たしがれ映画談義: マーチン・スコセッシ二作 イエスに関して
K・Tさん帰米されましたか? 過日はマーチン・スコセッシが『沈黙』を映画化したを機に原作:遠藤周作『沈黙』のブックレビューをおおきにでした。 吉本隆明『マチウ書試論』を半端に持ち出したりして、残識の徒が遠藤の真意は「正邪二元論・一神教・原理主義・各相の決定論という西欧思想に対する東洋的異論(アンチ決定論=相対論)だと思う」という主旨を述べました。それこそが「救い」だとも言いました。 キリスト者でないばかりか、キリスト教をよく知りもせず失礼しました。
ところで、マーチン・スコセッシと言えば、全世界で上映阻止運動が巻き起こった『最後の誘惑』(日本公開1989年)をご存知か? ウイリアム・デフォーが見事なイエス役だった。 ここで、スコセッシは、 今は娼婦に身をやつすマグダラのマリアは、若き日のイエスの恋人だった。かつてイエスは、彼女を振り切って求道の道へ進んだのだ。又、イエスの生業は、同胞ユダヤ人の棺桶・十字架作りであった。この2つがイエスの臓腑の底に棲み付いているとした。
イエスは、弟子たちを従えいよいよエルサレムに入城して、今まさに人々に蜂起を呼びかけるべきその場面で、ヘナヘナと腰くだける。 イエスは既成大教団とローマに、殺されることによって「生き続ける」道を選び、全てを理解するユダがその道への補助をしたのだ。やがて、教祖イエスとユダヤ教団内弱小分派:ナザレ派は永遠の存在となって行く。 という解釈の映画だ。すこぶるスリリングで深い。 今回の『沈黙』に通底しているものがあるなら、それを掴みたいと思っています。 「棄教しなければ信者たちを処刑する」という権力の方法論の現実性と、己の信仰を捨てまいという個人の固い思想性との格闘で、思い出したのが吉本隆明『マチウ書試論』(1954年)だ。 荒野でのイエスの40日間の断食に登場する悪魔は「お前が神の子なら、この荒野の石ころをパンに変えてみよ」との問いを発するが、これへのイエスの「人間はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きるだろう」との詭弁のような答えなっていない答えに関して、吉本隆明は以下のように述べている。 『人間はパンだけで生きるものではなく、と言ったとき、原始キリスト教は、人間が生きてゆくために欠くことのできない現実的な条件のほかに、より高次な生の意味が存在していることをほのめかしたのではない。実は、逆に人間が生きるためにぜひとも必要な現実的な条件が、奪うことのできないものであることを認めたのである。つまり、悪魔の問いがよって立っている根拠をくつがえしたのではなく、かえって、それがくつがえし得ない強固な条理であることを認めたのである。』 『だが、原始キリスト教の立っている条理は全く別だと、マチウの作者は言っているのだ。』 悪魔の第二問:「神の子であるのなら、この神殿から飛び降りてみよ」VS「汝の神を試みてはならない」も同様の展開だね。飛び降りて、神の力によって助かるとは一言も言ってはいない。 「神の力で奇跡が起きる」と断言返答したところで、石はパンに化けないし、飛び降りればけ助からないので、どう言うかに拘わらず「救い」は無い。 昔「沈黙」を読んだ時、「マチウ書試論」を借用して、遠藤が現実的な条件とは全く別の条理があってそれは譲れないとする信仰の不滅を説いたのであって、それは、正邪二元論・一神教・原理主義・各相の決定論という西欧思想に対する異論の東洋的体系(アンチ決定論=相対論)だと思うことにした。それこそが「救い」だとも思った。極論すれば「拡大する良民の犠牲を止めさせるために{転ぶ}こと」を「神」への背信とは位置づけない「思想」のことだ。 その時代の制約・人心の地平を考慮した厳しい物語ですが、遠藤が今日的に提示したのは、信仰の根本は「現世利益に非ず」といふ厳しい思想であったと、当時思った者の一人です。ひねくれていますか? あの物語は、極論すればあの状況下では「{転び}もアリ」とする、キリスト教倫理への異論だと理解した。そして、それが「救い」だと・・・。こうした状況下と動機での{転び}なら「神」は「赦す」という理解とでもいいましょうか・・・。 正邪二元論・一神教・原理主義・各相の決定論という西欧思想に対する異論だと思っとります。蛇足⇒この想いは西欧マルクス・レーニン主義教条へのワシのスタンスでもあります。ふと、ある少数派団体のその又弱小分派に関与した友の、思い込みと錯誤に塗れた日々を思い起こしました。