「アジール空堀」 11月13日予告FB 道浦母都子さん講演
われらがわれに還りゆくとき
◆調べより疲れ重たく戻る真夜
怒りのごとく生理はじまる 道浦母都子
一九六八年十月二十一日。ベトナム戦争反対を訴える国際反戦デーのこの日、東京・新宿駅は角材を持ち、ヘルメットをかぶって押し寄せた学生で、混乱を極めていた。
学生側の大義名分は、ベトナム爆撃に使われる燃料を積んだ貨物車の輸送阻止。投石や放火をする者もいて、交通機能はまひした。全学連(全日本学生自治会総連合)の一角を占めていた中核派のシンパで、早稲田大文学部の学生だった歌人・道浦母都子(みちうらもとこ)(68)もその渦中にいた。
御茶ノ水駅から総武線に乗り、リーダーの指示で、代々木駅付近で止まった電車から線路に飛び降りる。そこから新宿駅に突入したが、待ち受ける機動隊のクモの巣に次々とからめ捕られ、捕まってゆく。道浦は西口へと逃げ、塀を乗り越えて脱出した。
世に言う新宿騒乱事件。警視庁は関わった学生らに刑法の騒乱罪を適用することを決め、拘束した学生たちを勾留した。その数、七百人余。
「私、たぶん捕まる」。十二月初め、大阪の実家に帰った道浦は、母親にこう告げると、東京にとんぼ返りした。翌朝六時ごろ、部屋に公安の刑事がやってきた。五人ほどが部屋に踏み込み、室内を捜索する。下着までぶちまけても、何も出てこない。黙ったままの道浦に一人が逮捕状を示し、「来てもらうしか仕方ないね」と言った。
近くの警察署を経て、女子房のある板橋署に移された。名前を呼ばれても返事をしない。本人であることすら認めない完全黙秘。代わりに「板橋二十号」の名がついた。
取り調べは過酷だった。刑事が入れ代わり立ち代わりやってきては、朝から晩までののしる。かと思えば、次の日はやさしくする。「丸椅子をけとばされてこけたり、『いいおっぱいしてるな』と言って胸をもまれたりしたこともありました」。心の中で一から十まで指を折り、何も耳に入らないようにした。「しゃべったら一生後悔する」。固くそう信じていた。
二十日間の勾留の終盤、調べから戻ると、生理が始まった。「こうして頑張っている時に、女性であることをむざむざと知らされる。恨みました」。あいにく当番の看守は男性だった。入浴時に別の独房の年配女性に相談すると、代わりに伝えてくれた。
年末になり、釈放された。実家に帰ると、母は「お嫁に行けない」と騒いだ。父に頬を張られたが「あなたこそ間違っている」と思った。
いたたまれず、ひとり東京に戻った。近所の電柱の張り紙で、町工場の職を見つけ、油まみれで働きながら仲間たちの支援にあたった。
<炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る>
ほどなくして胆のうの病気で入院。母に連れられて実家に戻った。大学は休学(後にリポートを出して卒業)し、保育所で働いた。歌誌『未来』を主宰する近藤芳美(一九一三~二〇〇六年)の知遇を得て、本格的に歌づくりを始めるのもこのころだ。
大学教員の男性に見初められ、結婚。松江や広島で暮らしながら歌を作り、激動の時代をひとり見つめ直した。
七五年に『未来』の仲間と合同歌集『翔』を出し、八〇年には単独で歌集『無援の抒情(じょじょう)』をまとめた。この間、道浦が正しいと信じていた運動は閉塞(へいそく)していった。多くの学生は何もなかったかのように卒業し、就職した。一方で内ゲバが繰り返され、ついには十四人もの仲間を殺害し、長野・あさま山荘に立てこもった連合赤軍事件に至った。
<明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし>
<死ぬなかれ撲(う)つことなかれただ叫ぶ今かの群れに遠く生きつつ>
悲惨さを増す光景を遠くで見つめながら、自らの感情をたどってゆく。道浦はそうして歌を作るほかなかった。歌集では、学生時代を振り返る作品を「われらがわれに還(かえ)りゆくとき」と題している。
「結局、人間はひとりなんです。だけど、あるとき『われら』の幻想を抱いた。つかの間の幻想でした。全共闘って何か、わからない。一生わからないと思います」
二度の結婚、離婚を経て歌人、作家として活躍する道浦は今、かたくなだった当時の自分を「『ねばならない』とか『すべし』に取りつかれていた」と振り返る。「『ほどほど』とか、『適当』も人生には必要なんですよ」。もし時をさかのぼれるなら、そう声をかけてやりたい。「でもイノシシですから。直りませんね」 (敬称略)
2010年6月、拙ブログより:日本語には、英語の「We」に当る「語」がない。「我々」「我ら」は訳せば「We」だろうが、「We」という独立した関係性そのものではないように思う。 「We shall over come」 「We are the world」的な「ぼくら」の歌はほとんど無い(海外は不知)。モノマネよろしく揶揄を込めて演じられたりする、ぼくらの時代の若者の「我々は~」という語り口調は、「我ら」欠乏を嗅ぎ取った若者の直感が、それを埋め合わせようと言わせたものだったように思うが、それが、イデオロギーによる過剰な「我々」だった不幸(?)を認めない訳には行かない。「We」が成立する条件は、その社会の共同の目標や公的受難の歴史性だ。昨日今日「頭で考えた」だけの促成「我ら」にはその条件が不充分ではなかったか。同時にその「我ら」は、「我」の「何処へも転嫁できない」己ひとりの「自己責任」を霧散させ「回収」してくれる、都合のいい装置でさえあったと認めたい。同世代の歌人:道浦母都子さんの初期の歌集『無縁の抒情』に、自己免責装置にしてイデオロギー過剰な「我ら」との自戒的訣別を詠んだ 『今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれわれらがわれに変わりゆく秋』 がある。 章の標題は 『われらがわれに還りゆくとき』であった。
もうひとつの側面として、仕事・労働の歌が無い。大衆歌謡が普及した社会の初期にはあった協働社会は姿を変え、労働現場や地域社会での「共助」は解体して行く。その反映だろうか、抵抗・祭典・共同創作・労働(直接表現は白々しいが)での「我ら」を匂わせてくれる歌もほとんどない。 どうやら、個人は二人称とは強い絆で結ばれてはいるが、その先は飛躍して「国家」(さすがに歌には直接は登場しないが)に直結し、その間にあるのは「企業」や「食扶ちを稼ぐ労働」「意識せざる個利(個人ではない)主義」であって、Sociaty・Community・社会ではない。「友」や「仲間」との共同体験・共通苦難が、辛うじて「我ら」への道筋だが、それも労働現場では、「労働組合」が「まとも」である場合以外は、企業が用意した「我と乖離した」「我ら」が大手を振って来た。共同体・協働性・共助を支えるものとしての、「我と我」ではないひとつの「We」なる別もの、その欠落。それは、その社会の正直な表現だと言って差支えないのではないか。であればこそ、『我らなき我と切れゆくとき』をあえて意識していたい。