交遊通信録: 雨中デモの帰り 東アジア地図が浮かぶ

国民国家という括り、民族という属性、自己形成した社会・文化・言語・・・、それを損なわれた存在に対する立位置を考えさせられた。                                                                                  

 先日、京都:雨中デモの帰り、古い仲間たちと打上げとなった。                                                                                        そこで、若い人から、沖縄の歴史的経緯、「米軍基地を県外へ」「沖縄植民地論」「琉球独立論」などが語られた。                                                                                                                       一方、当否はともかく現代の国境線で永く固定され過ごした以上、一体、今どうせよと言うのか? それは可能なのか?                                                                                                 沖縄びとにとって望むところなのか? 実効性はあるのか? との声も出た。                                                              さらに話は、日本で生まれ育ち、母語の読み書きを損なわれ、そこで生き暮らし、定住(?)している人々の課題に及び、                                                                                                                   ナショナリティの問題や民族という課題、3世4世が生き日本人と結婚する人も多い現状で、人間が「損なわれ」ない道や如何、などに及んだ。

 現実的な線引き、社会的・制度的な位置取りだけでは果たせぬ、在日する者の「損なわれ」て「確立困難」な                                                                                                           アイデンティティ恢復と確立への道程に、日本国・日本人・日本社会という「城内」から、どのような思想をもって繋がるのか?                                                                                                                   けれど、人間が抱える果たせぬ「課題」の、「袋小路」は百も承知(?)の上で、では現実的にどうすればいいのかと、                                                                                        云わば建設的構想と共生思考に基づいて語られていよう言説は、ぼくが繰り返し通過する折り返し点など折込み済みだ。                                                                 袋小路を自己の内で百回も千回も潜った上であえて言っていることを、                                                                                                         ぼくとて十回か九十回は咀嚼して来た。同じことを、違う側面から語っているに違いない。                                                                                                「現実政治や現実対処をどうするかを語れない言い分は、結局は、文学的なのだと斥けられる言い分なのだよ」                                                                                                      というぼく自身の内の声に戸惑うぼくなのだ。そうして、いつも、ずうーっと何一つ実効性ある言い分を吐けはしなかったのだ。                                                                                        西大和教会「沖縄通信86号」(http://www.eonet.ne.jp/~nisiyamato/) には、                                                                                                                「国連:琉球民族は先住民族と認定」「沖縄の自己決定権」について詳しい。 ぼくの中の、袋小路・行き止まりを解いてゆくヒントがあるだろうか。

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 全く、話は違うが、そして上手く関連付けられないが、学童疎開世代歌謡「おさななじみ」(作詞:永六輔)への                                                                                                                       異論(http://www.yasumaroh.com/?p=669)を書いた時、ぼくの中に在ったのは、敗戦時に児童~少年だった歌人三人の下記の歌だった。                                                                                そこに、戦後を見る目の「確かさ」「身深さ」と、「ではどうしろと言うのか?という現実的(?)な問い」を超える「普遍性」を視たのだ。                                                                              塚本邦雄:『突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼』(1920年生。敗戦時25歳)                                                                                                                 寺山修司:『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』(1935年生。敗戦時10歳)                                                                                                    平井 弘:『撃ちし記憶われらはもたず戦いの日をひもじさとして受けとめて』(1936年生。敗戦時9歳)                                                                                                                                                                                                                       

前天皇ヒロヒトが戦争責任に関する質問に「そのような文学的な」ことには答えにくいと何とも巧みにかわしたというが、                                                                                                            それは文学的なことなのか? 文学的とされる課題の、現実世界に繋ぎ止める文脈を、                                                                                                           永遠に掴めぬ文脈を、それでも求め続けるのが、「文学的」を超える「現実的」態度なのかもしれない。

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【別件】

井上清氏がどう言ったか詳しく知らないし、中国の古文献にどう記載されているか不知だが、(魚釣島)=(尖閣諸島)について、                                                                                                                 大国(中国・日本)の近現代の双方の「証拠(?)」を列挙されても、                                                                                        地質学的に中国の大陸棚上に在り、16世紀「明」の琉球へ冊封使が、しばしば寄港(飲料水確保できるので)していたと知っても、                                                                                            日本が、日清戦争(1894~95)の戦勝に乗じて(下関条約には記載なく)実効支配したのだと知っても、                                                                                                「あの海域の海人の庭だったろう」以上の線引きに与することは保留したい。                                                                  飲料水確保は、あの海域の海人が、日中に先んじて行なっていたに違いないのだ。                                                              今のところこの考えは変わらない。ソ連以来の、社会主義国の領土・民族への強引(チェチェン族・朝鮮族などへの強制移住を含む)までも想起してしまった。                                                                                       とはいえ、もちろん、ヤマトのものでも明治政府のものでもありはしない。

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