つぶやき: 母の遺品整理 雑感
先日亡くなった母(享年95歳)の遺品整理で、兄や弟と特養へ向かった。
書棚には、自身と亡夫・4人の息子夫婦・各孫、の名が記されキチンと整理された数十冊のアルバム。60代以降加速した歌作の成果、五冊の歌集。晩年のケアハウス入居から特養入居後の日々の記録。80代半ばで挑み数年がかりで書き上げた自分史。2008年「閉塞性動脈硬化症」で左脚膝下を失ってからは、人に壁に貼ってもらっていた孫たちに次々生まれる曾孫の写真。いくつかの簡素な家具・・・。
淡々と整理するつもりが、たまたまアルバム担当となりひとつひとつ観ることとなり、もういけません。
ふと、手紙の束からぼくの友人から母に宛てた手紙、女房の友人からのものあり、計4通発見した。読んで驚いた。
母の歌集を深く読み、意を尽くした書簡を送ってくれていたのだ。母から聞いたとは思うが詳しく読むのは初めてのような気がする。自身に照らせば、ぼくは友の母親の歌に講評を送る、そんなことが出来ただろうか?とても出来てはいまい。
歌集の中、母が一連の幼児体験を詠んだ歌
「みれん断ち実母に返すが此の稚児の 幸せならんと諦めし乳母」
「やすらかな寝息たしかめ帰りしとう 若かりし乳母とわれとの別れ」
「乳母里より付き人のごと添いて来し 田舎人形夜ごと抱きしよ」
「いつの間にか姿消したる縞木綿の 人形恋いて泣きし幼日」
を踏まえて、次の歌を特筆している。
『父の里に預けしわれを疎みたる 母の胸中識る年となる』
友たちはぼく以上に、母の半生をよく理解して書簡を寄越してくれていたのだ。恥じ入るばかりだ。
母は云わば「恨」(ハン)を、超えようとして自分史を書き「乳母恋しと泣く、懐かない利発な子」を疎んだ実母の「胸中を識る年と」なり、そして超えただろうか。少なくとも「識」ろうとして足掻いた年月だっただろう。
あゝ、人は誰も永遠の子だ。
*参照:拙ブログ11月7日「母、95年の生涯を閉じる」