Archive for 11月, 2014
つぶやき: 爺バカ隠しを兼ねて ひと言
小学校一年生の孫娘が、夏休みの自由研究で市の『第一回相馬芳枝科学賞』なる市内小中生12人の中に選ばれたと、息子の妻から知らせをもらった。
科学立国とやらで、国立大の人文科学系・社会科学系の縮小という愚策や、大学から幼児まで「理系重視」への一環だろうか?(笑)、市では肝煎りの賞を創設しての第一回目だそうだ。
塩や砂糖や身の周りの物の「結晶」を実際に作っての六年生の見事な研究が最優秀賞で、他にもなかなか素晴らしい自由研究もあったと聞いた。
孫娘のそれは『庭に置いたスイカの皮の変化観察』だそうで、アリや虫に喰われる様を毎日写真に収め、一年生らしいコメントが付いているだけの他愛の無いものらしい。
品川宿たそがれジジイもここは「頑張ったね」と言って、頬を緩めるしかない爺バカだ。
孫娘の話(それも七歳児の)にはほぼ無関係だし「学」外のジジイの言える話ではないが、世の「理科系」が現政権・文科省の「国立大、文系学部破壊」に無関心であれば、そこが「原発」が来た道・「武器科学」の道・人間から隔たって在る「金融工学」・次なる「オウム」の道への入り口だと強く想うのだ。
先般、ある集会で、元東大全共闘議長の物理学者:山本義隆氏は「昭和10年前後、やはり理科系重視が叫ばれた」と語っておられた。心ある物理学者の聴覚には、文科省方針のそのすぐ向こうに銃声が聞こえているのだ。
通信録: 思潮社 北川徹氏・金時鐘さん・細見和之氏 往復書簡公開
『現代詩手帖 2014年11月号』に、
「金時鐘+北川透+細見和之 『往復書簡』」が ◎特別掲載されている。2012年、「第三回鮎川信夫賞」で細見和之氏の『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』が最終選考に残ったが、受賞を逃した。北川透氏が賞の贈呈式で講評を行い、その内容は『現代詩手帖2012年8月号』に掲載された。一部を抜粋する。
『金時鐘さんはついこの前まで、北朝鮮を評価していました。』『細見さんが取り上げている「新潟」という詩集は、社会主義リアリズムの典型を書いた、と本人が言っている詩集です』『金時鐘さんは』『影響力のある知識人ですね。その場合の思想の責任。これは北朝鮮で抑圧されている人びとに対する責任、という問題まで含むわけです。』『一人の在日の、非常に困難な思想の歩みを強いられた詩人が、そこで過ちを犯す、矛盾したことを書く、十分に説得力のない発言をするということは、ある意味では当然のことです。』
この事実誤認・個人史の歪曲に、もちろん細見氏も金時鐘さんも、北川氏と思潮社に抗議書簡を発したが、誠実な反応はなかった。(2014年3月3日現在)。
この経過を知ったぼくは『ムラと、ある名誉毀損』なる一文を書き、細見氏・金時鐘さんにお伝えした上で、ブログにアップし、知人友人に送付し、同じものを思潮社ホームページ読者コーナーに投稿した(2014年3月7日)。読者として、精一杯思潮社の出版社としての誠意を求めた。
その後の細見氏・金時鐘さん・北川氏・思潮社の遣り取りの詳細は知らない。知らないが、今回11月号に3人の『往復書簡』が掲載されたと時鐘さんから便りを頂いた。
北川氏は「訂正はありえても謝罪は絶対しない」との基本姿勢は変わってはいないのだが、ここは、思潮社の良識を観るべきだろうか?少なくとも、細見氏・金時鐘さんの「言い分」が「公」にされたのだから。
『現代詩手帖 11月号』をどうぞ。
たそがれ映画談義: (浦山桐郎の甥)長谷川集平 講演会
長谷川集平 講演会 11月3日 14:00~:上六「たかつガーデン」
1969年初秋、ぼくは、ある事情で関西の某地方都市に居た。次の「予定行動」までの空いた数時間を、映画を観て過ごそうと映画館に向かった。まるで運命に導かれたように、開始と終了がドンピシャでその空いた時間にピタリ納まる。迷わず、入場券を買った。
そこで観たのは、『キューポラのある街』『非行少女』の浦山桐郎監督の第三作目だった。観終わって、逡巡の挙句「予定行動」の集合場所に戻った。まぁ、人生の岐路と言えなくはない。ぼくにとっての「多恥迷春」の一部だ。
(ぼくが、『キューポラ』『非行少女』『棄てた女』が三部作だというのは、60年代の「おんな」の悪戦を、主人公に寄り添って描き、同時に自らの「戦後第一期青年性」とその限界を等身大に描いた誠実がそこにあり、間違いなく「時代」を切り取ってみせたと思えたからだ。浦山は、主人公ジュン(キューポラ)、若枝(非行少女)、ミツ(棄てた女)を、60年代を生きる少女~おんなとして、時と境遇の違いを越え、同じものの変容態として提示し、もって「時代」の正体を逆照射して見せたのだ。それは、そのまま自身=男の正体を晒すことでもあった。)
稚拙で傲慢なその「予定行動」についてはどうでもいいのだが、観た映画はいつまでもぼくにへばりついている。『私が棄てた女』だ。
1971年、東京に居たぼくは、浦山初期三部作が掛かれば遠くても観に出かけ、シナリオ研究所の講座に参加したり、浦山講義を受講したりしていた。北千住に在った「東京スタジアム」で、阪急ブレーブスの何度目かの優勝決定の試合を観に行って、後ろの席の浦山さんに遇って驚いたことがある。女性とご一緒だったが、『私が棄てた女』で遠藤周作自身が演じる産婦人科の看護婦役をなさった、奥様だったかどうかは思い出せない。寒い日で、お二人で毛布を膝当てにされていたように思う。会釈をすると、返して下さった。
長谷川集平氏が、その浦山桐郎監督と伯父・甥の関係だとは存じ上げず、「はせがわくんきらいや」「およぐひと」などのチョイ読者であったぼくは、今年春ごろ長谷川氏とのFBでのやり取りでそれを知った。ゴチャゴチャ書いた浦山談義に丁寧な返信を頂いたと思う。
当夜、長谷川集平氏にお会い出来(しかも、打上では金洪仙さんのご配慮で氏の隣の席に座らせてもらった)て感激。浦山さんに似たたところがあるように思う。(言われるのはお嫌いかも)
映画『黒い雨』(1989年、今村昌平監督)は、浦山の手になる予定だったが・・・。早逝(1985年)した浦山の企画は「葬儀委員長」だった今村が後を継いだ。「長谷川君やってみないか?」との声もあったという。30歳だった長谷川は映画に不案内だと辞退されたそうです。今なら、やっても面白いのではないか?とワシは想った。浦山が、作った映画(9本と寡作)と、長谷川の「絵本」には同じ世界観・人間観が溢れている。そう感じるのはワシだけではあるまい。昔、幼少期の長谷川に「映画論」をぶつけたという浦山、あゝ、まことに稀有な「ぼくの伯父さん」だったのだ。
浦山が遺した9本の作品、機会があれば是非ご覧あれ!
『非行少女』(63年、和泉雅子・浜田光男)
『私が棄てた女』69年、小林トシエ・河原崎長一郎・浅丘ルリ子)
『青春の門』(75年、大竹しのぶ・田中健・仲代達矢・小林旭・吉永小百合)
『青春の門・自立篇』(76年、同上)
『龍の子太郎』(79年、アニメ)
『太陽の子(てだのふぁ)』(79年、原田晴美・大空真弓・河原崎長一郎)
『暗室』(83年、清水紘治・三浦真弓・木村理恵・寺田農)
『夢千代日記』(85年、吉永小百合・樹木希林・大信田礼子・夏川静枝
*TV作品
『飢餓海峡』(全8話中 5篇。78年、山崎努・若山富三郎・藤真利子)
画像は『青春の門』(1975)。在日朝鮮人児童への集団での虐めに加わっていた信介を、頬を打ち叱るタエ(吉永小百合)。
(下は、長谷川絵本代表作と浦山初期三部作)
今日の自作のスライド映写と読み聞かせ+控え目で時に驚きの解説、というスタイル、結構でした。
たそがれ映画談義: 吉永小百合さんと 映画『飢餓海峡』
小百合さんが選んだ七本は、CS放送の日本映画専門チャンネルで10/11(土)に「吉永小百合、思い出の日本映画」と銘打っての七本一挙上映という特集があったが、東京事務所ではCS放送を引いていない。その七本を順次、10月いっぱい、日にほぼ一本ずつ何度も放映していると帰阪して知った。「小百合さんが選んだ珠玉の日本映画」という位置づけだ。小百合さんのプロデュースになる新作『ふしぎな岬の物語』公開記念とのことだ。
昨日、その一本を観た。ぼくの大好きな映画、何度も観た内田吐夢監督『飢餓海峡』だ。放映の後に小百合さんへのインタヴューがあって、彼女のこの映画への想いが語られる。映画の公開は1965年でそれを同時代に観たという彼女は、当時19か20歳。左幸子演ずる杉戸八重への並々ならぬ想いが伝わって来た。
八重(左)が、樽見京一郎(三国連太郎)に逢いに行って、はずみで鮮明な記憶に繋がるモノを目にして「犬飼さん…。やっぱり犬飼さんだわ」と震えが込み上げ口にする。犬飼が「樽見でんねん。樽見京一郎でんねん」と言いながら抱擁するように絞殺するシーン。日本映画史に残る美しくも哀しい殺害シーンへの、当時「日活青春路線の」看板スターだった小百合さんの秘めた想いが語られる。貧困の底に蠢く人々の境遇や心情への共感の弁や「八重さんがたまらなく愛おしいのね」には、言外に「杉戸八重を演じたかった」と聞こえた。小百合さんの八重は「ん?」かもしれないが、彼女のハートは痛いほど解るのだ。
因みに、TVや舞台では映画の後、杉戸八重役を、中村玉緒・大地喜和子・藤真利子・石田えり など錚々たる女優が演じている。おんな役者ならやりたい役どころだというのは解る気がする。
『浮雲』(1955年、成瀬巳喜男監督、東宝、高峰秀子・森雅之・岡田茉莉子)
『おとうと』(1960年、市川崑監督、大映、岸恵子・川口浩)
『キューポラのある街』(1962年、浦山桐郎監督、日活、吉永小百合・浜田光夫)
『天国と地獄』(1963年、黒澤明監督、東宝、三船敏郎・山崎努・仲代達矢)
『飢餓海峡』(1965年、内田吐夢監督、東映、三國連太郎・左幸子・伴淳三郎)
『少年』(1969年、大島渚監督、創造社ATG、渡辺文雄・小山明子)
『学校Ⅱ』(1996年、山田洋次監督、西田敏行・吉岡秀隆・いしだあゆみ)
小百合さんの、幼い頃から一貫した憧れであり目標であった女優は、高峰秀子さんだという。
日活を辞めた後、『二十四の瞳』(1952年、木下恵介監督、松竹)のリメイクの話があったが「畏れ多くて」辞退し、さらに大石先生(『二十四の瞳』)とは全く違う役どころの『浮雲』(今回の七本にも入れた映画)のリメイク(森雅之の役は、何と松田優作の予定だった)の話もあったがこれまた自分には出来ないと辞退したという。解るなぁ~。
1969年、宇野重吉プロデュースで進行していた映画『あゝ野麦峠』は、内田吐夢監督の予定だった。諸般の事情で頓挫し実現しなかった。
『二十四の瞳』『浮雲』の高峰秀子さんへのあこがれ、娼妓:杉戸八重への濃い想い、内田吐夢監督による『あゝ野麦峠』頓挫への心残り・無念・・・、女優吉永小百合の心根を聞くことが出来たインタヴューだった。ヒロシマ栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」の朗読活動、秘密保護法・集団的自衛権行使・9条改憲への彼女の立位置は揺らぐことなく持続されている。それが『飢餓海峡』ファンの第一の条件だ、と小百合さんは言いたいだろう。
映画『飢餓海峡』と、女優吉永小百合が一つになって迫って来るのだった。