つぶやき: 母、95年の生涯を閉じる。
10月24日午後10時過ぎ、満96歳の誕生日まで約一週間を残し母が永眠した。
永眠と呼ぶに相応しい静かな最期だった。
年齢相応のあれこれの疾患はあるがこれといった病は無く、9月末に特養から系列の病院への準危篤状態緊急入院となるまでボケることもなく、まずまず頭脳明晰で時事問題に言及するバアさんだった。
入院後、死までの一か月、時々意識を取り戻し遠方から駆けつけた兄に応答し、翌日「昨日も来てくれたな」と言ったそうだ。今回の入院前でさえ昨日と今日の混在に生きた母に、その時「昨日」と「今日」が明確に区別できていたことが驚きだ。数日後また意識が戻り、呼び掛ける私に「誰や?」と言う。耳元に大きな声で名を告げると、首筋を抱えるように引き寄せて「康か?大きぃなったな」と言った。ワシは「おかん、三男坊はまだ大きぃなれてないねん」と呟いていた。4人の息子に、それぞれ最後の言葉を残したと思う。
母は、95年から父共々私の家に同居していたのだが、
98年に私は素人経営(労働争議後、5年間職場バリケード占拠の中で設立し、20年間維持した)の会社を破産させてしまう。
母は、夫(私の父)の死去、孫の成長もあり昼間独りの孤独と不自由、息子家族の家屋からの法的立退き・・・などを前にして、翌99年ケア・ハウスへの入居を選択する。
入居直後の母の歌。
『枯れ庭に 白き水仙匂いたち 独りの冬を誇らしげなる』
ハウスでの時間を独りで生きる、その覚悟を水仙に託して詠ったと思えるこの歌は
詩人:清水啓三氏から絶賛された。
本人は「ワテは水仙の凛々しさを詠うたまでやけど・・・」とアッケラカン。
幸い近くに住む私の弟夫妻が寄り添い、兄夫妻・私の女房、各孫たち・・・が、頻繁にハウスを訪れ、
ハウスでの母は、本音か強がりかは微妙だが、「ちょうどええ感じや」と
家族との程よい距離を楽しむように、元気に振る舞い、歌会を立ち上げ、そして暮らした。
ケア・ハウスでは、念願の「自分史」を執筆し、書くほどに想いが嵩じ制止したいと思わせる局面もあったが、06年ほぼ意のままに書き切った。個人史でありながら、贔屓目に見れば、期せずして背景に「昭和」という時代とその中を生きた「おんな」・戦争という民の受難など を浮かび上がらせてもいる。船場道修町商家の家父長制・空襲・焼跡・闇市・雑炊食堂・嫁家と姑他との確執etc ・・・・。
体力の衰えと、いくつかの病もあり、先年ケア・ハウスと同系列の「特養」に入居する。
2008年夏、母は「閉塞性動脈硬化症」の発見が大幅に(一昼夜)遅れたことから、左脚膝部より先が壊死状態となり、切断に至った。
以来、片脚を失った失意と不自由を克服して、命の最後の7年を「生き」抜いた。
乳児期を乳母の許で育った母は、ゆえあって、三歳で実家に戻る。
生母になつかず、実家に馴染まず、
いっしょにやって来て大切にしていた人形を抱いて、乳母恋しと毎日泣いたといふ。
その人形が、ある日を境に突然姿を消す。
その日の記憶は鮮明で、母の歌集に
「みれん断ち実母に返すが此の稚児の 幸せならんと諦めし乳母」
「やすらかな寝息たしかめ帰りしとう 若かりし乳母とわれとの別れ」
「乳母里より付き人のごと添いて来し 田舎人形夜ごと抱きしよ」
「いつの間にか姿消したる縞木綿の 人形恋いて泣きし幼日」 とある。
誰が何を想って棄てたのか?と問うている。
三歳児の記憶としては、あまりにも重く酷な記憶だ。この事態は、後追いでどのように取り繕われようと、再現不可能な「喪失」なのだ。
以来、実母とは互いにとって「不幸な母子関係」が永く続くこととなって行く。
ぼくは、角田光代:著『八日目の蝉』を読んだ際、会ったことのないこの乳母とその母性を強く思い浮かべた。
【08年夏。足切断の母を見舞ひて九首. 品川宿康麿】
病床に身を起こし居り膝撫でて
「これ可愛いねん」と 母のつぶやく
包帯に丸く小さくくるまれし
膝切断部 「ぬいぐるみ」のごと
膝先を可愛いと言ふ母 遠き日の
恋人形探す 三歳の童女
切断部抱く母の背に戦禍見る
子のなきがらに すがる母親
無いはずの足先疼くと母訴う
「わて諦めても脳憶えとる」
無き足が疼くは人の想いに似たり
断ち切り渡る 我が師の海峡
母子違和の連鎖絶たむと育みし
四人の男児(おのこ)初老となれり
ミスや過誤言い募らざる老の意に
我が半生の 驕慢を知る
生家にも嫁家にもつひに容れられぬ
若き日知る足 独り先立つ
父同様、何も残さなかった母だが、今ぼくの手許には、母の自分史と四冊の歌集が在る。
幼い日の喪失感、母子違和、唯一と言えるささやかな矜持「大手前高女卒」、男児四人を抱え挑戦した幼稚園教員への道(果たせず薬局免許取得)、夫の能天気処世や某宗教への入れあげ、夫の商い失敗と貧困、言葉に結実しはしなかった反戦、孫たちとの時間、息子家族との同居、息子の破産、ケアハウス入居、歌集刊行、自分史上梓、特養入居・・・95年の生涯を、母はランプの灯が油切れで消えゆくように静かに終えた。
近い者に「よ~く解かるよ」と言ってもらいさえすれば、そうしてそう振る舞われれば免れ得たはずの幼い負の記憶を、95年をかけて超えただろうか? 持ち前の激しい性格がそれを邪魔しただろうか…、逆にその性格によって克服を構想できたのだと想ってやりたい。
我も又、夫であり親である身であってみれば、「よ~く解かるよ」こそが親や夫や近親者の務めだと改めて想う。