たそがれ映画談義: 耳に残る幼き者の叫び-②

『あの子を探して』(1999、中国)  監督:チャン・イーモウ 出演:ウェイ・ミンジ; チャン・ホエクー。
 
13歳の少女ミンジは50元で1ヶ月の代用教員になった。
(1ヶ月間、子供達が誰もやめなかったら10元のボーナス付で)しかし、
教員として資格もなければ知識もない彼女は黒板に文字を写すだけの毎日。
そして、10元のボーナスのために誰もやめさせまいと必死になる。
そんな中、ホエクーが数千元の借金を返すために出稼ぎに街に行ってしまった。
ミンジはホエクーを迎えに行くが・・。(Yahooブログ「一番小さな映画館」より
 
ここから映画は「学ぶこと」「教えること」の原点を示し俄然輝き始める。都会までの運賃を悪戦苦闘の末みんなで計算する。その費用を作り出す方法=近くのレンガ工場での「レンガ運び」を思い立つ。一人あての労働の対価から必要総労働時間の計算をみんなで考える。考えを共同して実践する。その過程はまさに「自主管理」の原点そのものだと思うのだ。
 大都会に辿り着いたミンジの「ホエクー捜索行」を追う映像は、大都市の発展とともに、野放しの児童就労などその影の部分も映し出す。現代中国の都市と僻地の格差は想像を絶し、その範囲はインフラ・産業・就労・収入・教育など全ての領域に亘っている。
 あの子を探して③
 
 
最初、ミンジは生徒が辞めてはボーナスが入らないと必死だったのだ。TV放送での人探しを思いつき、局を突撃。幹部の知るところとなって運良く放映となる。行方不明になった年齢とてさほど変わらぬ弟のようなホエクーへの呼びかけの本番は、報酬問題のことなど吹っ飛んで、ただただ 涙ながらに「帰って来て!」……。
 TV画面を見つめるホエクーの、みるみる歪んでゆく表情……。
 大げさに言えば、このシーンは、個人の利害・私欲から出発した少女の取り組みが「教育」や「自主」の核に迫る瞬間を、捉え得たものだと思えるのだ。イーモウは発展を全否定しているのではない、あるいは発展の果実に溢れるこの時代を呪っているのでもない。発展によってしかカバー出来ないものの存在の多きことを大中国の現実の中で、痛い想いで充分に認めているのだ。ただ、ミンジやホエクーを排除しての発展なら、そんな発展は要らない! そう言っていそうだ。
テレビ放送に至る経過は、局に座り込んだミンジの不屈の努力よりも局幹部の配慮が為せる技だと、人脈社会を皮肉っていても、弱い声にも応える体制ですとまとめる、チャン・イーモウのヨイショだ。あるいは、ラストの報道機関を伴っての行政による「貧しい村へのプレゼント」作戦は、一部の「貧困」へ目立つ援助を行なうあの国の常套手段で、イーモウはそれを肯定している(ぼくにはこれは皮肉に思えたが)。などなど、 高度(?)に過ぎる論議の前に、幼い者の叫びを刻んでおきたい。幼き者の叫びは、そんな思惑を超えている。                                                      
 

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