Archive for 10月, 2015

駄エッセイ: われ と われら の往還

【われらが われに 還りゆくとき】 から 【「われ」を基点にした「われら」の再生】
~われ と われら の往還~

      10.18 変えよう! 日本と世界
   第9回 反戦・反貧困・反差別共同行動 i
n 京都

京都:円山野音は800名の結集。
ワシは関大校友連絡会ジジババ隊列に参加(参加者:15名)。集会後、四条通り・河原町通りを二条:京都市役所まで高齢者隊列は無事付いて行った。
原発推進・辺野古・安保法制・立憲否定・産軍態勢・「学」の破壊・・・、すべてが連動して迫って来る安倍政治の根本的本質、それへの「ぐるみ」陣形の必要性が語られたが、どないやねん民主党?安倍軍国政権を打倒するという一点で共同戦線を張れないものか? 参加者の想いは同じだ。
集会中、歌った趙博の「国民、舐めるな。非国民を、舐めるな」とのタイトルに込めた想いが痛く届く・・・。「非国民を」と特記したパギの想いを共有したい。

打ち上げの集いで、意外な人に出会った。1967年、羽田で虐殺された山崎氏の追悼と、戦争国家への道を驀進する安倍政治を阻止しようと立ち上げられた、50周年事業「108山﨑博昭プロジェクト」の面々だ。弁護士・元国会議員らに混じって、ある女性歌人が同プロジェクトの呼びかけ人として参加されていた。(ワシも同プロジェクトの賛同人の一人なのだ)
ワシは、その女性歌人の歌集:『無援の抒情』の、「われらがわれに還りゆくとき」との章タイトルに、「われわれはァ」と語り続けた同世代者の一人として、「われ」として立つことの意味と、その欠落の上に棲む「われら」のいかがわしさ・稚拙・傲慢・無恥・自己空白を、痛考したことがある。

「今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれ われらがわれに変わりゆく秋」
「われ」が欠落した、自己免責装置にしてイデオロギー過剰な「われら」、それとの訣別宣言だと聞こえた。
章名に込められたあの「時代」への悔悟の念を、早くに語っていたその女性歌人を、当時自身と比較し見事だと思った。

1969年東大安田講堂攻防戦(を初めとする各大学闘争)を歌ったその歌人の歌に、浴びせられた文学的政治的両面からの批判・非難・拒否を、当時(1980年前後)から聞き及んでもいた。
曰く、「決戦主義だ」「決意主義だ」「決裁主義だ」「敗北主義だ」「情緒主義だ」etc・・・。
「明日あると信じて来たる屋上に 旗となるまで立ち尽くすべし」
批判や非難は誤読だと思った。
「旗となるまで」闘い抜けと言っているのか? あるいは、その惨めな敗北を自虐や自嘲で述べているのか? そうではあるまい!
繰り返し読むと、
この先に於いて、その闘いの明暗・稚拙を含めて見届ける覚悟のようなものが匂う。
過不足なく「そのまま」の闘いと自身の明暗・稚拙・無恥を永い時間の中で見届け、風雨に晒されボロボロの旗となった自身を見届けるという想いだ。それは、短い時間の中の闘いの現象を超えて持続する「志」のことを言っている。
金時鐘さんの「負け続けることをやめる時、それが本当の敗北だ」という言葉に想い至る。「明日あると・・・」はこの言葉に通底する永い時の、「立ち尽くし」ても抱える心を詠ったのだ。現に歌人は山崎氏「10.8プロジェクト」の呼びかけ人だ。

その歌人にワシの読みを言いかけてきちんと言えず、ミーハーファンよろしく、ツーショットを撮らせていただいた。12112217_835397216572408_1943130734675989598_n1-e1445269645230[1]

さて、ワシの「われ」が、甚だ心許ないこと承知の上で、仮「われ」を基礎に、2015年今こそ、
「【われらが われに 還りゆくとき】 から 【「われ」を基点にした「われら」の再生】 へ」と強く思う。
「われら」が求められる事態が、世を覆っている。
(文中の女性歌人とは、道浦母都子さん)
*写真:円山野音会場、ジジババデモ、二次会近く木屋町高瀬川、道浦さん。

アジール 空堀 第二回集い:『熊沢誠 映画を語る』

10月15日(木)17:45~「アジール 空堀」第二回イヴェント。
『熊沢誠 映画を語る Vol:1』
「労働コミュニティの動揺と再生…イギリス炭坑労働者の周辺」‐『パレードへようこそ』『ブラス!」』『リトルダンサー』等に触れて…
【於:谷町六丁目空堀通:「ビストロ・ギャロ」】
21名の参加を得て盛会・好評のうちに 21:00に終了。

熊沢先生の「映画というフィクションが、時にドキュメント以上のリアリティをもって迫って来る」という熱い想いに支えられた映画歴披瀝から始まるお話は、労働コミュニティに触れる辺りから、俄然熊沢節となる。心を打つ最近の映画から、近似世界を扱った過去の映画を辿り、課題の全体構造・社会・人物を俯瞰する位置取りに、並々ならぬ映画ファン振りがうかがえる。
労働運動に限らず、そのコミュニティや社会の内部からだけでは、時に事態や問題の核心が見えない・掴めないことがある。むしろ、その周縁や外部、外部との境界にこそ課題の核心が生きていることがある。(あらゆる社会科学の根本はここだ)
『パレードへようこそ』は、大争議中炭坑労組へ多額のカンパを申し出たのが、「ゲイ・レズ」の団体だったという実話を元に描かれるが、家父長意識や伝統的な価値観を疑うことなく営まれてきたコミュニティが、動揺・解体・消滅の危機に在るとき、その再生への足掛りは「周縁や外部、外部との境界」に息づいているという示唆でもあろう。アジール熊沢6

「1945年8月・日本」 「ゾラの視角」 「兵士の帰還」など、その演題を聞いただけで身震いするような予定テーマを披瀝いただいたが、次回の 『・・・・を語る』 が待ち遠しい、とは参加者の弁。
思うに、熊沢誠の、時に「度外れた」と揶揄される「イギリス炭坑労働組合人心の核心への、破格の信頼」や、「あるべき」労働組合への果てることなき希いは、実のところ労働運動や社会運動で出会った人々や身近な人々への情愛に起因しているのだと思えて来る。その「破格の信頼」を、絵空事にしないという意地と覚悟が、彼の学問を形成して来たとワシは思っている。
それは「映画を愛する心」と分かち難く結ばれ、ひとつのものだ。

ハラハラした YouTube からの予告編上映は上手く行き主催者としてはホッ~だった。
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