交遊通信録・品川塾誇大史 消された「倭国の記憶」

さん。

前頁で言いました予告編です。機会をみて、順次詳細を記述しましょう。「倭」は近畿天皇家ではありえないことが、明らかになると思います。

海峡とは 
人と人、民と民を 断ち・切り・分け・隔てる為の境界ではなく、
人と人、民と民が 出逢い・繋ぎ・結び・交わる為の「場」なのだ。
 
 【たそがれ誇大史:予告編】 最も大規模かつ長期の「記憶の改竄」を糾す 
①9500年前ころ~: 
  鹿児島県国分市「上野原縄文集落」(6300年前、喜界島大爆発で消滅)
  の縄文土器の製法を含め、この集団の出自は?
②4500~3000年前:
  青森県青森市「三内丸山遺跡」の縄文土器・ヒスイ・防腐用コールタール?
③2500年前 前後:
  出雲「国引き神話」に見る、事実の反映、ウラジオストクに隠岐産の黒曜石。
  縄文晩期の苗代式稲栽培=板付遺跡・茨木牟礼遺跡・岡山県総社。
④2100年前 前後:
  出雲「国譲り神話」、誰がどこに譲ったか? アマ原圏=楽浪海中倭人あり(漢書地理誌)
⑤西暦紀元前後:
  アマ勢力、北部九州に本拠地設営。天孫降臨。
  *古事記:「韓国(カラクニ)に向かひて 真木通り(一直線だ)、笠沙の御前にして
     朝日の直刺す国 夕日の日照る国なり、 故 此の地はいと吉き地」 と降臨の地を描写している。
    誰が、無関係な地を特筆するか? カラクニが出自の地だと誇っているのだ! 洛東江両岸、伽耶の地こそ天孫の故地だ。
  *後漢書:「建武中元二年(57年)、倭奴国、奉貢朝賀す。光武、賜うに印綬を以てす。」
    志賀島出土の金印。「漢倭奴国王印」は「カンのワのナ国王の印」(三段読み、例なし)ではない。 
    いえ、「カンのイド国王の印」です。つまり、北部九州王権の王への印。
  *後漢書《倭伝》「倭国は古(いにしえ)の倭奴国なり」
⑥2世紀:
  北部九州王権の一部の東征。ヤマトへ。当時の地形、河内湖、南方(ミナミカタの水路)。記紀説話との一致。
⑦3世紀:
  魏志倭人伝:「その北岸、狗邪韓国に到る」。すなわち、半島最南端部が「倭」の北岸だ!と言っている。伽耶の地だ。
  傍証:魏志韓伝:「南は倭と接す」とある。
  「郡(帯方郡)より女王国に至る万二千里」 魏の尺度:一里=75メートル内外。
  重装備した軍用馬が一日に駆ける距離は75Km=すなわち千里・・・千里馬(チョンリマ)。理屈に合う。
  ゆえに、万二千里は900Km・・・・・・邪馬壱国はどこだ?
   北岸が「狗邪韓国」、南岸が「邪馬壱国」・・・・。海峡国(勢力圏)「倭国」の姿はこれだ!
⑧空白の4世紀:
  百済(ペクチェ)王、倭王旨に七支刀を贈る。390、新羅(シラ)王、子美海を倭へ質と為す。
  高句麗広開土王即位。
⑨5世紀
   美海、倭を脱走。「三国史記」「三国遺事」(半島資料)が描く「臣:堤上の悲話」が語る倭都は海岸に接し、       
   堤上夫人が新羅の嶺に立ち「倭国を望み」慟哭できる地、北部九州の海岸だ。(朴堤上の悲話は壮絶だ)
  倭の五王(讃珍斉興武)はだれだ? その本拠は何処だ? 倭王武が宋(南朝劉宋)に出した上表文。
  東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國
 (東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国)
  この地理観は近畿でありようもない。中国に通用するいくつかの歴史を前提に書かれている。
  「あなた方が知っている漢書に言う楽浪海中の、魏志にある女王国の、あの倭です」と。
  半島では、高句麗の拡大。474百済第一次滅。
⑩6世紀:
  上記⑥以降のヤマト王権、武烈後に政権混乱政治空白(?)。越(福井)のオヲド擁立の怪、楠葉で即位、20年後ヤマトへ。
  オヲド(継体天皇)の側の叛乱=九州侵攻(531筑紫の君磐井の乱と教えられた)。が、オヲドは戦を前に重臣:物部アラカヒに言う、
  「長門より西汝とれ、長門より東朕とらん」 ん? 長門(山口)より東にも、西の別王権の支配地ありと自ら認めている。
⑪7世紀:
  【遣隋使】
  姓をアマと自称するタリシホコなる王(日出る処の天子)が煬帝に国書を送り、やって来た返礼使に自ら面談したという。
  疑問:聖徳太子は「天子」か? 国書に於いて公的位階を詐称するか? 彼は推古天皇の摂政だ。
  後宮に女性600~700人と自慢しているが、推古女帝に後宮? また、「阿蘇山あり。その石、故無くして火起こり天に接す」とある。
  推古・聖徳太子が九州の山を特筆するか!当然、ヤマトの何かを語るだろう? しかもこの一大外交行動、記紀に記載なし!!小野妹子の訪問先は「大唐」だと書いてある。「隋」とは書いてない。それを学者は「書き間違い」だと言ってきた。違うだろう! 607年の誰かの事績を盗んだのだ。                                       しかも、日本書紀は、607年の前600年の隋皇帝:高宗への第一回「遣隋」に触れていない。???
  【近畿王権内 クーデター】
  645大化の改新?「中大兄が母(皇極)の愛人(蘇我入鹿)を斬った事件に後付けがなされた」との説あり。 
  【半島情勢、倭国臨戦態勢】
  新羅、唐と同盟し660第二次百済滅す。倭、百済からの質=皇太子余豊を返す。百済最後の王に。
  大唐から倭防衛の一環としての「百済防衛・再建」へ全列島動員→ヤマトも斉明天皇・中大兄を先頭に
  数万の大軍を派遣。筑紫・朝倉に陣する。倭、五王時代設営の水城の強化、大野城の整備。首都防衛。
  662斉明死去。喪に服すを大義名分にヤマトは半島へ向かわなかったのでは・・・?
   近畿の主だった将軍・重臣に死者・捕虜なし。「万葉集」にもこの一大悲劇が一切採用されていない。奇妙だ。
    一方、半島では、百済再興運動が対唐・新羅のゲリラ戦を展開。  
    663白村江(錦江河口)で 「唐・新羅」VS「百済・倭」の一大海戦。四たび戦い四たびの大敗北。
  「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍」はここだ。近畿天皇家に大海戦の歴史なし。
   倭軍司令官:倭王薩夜麻、逮捕・連行さる。  倭都、国敗れて山河あり。
  671唐から3000人の使節団が誘導役:薩夜麻を伴い、郭務綜を先頭に来倭。
  672「壬申の乱」勃発。その名に「アマ」を持つ「大海人皇子」(後の天武)側の勝利。
⑫【日本の登場】
  701年。唐、列島を代表する王権として大和を認知。呼称を倭から「日本」に改める。
  旧唐書《倭伝》のあとに《日本伝》あり。「或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)す」
【参考】
「倭」の読みは「ワ」ではない。「イ」「ウィ」「ヰ」だ。
「倭」から「日本」は大変化のように見えるが、発音は中国読みなら「イェーベン」朝鮮読みなら「イルボン」・・・、                                    「イ」「ヰ」の音は継続させたようだ。
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ついでに言うと、
「邪馬薹(台)国」とされている国の記述は中国歴代史書において、
例外なく全て「邪馬壹(壱)国」つまり「邪馬一国」です。
「邪馬」は「匈奴」や「鮮卑」に用いられたような、中国からする
属国・格下国への侮蔑語なので 純国名は「一」であり
その音は「イ」周辺だ。「倭」と同音を踏襲しての命名ではないか?
邪馬「倭」国・・・⇒「邪馬一国」じゃあないでしょうか?

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