書評:ヘルメットをかぶった君に会いたい

「世代」という「城壁あるいは党派性」を崩す試み

      鴻上尚史著『ヘルメットをかぶった君に会いたい』(集英社\1,700)

 懐かしい昔の曲を集めたCD集のCMを観ていた作者は、TV画面に【はしだのりひこ】『風』が流れる度に映し出される背景映像に目を止める。60年代末、ワセダの入学式前後の映像だ。その中の一人、大写しの女性に強く心惹かれる。学生運動なるものが「牧歌」的(?)であっただろう時代。ヘルメットをかぶった当の学生もまだ顔を隠すマスクなど着けてはいない解放感。色の違うヘルメットは華やいでさえいて仲良く交錯しているかに見える。そこに醸し出される薫り匂い・・・。

 作者は、いうところの内ゲバやリンチ殺人事件といった夥しい負の現象と思想の屍(?)を背負ったまま、やがて学生運動が終焉を迎えて行くその同時代に間に合うことなく、その「あと」にワセダに入学した者であった。例えば3億円事件(68.12)の時には、作者は小学校四年生の少年であったのだ。

 いま、画面に映っている一人の女性、「ヘルメットをかぶった君」の微笑みは何なのか? 一世代前の学生運動の云わば原初的精神、映像から垣間見える「牧歌」の正体、そこを知りたい。映っている世代への羨嫌がないまぜになった憧憬、祭りのような時空・その映像の中に「自分がいるんじゃないか」(鴻上)とさえ思わせる高揚、そうした感情の根拠を解きほぐして見届けたい。その世代の原初の声をどうしても聞きたい。そうした想いが「君に会いたい」となって込み上げてくる。作者の「ヘルメットをかぶった君」捜しが始まる。

貴女は何故こんなにもにこやかに微笑みながら、新入生らしき若者に語りかけているのか? この無防備な雰囲気の根拠は何なのか? それは意識して創られた演出なのか、自他への本気の信頼なのか? 貴女は今どこに居て、そしてどうしているのか?                                   会えば、知りたいと希う答を伝えてくれるか?

 ぼくは生年で括る世代論に与する者ではない。公的記憶(パブリック・メモリー)と生年とを重ねて語られる世代論のいかがわしさを、嫌というほど聞かされ辟易して来た者でもある。生れ年ではなく、記憶を刻んだ時間がその人の最初の時間だと考えて来た。否応なく自身に向き合わねばならないあの時間のことだ。

 にも拘わらず、ぼくを含めたあらゆる「世代」が持ち合わせている抜き去り難い排他性の根拠は一体何なのか? ぼくはそれを「世代という城壁」と呼んでいる。その城壁の内側には、ある「公的記憶」を共有する者が「同世代」であること以外何の根拠もない相互免罪の恩恵に預かって、棲み続けている。城壁は城内の自分たちと城外の他世代とを隔てていて、それは、ほとんど党の城壁に似ている。だからたぶん、それは「世代という党派性」に違いない。そうした城壁を意識して崩そうとする者は稀で、ぼくらは赦されて棲むことができる城内に留まっているのだ、共有する「公的記憶」それ自体を問うこともなく・・・。

 作者鴻上が成功したかどうかは別にして、『***君に会いたい』一冊は、ぼくとは違う世代からのぼくらの「世代という城壁あるいは党派性」を崩す試みである。

  さて情報だけは捜し出せた「ヘルメットをかぶった君」は、果たして現在もなおK派の現役活動家であった。五十代後半の彼女が、微罪で全国指名手配中であること、CM映像当時のK派全学連委員長の彼女だったらしいこと、ワセダのキャンパス内で起きた内ゲバ殺人事件の見張り役だったのでは? などが示されるに及び、作者の思想の片鱗、言わんとするものが見えて来る。

貴女のあの時の微笑みと、その後の時間との関係性を教えてくれ。 自分が体験したのではないという意味で「幻の過去」(鴻上)である時間への「激しい郷愁」(鴻上)と共感、貴女をいまなお党の「城壁」の内側に留まらせている「力学」への当惑と違和。

実はその明暗の両方を、我が身に棲むものとして引き取り解き明かさないことには、あの世代と交信することもその城壁を崩すことも出来はしないのではないか?

その「力学」がそしてぼくが、たぶん持ち合わせてはいないだろう大切なものを、ある女性詩人の詩に読んだことがある。優等生であり、四百人の女生徒の軍事教練を率先して推進し、軍務教官から褒められる軍国少女でもあったという女性の、戦後間もない時期の痛々しくも鮮やかな回生の記憶だ。

『夏草しげる焼跡にしゃがみ/ 若かったわたくしは/ ひとつの眼球をひろった/ 遠近法の測定たしかな/ つめたく さわやかな!/  たったひとつの獲得品』

(茨木のり子「いちど視たもの」より)

  そして鴻上が言っているような気がするのだ。ぼくら世代自身の団塊世代・全共闘世代なる論や、そして自覚的か否かによらず築いている城壁は、凍て付いてか火傷してか痛手を負って手にした「眼球」=回生を遂げる獲得品 などではない。 それはおそらく、いかがわしいものなのだ。たぶん「ヘルメットをかぶった君」以上に・・・、と。

 それぞれの城壁崩しを、ぼくならぼくが貴方なら貴方がする番なのだ、とこの一冊は問いかけているように思えてならない。

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