連載⑲: 『じねん 傘寿の祭り』  二、 ふれんち・とーすと (6)

二、ふれんち・とーすと ⑥

「断腸の想いで売った代金なら、なおのこと早く回収しましょう」                                                                                 「そうだね、それが入れば保証金払ってもお釣が来る」                                                                                                                                                                           「いや、それがなければ保証金払えない、でしょ。現在の持ち金はいくらあるんです?」                                                      「君にぼくの懐具合を洗いざらい全部見せなきゃならないという法でもあるのかね?」                                                                                   「いえ、細川から回収できない場合、保証金は払えるのか払えないのか、と」                                                                                                                                         「払えないよ、払えるもんか!六十九万も…。裕一郎君、値切れないかね」                                                                       「値切ったところで払えませんよね !」                                                                                                                                「君は、人の話の腰を折る。ロマンというものを解さない野暮な男なんだねえ」                                                                                                                                    ロマンでも何でもいい、何とでも言ってくれ。契約前なら手付金はたぶん戻って来るだろう、しかし契約後では・・・。仕方がない、手付金を棄ててでも、白紙に戻すしかない。                                                                                                                                                                                                                                                                                         保証金など頭になったのだろうか。家賃タダというのはどういうシステムなのか考えなかったのだろうか。在庫がどれくらい在って、店を埋める品の仕入れは・・・、常駐店員を雇うならどれだけの人件費で・・・、次々と質したい疑問が溢れた。いくつか質問したが要領を得ない。在庫なんか要らない、今自宅に在る品と、都度委託で入手する全国の陶芸家の作品ですぐに埋めて見せる。委託だから、仕入れは発生しない。ゆえに金はいらぬ。売れてから、その分を払えばいいのだ。永く、無名の駆け出しの頃から可愛がり育ててきたんだ。みんな協力するさ、この黒川自然が国際通りに店舗を構えるんだよ。放っときゃせんよ。                                                                                                                                                                 有り得ないことだが、文字通りの「売上の一〇%」のみで最低家賃云々がなければ、確かに在庫と委託で維持出来なくはないかもしれない。それでも人手は要るのだが・・・。                                                                                                                                                   話にならない。国際通り案を断念させねばならない。

そうだ比嘉真に説得してもらおうと思いつき、黒川に訊いた。                                                                                                                                                             「黒川さん、沖縄に来て比嘉さんに会いました? 大阪のギャラリーを閉めることになって作品返したきりでしょう、ちょっと挨拶に行きますか? 美枝子さんの話では、去年夏米軍ヘリ墜落の時に電話されたそうですけど・・・」                                                                                                                                                          「あそこは遠いだろう。沖縄は電車がないし、移動はバスだ。彼んとこは確か」                                                                                                                                  「ぼくが知ってます。以前お邪魔してますし」                                                                                                       「車は便利だねえ。だから、ぼくは車を借りようと言ったんだよ」                                                                                      電話すると、比嘉はアトリエに居た。                                                                                                       「おう裕一郎、沖縄に居るんやろう?」                                                                                                                                                                                                            「えっ、どうして知ってはるんです?」                                                                                「相棒から電話あったよ。裕一郎が二・三ヶ月行くのでよろしくってな」                                                                高志が比嘉に電話していたとは・・・。                                                                                                                                                                                                            高志と裕一郎は、比嘉にとってワンセットだ。今は反戦版画家として有名な比嘉だが、沖縄に帰りドッカと座る前、大阪で夜間高校の教師をしていて、彫刻、正確には彫塑だが、彫塑中心に制作していた。七〇年代が終わろうとする頃、大型のレリーフ作品を依頼されたとのことで、工房を探していた。製作する作品は5M×2Mの大作で、広い場所が必要だ。金が無かった比嘉は困っていた。                                                                                      職場占拠して二年目の夏だった。倉庫の片隅を工房空間として貸してもらえないか・・・。労働組合に話を持ってきたのは、比嘉と親しい滋賀の市会議員で、高志・裕一郎とは大学期の知人だった。占拠開始以来、旧会社が使用していた状態のままで荒れ放題の倉庫を、整理すれば空間は作れる。比嘉の作品を多少は知っている裕一郎は話を受けようと考えていた。                                                                                                                                          高志と裕一郎は、互いに、発議者がもう一方なら、反対ではないにしても発議された提案のリスクを言い不備や足らずを語る。二案が組合の論議の遡上に上り、結果として落ち着くところへ落ち着く。一度たりとも事前に相談や調整などしたことはなかったが、他の者からは、まるで出来レースのように見えたことだろう。                                                                                                                     比嘉の要請を受けるには、やや消極的な態度で臨めば実現するかもしれないと考えた。そう踏んで、裕一郎は何とも本心から反れて秩序的な言い分を吐いた。職場占拠中の警備は、いつ占拠解除を目指して物理力が行使さえれるかもしれないとされていて、事実夜間の見張りを交代で配置している。昼間であってもオープンな出入りはいかがなものかと、その警備の面から、もうひとつは作品製作という「創造的」な事態に目を奪われ仕事への集中が疎かにならないか、そこをまずクリアする対策が必要だと、仕事の面から。                                                                                                                                                     高志は、比嘉の創造する心や姿が争議に与えるプラスの影響は計り知れないと力説し、多くが賛同して、比嘉からの要請の受け入れがあっさり決まった。 してやったり・・・、だった。                                                                              

 

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