連載⑳: 『じねん 傘寿の祭り』  二、 ふれんち・とーすと (7) 

二、ふれんち・とーすと ⑦

 後に分かったことだが、玲子、高志の妻玲子が、比嘉の彫塑や版画以上に彼の詩のファンで、「比嘉さんに場所を提供してあげてよ」「ええなあ、子供連れて比嘉さんの泥こね手伝いに行こうかな」と羨むように望んでいたという。それを知った当時、玲子ならそう言うだろうと納得した。                                                                                                                              受け容れを決定した三日後、比嘉は泥こねのトロ箱を持ち込み、頭にバンダナを巻いて早速下地板の製作から始めた。                                                                                                                                                                      垂木を軸組みしてコンパネ=厚いベニヤを、ビス縫いして行く。レリーフと言ってもこういう下仕事があるのだ、銭なし弟子なしの身であればそれを作家自らするのか・・・、と感心して見ていた。下地が組み上がった頃には、組合のメンバーと比嘉との間に「いっしょにやってみるか」という連帯感のようなものが芽生え、とうとう作業を手伝うことになった。製作ノートのスケッチには、レリーフが一部大きく立体に、つまり凸状になる構想で、その部分は塑材を支える金属の骨が要る。立体で飛び出すのは米軍の「銃剣とブルドーザー」による基地建設用地強制収用の戦車の前で竦む沖縄の子や、GHQ支給のミルクのガロン缶を抱える東京の子とその缶などだった。沖縄ー東京での、子供たちの目に映る敗戦直後の光景の落差を示していた。作品タイトルは『子供たちの戦後』だったと記憶している。何でも、教員組合からの依頼で、新しく完成する会館のロビー壁面に設置されるという。幸いこっちは金属加工業だ。比嘉が求める骨も容易く作れる。助手の希望者が多く困ったが、話し合いの結果若い久保君に決まった。久保君は数日後の比嘉が来る日に、奥さんを連れてきて比嘉に紹介し、買ってきた比嘉の版画詩集にサインをもらっていた。

やがて、比嘉とは呑み仲間となって行く。裕一郎!と呼び捨てる語りは信頼と親交の証だと裕一郎は思うことにしているが、下の名を敬称抜きで呼ぶのは比嘉にとっては普通なのだった。製作の五ヶ月間はもちろん、その後も今日に至るまで比嘉は争議中の占拠中社屋の、その工房の日々を大切に思ってくれていた。週に一度か二度だったが、五ヶ月もの間、勤務の関係で主として昼間に通ってきた比嘉は、組合の実情もよく見ていた。                                                                                                                                                          「裕一郎、お前さんと高志は絶妙のコンビじゃ。ワシの受け容れを決めた時も工夫したんじゃろ?」                                                                                                                              「工夫?」                                                                                                                                                         「いや、手伝ってくれてる久保君に聞いたよ。いつものように片方が異論を吐く。今回は北嶋さんが消極的意見担当で、と言うとったぞ」                                                                                                                                「いつもそうなってしまうんですけど、それは偶然です。」                                                                                                                                        「じゃから絶妙や言うとるんじゃ。けど、周りはそう見てるし、納得もしとるんじゃ」                                                                                「そんな政治屋やないですって」                                                                                                      「三階の壁の落書き、覚えとるで」                                                                                    「何です?」                                                                                                                                                         「党ならざる者たちによる大規模叛乱と自治・・・。全部拭き取ってるのに、あれだけが遺されているように見えた。最後にある自治というのがええ。」                                                                                                                                 「ああ、あれはたぶん社長高志が書いたと思いますよ。ぼくには高志のように、党というものと絡む歴史も葛藤もありません」                                                                                                                                                             「ワイ・トラップという社名の由来が、どうもワシには読み解けん。トラップというのは動物を生け捕りにする罠のことじゃが…。Y、や行の始まり音、優しい罠、やっかいな罠、ゆかいな罠、いろいろ考えたがどうも変じゃ。アルファベットで、Y-TRAP。教えてくれんか。あの落書きと通じておると直感しとるんじゃ」                                                                                                                                                                         「どうでしょうか・・・知りません。あれも命名者は高志です。Xトラップという、設立時に発注してくれた客先からもらったと聞きましたが・・・」                                                                                                            「そうかのぉ? 文字の謎々じゃろ」                                                                                                                                                  

冬、作品製作が終わりかけた頃、作品の前で腰掛けて、差し入れたコーヒーを飲みながら話を聞いた。比嘉は沖縄の戦後ではない「占領下」を生きた時間を語ってくれた。                                                                                                                                                        比嘉は、高卒後嘉手納基地でのバイトなど転々とし、五九年米軍政下のオキナワから、琉球政府の特殊法人である琉球育英会が管轄する「国費・自費沖縄学生制度」で、パスポートを携えて関西の大学に渡航留学した。二十歳を過ぎていた。大阪北部にある沖縄県人会寮に住み九年かけて卒業した。貧乏学生が、汽車と船を乗り継いで長時間と大金をかけての往復は一苦労で、めったに帰れなかったと言い、随分努力して慣れた関西弁だが、言葉の壁などからアルバイトと言っても肉体労働や内職的な軽作業しかなく、学生生活は厳しいものだったという。                                                                                                                                                                                                                「どうじゃ、立派な大阪弁やろ」                                                                                                                                                                                                                                                  五〇年に「琉球諸島米国民政府」(USCAR)が琉球政府という「半自治政府」を作る。USCARは立法院の同意無く法令を公布し、立法院が施行した法令の修正権を有していた。琉球政府行政主席・琉球政府裁判所長官は、六八年屋良朝苗氏が初の公選主席なるまで、USCARによる任命や間接選挙だった。                                                                                                                                                            元々、米軍基地基建設は強制的な土地接収で行なわれ、地主の事前合意・適正補償などの法的基礎なく行なわれた。土地を無くした住民を、軍に関わる仕事、軍人と家族への商品・農産品・サービスの労働力として雇用することを、就業機会を提供していると言っているに過ぎない。知らなかったことが一杯だった。                                                                                                                                   比嘉は、復帰後何が変わったのか?と言い、返還後の実情も話してくれたが、「自分で考えろ」とでも言うように、口調が訴え調から穏やか調へと変わるのだった。                                                                                                           「まぁ、占領後ずっと去年七八年まで、車がアメリカ式に右側通行だったことに象徴されるように米軍政下やったと言うことじゃ。返還から七年、今はどうか・・・。日本人は実は知っとるんや、何故そうなっっているのかを、その何世紀にも亘る永い琉球と日本の関係史を・・・」と結んだ。もう二十五年になる。                                                                                                                                                                               一番印象深い言葉は今も憶えている。その後、比嘉はこう言ったのだ。                                                                                                                                                                「裕一郎、お前さんらは職場を奪われ、こうやってこの職場を占拠して食うや食わずで、ここの小さな空間に居る。沖縄はまるごと奪われているんじゃ。ワシは思うんじゃが、どこかで、お前さんたちとおんなじじゃ」                                                                   比嘉はそう言ってくれたが、裕一郎は「あなたがたと、これこれで繋がっている」と言える中身も無く、ただじっと聞いていた。

 

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