Archive for 11月, 2015
つぶやき: 母卒寿祝誌に載せられた拙文
FB投稿にこう書いた。
「脚切断の母を見舞った時に去来した想いをヘタな歌に詠んだのは、切断の二年ほど後だが、目にした母から何か感謝めいたことを言われたのだが思い出せない。「エヘヘ…」と照れを返しただけで話していない。バカ息子だ。
母の遺品の中に、2010年に行なった「卒寿祝いの会」当日に発行した冊子があった。
孫(ぼくの子)の女房が会場で曾孫たちの手形を採ったり、ポラロイドカメラで即画像を用意したりして、「当日作、当日渡し」に拘り腐心して作った力作だ。その末尾にぼくの駄文を載せてくれている。
それを読むうち、その冊子がいつも特養の母自室のベッド横チャブ台に置かれていたのを思い出した。いつだったか、ぼくの一文を読んだ母が何か言ったと思うのだが、その言葉も思い出せない。
母が何を言ったか…と、弟などに訊き歩いている。
ブログやFBしている者は、アップすることで相手や社会に「言った」気になっている面がある。冗談ではない、一部以外の目には届いているはずもない。ましてや、脚切断後の母は、時に車椅子でいる時以外、紙媒体資料を視ることなど無かったはずだ。この記憶探し自体に、ぼくの無理解が在りそうだ。 写真下段は、子(と配偶者)・孫(と配偶者)・曾孫、総計三十数名に囲まれた卒寿祝宴席で。
つぶやき: 母の遺品整理 雑感
先日亡くなった母(享年95歳)の遺品整理で、兄や弟と特養へ向かった。
書棚には、自身と亡夫・4人の息子夫婦・各孫、の名が記されキチンと整理された数十冊のアルバム。60代以降加速した歌作の成果、五冊の歌集。晩年のケアハウス入居から特養入居後の日々の記録。80代半ばで挑み数年がかりで書き上げた自分史。2008年「閉塞性動脈硬化症」で左脚膝下を失ってからは、人に壁に貼ってもらっていた孫たちに次々生まれる曾孫の写真。いくつかの簡素な家具・・・。
淡々と整理するつもりが、たまたまアルバム担当となりひとつひとつ観ることとなり、もういけません。
ふと、手紙の束からぼくの友人から母に宛てた手紙、女房の友人からのものあり、計4通発見した。読んで驚いた。
母の歌集を深く読み、意を尽くした書簡を送ってくれていたのだ。母から聞いたとは思うが詳しく読むのは初めてのような気がする。自身に照らせば、ぼくは友の母親の歌に講評を送る、そんなことが出来ただろうか?とても出来てはいまい。
歌集の中、母が一連の幼児体験を詠んだ歌
「みれん断ち実母に返すが此の稚児の 幸せならんと諦めし乳母」
「やすらかな寝息たしかめ帰りしとう 若かりし乳母とわれとの別れ」
「乳母里より付き人のごと添いて来し 田舎人形夜ごと抱きしよ」
「いつの間にか姿消したる縞木綿の 人形恋いて泣きし幼日」
を踏まえて、次の歌を特筆している。
『父の里に預けしわれを疎みたる 母の胸中識る年となる』
友たちはぼく以上に、母の半生をよく理解して書簡を寄越してくれていたのだ。恥じ入るばかりだ。
母は云わば「恨」(ハン)を、超えようとして自分史を書き「乳母恋しと泣く、懐かない利発な子」を疎んだ実母の「胸中を識る年と」なり、そして超えただろうか。少なくとも「識」ろうとして足掻いた年月だっただろう。
あゝ、人は誰も永遠の子だ。
*参照:拙ブログ11月7日「母、95年の生涯を閉じる」
通信録: 10.8山崎博昭プロジェクト 大阪講演会
【10.8山崎博昭プロジェクト 大阪集会】 11月7日 南御堂南館
山本義隆氏講演『理工系にとっての戦争』(下記は拝聴記)
山本義隆氏の「学」に向かう風格と言うか本源性はどうだ。
全共闘は自覚せずして、このような人物・学の徒を代表に選んでいたのだなぁ~、と改めてその「故」と「必然」を想う。
アヘン戦争の顛末への危機感と恐怖感は、幕末~初期明治「日本」を西欧猛追へと走らせた。科学(アカデミズム)面でも技術(産業革命以来の)面でも、国家にも学の府にも民間にももちろん近代の蓄積などなく、ここに日本型近代化の特殊構造が生まれる。
科学と技術の一体同時進行・国家が推進母体である・軍事最優先いや軍事の為の、総構造だ。産学協同・軍学協同は「科学技術」の成立史の根本DNAだ。それは日本に於いては元々、国家によって一括りに進められたものだ。
戦後、文学や芸術や映画作家の戦争責任が問われたが、理工系学者技術者の責任が問われた例をほとんど知らない。理工系こそ戦争に直接かかわっているのに、である。ここには、科学や技術の超思想性・中立性という幻想を悪用した国家イニシアティブによる「思想性」と、「学」の側の「科学技術の発展はプラス・マイナスを超えた絶対値的価値なのだ」という科学技術「信仰」が在る。ここを崩さない限り、「科学技術」根本DNAへの異論たり得ない。
実はそれに気付きながら、研究費や待遇の上乗せなどに絡め取られて黙して来た民主的(?)学たちの思想的貧困がそれをさらに補強している。
財界と安倍の兵器産業立国への舵切りは、その市場での競争原理から当然「常に最先端」でなければならず、不断に新たな智恵と技術が求められ、当然、国・防衛省では力足らず、大学の全面関与が始まろうとしている。
明治期の殖産興業・富国強兵のままだ。
理工系学問の歴史的・構造的存在様式を根本から洗い直し問い直す道の、在りや無しや?
白井総氏講演『ネオリベラリズムと反知性主義』(下記は受講メモより)
ネオリベラリズム:
公正という仮面の下の「競争原理至上主義」、国家と資本の結託による国家の乗っ取り、利潤飽和の果ての「何でも」利に…例えば「水」資源。
学・世論を含め人々の感性・意識の「何になる?」「知らねえよ」の背景にあるのは何か? 必要で実利あるモノだけ買うという「お買いもの感覚」「消費主義」ではないか? その核芯は「ニヒリズム」だ。
(実利と銭だけは確保して手放さない処世は「ニヒリズム」でななく、
云うなら「疑似ニヒリズム」「21世紀式実利ニヒリズム」であって、本来の「ニヒリズム」=「虚無主義」に申し訳ないで…康)
例えば精神医学:
精神分析の、何故そうなっているか?その根本原因の探求の放棄。即効性・有効性・効率性への傾斜。投薬偏重など症状の物理的抑止への雪崩現象。
根本に、「否定的なものに耐えられない」という「学」の衰弱があり、「否定的なもの」を無かったことにしたい欲望がある。
社会の動向、学の世界、人々の感性・意識とダブる。
戦争こそが最も効率的に技術を発展させ得る、という命題から脱する道筋や如何? 「ニヒリズムの克服」
つぶやき: 母、95年の生涯を閉じる。
10月24日午後10時過ぎ、満96歳の誕生日まで約一週間を残し母が永眠した。
永眠と呼ぶに相応しい静かな最期だった。
年齢相応のあれこれの疾患はあるがこれといった病は無く、9月末に特養から系列の病院への準危篤状態緊急入院となるまでボケることもなく、まずまず頭脳明晰で時事問題に言及するバアさんだった。
入院後、死までの一か月、時々意識を取り戻し遠方から駆けつけた兄に応答し、翌日「昨日も来てくれたな」と言ったそうだ。今回の入院前でさえ昨日と今日の混在に生きた母に、その時「昨日」と「今日」が明確に区別できていたことが驚きだ。数日後また意識が戻り、呼び掛ける私に「誰や?」と言う。耳元に大きな声で名を告げると、首筋を抱えるように引き寄せて「康か?大きぃなったな」と言った。ワシは「おかん、三男坊はまだ大きぃなれてないねん」と呟いていた。4人の息子に、それぞれ最後の言葉を残したと思う。
母は、95年から父共々私の家に同居していたのだが、
98年に私は素人経営(労働争議後、5年間職場バリケード占拠の中で設立し、20年間維持した)の会社を破産させてしまう。
母は、夫(私の父)の死去、孫の成長もあり昼間独りの孤独と不自由、息子家族の家屋からの法的立退き・・・などを前にして、翌99年ケア・ハウスへの入居を選択する。
入居直後の母の歌。
『枯れ庭に 白き水仙匂いたち 独りの冬を誇らしげなる』
ハウスでの時間を独りで生きる、その覚悟を水仙に託して詠ったと思えるこの歌は
詩人:清水啓三氏から絶賛された。
本人は「ワテは水仙の凛々しさを詠うたまでやけど・・・」とアッケラカン。
幸い近くに住む私の弟夫妻が寄り添い、兄夫妻・私の女房、各孫たち・・・が、頻繁にハウスを訪れ、
ハウスでの母は、本音か強がりかは微妙だが、「ちょうどええ感じや」と
家族との程よい距離を楽しむように、元気に振る舞い、歌会を立ち上げ、そして暮らした。
ケア・ハウスでは、念願の「自分史」を執筆し、書くほどに想いが嵩じ制止したいと思わせる局面もあったが、06年ほぼ意のままに書き切った。個人史でありながら、贔屓目に見れば、期せずして背景に「昭和」という時代とその中を生きた「おんな」・戦争という民の受難など を浮かび上がらせてもいる。船場道修町商家の家父長制・空襲・焼跡・闇市・雑炊食堂・嫁家と姑他との確執etc ・・・・。
体力の衰えと、いくつかの病もあり、先年ケア・ハウスと同系列の「特養」に入居する。
2008年夏、母は「閉塞性動脈硬化症」の発見が大幅に(一昼夜)遅れたことから、左脚膝部より先が壊死状態となり、切断に至った。
以来、片脚を失った失意と不自由を克服して、命の最後の7年を「生き」抜いた。
乳児期を乳母の許で育った母は、ゆえあって、三歳で実家に戻る。
生母になつかず、実家に馴染まず、
いっしょにやって来て大切にしていた人形を抱いて、乳母恋しと毎日泣いたといふ。
その人形が、ある日を境に突然姿を消す。
その日の記憶は鮮明で、母の歌集に
「みれん断ち実母に返すが此の稚児の 幸せならんと諦めし乳母」
「やすらかな寝息たしかめ帰りしとう 若かりし乳母とわれとの別れ」
「乳母里より付き人のごと添いて来し 田舎人形夜ごと抱きしよ」
「いつの間にか姿消したる縞木綿の 人形恋いて泣きし幼日」 とある。
誰が何を想って棄てたのか?と問うている。
三歳児の記憶としては、あまりにも重く酷な記憶だ。この事態は、後追いでどのように取り繕われようと、再現不可能な「喪失」なのだ。
以来、実母とは互いにとって「不幸な母子関係」が永く続くこととなって行く。
ぼくは、角田光代:著『八日目の蝉』を読んだ際、会ったことのないこの乳母とその母性を強く思い浮かべた。
【08年夏。足切断の母を見舞ひて九首. 品川宿康麿】
病床に身を起こし居り膝撫でて
「これ可愛いねん」と 母のつぶやく
包帯に丸く小さくくるまれし
膝切断部 「ぬいぐるみ」のごと
膝先を可愛いと言ふ母 遠き日の
恋人形探す 三歳の童女
切断部抱く母の背に戦禍見る
子のなきがらに すがる母親
無いはずの足先疼くと母訴う
「わて諦めても脳憶えとる」
無き足が疼くは人の想いに似たり
断ち切り渡る 我が師の海峡
母子違和の連鎖絶たむと育みし
四人の男児(おのこ)初老となれり
ミスや過誤言い募らざる老の意に
我が半生の 驕慢を知る
生家にも嫁家にもつひに容れられぬ
若き日知る足 独り先立つ
父同様、何も残さなかった母だが、今ぼくの手許には、母の自分史と四冊の歌集が在る。
幼い日の喪失感、母子違和、唯一と言えるささやかな矜持「大手前高女卒」、男児四人を抱え挑戦した幼稚園教員への道(果たせず薬局免許取得)、夫の能天気処世や某宗教への入れあげ、夫の商い失敗と貧困、言葉に結実しはしなかった反戦、孫たちとの時間、息子家族との同居、息子の破産、ケアハウス入居、歌集刊行、自分史上梓、特養入居・・・95年の生涯を、母はランプの灯が油切れで消えゆくように静かに終えた。
近い者に「よ~く解かるよ」と言ってもらいさえすれば、そうしてそう振る舞われれば免れ得たはずの幼い負の記憶を、95年をかけて超えただろうか? 持ち前の激しい性格がそれを邪魔しただろうか…、逆にその性格によって克服を構想できたのだと想ってやりたい。
我も又、夫であり親である身であってみれば、「よ~く解かるよ」こそが親や夫や近親者の務めだと改めて想う。