つぶやき: 母からの電話 83年前の記憶

去る5月15日、東京に居たぼくに、北摂の某特養に居る95歳の母からの電話が鳴った。何か急用か・体調の急変などのSOSか? とビビったのだが、枕元の命綱(実際、母は電話魔なのだが)を間違いで押してしまったとのことだった。
近況報告を聞いていると「今日は、何の日か知ってるか?」と来た。

この齢で時事問題など語る人なので、「安保法制と言う名の戦争法案が国会に上程された日と言いたいんやろ」と言ったが「そうかいな、違うねん」。
「1972年に、沖縄県が再び日本の一部になった日と言いたいんか?」「ちゃう、ちゃう。それもちゃう」。
答えは、「あのな、ワテが小学校6年の時に、ゴー・イチ・ゴー事件(1932年)というのがあってな、先生が、日本はこの先暴力と軍隊が牛耳る世の中になるかもわからん。みなさんは自分の眼でシッカリと社会を見るように。女の子は大人の言うことだけを聞いていてはいけません。自分で物事を判断できるように勉強しなさい。と言わはってん。」だった。

大阪ど真ん中、薬問屋が犇めく街の商家の娘だった母の記憶は鮮明で、「その話で、一番何を憶えてる?」には、こう答えた。
「日本はどないなるんやろうと、ムチャクチャ怖かった。ほんで、最後は空襲と原爆や。戦後想うたのは、あの時の先生偉かったなぁ、ちゅうこっちゃ。孫(ぼくの子)が先生してるやろ、ええ先生になってほしいなぁ、思うてな。それと、曾孫(ぼくの孫)が戦争に行く世の中はかんにんしてんか、や」
大正~昭和~戦争~戦後~平成 を生きた普通の民の、胸と脳裏に刻まれた
「記憶」の濃さを想うのだった。軍靴の響きが大きくなって行く世に在って、そう語ったその教師の言葉が、今なお老婆の肉声となって生きているのだ。その教師の覚悟と矜持が伝わって来る。

おばん因みに、この母の唯一のささやかな矜持は、「大手前高女」卒と言うことらしいとその言から推察している。戦後の共学制「大手前高校」のぼくと同世代者には東大全共闘議長:山本義隆さん、1967年羽田で殺された山崎博昭さん、作家三田誠広さんらがいて、大阪の巷だは「アカ」の高校だと言われたりしていた。

 

 

 

 

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