つぶやき:八人の孫へ
(八人の孫たちへ)2018年8月15日
73年前の今日、1945年8月15日、日本は主要都市への空爆・沖縄地上戦・ヒロシマ長崎への原爆投下を経て、ようやっとポツダム宣言を受諾し、アジア太平洋戦争の敗戦を認めたのです。
この戦争でワシの父母世代(君たちの曽祖父母)の親戚の何人かが命を落としましたが、日本中の家庭がほとんど肉親を戦地や空襲などで失っています。ワシの父母は幸運にも生き残りました(だからワシという命があり、君たちの生があるのです)。…
ワシの父(1998年に85歳で亡くなりました)は中国戦線に召集されたのですが、幼い頃、父から戦争の話を何度も聞きました。
「戦争したらイカン」と繰り返し言いましたが、こっちが幼いこともあり戦争の具体的な内容や戦闘の詳細は聞けませんでした。当時の子どもはよく「人を殺した?」と軍隊経験者に聞いていましたが、ワシは秘密に触るようで怖くてよう聞けませんでした。
ワシの幼少期には、働き先とて確保できない「傷痍軍人」(傷を負って帰還した兵士)が軍歌などを演奏して、街往く人から幾許かの支援金を頂戴する姿が街頭に溢れていました。
戦争や戦後混乱期のドキュメント番組がありますが、よ~く見て下さいね。
東北大震災・福島原発事故・最近の西日本豪雨被害などのニュースにある、家や家財が無くなってしまうこと以上に被災者の身近な人の死は取り返しがつきません。そして、戦争はその何千倍・何万倍の身近な人の死とそれにまつわる悲嘆に溢れています。
しかも、原発事故が人間が作り出したものであるように、戦争では他国の人の命を日本の軍隊などが奪うことになるのです。戦争は、日本では軍民合わせて310万人の命を奪いましたが、中国・朝鮮・ヴェトナム・フィリピン・インド・インドネシア・オーストラリア他アジアで、何と2,000万人以上の命を奪ったのです。
毎日新聞社「数字は証言する~データで観る太平洋戦争」
http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/
前段で言った「召集」された人々というのは、必然的に他国の人の命を奪う仕事に従事していたと言えます。戦争に参加させられれば、否応なくそうなるのです。
ワシの父、君たちの父(母)の祖父、君たちの曽祖父が晩年「どうしても中国へ行きたい。連れて行ってくれんか」と言い出し、ワシは君たちの父たち3人も連れて、中国の友人の案内で上海・杭州・近隣の農村・西安などを回りました。行く先々で父(曽祖父)は農村や街工場の小父さん小母さんに「すみませんでした」「ごめんなさい」とただただ謝り続けたのです。中国の人に「それは国と国の話ですから、どうか頭を上げて下さい。」と言ってもらい何度も号泣していました。号泣するしかない事実が父の中に戦後ずっと棲んでいたのです。
実際の戦争で、父(曽祖父)が何をしたのか詳しく聞いたことはありませんが、軍隊の一員であった彼が、軍の行動の一端を担っていたことは紛れもない事実です。彼の胸に去来した風景を想えば、戦争に翻弄された普通の市民の苦しい戦争と戦後だったのだと思います。
今生きている者は、戦争と無関係に命があるのではなく、こうした戦争で死ぬことのなかった者たちの直系なんです。
どうか、自分たちの命・他国の人の命が軽々しく扱われる全ての事柄に対して、それがなぜ起こるのか?そうならないためには何をすればよいのかを考える学生~大人になって下さい。
ワシは、戦争前・戦中・戦後に人々が「なぜ、そうしてしまったのか?」と、今なら言える事柄と似たことを、自分の人生で関与した取組み(学生期・労働組合運動時代・労組自主経営会社社長時代・K大校友連絡会・「アジール空堀」世話人)のいずれの場面でもして来たと思う。戦争に対して「何故?」「どうして?」と問いかけている同じことを、人に対して・人の集まりに対して・意見を言えなかった無口な仲間に対して、繰り返してしまった。
戦争に抗うことは、戦争推進者(これが一番イカンのやけど。奴らは懲りもせず繰り返している)の悪行/非道・心ならずも協力してしまった人々の無自覚と弱さ・日常的な関係でも非日常の重大事項でも似た言動を取ってしまう自分自身、識者が言う「明らかな蛮行」だけを教科書的に糾弾するくせに小学生でも解かる「礼節」や「人の道」を踏み外して平気な自称「左翼」たち、その全てを対象に考えることを含んでいなければアカンと60歳を超えてから痛切に思うようになりました。そして、それはなかなか出来ていません。
先般、君たちの母や父にワシの4/5人生の43頁のオモシロ可笑しい「画像資料と逸話の冊子」を渡しましたが、どうか大きくなったら読んで下さいね。
遺すモノが何もないからそれが遺品です。
1947年生まれ、70歳、妻1人、子4人、孫8人。 橋本 康介