つぶやき: 新宿現場足捻挫。 ふと母を想う

現在進行形の現場は新宿ど真ん中。
工事は進み、終盤に差し掛かっている。ホッとしたその矢先、
徹夜ボケか、右足首を軽捻挫。床に零れた塗料に脚を取られたのだ。
怪我をするのは、えてしてこうした気が緩んだ時なのだ。
あ~ぁ、又やってしまった。
幸い、4~5日で治まりそうな軽度な捻挫だと思う。
足首を捻挫するのも、脚があるからのことだ・・・・・・と思うことにしたい。
脚を引きずり、始発電車へ急いだ。
 
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 昨秋満90歳を迎えた母は、現在某市の「特養」に入居している。
体力的には年齢相応なのだが、なかなか頭脳明晰(?)で衰えを感じさせない。
昨秋新型インフル騒ぎで遅れた卒寿の祝会を、今秋することになっている。
 
父母は、92年から私の家に同居していたのだが、
98年に私は20年維持した会社を破産させてしまう。
母は、夫(私の父)の死去、孫も成長し昼間独りの孤独と不自由、
息子家族の、家屋からの法的立退き・・・などを前にして、
同年某市のケア・ハウスへの入居を選択する。
入居直後の母の歌。
『枯れ庭に  白き水仙匂いたち  独りの冬を誇らしげなる』
ハウスでの時間を独りで生きる、その覚悟を水仙に託して詠ったと思えるこの歌は
詩人:清水啓三氏から絶賛された。
本人は「ワテは水仙の凛々しさを詠ったまでやけど・・・」とアッケラカン。
幸い近くに住む私の弟夫妻が寄り添い、
兄夫妻・私の女房、各孫たち・・・が、頻繁にハウスを訪れ、
ハウスでの母は、本音か強がりかは微妙だが、「ちょうどええ感じや」と
家族との程よい距離を楽しむように、元気に振る舞い、歌会を立ち上げ、そして暮らした。
 
体力の衰えと、いくつかの病もあり、先年ケア・ハウスと同系列の「特養」に入居する。
2008年夏、母は「閉塞性動脈硬化症」←http://www.gik.gr.jp/~skj/aso/aso.php3
の発見が大幅に(一昼夜)遅れたことから、左脚膝部より先が壊死状態となり、切断に至った。
現在、片脚を失った失意と不自由を克服して、命の最後を「生き抜いて」いる。
 
 
 
【08年夏。足切断の母を見舞ひて九首. 品川宿康麿】

病床に身を起こし居り膝撫でて
 「これ可愛いねん」と 母のつぶやく

包帯に丸く小さくくるまれし
  膝切断部 「ぬいぐるみ」のごと
 
膝先を可愛いと言ふ母 遠き日の
 恋人形探す 三歳の童女
  
 【注】
 乳児期を乳母の許で育った母は、
 ゆえあって、三歳で実家に戻った。
 生母になつかず、実家に馴染まず、
 いっしょにやって来て大切にしていた人形を抱いて、
 乳母恋しと毎日泣いたといふ。
 その人形が、ある日を境に突然姿を消す。
 その日の記憶は鮮明で、母の歌集に
 「みれん断ち実母に返すが此の稚児の 幸せならんと諦めし乳母」 
 「やすらかな寝息たしかめ帰りしとう 若かりし乳母とわれとの別れ」
 「乳母里より付き人のごと添いて来し 田舎人形夜ごと抱きしよ」
 「いつの間にか姿消したる縞木綿の 人形恋いて泣きし幼日」  とある。
   (私は、角田光代:著『八日目の蝉』を読んだ際、会ったことのないこの乳母とその母性を強く思い浮かべた。)
 
 誰が何を想って棄てたのか?と問うている。
 三歳児の記憶としては、あまりにも重く酷な記憶だ。
 以来、互いにとって「不幸な母子関係」が永く続くこととなって行く。
 
切断部抱く母の背に戦禍見る
 子のなきがらに すがる母親
  
無いはずの足先疼くと母訴う
 「わて諦めても脳憶えとる」
  
無き足が疼くは人の想いに似たり
 断ち切り渡る 我が師の海峡 
   
母子違和の連鎖絶たむと育て来し
 四人の男児(おのこ)初老となれり
  
ミスや過誤言い募らざる老の意に
 我が半生の 驕慢を知る 
  
生家にも嫁家にもつひに容れられぬ
 若き日知る足 独り先立つ

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