、そこでしか構想できないものだと思う』                                                                                                            (『祭りの海峡』:P128 -2006年、アットワークス- http://www.atworx.co.jp/works/pub/19.html )
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           *************************************************************************************************************************

[作] 林海象(映画監督・脚本家)                                                                                                                                 1957年、京都府生まれ。86年自ら製作・監督・脚本を手がけた映画「夢みるように眠りたい」でデビューし毎日映画コンクール・スポニチグランプリ新人賞などを受賞、一躍脚光を浴びる。主な作品に、「二十世紀少年読本」、「私立探偵濱マイク」シリーズなどがある。京都造形芸術大学教授。NHKでは、FMシアター「アリラン」の脚本、ドラマ「夕陽ヶ丘の探偵団」の演出があるが、テレビドラマの脚本の執筆は今回が初めてとなる。                                                                    ◆脚本執筆にあたって                                                                                  大きな戦争が終わった頃に、私の父と母は韓国からこの日本に渡ってきた。その時の父と母の気持ちはどういうものだったのだろう? と私は思う。そういう気持を一度は物語で書いてみたいというのが、この脚本を書くにあたっての出発点だった。この物語に登場する金田一家と私の家族の生い立ちは違う。でも心だけは一緒だ。私の父の心はこのドラマに登場する金田暉雄であり、私の心は兄の金田正夫であり、弟の金田哲浩である。人間は問題を抱えて生まれてくる生物であり、その問題を克服する可能性を持つ生物でもある。そのことをこのドラマでは描いてみたかった。                                                                                                 「生まれた処や皮膚や眼の色で、いったいこの僕の何がわかるというのだろう」という                                                                               THE BLUE HEARTS 『青空』 (http://www.youtube.com/watch?v=yXrj2DyJhlQ ) の歌詞のようなドラマを書いてみたいとずっと思っていた。この物語の登場人物たちには国籍も民族もない。ただそこには人がいるだけだ。私は自分の魂をこめてこのドラマを書きました。そんなラブ&ソウルが皆様に届きますことを祈って。

ダバンサイヘイン

 1978年、ミャンマー出身。大学生のときに民主化運動に取り組むが、友人たちが迫害を受けるなど身の危険を感じ、04年観光ビザで日本に入国。難民申請を出すが認められず入国管理局に収容される。その後、再度の申請で08年難民認定を受け、現在は関西の大学に通う。これまで全く演技経験はないが、在日難民の現状を伝えたいと、このドラマへの出演を決めた。

交遊通信録: 雨中デモの帰り 東アジア地図が浮かぶ

国民国家という括り、民族という属性、自己形成した社会・文化・言語・・・、それを損なわれた存在に対する立位置を考えさせられた。                                                                                  

 先日、京都:雨中デモの帰り、古い仲間たちと打上げとなった。                                                                                        そこで、若い人から、沖縄の歴史的経緯、「米軍基地を県外へ」「沖縄植民地論」「琉球独立論」などが語られた。                                                                                                                       一方、当否はともかく現代の国境線で永く固定され過ごした以上、一体、今どうせよと言うのか? それは可能なのか?                                                                                                 沖縄びとにとって望むところなのか? 実効性はあるのか? との声も出た。                                                              さらに話は、日本で生まれ育ち、母語の読み書きを損なわれ、そこで生き暮らし、定住(?)している人々の課題に及び、                                                                                                                   ナショナリティの問題や民族という課題、3世4世が生き日本人と結婚する人も多い現状で、人間が「損なわれ」ない道や如何、などに及んだ。

 現実的な線引き、社会的・制度的な位置取りだけでは果たせぬ、在日する者の「損なわれ」て「確立困難」な                                                                                                           アイデンティティ恢復と確立への道程に、日本国・日本人・日本社会という「城内」から、どのような思想をもって繋がるのか?                                                                                                                   けれど、人間が抱える果たせぬ「課題」の、「袋小路」は百も承知(?)の上で、では現実的にどうすればいいのかと、                                                                                        云わば建設的構想と共生思考に基づいて語られていよう言説は、ぼくが繰り返し通過する折り返し点など折込み済みだ。                                                                 袋小路を自己の内で百回も千回も潜った上であえて言っていることを、                                                                                                         ぼくとて十回か九十回は咀嚼して来た。同じことを、違う側面から語っているに違いない。                                                                                                「現実政治や現実対処をどうするかを語れない言い分は、結局は、文学的なのだと斥けられる言い分なのだよ」                                                                                                      というぼく自身の内の声に戸惑うぼくなのだ。そうして、いつも、ずうーっと何一つ実効性ある言い分を吐けはしなかったのだ。                                                                                        西大和教会「沖縄通信86号」(http://www.eonet.ne.jp/~nisiyamato/) には、                                                                                                                「国連:琉球民族は先住民族と認定」「沖縄の自己決定権」について詳しい。 ぼくの中の、袋小路・行き止まりを解いてゆくヒントがあるだろうか。

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 全く、話は違うが、そして上手く関連付けられないが、学童疎開世代歌謡「おさななじみ」(作詞:永六輔)への                                                                                                                       異論(http://www.yasumaroh.com/?p=669)を書いた時、ぼくの中に在ったのは、敗戦時に児童~少年だった歌人三人の下記の歌だった。                                                                                そこに、戦後を見る目の「確かさ」「身深さ」と、「ではどうしろと言うのか?という現実的(?)な問い」を超える「普遍性」を視たのだ。                                                                              塚本邦雄:『突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼』(1920年生。敗戦時25歳)                                                                                                                 寺山修司:『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』(1935年生。敗戦時10歳)                                                                                                    平井 弘:『撃ちし記憶われらはもたず戦いの日をひもじさとして受けとめて』(1936年生。敗戦時9歳)                                                                                                                                                                                                                       

前天皇ヒロヒトが戦争責任に関する質問に「そのような文学的な」ことには答えにくいと何とも巧みにかわしたというが、                                                                                                            それは文学的なことなのか? 文学的とされる課題の、現実世界に繋ぎ止める文脈を、                                                                                                           永遠に掴めぬ文脈を、それでも求め続けるのが、「文学的」を超える「現実的」態度なのかもしれない。

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【別件】

井上清氏がどう言ったか詳しく知らないし、中国の古文献にどう記載されているか不知だが、(魚釣島)=(尖閣諸島)について、                                                                                                                 大国(中国・日本)の近現代の双方の「証拠(?)」を列挙されても、                                                                                        地質学的に中国の大陸棚上に在り、16世紀「明」の琉球へ冊封使が、しばしば寄港(飲料水確保できるので)していたと知っても、                                                                                            日本が、日清戦争(1894~95)の戦勝に乗じて(下関条約には記載なく)実効支配したのだと知っても、                                                                                                「あの海域の海人の庭だったろう」以上の線引きに与することは保留したい。                                                                  飲料水確保は、あの海域の海人が、日中に先んじて行なっていたに違いないのだ。                                                              今のところこの考えは変わらない。ソ連以来の、社会主義国の領土・民族への強引(チェチェン族・朝鮮族などへの強制移住を含む)までも想起してしまった。                                                                                       とはいえ、もちろん、ヤマトのものでも明治政府のものでもありはしない。

交遊通信録: 府立某高校 卒業四十四年目のクラス同窓会

府立某高校66年卒業某クラス、四十四年ぶりの同窓会で帰阪した。                                                                                                        どういう訳か、これまで全く同窓会をしないクラスだった。誰も言い出しっぺにならなかったからだろうか・・・。                                                                                            47年・48年生まれ。66年高校を卒業して、それぞれに数年のうちに大学へ進む。団塊の世代と呼ばれる世代のど真ん中だ。                                                                          あの時代の毒気を浴び、その時代を慌ただしく過ごし、企業社会に入り、働き、結婚し、子を育て、                                                                                   やりたいことに関われたり関われなかったり(一部の者は好き勝手に生き)して、還暦を越え多くは孫もいる。皆、62~63歳だ。                                                                                                                               世が、70年前後の曲がり角を越え、ひたすらアタフタと駆け走りバブル崩壊から今日の混沌へと至る、その渦中を生きた者たちだ。                                                                                                                                          人生の光と陰・明と暗、社会的な成功・蹉跌、個人的な達成・不運、望外のものを得た者・かけがえのないものを喪った者・・・、                                                                                                                      けれどその全てを他人との比較ではなく、わが身のこととして抱えて生きている。 そしてこの日、ある女性の呼掛けで集うたのだった。

                                                                                              例えば、当日参加したある女性は、いわば、女性が職場に進出したと言われながら「職場の華」「男性社員の花嫁候補」以上の位置付けなど                                                                                                                                                                                                                                                   まだ無かった時代の大手企業に在って(今もはなはだ怪しいが)、ある「悪戦」と「歯痒さ」の中を生きたに違いない。                                                                       子育てと働くことの両立は、今以上に困難だっただろう。 彼女たちは、その中で生きて来た。                                                                                                                                                      例えば、参加者の一人、某有名企業の社長となっている某氏は「いまどきの」若者(社員)との触れ合いと会話に、                                                                                                                                        ある「楽しみ」を実感し、来年度女子総合職四名を採用した際に、当時との「女性の構え」の違いを痛感したと語っていた。                                                                                                                   思えば、その変化のほとんどの部分は、企業社会や男や経営者や労働組合ではなく、おんな自身の手で為されたことではなかったか?                                                                                                                                   当日参加の女性たちの「輝き」「前向きさ」に圧倒され、そのことを再認識した。                                                                         「男が未来を語れない社会」こそが「衰弱社会だ」などと、その某社長とため息まじりに納得して語り合った次第。                                                                                                                    多くの若者が「正規社員」となれず、就職浪人が溢れる社会に「未来を語る」など無理(当時でさえそうだったのに)なことだと思う。                                                                                                                                                           ますます、若者が「個人的なこと」「目先のこと」だけに汲々として、「<夢>そのものを子供扱いする」「現実的」構えに在るとしても、                                                                                                                                                                   それはぼくらの世代が作り出した時代の結果だ。景気・円高云々への言及は、能力を超えているし守備範囲ではないけれど、                                                                                   「雇用のカタチをどうにか規制しなさいよ」とは、団塊ジジババとて、さまざまな方法で、さまざまな動きで言えそうだぜ。                                                                                                                                                それが、ある意味「あんたの時代はよかった」ハズの時代の、最後を生きたぼくらの務めかもしれない。

社会観・価値観・仕事・立場・肩書き・家庭・思想信条・宗教、それらはそれぞれに全く違う。                                                                                                                                                                違うことを越えた違わないことの中に時代はあるのだろうか?                                                                                        「おんな」は強し・・・。そのことを確信した同窓会だった。                                                                                             四十代・五十代ではなく、この期にしてホントによかったねと語り合い、                                                                     二次会のカラオケを思いっ切り堪能した、いい半日(13:00~20:00)だった。                                                                                                        (金子由香利:『時は過ぎてゆく』 http://www.youtube.com/watch?v=coiXF-PqgGQ                                                                                                             にも挑戦したが、これはどうも上手く行かなった・・・  )

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交遊通信録: ここに 「We」が在る

Uさん メール拝受しました。ぼくも、最後のルイス・ウルスア氏救出のシーンまで断続的にTV見てました。

世界中が最初の救出ゴンドラを引き上げるワイヤーを見つめ、間もなくゴンドラが姿を見せようとする時、期せずして地上で待つ仲間の輪から歓声の掛け声が上がったね。  ビバ・チリ、ビバ・チリ、 チリ・チリ・チリ。  ビバ・チリ鉱山労働者!                                                                                                                     チリ鉱山落盤事故救出劇のクライマックスの始まりだ。翌日、メンバーのリーダーと目される最後のルイス・ウルスア氏が救出されるまで、世界中が固唾を呑んで見守ったことと思います。                                                                                                                    ビバ・チリの声に、故:アジェンデ大統領(1973年9月11日、軍部クーデターにより死亡)の最後の演説肉声が思い出され、胸が詰まります。                                                                                                         http://www.youtube.com/watch?v=SG3f08LVwhE                                                                                                       ビバ・チリ鉱山労働者! 劣悪な安全対策下で地底の重労働に生きる、33人の名も無き人々が70日間もの長期に亘り、地の底深い閉鎖空間に整然と耐え得たのは、そこに企業社会が喪って久しい「We」が在ったからに違いないと思うのです。                                                                                                                      「強圧と忍従」に支えられた【井上ひさし氏遺作:『一週間』がシベリヤ捕虜収容所を舞台に描く「ソ連型」乃至「日本軍型」】 『統制』 ではなく、                                                                                                          「信頼と自発」に基づく【「ラテン的」乃至「沖縄的」】 『連帯』 の、70日間の実相がやがて明らかになるだろうと思っています。                                                                           (「We」に関する拙文 → 『「We」の不在』 http://www.yasumaroh.com/?p=6376   )                                                                                                    33人の顔写真には、そこに モンゴロイド(つまりは、ネイティヴ南米)系の要素が色濃く見えます。事態の構造を物語っていると思います。                                                                            ビバ! 名も無き者たちの「We」感覚。                                                                                                  過去、炭鉱・鉱山の落盤や水脈破裂などで、どれだけ多くの人命が奪われて来たことか・・・。世界は、救出劇に浮かれるのではなく、危険作業下の重労働や、共助風土解体下のあらゆる人権無視労働と無権利雇用形態の「非」を自ら糾すべきだ。                                                                        その場所以外からの、33人への声援は虚しく、いかがわしい。                                                                                  33人殿、マスコミの持ち上げ、大国の国家的営業活動、チリ政権の政治利用などに振り回されず、かつメンタル復権を果たし、自己を見失わず、 そして「We」を手放さないでと希っていたい。 それが、エスペランサだ。                                                                                              

                                                                                                                              『地上の星』 http://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE&feature=related 中島みゆき                                                                                                                                      

 

交遊通信録: 母卆寿祝い会

Sさん、                                                                                                                                                                                   いつか貴方からお褒め頂いた歌 枯庭に 白き水仙匂い立ち 独りの冬を誇らしげなるの作者:我が母の「卆寿祝い会」で帰阪しました。                                                                                                        9月20日、一年遅れ(昨年、新型インフルエンザで延期)の会には、母、息子四人とその妻:計8名、孫と配偶者:計15名、曾孫:7名・・・                                                                                                                                    総計31名が集いました。                                                                                                                                                                        

母の人生は、軍国・封建・戦争の「昭和」の、もちろんどこにでも在った「女」の人生ですが、母の曾孫たる我が女児孫(三歳)を見ていると、母の乳幼児期との対比から、時代は戦争・敗戦という受難・画期・代償を経て、市井の人々の努力によって、緩やかに(近年は急激に)変化したのだと思い至るのです。我が女児孫(母の曾孫)の笑顔と活発な振舞は、21世紀両親から注がれる愛によって育まれたものであるのは当然でしょうが、母が乳幼児期に表すこと叶わなかった個性、そのDNAに因るものなのだろうと思わずにおれません。 民が、国や強権を押し返して代を越えて引き継いで行くものとは、たぶんこうしたことの中にあるのだろうと思えるのです。我が女児孫が、そのことを感じ・学び・考え、時代や歴史を識る女性に育ってくれと願うばかりです。                                                                                                                                                                                                        

【写真上 左:曾孫代表=長男の長男の長男から花束を受ける母。中:集合写真。右:幼児期の母。  下:人形を抱く女児曾孫=三男(私)の孫】

                                                                                              【注】                                                                                                                                                                                                                                             乳児期を乳母の許で育った母は、ゆえあって、三歳で実家に戻った。                                                                                                                                          生母になつかず、実家に馴染まず、いっしょにやって来て大切にしていた人形を抱いて、乳母恋しと毎日泣いたといふ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                その人形が、ある日を境に突然姿を消す。その日の記憶は鮮明で、母の歌集に

 「みれん断ち実母に返すが此の稚児の 幸せならんと諦めし乳母」 
 「やすらかな寝息たしかめ帰りしとう 若かりし乳母とわれとの別れ」
 「乳母里より付き人のごと添いて来し 田舎人形夜ごと抱きしよ」
 「いつの間にか姿消したる縞木綿の 人形恋いて泣きし幼日」  とある。
 (私は、角田光代:著『八日目の蝉』を読んだ際、会ったことのないこの乳母とその母性を強く思い浮かべた。)
 
誰が何を想って棄てたのか?と問うている。                                                                         
三歳児の記憶としては、あまりにも重く酷な記憶だ。                                                                       
以来、互いにとって「不幸な母子関係」が永く続くこととなって行く。( http://www.yasumaroh.com/?p=3196 )
                                                                                                                                                                                                             06年、80代半ばの母は数年かけて書き綴った「自分史」を上梓。                                                                                                                                                個人史でありながら、贔屓目に見れば、期せずして背景に「昭和」という時代とその中を生きた「おんな」・戦争という民の受難など を浮かび上がらせてもいる。船場道修町商家の家父長制・空襲・焼跡・闇市・雑炊食堂・etc ・・・・。                                                                                                                                                                                       が、乳母への思慕と切情・幼い胸にわだかまる孤絶感は充分に語り切れなかったようだ。現在、私の弟が聞取り・録音作業をしてくれている。

交遊通信録: ぼくにとっての金時鐘ー2

【長くなるが、別の処に書いた、金時鐘に関する拙文から抜粋転載】                                                                                                 (03年4月、清真人主宰:『共同探求通信21号』より)
-(中略)-
『街に万歳(マンセー)!の歓喜の声渦巻く、1945年8月15日・十六才の夏、日本の敗戦と故国の解放を、虚脱の中「皇国少年」の自己解体として迎え、突然「与えられた」祖国にとまどいながらもやがて学生として光州で南労党と出会い、十九才の時殺戮の済州島を脱出、49年6月兵庫県須磨に密航した元・南労党予備党員のあの詩人。「日帝統治」「分断」「在日」の、その幾重もの痛切を一身に刻み込んで「在日」を生きる詩人、金時鐘(キム・シジョン)その人だ。                                                                             「クレメンタインの歌」こそは、母国語を棄てた少年期の彼と朝鮮語とを繋ぐ歌であった。日本敗戦のあと「海行かば」や「児島高徳の歌」を歌っては何日も涙を流したという彼…。やがて、ひとりでに口を衝いて出た歌、かつて父が口ずさんでいた歌によって「かようにも完成をみていた皇国臣民の私が、朝鮮人に立ち返るきっかけを持ったのはたったひと筋の歌からであった」という。
それがこの「クレメンタインの歌」なのだった。                                                                           『ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ)
ナエサラン クレメンタイン(わがいとしのクレメンタインよ)
ヌルグンエビ ホンジャトゴ(老いた父ひとりにして)
ヨンヨン アジョ カッヌニャ(おまえは本当に去ったのか)』                                                                     『釣り糸を垂れる父の膝で、小さいときから父とともに唄って覚えた朝鮮の歌だった。父も母も、つかえた言葉で、振る舞いで、歌に託した心の声で、私に残す生理の言葉を与えてくれていたのだ。ようやく分かりだした父の悲しみが、溢れるように私を洗って行った。言葉には、抱えたままの伝達があることも、このときようやく知ったのだ。乾上がった土に沁む慈雨のように、言葉は私に朝鮮を蘇らせた。
・・・中略・・・ひとりっ子の安全を、恨み多い日本に託さねばならなかった父の思いこそ、在日する私の祈りの核だ。』                                                                                           『後ほどアメリカの民謡だということを知って、少々がっかりしました』『誰が唄いだして、誰がこの歌詞を書いて私にまで伝わって来た歌なのかはしりませんが・・・』                                                                                                                                       『どうであろうとこれは私の“朝鮮”の歌だ。父が私にくれた歌であり、私が父に返す祈りの歌なのだ。私の歌。私の言葉。この抱えきれない愛憎のリフレイン―――――』(金時鐘「クレメンタインの歌」1979)                                          
                                                                                                             ☆ 日帝支配末期、使ってはならない「朝鮮語」だけの生活を貫き通し、民族服禁止に従わず悠然と町を出歩き、そのくせ「朝日」「毎日」を黙って読み、ぎっしり日本の本のつまっている部屋を持ち、無職の釣り人を通した父。解放されるまでついぞ日本語を使わなかった父。その父が「四・三事件」で彼が追われるようになると、あるだけのコネと、なけなしの財をはたいて日本へ密航させる。「ひとりっ子の安全を、恨み多い日本に託さねばならなかった」父に、金時鐘は当然その後会っていない。永く反共軍事独裁国家であった父の住む地に戻ることは死を意味した。「金大中が大統領になったおかげで数年前、韓国を訪れることができ、親の墓を死後四十年数年ぶりで探すことができた。全くの特別配慮であり、朝鮮籍のままでは来年からは難しいかもしれない。せめて年一回ぐらいの草刈と墓参りは続けたいが・・・」(02対談)                                                                                                                                                 -(中略)-
『在日を射抜く覚悟のないどのような言説も、日本人に届くことはないのだと彼は語る。「正義の渦中に在って、抑圧される者の安逸さをむさぼって来た者の、わたしはひとりなのです」「日本人の非をさらし、日本人の原罪をうちつける側にだけ在日朝鮮人をすえようという思いにかられての認知は、糾されねばならない」』
「『在日』のはざまで」収録の各小論より)                                                                            -(中略)-                                                                                                                             

朝鮮人と日本人の誰もが込み上げるものを押し殺していて、満席の会場は静まり返っていた。後ろの席で年長者がすすりあげている。
金時鐘のひと言ひと言は、人々の、ぼくの、一体何を揺さぶっているのだろう? 何に届いていたのだろう。
ぼくの浅はかな年月が、「闘い」の自称「蹉跌」が、僅かばかりの自負のこころが彼の日本語の、誠実な・か細い・老いた・ハガネのような精神の腕に、わしづかみにされていた。その日本語は、植民地朝鮮で無垢な少年期に彼が無防備に受け入れ進んでそれを用い、原初の思考・心底の自我形成に動員した言葉であり、それはまた、幼い日に奪われ棄てた朝鮮語への、彼の愛と負い目と渇望を逆説的に白状する言葉であり、彼の全身に宿り人生にへばりつきぶらさがる「恨(ハン)」である。
 金時鐘はこう言っている、「わたしの日本語は、私を培ってきた私の日本語への報復でもある」と。

-中略ー                                                                                                 吹田事件の精神を語り、彼の記念講演は後半にさしかかった。粗末なバラック建ての民族学校建設の労苦など、自身の当時の取り組みを語り、話は「吹田・枚方事件」直前の時期に及んでいた。
金時鐘は嗚咽していた。73年の間、この詩人とともに世を生きた肩と背が、小刻みに震えている。ときに言葉を途切らせながら、それでも聴衆に正対して威をただし、語られた中身は「吹田事件」に関わった人々を讃える言葉でも、その闘いの理念を歌い上げる類の言葉でもなかった。語られたのは、生野の在日の街工場の「忘れられない」叫びと視線のことだった。
軍需列車を一時間遅らせば、同胞千人の命が助かる・・・そう言って朝鮮戦争二周年の「吹田闘争」は闘われた訳だが、生野の鉱工業在日街工場はその末端まで「軍需」にさらされていた。泥と悪臭の、汚染された河をさらって得た銅は、街工場に持ち込まれ「銅ざらい」の人々の今日明日の糧となる。銅は加工され[何かの部品]になって行く。加工工場のそうしたささやかな工賃収入は、工場主一家と従業員の生活を支えることになる。工場は小松製作所の孫請けなのだ。日本陸軍の砲弾70%を製造していた枚方工廠あとを払い下げ受けた民間、あの小松製作所だ。小松製作所は朝鮮戦争に使用される爆弾の国内生産の過半を製造していた。街工場で作る[何かの部品]とはネジピンなのだ。後年ヴェトナム戦争でナパーム弾として名を馳せるものの原型たる親子爆弾の、その信管のささえのネジピンであった。
嗚咽を押し殺し、絞り出して語られる、金時鐘の講演は「街工場の忘れられない叫びと視線」について語り始めていた。
街工場へは、まず説得活動を何度か試みる。当然の説得不調のあとに待っているのは、祖国防衛隊による生産手段の破壊だ。破壊されてしまった粗末な機器を背に、彼を見据えていた工場主の視線が「いまも私を見据えている」のだ。
「息もたえだえなモーターにのたうつベルトにさいなまれる真鍮棒の金切り声を押し殺すように、私は最後の説得に牙をむいていた。・・・中略・・・『金がなんだ! 同胞殺戮に手を貸して何のお前が朝鮮人だ!』・・・中略・・・単なる一個の、変哲もないネジであって、それが親子爆弾の、信管のささえとは信じようがなくて、追われるように数をこなして、見つめる者のかすんだ視力に、それは一個のパンである。・・・中略・・・朝鮮戦争は今を盛りの、二周年記念が明日だった。私は首を横に振り、レポは走り去った。間もなく血祭りが始まる。青年行動隊の荒々しい怒りが爆発する。・・・中略・・・老母は『殺せえ!殺せえ!』と叫んだ。放心した彼は、割られたメガネを拾いもせず、『俺はヤメヤ、ヤメヤ、おっかあー! チョウセンやめやああー・・・・・』よたよたと母のへたっている地面にくずおれた。」(「欠落の埴輪」1971
 朝鮮の為の正しかるべき行動が「殺せえ!殺せえ!」にたじろいでいる。朝鮮人の確立への半歩が「チョウセンやめやあー」に足止めを食らっている。だが、目の前では、同胞殺戮を阻止する「正義」が行われているのだ。工場主と母の、その叫び、その視線、その光景がいまも「私をさいなむ」のだ。
 金日成神格化への疑問、政治や組織運営にとどまらず全領域に亘って食い違う「流儀と作法」、日本語詩作をめぐる応酬(金時鐘も梁石日も「母国語を使うべし」とした組織と対立した)等々があり、70年に総連を離れる。
「私をさいなむ」のは、「一時期、北共和国に民族の正義をみた時期があった。その不明」と、しでかした行動の本来の決済元を脱藩したこととが重なって迫って来るからだ。繰返し襲って来る、かの行動を「さいなむ」精神は、云わば宙ぶらりんのまま、自身に戻ってくる。金時鐘はしかし、講演のメインに「吹田・枚方」の決意や熱情ではなくこの話を据え、寒風吹きすさぶ「崖」の途中におのれをさらして立ちつくす。そこが「在日を生きる」孤高の詩人のハガネの精神の「在処」ゆえに。

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『・・・詩は好もうと好むまいと現実認識における革命なのです。・・・見過ごされ、打ち過ごされてることに目がいき、馴れ合っていることが気になってならない人。私にはそのような人が詩人なのですが、その詩人が満遍なく点在している国、路地の長屋や、村里や、学校や職場に、それとなく点在している国こそ、私には一番美しい国です。』
(06年12月、朝日新聞。安倍の「美しい国」発言に抗して)                       

                                                                                                            

                                              

                                                                     

                                                 

                                                        左: 9月4日、懇親会で中年婦人(オッと、これはわが女房では?)から著書にサインをねだられ、丁寧にも言葉を添える金時鐘氏。                                                                                       中: 同日、三次会で・・・。ユーモアを交え若い人を励ます金時鐘氏。                                                                         右: 07年2月、拙作『祭りの海峡』出版時の集いで・・・。 因縁浅からぬ大阪城(梁石日著『夜を賭けて』参照)を背にし、つい感極まる金時鐘氏。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

                              

交遊通信録:  ぼくにとっての金時鐘-1 (KKさんへ)

KKさん。金時鐘『失くした季節』出版記念シンポジウムへのお招き、ありがとうございました。(貴女の「書」、いつ見てもええねぇ!)

9月4日、金時鐘さんの近著、詩集『失くした季節』の出版記念会への出席の為、帰阪した。                                                                                                  大学の後輩、詩人:KKさんからのお誘いだ。後輩と言っても、ぼくは二年しか在籍しておらず、その後知り合った詩や表現の世界の「道案内」人だ。彼女は、ぼくにとっては年齢や入学年次では後輩ではあるものの、そちら方面の先輩であり、ぼくを金時鐘に引き会わせてくれた恩人でもある。                                                                                                                                                                  02年。                                                                                                                    労働争議・職場バリケード占拠の果てに77年から20年続けた労組自主経営の会社を、98年に破産させてしまい、あれこれの失敗・自業自得の不遇などが重なり行き詰ったまま21世紀を迎え、ぼくは、何を何処からどうやって解きほぐせばいいのか進退窮まっていた。                                                                                                                                                                                                                          金時鐘に興味と共感を抱いていたぼくは、「吹田事件50周年記念シンポジウム」で氏の講演を眼前で聴き、いよいよハマってしまい、ここに己の再建の鍵ありと思え、やがて書き始めた駄小説『祭りの海峡』(http://www.atworx.co.jp/works/pub/19.html)に、金時鐘氏を「ある詩人」として間接登場させてしまう。古い映画 けんかえれじい』 (66年日活、監督:鈴木清順、出演:高橋英樹・川津祐介)のラストに緑川宏扮する北一輝が、主人公の気分を象徴して、黙して(しかし圧倒的に)登場するが、その手法を使ったつもりだった。振り返れば身勝手で安易な手法だった。                                                                                                                                              67年19歳のぼくは、札幌のパチンコ屋に住込みで働いていたのだが、そこで出会う釘師兼マネージャー新山という男の、言葉にまとめられない「在日する生」「精神世界」「民族」「組織の流儀への違和」などを、この釘師の「ある詩人」(これを金時鐘だと匂わせた)への心酔として表したのだった。作中、釘師:新山に「ある詩人」のことを「ワシの、詩の師匠や」と語らせる。                                                                                                                               政治も思想もそして世の現実も知らない若造が、それでも直感的に掴んだこの釘師:新山像とその背後に巨大なものとなって永く居座るもの、釘師がそれと格闘し「密かに」続けている詩作、その根拠…に出会って行く。                                                                                                                                                                                                               60年代後半の時代精神や気分と、そこで生き・生きようとした原初の精神を、21世紀の己の混迷を解く鍵になるかも…と書いたのだった。                                                                                                                                                                                 拙作の紹介ではないので、『祭りの海峡』の主人公・釘師・ある詩人の話は止めておくが、ぼくが「札幌パチンコ屋物語」を書くと決めたのは、間違いなく「吹田事件50周年記念シンポジウム」での金時鐘講演であった。自分のささやかで風化しそうな体験を基に書き、己の復権の手立てを考えていたのだと思う。                                                                                                                                                                                                 経過は省略するが、07年2月、拙作『祭りの海峡』の出版時の集いには、KKさんの骨折りで、金時鐘氏が一時間弱の講演に来て下さった。その日の 『負け続けることを止めた時、それが本当の敗北だ』 という言葉は、参加してくれた人々全員の心に刻まれている。(写真右)

話を、今回9月4日の出版記念会のシンポジウムに戻す。                                                                                                                                                            細見和之氏が会場からの発言を受けて(すみません、会場発言の詳細は失念)いいことを言った。                                                                                                                                      「ロシアと言えずついソ連と口走ったり、ベイスターズと言えず大洋ホエールズと言っても通じないように、反スターリニズムなどという言葉も、今の若い人にはそもそも社会主義国やスターリニズムへの同時代性や体感が無い中で歴史としてしか伝わらないのか? 反スターリニズムとは何なのかを伝えるのは大変だと思うけれど、スターリニズムという言葉を使わずに、その意味を伝える言葉をぼくらが掴まないと、と思う」(要旨)

 

思うに、そのことを生涯かけて実践して来たのが、金時鐘であり、金時鐘の詩だと思う。 

スターリニズム。その根源は何なのか? 民の抗いの組織的表現体とは、在るべき社会への、本来無垢で勤勉な人々の熱い希いや要請であり、その現実的運動の推進に是非とも必要ゆえ在るものだが、それゆえにこそ、その内部に抱える避け難い業があった。
もともと、社会の事態を変えるには、その為の組織が、正しかるべき中枢指令塔が、必要なのだ。だが、正しい理論・それに基づく唯一の党・ゆえの一党独裁・・・から指導部の絶対性(その果ての一個人の絶対性)へ至る回路、 そして自由選挙の否定・複数政党の否定・自立した労働運動や市民運動の否定…から異論の物理的排除・強制収容・粛清に至る回路、それらが待っていた。                                                               
ぼくらの時代で言えば、抗いの現実渦中に在る者は、外に居て思索する者の言をいかがわしいとして耳を貸さず、外からことの核心を突いていると自称する思索者は、渦中の者の共犯性をあげつらった。現場性と思索性の往還の隘路に在る者は、スターリニズムを打倒するに、違うスターリニズムで対峙する以外有効ではないのだ と言わんばかりの倒錯絵が永く(今も)繰り返される事実に、疲れ果て語ることを断念した。そのいずれもの位置を一通り潜って来た人々(諸先輩・諸同輩)が、時に当事者としての「共犯性」に苛まれ、時に思索者としての「安全地帯性」を恥じ、時に往還者としての「両義性」を呪い、他者に伝わる言葉を紡げなかった。それらのぬかるんだ泥土から、それでも歩を進めようとする人々を幾人も知っている。                                                                                                    だから、『簡単に「反スターリニズム」などと言うな!』とは思う。思うが、

それではスターリニズム(左翼用語を超えたスターリニズムを含め)は拡大・再生産されるばかりだ。細見氏が言う通り「伝わる言葉」を求めたい。それは、一義的には、あれこれの思想書でも歴史書でもなく、おそらく臓腑に届く「詩」に在るだろうと直感している。当事者・思索者・往還者の体験・構想・諦念を射抜いて届く言葉のことだ。そこで、届いて来る人間の声を聴き、ぼくらや若者が次に思想書や歴史書に向かうかも知れない。
金時鐘の行いと詩作こそは、その生きた実践という一面を持っていると思う。

                                                                                                                           

 

交遊通信録: ぼくらの社会は同様の事態にどう対処できるだろう

フランス ロマ追放で大規模デモ 移民排斥政策に批判

若いU君へ。                                                                                                                                                                                               君が言っていた事態です。『だから「閉じた」思考に留まれ』と言う君の言い分には同意できません。                                                                                        確かに、ヨーロッパとぼくらの社会とは、歴史・植民地・20世紀以降の移民状況・宗教問題etc 大いに違う。同じだとは言わない。けれど、カタチと位相の違いを越えて、ぼくらの社会にこの「排斥運動」と同根の病理は深くあるのだと思う。このデモを行なうパリ市民にある「パリ五月」の精神は、ぼくとぼくらの社会に生きているだろうか?  自身を顧みて甚だ危ういと思う。けれど・・・                                                                                     ぼくらの社会は組織的排斥を平然と行なっているではないか! 無権利状態かつ孤立、外に声を上げられない「弱者」「少数者」への夥しい数と量の「いじめ」「暴力」「排斥」の風土(それは、もはや制度でさえある)は、ロマ排斥に通じる病理であり、先進国日本の勤労者内部・生活者内部を覆う事態の日常化・生活圏化ではないのか? あるいは、沖縄に在日米軍基地を押しつけ意に介さず、列島全体の「抑止力」だと強弁し続けて居られるのは、その地が準「植民地」だからではないのか?                                                                                                                                                                                       熊沢誠HP『語る』の最新頁( http://www.kumazawamakoto.com/essay/2010_sept.html )が言う事態に対処できない社会、減少させる手を打てない(打たない)社会(大多数の労働組合を含む)の一員であるぼくらが、この外信ニュースを他国のことだと言えようか?                                                                                                                                                                                                                               また語り合おう。

毎日新聞 9月5日(日)20時42分配信 を転送します。                                                                                                      

 フランス ロマ追放で大規模デモ 移民排斥政策に批判
サルコジ政権のロマ追放に抗議し、デモを行うロマの人々や支援団体=パリで2010年9月4日、福原直樹撮影

 【パリ福原直樹】フランス全土で4日、国内を放浪するロマ族の国外追放や、移民出身の犯罪者の「国籍はく奪」などを打ち出したサルコジ政権に対する大規模な抗議デモが行われた。欧州各地の仏大使館前でも同日、同様の抗議行動があり、「移民・外国人排斥」施策への国内外の批判の高まりを改めて示した形となった。                                                                                                                                                                抗議デモはロマを支援する人権団体や労組が組織し、フランスでは、内務省によると7万7300人(主催者発表10万人)が参加した。うち5万人に上ったパリでは、サルコジ政権による不法キャンプ撤去で行き場を失ったロマも参加。「ロマ追放反対」「フランスは非人道的な政策を続けている」などの横断幕を掲げた。                                                                               また、ロンドン、マドリード、ブリュッセル、ベオグラード、ローマなどの仏大使館前でも仏政府に「人権擁護」を訴えた。                                                                                                                                    パリのデモに参加したロマの男性(21)=ルーマニア出身=は「サルコジ政権の政策は人種差別であり、このままだと暴動が起きる」と発言。支援団体「市民権と援助・団結」の幹部、シャバン氏(55)は「政府はロマを拒絶するだけで、受け入れ策を見いだそうとしない。(異民族排斥を訴え)ナチスが台頭した時代と似ているのでは」と話していた。                                                                                                                                 

「基地はいらない!日米安保もいらない!新宿ど真ん中デモ」

O様

27日。                                                                                                      偶然の巡り合わせで現場が近く(西新宿)だったので、帰りに 基地はいらない!日米安保もいらない!新宿ど真ん中デモ」に参加してみた。                                                                7時に着くとアルタ前の集会は終わりかけていて、デモ出発直前。若い人たちの呼びかけによるデモとのことで、確かにいつもより若い人が多い気がする。当方は共催の『9条改憲阻止の会』の発信情報で知ったのだが、若い人が居るとホっとする。                                                                                            

若い人からの質問攻めに、現在69歳の元**派議長S氏が表情を崩して、順次丁寧に答えている光景も、                                                      ネオン輝く夜の新宿練り歩きも、何故か不快ではなかった。 これはきっと、BGM沖縄音楽のせいだな。                                                                                               S氏について知人に聞いたところ、「彼は、今なお、もちろんスターですよ!」だそうです。                                                           【当夜のシュプレヒコール】                                                           ★沖縄に基地は要らない。 ★菅首相は共同声明を撤回しろ。 ★辺野古案を撤回しろ。                        ★日米安保はアジアへの威嚇だ。 ★基地の押付けは沖縄差別だ。 ★海兵隊は抑止力じゃない侵略部隊だ。                                                                                                                                                             ★県内たらい回しを許すな。 ★普天間基地を閉鎖しろ。  他

【付録】 朝日新聞:8月24日付朝刊より                                                                                                                                                                                        沖縄は早く自立した方がいいなどと議論されますが 日本の方こそ、沖縄への依存をやめて独立してほしい。沖縄が自立を進められないのは、日本が沖縄という植民地に従属しているからです。植民地とは本国が依存するものです。 (知念ウシさんインタヴュー))

おめでとう! 興南高校。沖縄びと。

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