なかにし礼の 人生の軸 

なかにし礼の軸

 

多人数の酒席の後、友人にカラオケに誘われて同行した。友人はなかにし礼作詞の歌ばかり10曲以上唄い、合間に語りかけて来た。なかにし礼と歌詞友人は前段の酒の席で、なかにし礼を称賛していた。友人にしてみれば、なかにしの、特攻隊帰りの実兄をモデルにしたニシン御殿とその破綻の物語でもある小説『兄弟』、満州時代の血族の体験を基にした小説『赤い月』や、TVコメンタイターとしての言説、ここ数年の「脱原発」「秘密保護法反対」「集団的自衛権行使容認反対」「解釈改憲への警鐘」への発言や、最近の解釈改憲・集団的自衛権行使容認への怒りから書き上げたという「平和の申し子たち」という詩を想定して言ったのではなかった。

むしろ、永年の作詞活動を言ったのであった。「なかにに礼には一本の芯、いわば軸のようなものがある、近年の言動を深く納得出来る芯や軸が」との主旨で言ったのだ。

なかにし礼の作詞になる歌を列挙する。

知りたくないの(菅原洋一65年) 恋のハレルヤ(黛ジュン67年) 恋のフーガ(ザ・ピーナッツ67年) 花の首飾り(ザ・タイガース68年)  愛のさざなみ(島倉千代子68年) 天使の誘惑(黛ジュン68年) 知りすぎたのね(ロス・インディオス68年) 人形の家(弘田三枝子69年)  港町ブルース(森進一69年) 夜と朝の間に(ピーター69年) 今日でお別れ(菅原洋一69年) 雲にのりたい(黛ジュン69年)                          雨がやんだら(朝丘雪路70年) あなたならどうする(いしだあゆみ70年) 手紙(由紀さおり70年) 夜が明けて(坂本スミ子71年)                          別れの朝(ペドロ&カプリシャス71年) サバの女王(グラシエラ・スサーナ72年) グッド・マイ・ラブ(アン・ルイス74年)                                 石狩挽歌(北原ミレイ75年) フィーリング(ハイ・ファイ・セット76年) 時には娼婦のように(黒沢年男78年) 北酒場(細川たかし82年)                      まつり(北島三郎84年) 我が人生に悔い無し(石原裕次郎87年) など・・・。

全曲に通底する「悔悟・諦念・矜持・反権威・反国家」は、恋歌や女みれんや失意の歌詞群の中に埋もれていて、解りにくく見えにくいかも知れないが、ぼくには並々ならぬ意志として伝わって来る。

「知りすぎたのね」では「恋は終わりね 秘密がないから」と語り、「雲にのりたい」では現象的な恋の成就を逆に「のぞみが風のように消えた」と言い、「あなたといても」「口づけをしても」「悲しい風が吹く 胸の中」とつぶやき、「どうしてみんな恋しているんでしょう」と、浮かれ世情に異論を放ち、当時の若い女性歌手に恋の永遠の悲哀を唄わせて聴き手に届く歌詞を紡ぎ出していた。黛ジュンの厭世感・倦恋感は見事だった。

歌謡史に残る名歌詞「背伸びして視る海峡を♪」、森進一唄う「港町ブルース」。主観的にしか見ることなど出来ない対象を、海峡の片岸から「背伸び」して視る、69年おんなの心理描写はどうだ? 来るはずのない恋しい男を求め、「背伸び」して爪先立って待つ心を想像できるか? 69年を越え70年をどうすべし?と彷徨する自称左翼の若者に、「あなたならどうする?」と問い「泣くの歩くの 死んじゃうの」と迫り、「私のどこがいけないの」と原点死守を促し、「あなたなら あな~たなら・・・」と再起と基礎からの変化を、あなたの組織や団体にではなく個人としての「あなた」に呼びかけている。

名曲『石狩挽歌』に登場する、「笠戸丸」は、敗戦直前に沈没するニシン漁船だが、ソ連参戦の1945年8月9日カムチャッカ近海で拿捕され、船長・乗組員強制下船捕虜の後にソ連軍機の空爆で果てた。『石狩挽歌』は特攻隊帰りの実兄のニシン物語への鎮魂と、満州体験・ソ連軍参戦への想いから「笠戸丸」を登場させたと思えてならない。

さて、ぼくは聞き逃したのだが、上記酒席で、友人のなかにしへのファン心理に対して、同席者から「なかにしには軸が無い」と返されたそうだ。人の「軸」は難しい。

少なくとも、こうは言えないか?  党や組織や団体に属し、あるいは優れていてブレない人物に同伴し、常にその言説に同意し、異議を押し殺し「仁義」を守ることが「軸」なのではない。最近の政治課題で言えば、安倍政権の諸政策への立ち位置は同じでも、例えば選挙への態度は様々だ。堺市長選・都知事選・この秋の「島ぐるみ」の沖縄知事選など・・・。それぞれの選択は、重い判断だと思う。彼我の力関係、今日の課題の優先順位、当面求めるべき陣形に関する苦しい選択だ。もし、「なかにしには軸が無い」と言った同席者が、自らの肉声を語り判断を述べることなく、ある倚りかかりを維持して、自分には「軸」があると語っているのなら、そんなものは「軸」ではない。立場と思考が違っていても、イデオロギー上の「軸」、揺れ動く政治課題上の「軸」を越えた、人生の「軸」を、友人はなかにしの歌詞群の中に見たのである。それは、政治上の都度変容する選択や、やはり部分でしかない政治的主張などより重く、説明しようもない「軸」だとぼくは想う。人の生に「軸」というものがもしあるなら、それは「無い」などと揶揄されても反論できる性質のものではない。思考・生き様・生業・情感・抗いのスタイル・趣向・思想を丸ごと語るか?面倒くさい! 人のことを言うな。皆、己の「軸」を自戒・自省の中で再検討すりゃいいんだ!

翻って、ぼくに、ぼくの「軸」があるだろうか?と思うばかりだ。

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