駄エッセイ 中西和久『をぐり考』

3月21日(木)
中西和久ひとり芝居『をぐり考』を観て来た。
う~む、と余韻を味わっている。
【説経節は説教を垂れない】
講談にも近いのだろうか、メッセージ性ある芸能「説経節」を初めて目と耳にした。「隔離」「排除」「差別」「蘇生」というテエマも「説教」臭なく響いて来る。蘇生したが見苦しい餓鬼阿弥姿(人形)のゾンビ状の小栗。土車で引かれるその姿を観て「事態」の底の重量に思い至るというお粗末ジジイでした。
もうひとつのテエマ:照手・小栗の「恋遂げ」を、途中二人の間の「密度」をことさらに語らないのも、観劇後の余韻の中で「照手の胸懐」が浮かび上がるという具合。流行りの今風悲劇レンアイ物のように饒舌に語ったのでは、白けるよな。
もう一度観たい、観て刻みたい。
「説経節」が伝えようとしたこと、受け止めた聴衆と「照手の胸懐」との間を往還しただろう想波・・・。庶民の高い水準の味わいの根拠地を知りたい、我も持ちたい。
2015年7月、単身赴任中だった東京から帰阪して同じく茨木で観た中西さんの「ピアノのはなし」は、抑制された芝居創りで、お説教反戦モノから隔たっていたと思う。
ワシは今、あの時に近い感慨の中に居る。



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