たそがれ映画談義:『百万円と苦虫女』

 
 
 
『百万円と苦虫女』 2008年、監督:タナダユキ、出演:蒼井優・森山未来・ピエール滝
 
百万円と苦虫女
 
Web評論誌「コーラ」誌上への紹介文:
【品川宿 K
苦虫女の所持金が100万円に戻れば、彼女は決め事を実行し街を去るだろうと
100万円に戻らぬよう寸借を繰り返した学生の彼。
学生生活を羨む心が猜疑心を倍加させてか
「なんで、あなたと女子学生のデート費を私が出さなきゃならないのよ」と言ってしまった苦虫女。
若い意地の張り合いに心当たりはある。
学生が去って行く苦虫女を追った横断陸橋で、
二人を逢わせないラストシーンの「行き違い」はアッパレです。
そう、人生はこの種の行き違いの山で構成されているのですから。
 
【黒猫房 Y
苦虫噛んで「やってられないよ」とばかりに、100万円貯めては次の町々へとさすらう主人公……、
主演の蒼井優がとてもよかったですが、森山未来という男優も、
健気な不思議な存在感がありました。
<学生(森山未来)が去って行く苦虫女を追った横断陸橋で、
 二人を逢わせないラストシーンの「行き違い」はアッパレです。
 そう、人生はこの種の行き違いの山で構成されているのですから>という品川宿さんの指摘は
その通りなのかもしれませんが、なんとか出会って苦虫女を抱きしめてほしいと祈りながら
このラストシーンを観ていた人は私だけではないでしょうね、きっと。
そして、このすれ違いの思いを引きずってしまうのは学生のほうだけなのか?
……けれどもその思いも、いずれは怠惰な時が癒してしまう。
したがってこの映画のラストシーンは、「華奢な感じ」に見える苦虫女がまあちょっとぐらいは
振り返ったとしても、その姿は凛として町を立ち去ってゆく……という「アッパレ」な結末というわけですね。
 
再論:
 
【品川宿 K
我ら二人、偶然同じ映画を取り上げましたね。ええ歳したオッサンが二人、
ネット社会の片隅(?)で、蒼井優的若者への共感・声援の、
キーボードを密かに叩いていたのか・・・、あの苦虫女に届けたいね!
ラストのすれ違いを、
「なんとか出会って苦虫女を抱きしめてほしいと祈りながら観ていた」のは、
ぼくも同様なんです、もう泣きそうになって・・・。
学生が控えめに発した言葉「自分探し・・・みたいなことですか?」に蒼井優が返す、
「いえ・・・。むしろ探したくないんです。探さなくたってイヤでもここに居るんですから」 と。
続いて苦虫女は弟への手紙で、こう独白する。
「姉ちゃんは、自分のことをもっと強い人間だと思っていました。でもそうじゃありませんでした。」
ナチュラルであるのに、そのナチュラルこそがむしろ
生きにくい理由の根本を構成している。
という転倒状況が若者たちを覆う今どき。
ラストのすれ違いは、その「今どき」の若者が強いられる「社会」からの「要請」を、
容れて・学んで・こなして行くのではなく、ナチュラルの側に身を置き続け
「ここに居る」とする、若い苦虫女=蒼井優の宣言だなぁ・・・と思えて、
その立ち姿に「アッパレ」と拍手したのでした。
この二人、苦虫女と学生は必ず再び出逢います(現実場面でなくとも)。
ナチュラルということそのものに棲む「無知・過信・無謀」を、痛手を負って思い知り、
その代価を支払い、年齢と経験を重ねても
「社会」の「要請」の核心とは決して和解しないぞと生きる限り・・・。
                                                                                                                                                                                   
【黒猫房 Y
いやあ~「よい読み」ですね! さすが「映画オヤジ」(喝采)。
あのラストシーンには学生君の「必死さ」に対して、「あんたには頼らないわよ」
という「見かけによらない、芯の強い女」のメッセージ性と爽快感がある
とアンケートの初稿ではそのことを書いたのですが、「見かけによらない、芯
の強い女」というのは監督の狙いではないだろうし、現在のフェミニズムの達成点は
> 「いえ・・・。むしろ探したくないんです。
>  探さなくたってイヤでもここに居るんですから」
>「姉ちゃんは、自分のことをもっと強い人間だと思っていました。
>  でもそうじゃありませんでした。」
と、苦虫女に言わせる境地じゃないでしょうか?
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