品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ①/3
<「日出処の天子」が打たせる鐘>
-以下06年稿に加筆し、一部修正したものです。-
10世紀初頭、901年大宰府の地に在った菅原道真は、都督府跡に立尽くし、観世音寺の鐘声を聴きつつ、ある諦念の中でこう詠んだ。 「都府楼はわずかに瓦の色を看、観世音寺はただ鐘声を聴く」(和漢朗詠集) 道真は、冤罪による左遷という自身の身の上を嘆き、その地の悲運に重ねていた。
10世紀初年においてなお、往時の輝きを奪われた大宰府は荒涼たる気配の中に佇んでいたのだ。 観世音寺の鐘は日本最古の紀年銘文ある梵鐘とされ、同じ鋳型で鋳造された兄弟鐘が妙心寺(京都市右京区)にある。材料の銅は成分分析や伝承から福岡県香春の産とされる。香原=カワラは「サワラ」の音からの命名に違いないが、香春岳は古代から銅の産地だ。大阪府茨木市沢良宜(サワラギ)などの例も同様に、サワラ=銅は古代史家が一致して認めるところだ。
妙心寺の梵鐘は、『徒然草』でも言及されていて、雅楽の「黄鐘調」(おうじきちょう)に合う美しい音色だという。梵鐘には鋳造年銘文が刻印されていて、戊戌(つちのえいぬ)から698年と比定されて来た。 698年? 「白村江の戦663」の大敗北、中大兄皇子の王権奪取~近江宮遷都(668~天智天皇。没:672)、壬申の乱(672)、大海人皇子の勝利・即位(天武天皇)(673~)、持統女帝(690~)藤原京治世~名高い内紛劇(大津皇子抹殺など)、697軽皇子への譲位(文武天皇)… その翌年ということになる。 観世音寺の梵鐘鋳造を含め、近畿天皇家の事績とするのが何かと丸く治まるということか? この戊戌の歳が60年前の638年だとすれば、何が不都合なのか。いわゆる「大化の改新645」(中大兄皇子が、母:女帝皇極の愛人=蘇我入鹿を斬った事件=乙巳の変)より以前であり、近畿王権は政権基盤建設途上であり、彼らの正史に照らせば、638年の九州に大伽藍・名梵鐘が在ってはならないのだろう。 逆に、九州「倭」の経過を辿れば、638年鋳造の方に歴史的整合性がある。 607年、隋皇帝:煬帝に国書(阿蘇山あり、その石故なくして火起こり)を送った倭王=日出処の天子=多利思北孤=タリシホコは、仏教に深く帰依し、その信仰を次代・次々代へと引き継いでいた。 観世音寺の兄弟梵鐘の一つ、妙心寺の梵鐘は運び去られたものだ、観世音寺の伽藍は解体・移築され法隆寺となったのだ、法隆寺釈迦三尊像は観世音寺に在ったのだ、その光背銘にはヤマトにない年号(九州「倭」年号)が書かれている、等々言われている。 【移築?バカな! などと言うなかれ、元興寺は飛鳥寺の移築だとあんたら言っているではないか!】 【詳細は別機会に】
北部九州の「倭」や倭都の事物は、では何処に在るのか? 移築・移設・抹消されず残るものなどあるのか? あるのだ! 古からの外国(中国・朝鮮半島)の史料・資料、出土物品、伝承・風土記、当時の東アジアの常識、当時の地政学的地図、さらに「歌」、そして動かしえない土木遺構・建造物・城砦石垣・等々(多くが喪われたが…) ぼくらが、大宰府政庁跡遺跡を訪ねて出会う、跡地公園にひっそりと立つ石碑の「都督府古跡(こし)」という表記、「都督」とは何か…。 次頁はそこからです。