異論: 教育の舟は誰が編む

公立小学校選択制・教師相対評価・教育目標知事決定 で教育の舟は編めない

-三浦しをん『舟を編む』を読んでハシズムを想う-

大阪方面の知事いや元知事・現市長が、次期衆院選に向け候補者を大規模に立てると新聞記事にあった。弱点を補うべく都市部・地方でくまなく集票するため、新興ひらかな政党や某宗教政党や某知事と連携して一説では候補者300人以上を擁立するという。                                                                                             官僚批判を、公務員一般バッシングにスリ代え、選挙民から喝采を浴び、ムダ・非効率・利権だ・時代遅れだと、「公」の事業と要員を攻撃して、つまりは「社会民主主義的・的」要素が多少なりともある施策を葬って、競争と選別を軸とする「選民」による「効率」の行政を打ち立て、統制と新自由主義的競争のハシズム「社会」を作るのだそうだ。                                                                                           公務員の給与や労働条件を、民間並みにすると言っては、あたかも「公務員が給与面でも労働条件面でも不当に恵まれている」との誤情報を刷り込まれ、「不当に買い叩かれ、不当に労働条件を下げられ、不当に雇用形態を改悪され」続けている選挙民に支持されたのだ。                                                                                                                                                                     民は、己に被さる「不当」な、労働・雇用・生活を巡るこの10年の実質低下への異論と抗議を、「公務員叩き」へと誘導する「独善的指導者」に同意したかに見える。

しかし、                                                                                                                新市長は、選挙結果を「民意」だと大声で叫んでいるが、誰も個々のイシューについてフリーハンドの委任などしてはいない。官僚批判・ムダ排除・利権排除は当然だが、例えば教員への五段階相対評価と最下級評価(5%)連続二年で解雇などの強権統治はどうだ?                                                                                                                                         どないもならん教師は確かにいるだろう。けれども、評価者(校長や保護者や生徒が想定されている)は、あらかじめ設定された5%を作り出さねばならない。不当だ。しかも教員という勤労者の生殺与奪の権能を、はたして保護者という学校教育現場に不案内この上なく、かつ俗情に塗れた者に委ねてよしとするのか? 私は反対だ。                                                                                                         この「保護者」なる存在のいかがわしさを語る論者に、新市長は「民主主義の否定だ」「民主主義を語りながら、選挙民すなわち市民をバカにしている」とご都合主義民主主義言辞で答えていた。教員によらず「公」的業務・職種に就く者の、カッコつきであれ公共性・中立性・不偏不党性の確保や、質や意欲の確保は、まどろっこしく非効率に見えて可能な限り権力の恣意性や、民の熱狂と俗情に影響されないシステムによってのみその可能性を構想できると思う。それでも可能性であって、もちろん不備満載だ。非効率は、効率が持つ危険性や独断や専横に比べれば、人間社会の歴史に晒された知恵だと私は思っている。この効率万能・まどろっこしさなき制度とは、つまるところ某国の独裁政治制度に行き着く外ないのではないか? 自称『左翼』こそ、今一度「プロレタリア独裁」「正しい党による一党制度」「選挙の否定」「政権から自立した労働運動や市民運動」の意味を噛み締めねばならない。                                                                                                                                                                                  教育目標は知事が決める・・・?。曰く「選挙という民意に晒されない教育委員会など、ノンリスクで無責任。決定権能は選挙の洗礼を受ける者の手にあるべきだ」果たしてそうか?少年の頃、アメリカ西部劇のヒーロー:保安官が選挙によって信任される構図をみて「これはヤバイ」と直感的に思ったものだが、治安を担う者が選挙に晒されて在ることの非中立を思って『OK牧場の決闘』などを相対化して観ることが出来た。選挙という流動的な事態によって「教育目標」や教員の「処遇」が数年でコロコロ変わることの何処が民主的なのか私には理解できない。                                                                                                                                          知事に権能を・・・はヤバイが、選挙・民意と本気で言うなら(戦後の民主的諸改革によって公選制だった教育委員は、1956年首長による任命制に変えられたのだが) 教育委員そのものを公選制に戻すと主張しなさいよ。それなら分かる。複数委員の合議は一人の首長の独断のような一方的な言い分の支配とはなるまい。                                                                                                             ◎     公務員は「不当に恵まれている」のか?   そもそも人口当たりの公務員の数はどうなのか?(公務員が担う分野に差はあるが)人口千人当たりの公務員数の統計(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5190.html) を観れば欧米に比して日本は韓国などとともに著しく少ないことが明らかだ(約80人対約40人)。この30年、保育・清掃・介護・道路・公園管理・学校給食などを民間委託し続けいわゆる先進国の約半分という状況だ。この上「ムダだ」「効率」云々で給与カット・人員削減と来れば、質の低下・人員の離反・意欲の低下・そして「非効率」の先の「行政機能麻痺」と、残った公務員への超人的労務過多が待っている。                                                                                                             このことには言いたいことがある。「民営化」の野放しが招いた事態は、「非効率是正(?)」への賛辞ではなく、残った人員への更なる「虚像の高給与叩き」と「非効率批判」であったという事実だ。民営化は誰が支えているか? 効率とコスト圧縮目的は、当然ながら請けた民間企業の「無権利労働」「低賃金」「材料変更」「過重労働」によって支えられ、かつその民間企業のパート・派遣によって支えられている。民営化のツケは、民間下請け業者の野放し無権利と公務員自身に跳ね返っている。これ以上の民営化を阻止し、民営化には厳しい条件を義務付けることが肝要だ。                                                                                           ◎     小中学校選択制については、選択制を採用した自治体で「元々あった格差を固定拡大した」「元々在る地域偏見は拡大している」「少数の勝組校(人気集中校)と、不人気校を作っただけ」「地域で子供を育てるという地域の教育力(ただでさえ風前の灯火だが)が解体風化する」などと再検討されている。そもそも、なぜそれほど公立校間「競争」を推し進めなければならないのか? 教育が困難なのは、学校だけではない。家庭・地域社会・労働現場・他、いずれも社会の縮図に違いない。とりわけ小中公教育が攻撃されるのは、教育への不満・不安に「これこれが悪いのだ。そこを正せばいいのだ」と「悪者」を作り出し、単純明快な論調で「選挙民」の支持を得る。その支持を持続するためには、不断に「悪者」を作り出し続けねばならない。日教組・評価最下級の教師・非選択校区制・・・次々と悪者を作り出し、声高に喧伝する。競争と言うなら、世界規模学力テストで何年間か首位・高順位を続けるフィンランドの義務教育は、学校選択制だろうか?(当方、高成績至上主義者ではありませんが) 調べてみたいが、公権力の非介入、教科の工夫(社会と理科と算数の同時進行授業とか)、学校への大幅な裁量権付与、教師による教科書選定などなどは記憶している。公立小中校の選択制・競争が学力の一点に於いて成果(?)があるにせよ(ないと思うが)、その競争は学校内競争を生み、ますます物言わぬ教師を作り、教員間競争を生み、「競争に勝ち抜く」少数の子と、圧倒的多数のよき意味での競い合いさえ忌避する子を生むだろう。いいことは何も無い。勝組に留まることだけを家訓にしている新自由主義社会を是認し推し進めたい親子だけが「これはいい」と叫ぶのだろう。学校そのものが、学校間競争に汲々とし、ランクアップを最大課題とするような風土下で、「他者を労わる心」「共働の意味」「選別よりも助け合い」「競争よりも共走」といった民主主義の基本を、子供たちは、どこで学ぶのだろう。学校はそれらの総否定=選択制・選別・競争=の只中にいるのだから。

ハシズム派の人々に、『舟を編む』から一文をお贈りして、今日はここまでにします。                                                             『言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するんですね』                                                                                                                                                                 『言葉は、言葉を生み出す心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものです。自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟』                                                                                                                                     ところが、『舟を編む』を読んで人に勧めたりしている若者がハシズム支持だったりするから話はややこしい。職探しに汲々としている若者が、「変えてくれそう」「実行力ありそう」「楽して恵まれてる奴(公務員もそうなんだ)の不当な利権を剥してくれそう」とそのハシズム攻撃的言辞に期待したりしている。ハシズム現象の何たるかを掴む「理解力」「読解力」を持つこと、その「人間力」を育むことこそ、教育本来の仕事だ。その回路は競争になどない。そんな意味では、本書は格好の書物だ。                                                                                   

教育の舟は誰が編むのか? 現状がそもそも、教科書検定制度や職員会議からの意思決定機能剥奪、日の丸・君が代の強制、他、文科省+どこかが編んでいる。その強化変更の舟を、選挙に晒されるような、私的な存在に編ませてはならない。

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