交遊通信録: あるメールやりとり 【吉本隆明「反核異論」】異論
知人からのメールを受信した。
—– Original Message —-
From: ****
To: ヤスマロ君
Sent: Friday, August 05, 2011 1:36 PM
Subject: 原発・吉本隆明の意見
けさ(8月5日)の日経新聞朝刊に出ていた記事をスキャンしましたので、添付して送ります。
関心があれば、画像を拡大して読んでみてください。
(縦長7段ほどの記事で、スキャンしづらかったので、上半分と下半分に分けました。)
ただ、吉本氏が自ら執筆した文章ではなく、日経記者がインタビューして記事化したものです。
「発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない」という意見も、傾聴に値する見解だと思いました。
早速返信した。
—– Original Message —–
From: ヤスマロ
To:****
Sent: Saturday, August 06, 2011 12:25 PM
Subject: Re: 原発・吉本隆明の意見 【への異論】
拝復。
ちょっと、言わせて下さい。
<敬愛する吉本隆明氏への疑義>
吉本談話拝読。
かねてより巨人吉本の「原子力」へのスタンスは、
古い吉本ファンから「?」を投げかけられて来ました。
吉本『反核異論』(1983年)(ぼくの本棚にも眠っています)を巡って、
60年代後半からの吉本信奉者から洪水のごとき「異論」が噴出し、
左翼知識人・学生等の間で物議を醸しました。 当時、文学者たちが反核の声明を出したり、署名を集めたりの運動をしだしたころからずっと反原発を主張する人に対して 「ソフト・スターリニズム」とか「反核ファシズム」「反動」などといって批判・非難をつづけている。
今回の吉本談話はその意味では、「想定」内の出来事のようです。
学生期とその後の混迷時期(60年代末~70年代初頭)を彷徨っていたヤスマロ君は、
吉本さん発の言辞から多くの「道案内」を頂戴し、自己崩壊を免れました。
ここで言い始めると長く難解(ヤスマロが未消化かつ表現力不足ゆえ)なので
割愛しますが、概ね下記の課題です。
*人間の想像力・構想力、つまりは個人性の核心は、
「社会的決定論」の大枠での影響下に在りながら、マルクス主義者が言うようにその支配下に在るのでは決してない。
*党は、それ自体、個人性の核心と逆立する「宿命」の中に在り、
党として表現されるべき、集団的課題の只中に在る個人は、
原理的にはひたすら党解体を目指さざるを得ない、という倒錯状況を
覚悟して臨まねばならないという「宿命」をあらかじめ背負っている。
しかし、その上で「協働」「共同」を求める途に立つ回路はあるのだ。
そこを厖大な論考で説いた。「(大衆の)自立論」「共同幻想論」 などなど。
*男女・夫婦・家族、単位社会・交遊関係、目的組織・政治集団、民族・国家、
それらはそれぞれ違う位相・違う複雑多様なベクトルの「歴史性」に由来しており、
そこにはマルクス主義者が見落としたあるいは見ようとしない、
固有の因子・歴史・風土・文化が棲み付いており、むしろその因子を
究明することで、ある地域・民族・国家に生きる「人間」、生活を営む個人の本質に
迫れる。社会・経済システムが人間に及ぼす力は、ゼロではないが、
それは、社会にとっては「全体現象」であり、個人にとってはあくまでも「部分」なのだ。
などなど・・・。吉本さんは、戦後早くから、上記スタンスに立って、
決定論者との孤高の闘いを続けて来た。
戦後の共産党系左翼との訣別( 『ぼくは出てゆく、冬の圧力の真むかうへ・・・』 )、
60年安保では、安保ブント(全学連主流派)の側に立った数少ない知識人、
68~70年ころ、いわゆる学生叛乱に政治性の外から共感表明・・・・。
吉本さんの思想的営みは、詩作・文化・文明・民俗・言語・サブカルなど多岐に亘り、ぼくなんぞその言説を追って、 花田清輝・村上一郎・磯田光一・今西錦司・柳田國雄・漱石・高村光太郎などに分け入ったし、 親鸞をちょこっとカジったのも吉本さんの影響だ。 『荒地』同人の末席に遅れて座り、戦後詩の荒地を切り拓いた吉本さん。 衣更着信(きさらぎ・しん)という詩人を教えてくれ、巨星:田村隆一の詩を何度も読ませてくれた吉本さん。 自身の詩を、繰り返しぼくに読ませた吉本さん。
その吉本さんの「文明論」「科学技術論」が、『反核異論』前後から、
どうにもぼくには「?」でした。
もともと、理科系(東京工大卒)だからか、科学技術への構えが「?」なのです。
添付記事にもある説に見え隠れするのは、
人間が切り拓いた技術への過信に近い信奉です。
お説を、皮肉を込めて拡大するなら、
例えば、「遺伝子工学」。例えば「劣化ウラン弾」。例えば「細菌兵器」。
それらを全面肯定するのだろうか?
もっと言えば、世界資本主義がその混迷ゆえにこそ、いまのところ辿り着いた(とされる)
「グローバリズム」という『帝国』(特定の国ではなく、個別事情を無視して
有無を言わせず世界一元化のシステムに組み込まんとする妖怪)支配もまた、
「発達」してしまった(経済システム「科学」上の)「技術」という一面もあるのではないか?。
お説には、
「発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない」とありますが、
そこには、「させてしまったが、きわめて不都合なので変更する」という選択こそは、
きわめて「発達」した「科学技術」である、という「謙虚」が欠落してはいまいか?
人間が切り拓き、発達させた技術への過信を吉本さんから聞かされた、
多くの吉本ファンとともに師の最後の発信を、心から残念に思う者です。
制御無理(事実、核廃棄物の処理は未定のまま、廃炉工程未明のまま)では、
「発達してしまった」に届いていない「科学技術」であり、「後戻り」などではなく、
人類史の闇の海原で進路変更の舵切りを迫られている「発達していない」技術でしょう?
吉本さん、最終制御を遂げられない以上(そして、それはたぶん永久に無理)、
「発達してしまった技術」ではありません。見切り発車は、科学者吉本が
採るべき選択ではないと思います。
遺伝子工学の発達は、野放しでは、優勝劣敗の風土と新自由主義の猛威の中、
産み分け・優性保持推進を奨励し、「持てる者」たちが「偏差値」高位の
ベイビーを量産するでしょう。それも「科学技術の発達」ですか?
すでに、高収入キャリアシングルウーマンが、婚姻によらない出産を目指し、
高額を支払って闇で「有名大学医学部高成績」の精子を購入して念願の母になっている。
まさに吉本流価値観に拠れば、そうした「新自由主義」の極北こそ、
吉本説「大衆」が、その「生活」と「自立」を賭けて抗うべき思想ではなかったか?
吉本さん! あなたの言う「大衆」とは 誰のことですか?
【吉本論への異論をひとつふたつ】
品川康麿
【昨日大腸ポリープを五つ切除(イボを取る程度の軽手術)して、本日休養中】
<追記>
友人にして師のような、黒猫房主氏が数年前、カント、フーコーなどを引用して次のような文をくれた。 『理性の公的な使用』・・・・。いまそれを思い起こしている。 「発達してしまった」「科学技術」を「理性の公的な使用」に照らして使用するために・・・。 「科学」「技術」は、「公的な理性」の前でそれを超越する万能の存在ではない。
『カントが言った「理性の公的な使用」というのは、もちろん「公=国家・組織」のための理性の利用ではないのですが、 そのような「国家・組織」のための理性の使い方はカントによれば「公共性」を僭称していることに他ならず、 「理性の私的な利用」となります。
フーコーは「啓蒙」とは次のような出来事だと言います。
「カントによれば、啓蒙とはたんに個々人が自分たちの個人的な思考の自由を
保証されるようになるといったプロセスのことではない。理性の普遍的な使用
と、自由な使用が、そして公的な使用が重なり合ったときに、啓蒙が存在する。」 またフーコーは、
「人類が理性を使用する、その時こそ、<批判>が必要なのである。」
フーコーは「啓蒙」とは次のような出来事だと言います。
「カントによれば、啓蒙とはたんに個々人が自分たちの個人的な思考の自由を
保証されるようになるといったプロセスのことではない。理性の普遍的な使用
と、自由な使用が、そして公的な使用が重なり合ったときに、啓蒙が存在する。」 またフーコーは、
「人類が理性を使用する、その時こそ、<批判>が必要なのである。」
「<批判>とは、ひとが認識しうるもの、なすべきこと、希望しうることを決定する
ために、理性の使用が正当でありうる諸条件を定義することを役割とする。」 「 錯覚とともに、教条主義と他律性とを生み出すのは理性の非正当的な使用なのだ。」とも、言っています。』
ために、理性の使用が正当でありうる諸条件を定義することを役割とする。」 「 錯覚とともに、教条主義と他律性とを生み出すのは理性の非正当的な使用なのだ。」とも、言っています。』
拝復 大腸のポリープ五つ切除の手術をされたとのこと、養生なさってください。
早速、吉本隆明氏の談話の件ですが、おっしゃるとおり、「もともと理系だから、科学技術への構えが「『?』」と言えるのかも知れません。
素人なので間違っているかも知れませんが、談話には2点、事実についての誤りまたは疑問点があるようです。
一つは、「原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や固い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある」と言っていますが、放射線と、核分裂によって得られる核エネルギーとは、関係はあっても別の物ではないのでしょうか?
第2点は、原子力は「燃料としては桁違いにコストが安い」と言っている点です。果たしてそうなら、原子力の利用は産業としては当然の帰結でしょうが、事故が起こらなくてもコストは安くはない、という議論があり、まして今度のように事故が起これば、そのコストは際限もなく高いし、事故の可能性は最初からコスト計算に入れられてしかるべきだ、ということが言えるのではないでしょうか? この点は経済学者はどう論じているのでしょうか?
以上、事実についての2点の疑問を呈した上で、吉本氏の論について私見を述べますと、吉本氏が終始、科学と技術を一体の物として見ている点が一番の疑問点です。
「発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類を止めろ、というのと同じです。」
その通りだと思います。しかし、その発達してしまった科学をどう技術に応用するか、という選択は、それこそ人類の責任であり、後退や中止もいくらでもありうる、と思います。貴兄の挙げられている、細菌学の応用としての細菌兵器などは、その最たるものだと思います。遺伝子研究の応用としての遺伝子工学も勿論、今後原子力と同様にもっとも要注意の分野でしょう。
この点では、エネルギーの分野での蒸気機関と原発との比較を、より一層厳密にする必要があるのではないでしょうか?
なお、余談になりますが、吉本氏の『反核異論』については、貴兄とは全く逆のショックを受けた記憶があるので、記しておきたいと思います。
今、手元に本がないので(整理が悪い)、読み直しができず、原発についてどう言っているのかは確認ができないのですが、僕が覚えているのは、「反核兵器」が、アメリカの核だけを対象にしていることを痛烈に批判して、井上ひさしなどを「ソフト・スターリニスト」と呼んでいたことです。それ以来、ソ連もアメリカと同レベルの帝国主義的勢力ではないか、という見方で世界を見るようになり、まさに目を開かれた感じがしました。(今はそれに中国が加わりましたが。)
以上、散漫ですが御笑読下さい。