連載 23: 『じねん 傘寿の祭り』 三、 タルト (1)
三、タルト ①
高志が八二年に「散って多くの組合を作ろう」と去った後、残された者たちで続けた会社が順調だった90年代初めバブル期、裕一郎はこの街で全国ファミレス・チェーン店の内装工事を手がけたことがある。施工最終日に大工や設備屋といっしょに坊ちゃんの湯とも呼ばれている「道後温泉本館」へ来たのだ。 いい湯だった。十五年以上になるのか…。 明日那覇へ行く。その前に黒川美枝子に会っておきたかった。美枝子と約束した二時半まで一時間ある。美枝子が指定した喫茶店を探すより先に、その「道後温泉本館」前に立って建物を眺めていた。威厳と庶民性を兼ね備えた堂々として親しみの持てる建物だ。あとで湯浴みしよう・・・。 裕一郎は温泉近くの銘菓店で、黒川とユウくんへの土産にと、名物のタルトを買った。いつか思ったことと同じことを思っていた。餡を挟んで巻いたロール・ケーキを何故タルトと呼ぶのだろう、と。 同時に、あの親子が浮かんだ。二人は那覇で一体どんな生活をしているのか。ユウくんは甘い物のひとつでも自由に喰っているだろうか・・・。黒川送別会のあと駅前の居酒屋で亜希と呑んだ日に気付いた通り、亜希は高志と道後松山に来たのだ・・・。気になることへのいくつかの感情が混濁して形を全く変えて、女性店員に名前の由来を問い質そうという奇妙な衝動として育っていた。自分でも整理できない、その交じり合った感情の正体がもちろん今は解る。ショウ・ケースまで戻って訊いた。ぎこちなく攻撃的だった。 「これ、なんでタルトと言うんです? タルト言うたら、お椀状の硬い焼き菓子にクリームやらフルーツやらが乗ってるあれでしょ? これが、なんでタルト? 教えてくれませんか?」 わざわざ戻って来て責めるように訊くという初老オヤジの変則詰問に、店員は一瞬キョトンとしていたが、すぐに返して来た。同じ質問には慣れているのだろう。声が大きかったのか、客の何人かが振り返るのが分かった。 「タルトはフランスのお菓子で確かに仰る通りのものです。一方これは、カステラと同じでポルトガル由来だと言われています。ポルトガルで簡単なスポンジ・ケーキをタルトと呼ぶという説もありますが、餡を入れてロールするこれは全く当地の独創です。まぁスパゲティのナポリタンみたいなことですかね。ジャパニーズ・オリジナル・メニュウ?ですか。ウフフ」 解ったような解らないような話だった。「説[も]あります」程度で、僭称するのか!何が「ウフフ」だ! 裕一郎は苛立っていた。 菓子の名の由来を知ったところで、消えた亜希を巡る謎が解ける訳ではない。 通りを歩きながら、箱とは別に用意させた一口大に切ったタルトを久し振りに口に運んでみた。袋の中の二箱の内一箱は美枝子に渡そう。これなら、地元だから飽きているわとは言わないだろう。
今日は二時から四時まで休憩のシフト、二時半から三時半過ぎまでならと言っていた美枝子は、約束の十分前に喫茶店にやって来た。仕事着だろう和服姿が板に付いている。半年前に比べやつれたように見える。差し出したタルトを喜んで受取ってくれた。 「これ大好きなんですよ、私。そうだこの箱二本入りだから、一本あっちへも持って行ってやって下さいな」 「いえ、ユウくんの分はここに」と袋を指した。 裕一郎は思う。我が那覇行きを了解しているのだ、この人は・・・と。 「ひろしは甘い物好きですから、食べ過ぎないようにしないと・・・。黒川は言われるままに何でも与えてるんだろうなぁ」 「もしそうでしたら、ぼくが行ったら是正するよう進言しましょう」 「出来る? ひろしのことには口出しさせないわよ黒川。母親の私でもいつも邪魔されたんだから・・・。聞き容れることが愛情だと思い込んでるのよ」 美枝子は黒川の父親振りを「エゴなのよ」と切り捨てて、続けた。 「北嶋さん、物好きねぇ。大変よ、黒川の性格、経済状態、家事。プラス黒川が言うビジネスという名の在庫叩き売り、お終いはもう時間の問題なのよ。在庫はもう底だと思う。そこへ、ひろしの生活のこと。結局、あれもこれも背負い込むことになるわよ」