Archive for 9月, 2016

ほろ酔い駄紀行: あるツアー

弟(66歳)と従兄弟が あるツアーを企画して誘ってくれた。

 

母の父(祖父)の姓は「和束(ワツカ)」というのだが、珍しい姓で従兄弟(母の兄たちの息子、「和束」姓)の調査によると全国に10数世帯しか無いそうだ。母の父(祖父)の系統のルーツを辿るツアーだ。一瞬迷ったが、名家でないことは確かなので参加した。

「和束」姓を継ぐ従兄弟たちと、「和束」から橋本へ嫁いだ娘(我が母)の息子(ぼくたちと長兄の妻)、計7名のツアーだった。

従兄弟たちが父母や「和束(ワツカ)」縁者から収集した情報をまとめたツアーで配布されたレジメは、直接の聞き取り・伝聞・伝承・地元らしい地域の寺の「過去帳」などから構成されていて、なかなかの出来栄えの資料で「信憑性」もあるようだ。そのルーツの地へ行こうという訳だ。dsc_4865

 

京都府相楽郡和束町は、現在「ワヅカ」と発音するが、元は「和豆香」と書いて「ワツカ」だったそうで、茶に関しては鎌倉時代の初期に、海住山寺慈心上人が播種したとの伝承がある。天正年間には、大規模な植え付けの記録もあり、山城地域の中では大面積の茶の植え付けが安土桃山時代にあったとの記録から判断すると、それまでの自家消費としての茶生産から、商品生産としての茶業が成立したと考えられる。江戸時代、政治の安定に伴い煎茶需要が拡大し、和束郷では、他所に茶の販売を試みる者も現れた。生産者ではなく、茶の販売を行う茶商という業態も出現した。

明治時代には、殖産興業の政策で、内国勧業博覧会や製茶共進会が開催され、茶産地が茶の品質を競った。和束の生産者は果敢に出品を行い、初期には入賞を果たせなかったが、次第に製茶技術が向上し、湯船村や東和束村、中和束村から入賞者を輩出した。昭和30年頃まで、日本茶は輸出産業であった。しかし、不正茶の横行や度重なる戦争により翻弄され、好況と不況の繰り返しであった。やがて、「和束」の茶は品質を上げ、現在「宇治茶」として流通しているものの50%超が和束町産だどいう。

 

奈良に出ていた、後年「和束」を名乗る徳松という男(1901年明治34年没)が、すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた「平民苗字必称義務令」(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、1875年:明治8年2月13日公布。)により、出自の地「和束(ワツカ)を名乗ったのだろう。和束徳松、和束姓の始まりか?

1875年といえば、1872年が廃藩置県、73年徴兵令施行、74年板垣退助・後藤象二郎らによる「民選議院設立建白書」提出、75年朝鮮政府への無理要求の果ての「江華島事件」、76年「廃刀令」(武装の軍・警察への一元化)公布、77年「西南戦争」、といった明治新政府が西欧型国民国家を目指し、江戸武士社会の残滓の一掃・殖産興業/富国強兵が国策となって行く時期だ。同時にそれは「脱(奪)亜入欧」の暴走の第一幕だった。

「徴兵令」と「平民苗字必称」がワンセットなのは、「学」や「大学」が軍事的要請によって、二人三脚で発達した西欧と変わらないところだ。

 

で、この徳松の父=源十郎(1872年没)には、まだ姓はなく「車屋源十郎」と称されたとの伝承があり、その通りなら、粉挽きを生業としていたようで、水車を所有し穀物を粉にする工賃(加工費)で喰ってたようだ。材料のネコババなどしないとの、地域でのそれなりの信用があったとは推測できる。

この源十郎から先は、過去帳によれば源右衛門が三代続く。

三代源右衛門(1838年 天保9年没、1837年大塩平八郎の乱)、

二代源右衛門(1811年文化8年没、江戸政府 国後島でロシア軍艦艦長ゴローニン逮捕。後年、日本側捕虜と交換解決。当時から、先住民を無視した小競り合いをしていたのだ)、

初代源右衛門(1780年安永9年没、田沼時代。米独立戦争)。

 

初代源右衛門は藩相撲の力士だったとの伝承があり、あじさい寺として名高い矢田寺(大和郡山市 金剛山寺)に藩主が上位の力士や芸人を称え墓を建立しているのだが、そこに「三笠山源兵衛」の名がある。大坂相撲にも出っ張ったようで、明和年間の「大坂番付中相撲」にその名がある。母から先祖の伝承として「ご先祖さんは大坂相撲の力士で、三笠山という四股名やったらしい」と聞かされた事があるが、話半分に聞いていた。

先年、従兄弟がこの「三笠山源兵衛」の墓の刻印字に「没年表示」を見つけ、それが過去帳の「初代源右衛門、安永9年8月2日没 享年73歳」と完全に一致し、「三笠山源兵衛」と「初代源右衛門」が同一人物だと判明した。%e4%b8%89%e7%ac%a0%e5%b1%b1%e6%ba%90%e5%85%b5%e8%a1%9b20160927

云わば、通名と四股名の違いなのだろう。「和束(ワツカ)」姓の初代であり、粉挽き屋だった4代目車屋源十郎の子=5代目徳松は、何らかの事情で「和束郷」から奈良に出ており、明治8年の「平民苗字必称義務令」に際して、故地への郷愁と敬意を込めて出自の地「和束」を名乗ったのだろう。従って現代の呼称「ワヅカ」ではなく、明治以前の「ワツカ」なのだ。

まるで、「筑紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」(福岡県前原市)に大挙移住した種族が、「韓国からくに)に向かひて真木通り-云々-」と出自の地を自画自賛したり、故地の建国神話の始祖の降臨の山「クシボン」を踏襲しているのに似ているなぁ~(古事記「天孫降臨」説話)。

*筑紫が九州全域を指すとは聞いたことがない。チクシは福岡一帯だ。日向をヒュウガと読むは恣意的に過ぎる。日向はヒムカともヒナタとも読める。前原にヒナタ峠あり。高千穂は形容句か。そして「クシボン」と「クシフル岳」の一致。前原の海岸からは、玄界灘を挟んで「韓国(カラクニ)」=伽耶に向かって真っすぐ一直線(真木通り)だ。

 

 

従兄弟・兄弟我が母とその兄たち(「和束」姓)和束源治郎(祖父)

和束久治郎(1926年大正15年没)和束徳松(1901年明治34年没)車屋源十郎(1872年明治5年没)

三代源右衛門(1838年天保9年没)二代源右衛門(1811年文化8年没)初代源右衛門(三笠山源兵衛)(1780年安永9年没)

ご先祖は、ローマの剣闘士やインド・マハラジャお抱えのレスラーのように、云わば領主お抱えの芸人であった。その怪力の御褒美は4代目(あるいは2~4代全て粉挽き屋だったか)にして車屋を営めるほどの特段の内容だったのか? 正に「芸は身を助く」だのう・・・。

それにしても、その末裔は芸も怪力も持ち合わせていないなぁ~。

 

 

 

余談【山城国一揆】

「応仁の乱」(1467~1477)が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続いた。

文明17年(1485年)、南山城の国人衆や農民らが宇治の平等院に集まり評定を持った。この評定で「国中掟法(くにじゆうおきて)」を取り決め、両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた。「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆により政治がおこなわれ、南山城は惣国とよばれる政治形態となった。

山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明17年(1485年)、(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行なった事をいう。

自主管理社会=コミューンを構想・夢想して決起した者の中に、我がハートのルーツを観たいなぁ~。

 

一般的に国人が起こした一揆のことを国一揆というが、山城国一揆は惣の農民らが参加している点で厳密には国一揆ではなく惣国一揆とでも言うべきものである。

ほろ酔い交遊録: 「青春の門」、藤圭子、宇多田ヒカル・・・

中西和久さんより

先月、五木寛之さんにインタビューしてから改めて『青春の門』を読み直した。筑豊篇から早稲田大学に入学して苦学する自立篇くらいまでかと思っていたら、放浪篇、堕落篇、望郷篇、再起篇そして挑戦篇と、けっきょく7篇まであって現在8篇目の風雲篇で休筆になっているとのこと。次の展開がまちどおしい。
ちなみに7篇目の終わりは主人公の信介は北海道からシベリアの大地に船出しようとするところ。恋人の織江は演歌歌手として全国キャンペーンの旅をはじめたところ。信介25歳。織江23歳。二人の青春がこれからどのように展開してゆくのか …。
そこで藤圭子。
この小説のたしか6編目でこの「旅の終わりに」が売り出し前の織江の持ち歌として登場する。この曲は以前冠二朗の唄でヒットしたが作詞が立原岬となっていたので、小説の中に登場したのが不思議だった。他の人が作った歌詞を引用するのなら断りがあるはず…と思っていたら、立原岬=五木寛之さんでした。そう言えば『青年は荒野をめざす』も五木さん。歌謡曲、流行歌も数多く手掛けていらっしゃる。
『青春の門』7篇を読み終えてこの『旅の終わりに』を聞いてみると、この長編小説の場面場面が走馬灯のように浮かんでくる。さらに、藤圭子の歌声。どこかなげやりのようだが極めて丁寧に歌っている。作中の織江の声は、ひょっとしてこれではないかと思えてくる。
藤圭子。宇多田ヒカルのお母さんといった方が若い世代にはわかりやすいかもしれない。2013年、自ら命を絶った。うまい歌手がひとりいなくなった。
橋本康介より
時代を、筑豊を、戦後を、切り取り刻印した、戦後昭和一級の「青春小説」だと思っています。時代を共有し・構えを共感できる物語だと想っています。
橋本康介より
偶然、昨夜NHK「SONGS」は、宇多田ヒカル特集でした。

司会が糸井重里なんですが、ン年振りに「とと姉ちゃん」の主題歌『花束を君に』で歌唱を再開したヒカルに具わっていいる、母譲りの「媚びない」「動じない」存在感は、世渡りチンピラ野郎=糸井をますます小さく見せて小気味良かった。

『花束を君に』は自死した母藤圭子さんへの「手紙」のようなものなんだと聞きました。なるほどと想った途端、ワシ号泣!

 

utadahikaru08-torend1【花束を君に】

普段からメイクしない君が薄化粧した朝

始まりと終わりの狭間で

忘れぬ約束した

花束を君に贈ろう

愛おしい人 愛おしい人

どんな言葉並べても

真実にはならないから

今日は贈ろう 涙色の花束を君に

毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く

ただ楽しいことばかりだったら

愛なんて知らずに済んだのにな

花束を君に贈ろう

言いたいこと 言いたいこと

きっと山ほどあるけど

神様しか知らないまま

今日は贈ろう 涙色の花束を君に

両手でも抱えきれない

眩い風景の数々をありがとう

世界中が雨の日も…

 

画像は「母」に似て来た最近の宇多田ヒカルさん。

交遊通信録: めだかの学校

1989年2月から6月まで、当時居住していた摂津市で、こんな連続講座の準備に関与した。その各回のテーマは、拡大深化して現在の重い課題だ。先日アップしたが、そのチラシの画像が小さいので再アップ。%e3%82%81%e3%81%a0%e3%81%8b%e3%81%ae%e5%ad%a6%e6%a0%a1%ef%bc%9220151229

交遊通信録: 9月19日 靭公園~なんばデモを回避して生駒へ

足腰不調で靭公園を回避して、生駒へ来てよかったぁ~。
千夏さん、パギやん、ご準備のみなさん、ありがとうございます。
1989年、居住某市に千夏さんに来て頂いたのですが、当時と変わらぬ彼女の迫力に会えました。持参した当時の画像をご覧いただくと「憶えてるぅ~」。マネージャー鈴木さんは、ワシのニックネームまで憶えておられてビックリ。いや~、27年前です。

添付画像にあるように、「しごと・くらし・地域を結ぶネットワーク」という構想を抱えて、労働運動・生活者課題・地域コミュニティ・・・、ユニオンの組織形態そのものを、再構築しよう・それぞれ別個に在る運動領域を「ぐるみ」で連帯できないか?という試みのスタート時期でした。ユニオン運動草分けのY氏や、今は亡きWさんが寝食を惜しまず奮闘されていた。1989%e5%b9%b4%e5%8d%83%e5%a4%8f
そのユニオンと居住某市の市民運動「民主教育を育てる市民会議」・女性・地区労・市労連・教組などがいっしょになって取組んだ集いに千夏さんをお呼びしたのでした。「ぐるみ」は政治的側面での統一戦線だけではどないもならんという直感だったでしょうか?
ワシらの構えに千夏さんが「意気に感ず」と応じてくれての来阪でした。

本日のお話に、27年前と変わらぬ熱情を聴きました。

「私はばばあになりたいの、三浦雄一郎や加山雄三になりたくないの。だから薬ものみたくないし、どこか痛くなったらまたお願いってお医者に言ってる』
ありがとうございます、同年生まれの千夏さん。自らを「ババア」と称されましたが、ワシはその「ジジイ」を目指したい。

「めだかの学校」を準備した、当時30~40代だった女性たちも、千夏さんが言った「ババア」として今も活躍しているだろう、きっと・どこかで。%e3%82%81%e3%81%a0%e3%81%8b%e3%81%ae%e5%ad%a6%e6%a0%a1

つぶやき: 内田樹&白井聡 トークセッション 9月15日

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「アジール空堀」9月: 趙博『 歌うキネマ「NUTS」 』

「アジール空堀」9月、趙博『歌うキネマNUTS ナッツ』公演。
於:谷六、空堀通入口15M南「舞道ダンスシアター」。

北海道江別から帰還のパギ・げんさんの「NATS」公演だ。
コアな参加者の「あっ、8月KCC会館での公演から、アソコとココが変化している」とのご指摘があったが、ひとり映画に没入しているコチトラは気付きもしない。なるほど、パギ「歌うキネマ」は生きものだ。そうやって、揉まれ・熟され・進化して行くのか・・・。KCC公演4・江別公演2だから、本日7回目か・・・。「NUTS」は一層進化するのだろう。その「生きもの」の成育をこの先味わうのが楽しみだなぁ~。
バーブラ・ストライサンド(クローディア)、リチャード・ドレイファス(レヴィンスキー)の力演と、マーチン・リット監督の映画文法から、パギの手で90分のひとり映画に仕上がった妙全体を味わいたいと思っていると、もうどこににないビデオ(DVDは無いのだ)を入手しているMさんが貸してくれた。『飢餓海峡』がそうであったように、ある面「映画を超えている」かも・・・。%ef%bd%8e%ef%bd%95%ef%bd%94%ef%bd%93

一人の高級娼婦、損なわれた青春・蔑まれ忌み嫌われ排除された者が、殺人事件の予審(裁判を受ける能力ありや無しやを審議する予審)を通して、人間の復権を遂げて往く「法廷劇」には、映画の製作者でもあるストライサンドの並々ならぬ怒りと愛を想った。久し振り(?)の新作にこの作品を選んだ趙博の意志に、『飢餓海峡』で杉戸八重への想い入れを前面に打ち出した「思想」や、相模原事件を巡るパギのいくつかの文章と同じものを想うのはワシだけか?
(画像提供:二階堂裕之さん、新野貴子さん)

交遊通信録: 年明けから災難続き・・・

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