たそがれ映画談議:原一男『映画監督 浦山桐郎の肖像』
珍しく七芸の杉本真一さんからメッセンジャーでご案内いただいた。
案内は4月17日の「原一男全作品を語る」なるトークイベントだ。『ニッポン国VS泉南石綿村』も公開されており、その絡みとは思うが、案内を視ると「幻の作品上映」ともある。
ピンと来た。「ひょっとして、某年某月、深夜にたまたま観て、身につまされ感動したあの作品ではないか?」
「1969年ゆえあって奇妙な巡り合わせで観ることとなった作品『私が棄てた女』の今は亡き映画監督、その肉迫評伝『映画監督 浦山桐郎の肖像』ではないか?」
入場料は講演代、「幻の作品上映」はそれに付随した無料資料代との位置づけに違いない。行かねばなるまい。小雨を突いて脚を引きずり、介助者同伴で出掛けた。
わたくし事だが、ワシの無恥混濁の青年期を抉るような内容で、忘れかけていた記憶が蘇り、帰路小雨の中浦山さんとの数回の出会いを思い出していた。
1971年結婚して東京で働いていたワシは、シナリオ作家協会のシナリオ研究所(通称:シナ研)の講座に出たり、シナリオ志望の若者や映画青年を集めていた「ポーリエ企画」という団体の講座で、当時『私が棄てた女』(69年公開)を最後に日活を辞め不遇を囲っていたと思われる浦山さんの講義を受講したりしていた。出会った人から業界の下っ端のその又助手の様な仕事先を紹介されたりもしたが、結局怯えて動けなかった。数度の浦山さんの講義では最前列に座り熱心に受講した(と記憶している。が、当時のノートや習作などは見当たらない)。
同じ年、阪急ブレーブスが今夜勝てば4度目のリーグ優勝という夜、北千住に在った東京スタジアムの3塁側スタンドで偶然女性同伴の浦山さんに逢い、ご記憶に有ったのかどうか会釈を返していただいた。寒い夜で、膝当ての毛布をお二人仲良く掛けておられた。遠い記憶だ。
原一男の、浦山の神髄に迫る当代一級の異色ドキュメントは、人間浦山の全体像に迫る出来映えだ。同時に、作者原氏の肉声・人間観をも叫ぶスリリングな内容だった。
登場する浦山さんのご子息・河原崎長一郎・和泉雅子・今村昌平・須川栄三・小栗康平・長谷川和彦・早坂暁・山田洋次・大空真弓・北大路欣也・大竹しのぶ・藤田敏八・真鍋理一郎・清水綋治・加藤武・南田洋子・小林トシエ・辻本あり子(婚外子の娘さん)・他 が語る掛け値なしの浦山像(呑んだくれ・泣き虫・酒乱・女優しごき・他)は浦山愛を超えて各氏の珠玉の人間観を紡ぎ出してもいた。女優はことごとく「生涯最高の役だが、私ではない気がする。あれは、浦山さんが作った主人公像なんです」(要旨)と語っている。和泉雅子は「浦こうを殺してオレも死ぬ」と叫び、小林トシエは自身を追い詰め自殺未遂まで計る。
想い描く作中主人公像を譲らなかった頑固者というか、女性像に関する非妥協は、根に永遠の「生母への思慕」「継母(生母の妹)への疑似恋情」が在る、と友人たちは語る。
浦山の生母は1930年浦山を産んですぐ死亡した。翌年父はその妹と再婚する。浦山には生母が産んだ自身と姉、継母が産んだ妹・弟・妹がいる。1949年浦山19歳の夏、父が自死を遂げる。社宅を追われた一家は継母のツテで名古屋へ。家族は保育園の好意で園舎の一角に住まい、浦山は近くに下宿する。
1950年浦山は20歳東大受験し失敗。1951年名古屋大学入学。
『私が棄てた女』に東京の中企業で働く主人公:吉岡を訪ねて故郷から母と弟がやって来るシーンがある。母親が遠まわしに窮状を語り、弟が親戚筋へ養子に出ると告げる。東京で一人暮らしの若いサラリーマンにはどうすることも出来ない。「そうか、まぁ元気にやれや」と返し、母・弟との時間が早く終わって欲しいと苛られた気分を隠して話す主人公:吉岡(河原崎長一郎は名演だった)。浦山の経歴を見れば、あれは間違いなく浦山自身だった。
学舎の一角を間借りする、まるで近似の境遇から、国立大を出て教師になった吉岡より10数年ほど年少の友人Nを知っているが、Nも浦山も苦労しただろうが吉岡にはならなかった。
鬱屈しても企業戦士となり、小企業の幹部になって行く吉岡と違い、浦山は日活でいわば筋を通した映画人を生き悪戦を繰り返した。友人Nは教組の中心メンバーとして生き、退職後も各種課題に取り組んでいる。が、浦山の吉岡の処世への限りない共感(?)の大元に、青年期の境遇と貧困と努力への哀惜が横たわっているとは言えまいか?
『***の肖像』には東映アニメ松谷みよ子原作『龍の子太郎』(79年)の動画も登場するのだが、龍から人間に戻った太郎の母の裸像体形は紛れもなく浦山の「生母像」だったように思う。たおやかで思慮深く、慈愛に満ち我を許容してくれる存在。画面で誰かが苦笑して言っていた「浦山の場合、求めるものが全許容だからねぇ」と、なるほど・・・。
信頼する知り合いの映画関係のKさん(女性)が『私が棄てた女』に関して「あんな女はいないよ、浦山の身勝手だ。浦山の女性の扱いは酷い。全許容と言うが、なら女はどこへ許容を求めたらええねん?」と言ったが、ワシの場合、全許容の無理を承知している(?)し、相方は適度の許容だけを覚悟している(?)のだと思う。そうした、ある種のバランスが凡人だとしたら、浦山は実生活・実人生はいざ知らず、映画作りでは主人公に原初の願望的(?)女性像=理想化された生母像=全許容する存在を求めたアンバランス偏人=「芸術家」なのだろうか・・・。
因みに、人間に戻った龍の子太郎の母の声が、これはたぶん・・・と思い調べるとやはり吉永小百合さんだった。
彼女は『夢千代日記』(85年)の「ピカが・・・ピカが・・・」というセリフを巡る浦山との確執からか、この『***の肖像』への登場は辞退されたという。
振り返れば『青春の門』(75年)で、小沢昭一が戦後という時代背景をナレーションするのだが「もうちょっと観客を信用しては・・・」と思った。あのナレーションをある人が「蛇足だ!」と言ったが、「ピカが・・・」も似た意味で夢千代最期の床で彼女の心に去来する言葉(にならない心の風景)は観客に任せて欲しかった。浦山さんの「念押し」「親切?」は時にこうなるのか?・・・。それは『棄てた女』での、機動隊が吉岡を包囲するカラー・イリュージョンの唐突さも含めて、独りよがりと言えば言い過ぎか?・・・といった世界だ。
画像は、
原一男さんトーク場面、原さん著作にサインをもらうワシら。
初期三部作『キューポラのある街』(62年)『非行少女』(63年)『私が棄てた女』(69年)の各一番心に残るシーンです。
原一男・編「映画に憑かれて 浦山桐郎」表紙 『青春の門』(75年)