Archive for 12月, 2016
映画談義: 2016 今年観た日本映画の秀作たち
今年は日本映画の秀作(公開年度は2014~2016混在)に出会えたな。
【2014年公開】 『百円の恋』(主演:安藤サクラ) 『そこのみにて輝く』(監督:呉美保)、 【2o15年公開】 『駆け込み女と駆出し男』(監督:原田真人) 『さよなら歌舞伎町』(脚本:荒井晴彦、主演:染谷将太) 『恋人たち』(監督:橋口亮輔)、 【2016年公開】 『怒り』(原作:吉田修一、監督:李相日) 『永い言い訳』(監督:西川美和)。
一本だけ選べと言われれば、迷うけれどワシは『さよなら歌舞伎町』を採るね。
歌舞伎町のラブホテルを舞台に繰り広げられる一日の群像劇。様々な事情を抱えた四組の男女のオムニバス仕立ての物語は、見事に2014年の現在ニッポンの断面を切り取り、男女の事情の裏面に、確実に現社会を描き出してくれる。格差社会・若者を取巻く現実・貧困・弱者・少数者・ヘイトスピーチ社会・3,11に包囲される男女の虚実と痛い愛を描き、その交感に「抵抗」への根拠地を探そうとする。
その作者の構えに、ある時代に通底する「匂い」を嗅いだのはワシだけではあるまい。だが、そこは、その時代より数十倍厚い包囲網下なのだ。若者が、理屈やヤル気や努力、理想や誠実が無化されて行く現実を知ってしまっている枯野なのだ。
飲食店で働き資金を作って「国」に店を出すという夢を持つ男は、資金が溜まらぬ現実に「金ある女」相手に男娼として「アルバイト」している。男が付き合っている、「国」でブティックを開業したい恋人は、不法残留から近々帰国予定だが、男に仕事内容を偽り実はデリヘル嬢。二人は韓国から出稼ぎに来ているのだ。互いに相手の裏業を知らない。
男は、疑念から眠っている彼女のバッグを探り、彼女の商売用の名刺を見つける。彼女の最後の出勤日、指名を受けてホテルに「仕事」で入室し、男の客に目隠しをさせられる。浴槽で体を洗われているうち、彼女は男が誰であるのかに気づく。身を震わせ号泣して詫びる女、実は・・・と、自分の裏業を告げる男。 震えて抱き合う男女の向こうに、現在(いま)が詰まっていて哀しくも美しいシーンだった。
観て、おおお~これは・・・と思ったら、脚本:荒井晴彦ではないか。
荒井晴彦。ワシと同じ1947年生まれ。早稲田大学文学部をあの時代に中退(なるほど)。若松プロ出身。「映画芸術」編集長。
【脚本】『赫い髪の女』『遠来』『KT』『ヴァイブレータ』『やわらかい生活』 『大鹿村騒動記』『さよなら歌舞伎町』『この国の空』(監督も)
荒井晴彦が、フジTVが大宣伝を繰り広げ無理筋のヒットをさせた大駄作『踊る大捜査線』に噛み付いた発言を、過日ブログにアップしたものを再録する。脚本家荒井の、あの時代に早稲田を中退し、若松プロに参加した者の矜持がよく現れた発言だ。
先日、「日本映画専門チャンネル」で『 「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたか』なるリレー・トークを観た。10人の「映画通」が語っている。多くは、肯定・映画の敗北・当然の帰結・観客が選んだ結果だ・これも映画だ・・・・、との「現実追認」に終始している。
その中で、雑誌『映画芸術』編集長:荒井晴彦だけが「まとも」なことを言っていた。気になって、各発言の採録である番組と同タイトルの新書(幻冬舎新書、¥800)を購入した。
以下に抜粋する。
『結局はフジテレビのプロモーションの力でしょう』 『テレビが勝ったのではなく、映画がダメになったのです』 『映画自体が乗っ取られた』 『映画館の大きなスクリーンでテレビドラマを映しているのと同じです』 『僕らの年代は』 『なぜこんなものを映画館でやっているんだというような違和感を抱く』 『若い人たちはその違いを知らないから、何のわだかまりも無い』 『「踊る」以降は「映画の監督がつまらん作家性なんか出すより、テレビのスタッフが映画もやったほうがかえって当たる」というわけです』 『「踊る」の亀山プロデューサーは』 『「なぜ彼や彼女は犯罪を起こすに至ったのかを描かなくていい」と言ったそうです』 『「犯人のバックグラウンドを描くな」ということです』 『「踊る」以降の作品に描かれる犯罪は、「たまたま、ただのヘンな人が暴発したからおこったこと」になってしまった』 『犯人が捕まったらそれで終り、それで解決でいいということです』 『よくテレビでは「小学生でもわかるような表現じゃないとダメだなんだ」という言い方をします。でも僕は万人にわからせることだけがすべてではないだろうと思う』 『100人のうち10人がわかればいいという映画があっていいと思う』 『わかるのは二人ぐらいでいいんじゃないかと思うし、さらに言えば、たった一人でもいい。究極的には、作った俺さえいいと思えればいいんだ、とも思います』
『見やすさだけ、わかりやすさだけが最優先されるのは、本当にいいことなんでしょうか』 『もちろん徹頭徹尾そういう作り方ではまずいけれど』 『すべての映画を、黙って座ってボーッと見ていてもわかるものにするのはどうなのか』 『今は、観客の側が勉強して映画を理解する文化がなくなってきている』 『こうなったのは、作り手のほうが、「勉強しなくいいんだよ、考えなくても楽しませてあげるよ」と言ってしまったからです』 『監督や原作の作家が、何を描こうとしていたのかを知ろうとして、その作家の生い立ちなどを別の本で調べたりするうちに、どんどん映画に深くはまっていくこともあった』
『作品に匿名性のようなものが生れて、似通った作品ばかり』 『作品に個性がないから、顔がみえない』 『そもそも映画は「娯楽」と「芸術」という、相反する要素を持ち合わせたもので』 『作り手は、芸術であるとまでは言わないけれど、全くの売り物だとも思っていなかった。「商品」と「作品」の間で行ったり来たりして、悩んでいました』 『今の若い作り手たちは違います。彼らは自分のやりたいことを通すというよりは、お客さんを入れることを第一に考えるようになった』
『僕は昔からお客様は神様だと思ったことは一度もない』 『神様はバカ様になった』
『映画館の闇の中で、僕たちは人生を変えるような、魂を震わせるような何かと出会うことが出来た』
『今の映画は、ヒットすることと引き換えに、そういった陰影や多様性を切り捨ててしまった』 『亀山プロデューサーは』 『勝つにはどうしたらいいかを考えて、その結果勝ったのはすごいことです』 『平野謙という文芸評論家が「畢竟、文学とは我を忘れさすか、身につまされるか、ではないか」と言っているのですが、映画もそうじゃないかと思います』
『我を忘れさせる映画の典型が「踊る」でしょう』 『映画館を出たら、ああ面白かったとその映画も忘れてしまうのではないか』 『僕は、身につまされる映画を作りたい』『人に忘れられない映画を作りたい』
『文学や映画をエンターテインメントこそすべてとその枠に押し込めることで、そこにある生き方・考え方・価値観を揺り動かす力を捨ててしまうのはあまりにも惜しい』
荒井の、いまどきの映画と観客への言い分は、そのまま映画『踊る』への、『踊る』登場人物への異論となっている。それは、現実への視点を欠き(欠かざるを得ない)、現実「回避・逃亡」に終始する、CG満載の近未来絵空事や有り得ないパニックにしかドラマを構成できない米映画作家の今日的立ち位置、その亜流たる日本映画への異論であり、同時に米帝国とグローバリズムへの鋭い文明批評として聞こえて来る。『踊る』の主旋律はこうだ。主人公と彼を取り巻く人物たちの「無自戒」、映画の製作者・監督の「勘違い」、観客たちの反応に見える「軽薄」・・・。とりわけ織田祐二演ずる主人公青島が、柳葉敏郎演ずる同世代キャリア上司:室井に言う下記の科白には反吐が出る思いだ。記憶は曖昧だが、その趣旨は概ね以下のようなことだった。 「ぼくら下の者は、上がシッカリしてくれていて努力できるのだ」「だから、上は上でそれを汲み取って出世してもらわないと」 一部でキャリア・ノンキャリアの垣根を越えた「解り合い」だとか、働く者の気持ちを「言い当てている」と言われたりしたが、果たしてそうなのか? ノンキャリア組の心情がそうした諦念(荒廃?)の中に在るという、今日的職場風土を示す皮肉だと言うのなら頷けもする。 だが・・・、青島君は、明るく元気で、自己と職場を全面肯定しつつ嬉々として、そうした処世感の「確信犯」として立つのだ。
徹底して荒井とは違う立ち位置だ!
ぼやきエッセイ 安倍・プーチン会談 雑感
【クナシリ・メナシの戦い】
5月に、民博(国立民族学博物館):「夷酋列像-蝦夷地イメージを巡る人・物・世界」を覗いて、初めて「アイヌ三大蜂起」を知った程度のワシだ。だから、「領土とは何か?」とか「そもそも蝦夷地は云々」とか、ましてや「北方領土」がロシア(旧ソ連)の統治下になって70年の悲哀だとか、元島民の切情を持ち出す政権の手法に何か言うつもりはない。
【アイヌ三大蜂起】
コシャマインを首領とする函館:志濃里の「コシャマインの戦い」は1457年、応仁の乱の10年前だ。有名な「シャクシャインの戦い」(静内方面)が1669年。それから120年後1789年に起きた「クナシリ・メナシの戦い」はアイヌ民族最後の武装蜂起と言われている。俗にこの三つを「アイヌ三大蜂起」と呼ぶらしい。
「クナシリ・メナシの戦い」(1789年、江戸時代寛政年間)の翌年、松前藩士によって描かれた「夷酋列像」は、松前藩の和解策に最後は協力的に対応した12人の有力者だという。
メナシはアイヌ語で「東方」を意味し、元来は現在の北方領土から知床半島、根室地域 一帯を指した。
慶長9年(1604年)に成立した松前藩は、家臣に北海道各地の漁場の経営権を与えた 。米の取れない蝦夷地では、他藩のように年貢前を家臣に分けることができなかったの だ。漁場の経営権を委ねられた家臣は、次第にその権利を商人にあずけてけてしまう。 こうして漁場の経営権を握った商人を場所請負商人という。
当時、メナシ一帯を支配したのは飛騨屋という商人だった。飛騨屋は、北海道のエゾマツ、トドマツを江戸、大阪に送る商売によって巨万の富を蓄積した。木材商人であった飛騨屋が漁場経営に乗り出したのは、松前藩が飛騨屋への借金返済のために、メナシの漁業権を20年の期限付きで貸し与えたからだった。飛騨屋は漁業に慣れていない上、期限内に利益を上げようとアイヌを酷使・暴力支配した。 そんな折、国後島のアイヌが、倭人から薬代わりにもらった酒を飲んだところ、病状が 急変、まもなく死亡するという事故がおきた。相前後して、倭人からもらった飯を食べてすぐに果てたアイヌの娘がいた。相次ぐ同胞の死に、追いつめられたアイヌたちは、寛政元年(1789年) 5月7日の夜、国後島泊村の運上屋を襲い、ついに決起した。
国後島を制圧したアイヌたちは、対岸のメナシに渡り、同地のアイヌ人およそ130名以上 を集め、次々と和人の陣屋を襲撃した。羅臼町城にはオロマップに番屋があり、8人の 和人が襲われている。ほう起したアイヌ人は、松前藩の反撃を予想して、各地にチャシを構え、戦闘態勢に入った。報告を受けた松前藩もすぐに臨戦態勢をとり、264人の鎮圧 隊をノカマップ(現根室市東部)に上陸させた。
そこに現れたのが厚岸アイヌの長イトコイと国後アイヌの長ツキノエ。二人はほう起軍をなだめ、首謀者の首をさし出すことで、乱を治めた。
倭人を殺した罪で、アイヌ37人が 処刑され、その首は松前の立石野でさらし首になった。
70年前の大義なき占領支配に憤り元住民の切情に涙する心が、227年前民族自決を願い決起した先住者の無念と無縁ならば、その心情はいかがわしいとワシは想う。
歴史は、70年だけではないのだ。
ついでながら「クナシリ・メナシの戦い」1789年の頃、琉球国では、
「1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となる。」
薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。
当時江戸政権は、田沼意次の失脚を受け、松平定信の「寛政の改革」(1787~1893年)という緊縮財政の只中だった。1816年のイギリス艦来琉以降、英仏蘭露米は頻繁に来琉、独立国としての琉球と交渉にあたった。1867年大政奉還、1871年廃藩置県(鹿児島県が琉球を「管理」)。1878年日清間で「琉球分割案」、1879年三分割アメリカ案。1879年沖縄県となる。
「アジール 空堀」 12月15日 『高野陽子 アイルランド&ウチナー ライブ』
12月15日(木)18:00~
『高野陽子 アイルランド&ウチナー ライブ』満席盛況・ご好評を得て、無事終了。
有名な「サリーガーデン」「シューラルーン」などのアイルランド民謡の旋律と響き・高野さんの声質に魅了されました。発声法には全く知識が無いのですが、ナチュラルで飾らない独特の発声だな~と感じます。そして、それは続いての、旋律・リズムの全く違う沖縄の恋歌・哀歌に言い表せない不思議な力で受け継がれ、「てぃんさぐぬ花」「安里屋ユンタ」「十九の春」の高野流歌唱には、全く違和感は無い。
食事後、アイルランド訪問記、スペイン・サンディアゴ巡礼記(その一部100㎞を走破なさったそうだ)のスライド上映とトークは素晴らしく、参加者の多くが「行ってみたい」と呟いていました。
セカンド・ステージでは、会場のリクエストから「スカボロフェア」「花」などもあり、満足の集いでした。
話は飛びますが、オスプレイの墜落事故などの暴虐を見るにつけ、アイデンティティ・排他的なナショナリズムでなはい「自己決定権への想い」が、グローバリズムに対抗できる大きな根拠地ではないか?と思うのです。そう思わせてくれたライブでした。
アイルランド、スコットランド、カタルーニャ、バスクなどのヨーロッパの独立運動、太平洋ではグアム、パラオ、ツバル、ニューカレドニアなどの独立や独立運動、その文脈から台湾先住民族・沖縄(琉球)や東アジアを見るとき、そこに生まれ永い民族の歴史と文化に育ち、住み暮らす者の「第一義」的大義が、いわゆる「プロレタリア国際主義」や「革命」にあるのではなく、それは「結果」なのだと思えるのだ。現地からの発言が「独立」「自己決定権確立」に終始するかに見えるのは、先進国・宗主国に生きる者の思考・信条・感性に欠落(個人の責任ではなく、文字通り《意識は状況によって決定される》というドグマの通りに)している視座ゆえかもしれない。
逆に、被支配少数者、独立・自己決定権確立を希う者は問うだろう、「では聞く!貴方の社会変革論の、あるいは左翼政党の、どの頁に、我らの《自己決定権確立》が主要なテエマとして記載されていると言うのだ?」と。それは、すぐれて当事者たる我らの課題だ。「イデオロギーよりもアイデンティティ」と言うのは、まさにそこなのだ、と。革命によって変革されることは全体の「部分」なのだ、と。ニワトリが先か?玉子が先か?、ではなく、元々ニワトリ・玉子の体系・文脈では及ばない人間社会に巣食う「業」なのだ、と。
ぼやき 最高裁自作自演の上告棄却
最高裁が弁論を開かず判決=上告棄却し確定することになる高裁判決は、9月16日の福岡高裁那覇支部の判決だ。
高裁裁判長:多見谷寿郎氏は〈平成22年4月から同26年3月まで千葉地裁の裁判長を務め、行政(およびそれに準ずる組織)が当事者となった裁判を数多く手がけているが、新聞で報じられた判決を見る限り、9割がた行政を勝たせている〉というのである。しかも、この多見谷氏の着任人事が極めて異常だった。
〈代執行訴訟が提起されるわずか18日前に、東京地裁立川支部の部総括判事(裁判長)から慌ただしく福岡高裁那覇支部長に異動している。この転勤が普通と違うのは、多見谷氏の立川支部の部総括判事の在任期間が1年2カ月と妙に短いことだ。裁判官の異動は通常3年ごとである。(中略)また、前任の須田啓之氏(修習34期)もわずか1年で那覇支部長を終えて宮崎地家裁の所長に転じており、これも妙に短い〉。前任の須田氏は『薬害C型肝炎九州訴訟』で国と製薬会社の責任を厳しく指弾して賠償を命じるなど、リベラルな判決を出した“過去”があるので、外されたと見るべきでしょう。そこへいくと多見谷氏は“アンチ住民”の態度が鮮明です。有名なのは2013年の成田空港訴訟で、成田空港用地内の農家の住民に空港会社が土地と建物の明け渡しを求めた裁判でしたが、住民側に明け渡しを命じる判決を出した。住民は『国は農家をやめて、死ねと言うのか』と訴えたが、裁判長は聞く耳を持たず、住民側の証人申請はほとんど却下されました。他にも行政訴訟では、建設工事を進める残土処理場を巡った千葉県の許可取り消しを住民が求めた裁判で訴えを棄却したりしています」
今回の辺野古裁判でも、多見谷裁判長は露骨に国寄りの訴訟指揮を執った。翁長知事の本人尋問こそ認めたものの、稲嶺進名護市長ら8人の証人申請は却下したうえ、しかも、国側が早期結審を求めたのに応え、わずか2回の弁論で結審する“スピード審理”でもあった。判決にある「(新基地に)反対する民意に沿わないとしても、基地負担軽減を求める民意に反するとは言えない」などというのも、国を勝たせるための詭弁としか言いようのない理屈である。(RETERA 9月17日より)
最高裁はこの巧妙に仕組まれた裁判劇の主役なのだ。福岡高裁那覇支部を含め、判事の人事は最高裁事務局が人事案を作成し、最高裁長官を議長に最高裁判事全員の会議で承認される。つまり、慌ただしい那覇支部の裁判長着任、裁判過程、判決、最高裁の上告棄却(20日)までの一連のドラマは、『最高裁の』自作自演だと言えるのではないか?。
通信録: 12月11日 鵜飼哲オリンピックを語る
交友録: 趙博ライブ 荒川土手にて
12月1日(木)
東京短期出張の用件が午後早い時刻に終われば本日中に帰阪する積りだった。夜遅くなるなら、当然事務所兼社宅にもう一泊で帰阪は明日2日。
その中間、夕刻17:00前に終わった。どうするか迷ったが、パギのFB記事を思い出した。
「突然ですが」との前口上のある、12月1日のライブ案内だ。会場は、記憶ではそして直感では、朝鮮にゆかりの名「ほうせんか」だった。植民地時代、日本への抵抗歌として、朝鮮の人々に歌われ続けてきた歌と同じ名だ。場合によっては、ライブに参加して明日帰ろうか・・・。気になってスマホでそのFB記事を開いた。
会場は京成線八広駅近くの『ほうせんかの家』とある。ネットで調べてみた。…
『関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会』とある。住所で地図を検索すると聞き覚えのある「四つ木橋」が在り、荒川河川敷は近くだ。川を往来するには橋を渡らねばならない。橋の両端に「関所」を設け朝鮮人を炙り出したと聞いたことがある。
瞬時に行こうと思い起ち、開場の18:30を目指した。
会場は狭い旧居酒屋を改装した、追悼碑建設運動の拠点だったようだ。隣の敷地にその追悼碑があった。壁面や書棚には、「虐殺」の資料がある。古い遺骨発掘の写真がある。東京各地に組織された「自警団」の画像がある。
聞けば、地域の人々は父母・祖父母・近隣から聞き事態をよく知っているという。これまでのところ、追悼碑建設に妨害や襲撃はなかったそうだ。
近年の各種ヘイトクライム、排外主義や国家主義の蔓延、政府や某知事の暴言、架空の敵を作り出し人々の「悪意」「邪心」「劣情」を戦争に向けて組織する深い闇。払い除けたい。
ここでの趙博ライブに来てよかったと想いつつ、先程事務所に戻った。
1923年の当の現場で聴くある「重量」と、2016年日本全国を現場予備地へと向かわせようとする「悪意」とが、重なって迫って来る。抗いたい。
趙博がライブのトークで言ってたけど、今日の韓国のあの街頭デモに馳せ参じる若者、それを含め、3.1独立運動、済州4・3、朴正熙クーデター前の4月革命、光州蜂起、などが「公的記憶」として各家庭内で語り継がれているに違いないと。ほぼ30年に一度の民衆決起には、代を継いだ「民主主義」の家庭内継承があるのではないか? 父がどうだった、祖父はこうだった、叔父がこないした…などなど。 日本はどうか? 2.1ゼネスト不発、60年安保闘争、60年代末の学生反乱・・・・継いでいるか? 一回性、やって終わりじゃないのか?と。 日本人は次代に語り継ぐどんな「公的記憶」を持っているのか?と。総懺悔や所得倍増やバブルとその崩壊じゃないのかね?と。 耳痛いのぉ~。
主題歌談議: 『われに撃つ用意あり』
体調事情で東京滞在を極端に減らしてもらっている(現場撤退)。
月1~2度、日数にして4~5日の東京勤務だ。
昨日約50日ぶりに上京した。夕刻、新宿の用件を済ませ、小一時間歌舞伎町界隈をブラついた。
事務所に戻り、食事+酒+銭湯を終え、雑用を済ませ、11時からさっきまで、ある歌をYouTubeで何度も聴いていた。
…
1990年 松竹映画『われに撃つ用意あり READY TO SHOOT』主題歌
監督:若松孝二 原作:佐々木譲 主演:原田芳雄・桃井かおり
出演:室田日出男・石橋蓮司・蟹江敬三・麿赤児・佐野史郎・西岡徳馬
『新宿心中』作詞:阿木耀子、作曲:宇崎竜童
この街にはいくつも
思い出が詰まっている
初めて女を知った
裏通りも今はビル
死ぬなら晴れた夜に限ると言ってたお前
瞬く星が看取ってくれると
いいね俺もそう思う
新宿 Moon light 新宿 Stardust-
お前に抱かれて眠りにつく
若かったね俺達
喧嘩ばかりしていた
お前となら最後は
軽く御免で済んでた
一緒に大人になっただからねとお前が泣く
独りで先に逝ってはダメよと
いいさ約束をするよ
新宿 Day and Night 新宿 Night and Day
も一度ブルース歌ってくれ
新宿 Moon light 新宿 Stardust-
お前に抱かれて眠りにつく
https://www.youtube.com/watch?v=_Zm9sUlP58w